フィウーメ占拠(フィウーメせんりょう、Impresa di Fiume)は、1919年から1920年にかけて、イタリアの詩人・作家・政治家ガブリエーレ・ダンヌンツィオが率いる義勇軍がアドリア海の港湾都市フィウーメ(現・クロアチアのリエカ)を占領した事件である。この占拠は、第一次世界大戦後の領土問題(未回収のイタリア)を背景とし、短期間ながら「カルナーロ=イタリア執政府」という独自の政体を樹立したことで知られる。ダンヌンツィオの行動は後のファシズムに影響を与えたが、左翼的・革命的な要素も含んでいた。
背景
第一次世界大戦前、フィウーメはオーストリア=ハンガリー帝国領(ハンガリー王国直轄)で、イタリア系住民が多数を占めていた。イタリアは1915年のロンドン秘密条約で戦勝後にフィウーメを含む領土を約束されていたが、パリ講和会議ではアメリカ大統領ウィルソンの民族自決原則により、セルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア)領とされる可能性が高まった。これを「屈辱的な勝利」と見たイタリアの国家主義者が反発した。1918年10月、フィウーメのイタリア系住民はイタリア併合を宣言したが、連合国軍(イタリア、フランス、イギリス、アメリカ)の共同管理下に置かれた。1919年の講和会議でイタリアの要求が退けられると、ダンヌンツィオは行動を決意した。
占拠の経過
1919年9月12日、ダンヌンツィオは約2,600人の義勇軍(多くはイタリア軍の脱走兵やアルディーティ突撃隊)を率いてロンキ・デイ・レジョナリから進軍(ロンキ進軍)。連合国軍は抵抗せず撤退し、ダンヌンツィオはフィウーメを掌握した。イタリア政府はこれを非難し、国境封鎖や経済制裁を課したが、国民の支持が高く、強硬対応を避けた。
占拠中、フィウーメは芸術家、革命家、冒険家が集まる「自由の楽園」となった。ヨガの導入、コカインの流行、毎日のバルコニー演説、音楽の重視など、ダンヌンツィオの劇場的な統治が特徴的だった。
カルナーロ=イタリア執政府とカルナーロ憲章
1920年、ダンヌンツィオは革命的サンディカリストのアルチェステ・デ・アンブリスを内閣首班に任命。デ・アンブリスが主に起草した「カルナーロ憲章」(1920年8月31日公布)で、カルナーロ=イタリア執政府を宣言した。
この憲章はファシズムのコーポラティズムに影響を与えたが、デ・アンブリスの左翼的アイデア(サンディカリズム)も強く、純粋なファシズムとは異なる。
終結
1920年11月のラパッロ条約でフィウーメは自由市と決定されたが、ダンヌンツィオは拒否しイタリアに宣戦布告。12月の「血のクリスマス」でイタリア軍が攻撃し、ダンヌンツィオは退去した。その後、フィウーメは1924年にイタリア併合、戦後ユーゴスラビア(現クロアチア)領となった。
影響
この事件はファシズムの儀式(バルコニー演説、黒シャツ、叫び声など)の原型となった。ダンヌンツィオは「ファシズムの洗礼者」と呼ばれるが、執政府自体はナショナリズムと革命的左翼の混合だった。デ・アンブリスは後に反ファシストとして亡命した。