ジョルジュ・ヴァロワ(Georges Valois、本名アルフレッド=ジョルジュ・グレッサン Alfred-Georges Gressent、1878年10月7日–1945年2月18日)は、フランスの政治思想家・政治活動家・レジスタンス運動家。アナキスト、プルードン主義者、サン=シモン主義の影響を受け、「国民的なもの」と「社会的なもの」の総合、新たな経済的・社会的組織形態を追求し、左翼と右翼の急進主義のあいだを往還した特異な思想家である。最終的にナチス強制収容所ベルゲン=ベルゼンで死去した。
概要
当初はアナキストとして活動したが、ロシア滞在などを経て王党派へ接近し、シャルル・モーラス率いるアクション・フランセーズに参加。同組織内でセルクル・プルードンを創設し、君主主義と革命的サンディカリズムの融合を模索した。第一次世界大戦後、アクション・フランセーズから離脱し、1925年にファシズム政党フェソー(Le Faisceau)を創設。これはイタリア以外で最初期のファシズム運動の一つとされる。
その後、イタリア訪問を通じてファシズムの現実に直面し、次第に立場を転換。1930年代には分配主義(ディストリビュティズム)へ傾き、左派へ接近した。第二次世界大戦中はレジスタンス活動に参加し、ゲシュタポに逮捕・強制収容所へ移送され、1945年にチフスで死亡した。
生涯
出自と青年期
1878年、パリ14区に生まれる。ノルマンディー出身で肉屋を営んでいた父は、彼の誕生直後に事故死。祖父母に育てられた。15歳でブール工芸学校を退学し、のちにシンガポールへ滞在。
当初はアナキズム運動に関わり、オーギュスタン・アモンの秘書として『リュマニテ・ヌーヴェル』に寄稿。1898年に革命的サンディカリズムの理論家ジョルジュ・ソレルと出会い、その弟子となる。
1900年に兵役を経験し、「真の人民」と再接触したと述懐。同時期にモーリス・バレスやポール・ブールジェを読む。1901年にはロシア帝国(コヴノ地区)で家庭教師として2年間働く。1906年、『来るべき人間(L’homme qui vient)』を刊行。プルードンやニーチェの影響が見られる。
アクション・フランセーズとセルクル・プルードン
1906年夏、アクション・フランセーズに入党。モーラスの王党主義を反資本主義的な「革命の武器」として捉えた。1911年、エドゥアール・ベルらとともにセルクル・プルードンを設立し、君主主義と革命的サンディカリズムの統合を理論化しようと試みる。
1912年、アクション・フランセーズ系出版社「ヌーヴェル・リブレリー・ナシオナル」の責任者となる。
1912年、アクション・フランセーズ系出版社「ヌーヴェル・リブレリー・ナシオナル」の責任者となる。
第一次世界大戦
1914年動員。1916年ヴェルダンの戦いで重傷を負う。1917年、『トロイの木馬』を執筆し、戦車と航空機の活用による塹壕戦終結を理論的に提唱した。
フェソー創設
1924年、イタリアを訪問しムッソリーニらと会見。この体験がアクション・フランセーズとの決裂を早める。1925年2月26日、新聞『ル・ヌーヴォー・シエクル』を創刊。同年11月11日、フェソー(Le Faisceau)を正式結成。約4000人が創立大会に参加し、青シャツ隊を組織した。
フェソーはイタリア国外初期のファシズム運動とされ、多くの王党派青年を吸収したが、内部対立と資金問題により1928年に解散。
分配主義と左派接近
1928年、共和主義サンディカリスト党を創設。1930年代の経済危機を背景に分配主義へ傾倒し、1934年に日刊紙『ヌーヴェル・アージュ』を創刊。「1930年代の非同調者」と呼ばれる知識人層と接点を持つ。
1935年には社会党(SFIO)への入党を申請するが拒否される。人民戦線には批判的立場をとり、ミュンヘン協定にも反対した。
レジスタンスと死
1940年、フランス敗戦後モロッコのカサブランカへ渡り地下活動を開始。帰国後も秘密裏にパンフレットを執筆。1944年5月18日、ゲシュタポに再逮捕されベルゲン=ベルゼン強制収容所へ移送。1945年2月18日、チフスにより死亡。