「……あんた、馬鹿ですか」
かろうじて口から出たのはそんな言葉だけで。
「言われぬでも、承知しておる」
むっと眉をしかめて言い返す顔は、薄い光の中いやに晴れ晴れと輝いていて、さっきとは別の意味でまっすぐ見られない。
ちょっと、ねえ、なんでそんなに笑ってんの。本当に馬鹿みたいだよあんた。
馬鹿だよ。それじゃあんた丸損でしょ。
いったいそれで、あんたはなにを得られるんだ。
「……俺は、忘れちゃってたよ」
それでも往生際悪く、そんなことを呟く俺に、旦那は不思議そうに瞬きして顔を寄せてきた。
ああほら、さっき俺に何されたか、もう忘れたの。本当に馬鹿なんだから。
「俺はあんな口約束なんか、とっくの昔に忘れちゃってたんだよ」
だってあんなの、叶うはずもない、本当にただの、口からのでまかせだったんだから。
少しだけ目を見開き、そうか、と呟いた顔は、それでもやっぱり一点の曇りもない笑顔だった。
「だが、あのころ佐助が居なかったら、某は多分今でも、あの木から降りられなかったぞ」
今は、お館様も家中の皆様も、真田の家臣も居てくれるが、と嬉しそうに笑って、また少し顔が近づく。
「あのころ、どんなにぐずろうが無茶をしようが、それでもそばにいるといってくれたのは佐助だけだった」
でまかせだろうと、何の効力もない口約束だろうと。今は忘れてしまっていても。
「あの時あの場で、佐助がああ言ってくれたから、某は今、ここにおるのだ」
かろうじて口から出たのはそんな言葉だけで。
「言われぬでも、承知しておる」
むっと眉をしかめて言い返す顔は、薄い光の中いやに晴れ晴れと輝いていて、さっきとは別の意味でまっすぐ見られない。
ちょっと、ねえ、なんでそんなに笑ってんの。本当に馬鹿みたいだよあんた。
馬鹿だよ。それじゃあんた丸損でしょ。
いったいそれで、あんたはなにを得られるんだ。
「……俺は、忘れちゃってたよ」
それでも往生際悪く、そんなことを呟く俺に、旦那は不思議そうに瞬きして顔を寄せてきた。
ああほら、さっき俺に何されたか、もう忘れたの。本当に馬鹿なんだから。
「俺はあんな口約束なんか、とっくの昔に忘れちゃってたんだよ」
だってあんなの、叶うはずもない、本当にただの、口からのでまかせだったんだから。
少しだけ目を見開き、そうか、と呟いた顔は、それでもやっぱり一点の曇りもない笑顔だった。
「だが、あのころ佐助が居なかったら、某は多分今でも、あの木から降りられなかったぞ」
今は、お館様も家中の皆様も、真田の家臣も居てくれるが、と嬉しそうに笑って、また少し顔が近づく。
「あのころ、どんなにぐずろうが無茶をしようが、それでもそばにいるといってくれたのは佐助だけだった」
でまかせだろうと、何の効力もない口約束だろうと。今は忘れてしまっていても。
「あの時あの場で、佐助がああ言ってくれたから、某は今、ここにおるのだ」
思いっきり、ため息が出た。
いやはや常々、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、俺のお育て申し上げた姫様は正真正銘、
本当の馬鹿だったらしい。
槍バカでお館様バカで武田バカで真田バカで、木には登るし池には落ちるし、廊下は
走るし、人の日本一のお姫様育成計画も早々に頓挫させてくれるし。
人の話は聞かないし、そのくせ変なことばっかり覚えてるし、俺の馬鹿げた矜持も愚かな恐怖も、むちゃくちゃにぶっ飛ばしてぶっ壊して気にもしない。
俺様一体どうしていいやら。
いやはや常々、馬鹿だ馬鹿だとは思ってたけど、俺のお育て申し上げた姫様は正真正銘、
本当の馬鹿だったらしい。
槍バカでお館様バカで武田バカで真田バカで、木には登るし池には落ちるし、廊下は
走るし、人の日本一のお姫様育成計画も早々に頓挫させてくれるし。
人の話は聞かないし、そのくせ変なことばっかり覚えてるし、俺の馬鹿げた矜持も愚かな恐怖も、むちゃくちゃにぶっ飛ばしてぶっ壊して気にもしない。
俺様一体どうしていいやら。
ああまったく、なんでこんなに馬鹿なんだろ。
なんかもう、情けなくて涙でそう。
なんかもう、情けなくて涙でそう。
両手伸ばして、すぐ目の前で座り込んだ体を、ぐるぐる巻きの打ち掛けごと引っつかんで引き寄せる。
花模様の小袖も、ぼさぼさの髪も、さっき床に押し付けた腕も、全部一緒くたに抱きしめて、俺は打ち掛けのずり落ちかけた肩に顔をうずめた。
ぎくりと震えたのは一瞬で、すぐ女にしては強すぎる力が、俺の背中を抱き返してきた。
まるで柿の木の上の小さな姫様に戻っちゃったみたいに、必死の勢いでしがみついてくる。
ぎゅうぎゅう締め付ける腕の力は痛いほどで、実のところ背骨が折れるんじゃないかと
心配になるくらいなんだけど、今はその苦しさが心地いい。
そのくらいしてもらわないと、本当に最後のぎりぎりの矜持も吹っ飛んじゃいそうだったから。
顔の下で、目がくらむほど眩しい打ち掛けの肩が、ようやくほっとしたように揺れて、沈んだ。
花模様の小袖も、ぼさぼさの髪も、さっき床に押し付けた腕も、全部一緒くたに抱きしめて、俺は打ち掛けのずり落ちかけた肩に顔をうずめた。
ぎくりと震えたのは一瞬で、すぐ女にしては強すぎる力が、俺の背中を抱き返してきた。
まるで柿の木の上の小さな姫様に戻っちゃったみたいに、必死の勢いでしがみついてくる。
ぎゅうぎゅう締め付ける腕の力は痛いほどで、実のところ背骨が折れるんじゃないかと
心配になるくらいなんだけど、今はその苦しさが心地いい。
そのくらいしてもらわないと、本当に最後のぎりぎりの矜持も吹っ飛んじゃいそうだったから。
顔の下で、目がくらむほど眩しい打ち掛けの肩が、ようやくほっとしたように揺れて、沈んだ。
ねえ旦那、あんたこそ忘れてるみたいだけど。
あの時あんたも俺に言ったんだよ。秋の夕暮れ、あの柿の木の上で。
(だいたいねー、姫様だけじゃないよ。俺にだって家族なんかいないんだから)
(佐助も?佐助も姫と同じなのか?)
(いないよ。俺は忍びだもん。ね、姫様、俺とおそろいだよ。よかったねー)
(……さようか)
こんなアホな言葉に、言いくるめられるようで大丈夫かとちょっと心配になったころ。
(では、佐助には姫がいてやろう)
(はい?)
(佐助が姫のそばにいてくれるなら、姫も佐助とずっといっしょにいてやるゆえな)
大口開けて柿の実をかじりながら、ニコニコ笑った幼い笑顔。
ガキのころの、それはただの、何の効力もない口約束。
笑いながら、他のいろんなものと一緒に胸の奥で押しつぶした。いつもどおり。
あの時あんたも俺に言ったんだよ。秋の夕暮れ、あの柿の木の上で。
(だいたいねー、姫様だけじゃないよ。俺にだって家族なんかいないんだから)
(佐助も?佐助も姫と同じなのか?)
(いないよ。俺は忍びだもん。ね、姫様、俺とおそろいだよ。よかったねー)
(……さようか)
こんなアホな言葉に、言いくるめられるようで大丈夫かとちょっと心配になったころ。
(では、佐助には姫がいてやろう)
(はい?)
(佐助が姫のそばにいてくれるなら、姫も佐助とずっといっしょにいてやるゆえな)
大口開けて柿の実をかじりながら、ニコニコ笑った幼い笑顔。
ガキのころの、それはただの、何の効力もない口約束。
笑いながら、他のいろんなものと一緒に胸の奥で押しつぶした。いつもどおり。
でもね旦那。俺は、忘れたことなんかなかったよ。
あんたがくれた、俺が生まれて初めて言われたあの言葉を。
押しつぶしても押し隠しても、どうしても消えなかったあの言葉を。
俺も一瞬だって、忘れたことなかったんだよ。
あんたがくれた、俺が生まれて初めて言われたあの言葉を。
押しつぶしても押し隠しても、どうしても消えなかったあの言葉を。
俺も一瞬だって、忘れたことなかったんだよ。




