悲劇と戦禍に揺れた渋谷区。
 その一角に聳える高層ホテルのエントランスに、四人のマスターとそのサーヴァント達が結集していた。

 傍から見れば異様な光景である。
 女四人だけなら姦しくて宜しいが、彼女達に付き従う男衆が異彩を放つ。
 ホスト風の優男に、時代錯誤な装いに身を包んだ白人の伊達男。
 果てにはフードを目深に被り、ギター片手にご機嫌な音色を奏でる、暴力の匂いがする青年。
 美男美女の集まりというだけでは誤魔化しきれない、キワモノの存在感がむわりと立ち込めている。

 彼ら彼女らこそが、これから始まる夜宴の賓客。
 悪魔の舞台を値踏みする、悪夢みたいな四主従であった。

「アイドルライブかぁ……。わたし、アイドルってあんまりいいイメージないんだよねぇ」

 アルコールの影響か、若干顔を赤くしながらため息をついたのは天枷仁杜。二十四歳無職のお姫さま。

「かわいいからちょっと音程外しても許してね~とか、ああいうノリがどうも。
 でもそういうののファンってみんな盲目全肯定が基本だから、下手くそでも上手い! 流石! とかちやほやしちゃうじゃん。
 お金もらって仕事してるんだし、そういうのってわたしよくないと思うんだよ。やるならベストを尽くさないとさ~」
「お姉さんはまず仕事をしてないですけどね」

 三つ並んだ座椅子の真ん中に、仁杜。
 酔っ払いの管めいたひとり語りにぴしゃりと冷水を浴びせたのは右隣、伊原薊美である。
 背丈でも雰囲気の大人っぽさでも、仁杜よりよほど成熟して見えるのは言うまでもない。それだけでなく、今の彼女は、どこか……

「ねー薊美ちゃん、さっきからなんかご機嫌じゃない?」
「そう見えますか?」
「うん。前はもっとイライラしてたっていうか」
「まあ、確かにそうかも。お姉さんが魔女っ子と遊んでる間にこっちもいろいろありまして」

 垢抜けて見えた(・・・・・・・)
 茨の王子たる彼女は元々年齢離れした気品を放っていたが、さっきまでと今では明らかにその乗り方が違う。
 微笑みひとつ見ても粗がない。これまで時折見せていた焦りや苛立ちのような雑色が完全に消えていた。
 その理由を仁杜はもちろん解せない。良かったねぇ~、なんてのほほんとしている。薊美もそれ以上何も言わず、たおやかに笑っている。

「それより高天さん、一個質問いいですか?」
「大体予想つくけど、なに?」
「私達、なんでこんな状況になってるんでしょうか」
「うん、本当に私が聞きたい」

 仁杜を中心に、右隣に薊美。
 彼女が投げた質問に、左隣の高天小都音はこめかみを押さえながら答えた。

 ちら、と三者の視線が一点に向く。
 少し離れた位置の椅子に、いつにもまして不機嫌な顔で腰掛けている白黒の少女。
 もとい、魔女。楪依里朱は、改めての説明を求める視線を厳として黙殺していた。
 もし直接聞いてきたら容赦なく色彩をぶち込むぞ、という無言の警告があった。

 そんな彼女の代わりに、陽気なる害虫の王がジャーンとギターを鳴らして答える。

「散歩してたらとんでもねえ金の卵を見つけちまったのよ。
 良い音楽ってのは独り占めするもんじゃねえ。皆で共有してぶちアガってこそ……だろ?」
「なんかめっちゃボコボコじゃない? 顔……」

 その顔は仁杜の言う通り、見るも無残にボコボコだった。
 事実上の捕虜状態であるマスターの護衛に飽きて勝手に散歩に行き、戦闘した上結構な損害まで負って帰ってきた虫螻の末路である。
 もちろん治そうと思えばすぐにでも治せるのだが、それをするとイリスはもっと怒るので、あえて治していない。
 彼なりの処世術なのだ。バッタだってたまには学習するのだ。生き物だからね。

「はははは、いいじゃないか音楽祭。
 我が令嬢(マスター)ほどではないが、私も今は結構上機嫌でね。
 演者が黄色人種らしいのはやや減点だが、盛り上がり次第では戦勝会で鍛えた秘蔵のダンスが飛び出るかもな」
「ムサ苦しいから絶対やめろな。手が滑って膾切りにしちまうかもしれん」

 ホテルのボーイに用意させた瓶ビールに直接口付けて傾けながら言うのはカスター。
 仄めかされた騎兵隊ダンス(カスター・ダッシュに倣って、カスター・ダンスとでも言おうか)に殺意で以って難色を示すのは、トバルカイン

 そう――これから此処で執り行われるのは、時間外れな上に情勢外れな、ゲリラライブであった。
 シストセルカ・グレガリアが散歩という名の索敵中に発見した"金の卵(アイドル)"。
 自身に決して少なくない損耗を与えた敵を演者として招き、歌って踊らせるというのだから実に酔狂な発想だ。

 困惑、あるいは期待。
 二分された反応を繰り広げる一同を見ながら、奇術王ウートガルザ・ロキは静かに佇んでいた。
 軽薄と悪辣を生業とする彼にしては珍しく軽口を叩かず、溺愛する仁杜に絡むでもなく、静かにライブの開演を待っている。
 まるで彼だけは、これから現れる偶像の本質を既に悟っているかのように。

「なぁに寒いツラしてやがんだよロキ野郎。
 テメェカスだけど音楽の趣味は俺と一緒だろ? ブッたまげる準備済ませとくのをおススメするぜ」
「失敬だな。言われなくてもちゃんと期待してるよ」

 此処は伏魔殿。
 魔性達の集ったパンデモニウム。
 悪魔の少女は、遂にそこへと到着する。

 まず眼鏡の似合う知的な男が姿を見せ。
 彼にアイコンタクトで促され、宴の主役がそれに続いた。

「――――いったい何を魅せてくれるんだか、まったく楽しみで仕方ない」

 主役の名は、煌星満天
 見るからに緊張した様子に、いささかの疲労感を滲ませて。
 よたよたもたもたと歩いてくると、こうしたイベントごとの際にはステージの役目を果たすのだろう広めのスペースへ、意を決したように踏み出し――

「……わぎゃっ!!?」

 ずっこけた。
 盛大に、どてーんとすっ転んだ。
 障害物はおろか段差もない平地だった。

「いたた……、……――――あっ」

 しらーっ……という擬音が聞こえてきそうな空気。
 エントランスに集まった曲者集団、その全員の視線が這いつくばった悪魔アイドルに集中していた。
 満天のどちらかというと色白な顔が、一瞬にして熟れた林檎のように赤く染まる。

「え、えーっと、あー、その……お、お集まりいただきありがとうございます……。
 本日は急遽、ですね。こちらでライブの方させていただくことになりました……煌星、満天っていいます。アイドルです。ハイ、エー、ソノアノ……」

 捨てられた子猫を見る目。
 もしくは珍妙な謎生物を見る目。
 居た堪れない空気に耐えかねて、満天はひったくる勢いでスタンドからマイクを抜いた。
 スイッチをONにし、もうどうにでもなりやがれの精神で、シャウトする。

「よ――――よろしくお願いしまぁぁぁぁぁぁすッッ!!!!」

 半分ほど裏返った大音量が、閑散としたエントランスホールで反響(エコー)。
 ついでに背後でぼごーん!と、明らかに演出ではない爆発が一発。

「…………サマーウォーズ?」

 ある意味とても劇的な登場を果たした満天に、陣営のお姫さまはこてんと首を傾げた。



◇◇



 ――いいですか、煌星さん。今回のライブは我々にとって、非常に重要な意味を持ちます。


 なんでこんなことになったんでしょうか。
 〈蝗害〉レポの撮影が始まったと思ったら、通りすがりの元凶に襲われて。
 それを死ぬ思いで切り抜けたら、今度はその〈蝗害〉にライブしろとか無茶振りされて。
 疲労と魔力消費でくたくたのまま、ろくに休む暇もなく私こと煌星満天は今ステージに立っています。

 すっ転んでしたたかに強打した額がヒリヒリしてるし、衣装の下はヘンな汗かいてるし、当然心の準備なんてできてないので心臓はわけわかんないペースでばっくんばっくん言ってるし。
 何なら今でも『えっ。本当にやるの? マジで?』とあんまり優秀じゃない脳みそが困惑全開です。
 はっきり言って逃げたい。めちゃくちゃ帰りたい。この際ロミオにお姫様抱っこされてもいいのでなんとかこの地獄みたいな状況から逃してほしい。

 ……でももちろん、そんな願望を行動に移す度胸なんかあるわけもなく。
 それどころかいきなりトチってテンパってもうめちゃくちゃな私は、やけくそ気味にキャスターへ念話を飛ばす。

(音楽流して! 早く! そうじゃないと私このまま羞恥心で焼け死んじゃう!!)
(落ち着いてください。とにかく冷静に。貴方らしく行きましょう、煌星さん)
(保証は!! しかねます!!!)

 此処で冷たい視線を浴び続けるよりはまだ、さっさと歌って終わらせた方がいい。
 なけなしの冷静さでそう判断して、プロデューサーに巻き進行を懇願。
 本当はもうちょっとトークとかするべきなんだろうけど、今回は流石に許してほしい。

 幸い、そっちの願いは速やかに叶えられた。
 取材用の車に一応積まれていた機材。それらはもうスタッフさん達の手で搬入済みだったから。
 さっきの件以降、彼らは一言も喋らずキャスターの指示に従っている。
 この場に〈蝗害〉――シストセルカがいることで、まだ"蝗害の実地調査"という名目が維持されているのかもしれない。

 とにかくだ。
 キャスターの合図で、スピーカーからイントロが流れ出した。
 私の持ち曲は片手の指で数えられる程度しかない。なので一曲目は他人の歌だ。
 名前を聞いたら誰でも知ってるような、有名アイドルのヒットナンバー。
 無難だけど、流れを作りつつ、この乱れ散らかした調子を戻すにはちょうどいいと思う。……セトリは此処に来る前にキャスターが三分で作ってくれた。


 ――〈蝗害〉のマスターにして、ノクト・サムスタンプらの"同類"楪依里朱。
 ――更には彼女と関係を築いている複数の主従。それらと一気に関わる事態になった。
 ――想定外の展開ではありますが、ある意味ではコネクションを作れる好機だ。逆に失敗すれば、冗談でなく命の危険も伴うでしょう。
 ――貴方に失望した〈蝗害〉が再び襲いかかってくるという、最悪の可能性です。


 道中でキャスターに聞かされた言葉が、頭の中をずっとリフレインしてる。
 確かに私は、シストセルカを認めさせることができた。
 嬉しかったし、ついさっきまで殺されかけてた相手だってのにちょっと心だって開きかけた。

 でも違う。何が違うって、アレは人間じゃない。比喩とか差別とかじゃなくて、本当の意味でヒトの道理が通じない存在なんだ。
 だから当然あり得るだろう。このライブの結果次第で、さっきの好意が失望に反転することだって。
 忘れちゃいけない。さっきのは勝ったんじゃなくて、ただ見逃してもらっただけだ。
 依然として私の、私達の命はシストセルカ・グレガリアの掌中にある。
 そこを履き違えたら今すぐにだって死ねると、頭に残る恐怖の記憶が告げていた。

 怖い。
 やりたくない。
 逃げたい、……でも。


 ――脅かすのは此処までです。煌星さん、貴方は本当に大きくなった。


 私の憧れるあの子なら、こんな状況でも投げ出したりしないと思うから。
 大好きで、だけどこの世の何より恐ろしい〈天使〉の光を思い浮かべて、怖がる気持ちを脇に追いやった。
 それに。たとえ人間じゃなかろうが、ファンになってくれたお客さんに失望されるのはやっぱりちょっと嫌だ。


 ――自信を持ちなさい。形はどうあれ、貴方は。
 ――貴方は、〈蝗害〉に自分の価値を認めさせたのです。
 ――この都市の誰も真似できない偉業を、成し遂げたのですよ。


 正直、強くなった実感なんてないけれど。
 自分に自信なんてこれっぽっちも持てないし。
 ドジだしコミュ障だし、歌も踊りも下手っぴのまんまだと思ってるけど。
 それでも。


 ――あの厄災や天使に比べれば、観客なんて実に容易い相手でしょう?


 私は歌う。
 あの日の暗闇に、追い付かれたくないから。
 暗がりに沈む泥濘じゃなく、光を放つ極星(アイドル)になりたいから。

 こんなところで止まってべそかいてるような奴が、天梨に勝てるわけない。
 あの天使に勝てなければ、私の魂は契約に基づいて暗闇に堕ちる。
 闇の先を私は知らない。地獄なのか、それとももっと恐ろしい処なのか。
 仮にも悪魔が言うべき言葉じゃないけれど。私は、できれば善い処に行きたいと思う。
 なら選択肢はひとつだ。握るマイクに力を込める。万が一にでも、手汗で商売道具を落とさないために。

 喉を動かし、声を張り上げる。
 覚悟は決めた。やけっぱちでも覚悟は覚悟だ。
 そこに嘘も誠もないんだから、どれだけだって無様になろう。
 死物狂いで勝ち取ったつい先刻の成功体験。
 それをなけなしの自信(ねんりょう)にして、私は吠えるように歌い出した。




「――――――――えっ」


 そんなちっぽけな覚悟と自負を嘲笑うように。
 次の瞬間私の視界は、一縷の光もない暗闇のなかに閉ざされた。





◇◇



「……? 何これ、トラブル?」
「なのかな。でも曲止まってないよ? なんだろね」

 小都音が怪訝な声でそう言った。
 仁杜も不思議そうだ。
 その反応も無理はない。いざ始まった煌星満天のアイドルライブは、開始一分としない内からもう破綻の様相を見せていた。

 まず、歌唱が途切れた。
 ダンスは始まりすらせず、アイドルは怯えたような顔で棒立ちしている。
 なのに曲は止まっていない。ライブカメラがない以上厳密には不適当だが、放送事故という単語が脳裏をよぎる。

 何かが起きている。
 アイドルの彼女にとって、不測の何かが。
 それを最初に察したのは、彼女のプロデューサーであろう眼鏡の優男。
 ――の隣に立って陶然とステージを見つめていた、目も眩むような美形の青年だった。

「何をした?」

 絶世と言っていい美貌が憤怒に染まっていた。
 睨み付けた先には、彼に負けず劣らずの造形美を体現した金髪の男がいる。

 青年――ロミオを光の美男と呼ぶのなら、その男は闇の美男と呼ぶべき存在であった。
 間違いなく華々しいのだが、表情、いや佇まいから滲む雰囲気にさえ仄暗いものが付随している。
 墜落。美麗を称えるのに並行して、そんな言葉を弄したくさせるモノ。

「何だい、藪から棒に。ライブ中のおしゃべりはご法度じゃないのかな?」
「とぼけるな、外道。君のドブのような眼を見れば分かる」

 すなわちウートガルザ・ロキ。
 ロミオの直感は正しい。満天の不調の原因は、冷たい嘲笑を浮かべて舞台を見つめるロキ以外にはあり得なかった。

「僕としても、愛するジュリエットの晴れ舞台に泥を塗りたくはない。
 だから一度だけ、警告してやる。彼女を涜すのを今すぐやめろ。さもなくば――」
「何のことだかさっぱり分からないな。
 まあ落ち着きなよ優男、愛しのアイドルちゃんが悲しむぜ。ライブを台無しにしたいのかい」

 幻術使い。神々さえ欺き、あらゆる存在を踊らせて笑う奇術王。
 ロキは精神への干渉を得意としない。が、まったくできないわけではない。
 ましてや相手は英霊でもなければ、精神干渉への抵抗力もろくに持たない、未だ一般人に毛が生えた程度の小娘。
 その主観を一面の闇で塗り潰し、舞台に砂をかけて陵辱するなど、彼にとっては朝飯前の芸当である。

「……貴様……」

 挑発の意思を隠そうともしない物言いに、ロミオは青筋を立てて殺意を示す。
 ロミオはバーサーカーだ。一見すると理性的に見えるが、その実、彼の行動原理は狂気に支配されている。
 そんな男の前でこれみよがしに愛する者(ジュリエット)を侮辱するなど、愚の骨頂も甚だしい。

 実際、この美しき活火山はもういつ噴火しても不思議ではなかった。
 にも関わらずロキが彼を挑発し続けていられる理由は単純明快。
 ロキにしてみれば、彼に暴れられたところで痛くも痒くもないのである。

 満天が潰れて終わるのも、ロミオが暴れて終わるのも、悪辣なる巨人の王に言わせれば同じだ。
 だから、それならそれでいい。戦闘に発展したとしても、一向に構いやしない。
 むしろ目障りな有象無象を摘み取れる分、そうなった方が得でさえある。
 神をも恐れぬ物言い。唯我独尊を地で行く傲慢。その悪徳を許されるだけの力が、ウートガルザ・ロキにはあった。

 ……が。
 この場に限って言うならば、ロキの悪辣に憤るのはロミオだけに非ず。
 怒れる美青年(ロミオ)の賛同者が、不興を以って殺意を示す。

「おいテメェロキ野郎。何冷める真似し腐ってんだよ、食い殺すぞ?」

 ぶぶぶぶ、という威嚇するような羽音は、こと彼に関しては幻聴ではない。
 虫螻の王は荒ぶる厄災。その不興を買うことは、いつどんな状況であろうと破滅を意味する。
 ロミオとシストセルカ。二体の災害が向ける殺意に射抜かれて尚涼しい顔で舞台を笑覧しているロキは、やはり只者ではないのだろう。

「やれやれ……。どいつもこいつも過保護でいけないね。
 俺は賤しい僭称者になんて興味ないんだが、推すと決めたなら少しは信じてあげたらどうなんだい」

 一触即発。当事者でない面々にさえ緊張が走る。
 無理もない。此処の成り行き次第では――このホテルが数秒後には戦場になる可能性すらあるのだ。
 その気になればいつでもすべてを台無しに出来る、人の形をした大量破壊兵器。サーヴァントとはそういう存在なのだから。

「蝗どもを調伏し、鳴り物入りで現れた妖星の歌姫。
 それがこの程度のアクシデントでヘタレるような屑星だって言うんなら、そっちの方がよっぽど失望甚だしいじゃないか」

 どこか芝居がかった調子でそう言って――
 満天の世界から灯りを消した張本人は、いけしゃあしゃあと水を向ける。

「――と、俺は思うんだが。君はどう思う? かぼちゃの馬車の魔法使いくん」

 相手は言わずもがな、シンデレラストーリーの仕掛け人。
 夢を抱いて燻るばかりだった少女に、十二時過ぎの魔法をかけた怜悧なる悪魔だ。

 ファウストの眼光と、ロキの粘つく視線が交差する。
 奇術王のその正體を、既にファウストは見抜いていた。
 当然だ。生物の分類は違えど、在り方が同じなのだから分からない筈がない。

 この男は――悪魔だ。
 人心を揺らす術と、何処へ付け入ればいいかを見抜く才覚。
 地獄の住人が持つべき素養のすべてを、完璧と言っていい位階で有している。
 だからわずか数分足らずの観測で満天という人間の陥穽を見抜き、彼女だけの奈落に落とせた。
 恐ろしいまでの手腕。腸の煮えるような悪辣の手管。ともすれば、〈蝗害〉よりも厄介な存在とすら言えるだろう。
 そう正確に見抜いた上で、ゲオルク・ファウストは、否。
 悪魔メフィストフェレスは静かに、その指先で眼鏡の位置を直しながら言った。

「特段、何も」

 論戦に付き合うつもりはない。
 悪意を較べ合うつもりもない。

 もしその気があったのなら、とっくにミュージックを止めている。
 ライブを中断し、敵対を念頭に置いて行動を開始しているところだ。
 忘れてはならない。多少人に絆されたとはいえ、悪魔は悪魔。
 メフィストフェレスは正真正銘、本物の悪魔である。
 悪意を餌にした揺さぶり、脅し、それらはむしろ彼にとって独壇場。
 ましてや同類同士の争いならば尚更だ。如何にロキが卓越した悪意の持ち主であろうとも、その一点だけは覆らない。

「第一、ステージにアクシデントは付き物です。ただの照明トラブルなど、いちいち慌てるにも値しない。
 それとも」

 だからこそ彼は今、プロデューサーとしての視点で目の前の状況について一考し。
 問題ない、と冷ややかに断じてみせた。

 そして、その上で。

「弊社のアイドルに潰れて貰わねば困る理由でもおありなので? 
 ウートガルザ・ロキ殿(・・・・・・・・・・)

 悪魔の先達として、舐めるなよ若僧がと言葉で中指を突き立てる。
 ロキの笑みが深まった。いつも通り不敵で、しかし攻撃的な貌(かお)だった。

 そう、メフィストフェレスもまた気付いている。
 この伏魔殿に何食わぬ顔で坐す、星の存在に。
 煌星満天、輪堂天梨――彼女達と同等の資格を有するモノを既に認めている。

 元々、失敗できないライブではあった。
 だが今はそこに別な理由が加算された。
 このライブをしくじれば、満天の星核は格を落とすと分かるのだ。
 故になんとしてもやり遂げて貰わなければならない。
 さりとてメフィストフェレスは、苦し紛れの強がりで大口を叩いたわけでは決してなく。

(さあ、魅せてやれ。
 予行演習には丁度いいだろう、お前の宿命を乗り越えるための――――)

 たかがまがい物の暗闇如きで、己が星の飛翔は途切れないと確信していた。
 ライブは続く。不格好でも、無様でも、諦めない限り続いていく。
 静かなる星間戦争。月と妖星の対峙は、双方にその自覚がないまま始まった。



◇◇



 ずたぼろだった。
 闇が消えない。
 光が、見えない。
 観客達の顔も、キャスターやロミオの顔も、彼らがどこにいるかさえ分からない。

 目が見えないから踊れないとか、そんな話じゃないのだ。
 もちろんそれもしんどいけれど、私にとってその理由は一番じゃない。

 一面の、出口のない暗闇。
 手を伸ばしても、足を踏み出しても、消えず途切れぬ黒い暗幕。
 私のいちばん怖いものが、此処にはあった。

「は――ぁ――――ひ、ぅ」

 過呼吸みたいな息遣いで、私は歌になっているかも怪しい不協和音を吐き続ける。
 意地なんかじゃなくて、がむしゃらにでも声を出し続けてないと発狂しそうだったからだ。

 少しでもこの闇の中に、私以外の要素を作りたかった。
 形なんてなくてもいいから、私を孤独にしない何かが欲しくて堪らなかった。


 遠くに見えるあの光に、追いつけたなら私の勝ち。
 背後から迫るあの闇に、追いつかれたなら私の負け。


 それが私の、暮昏満点のルール
 "足を止めてはならない"。
 だから逃げるように進んできた。進むように、逃げてきた。
 此処に来る前もそうだし、来てからもそう。なのに今、私の前には一面の敗北が広がっていて。

 夜に外に出てはいけないらしい。
 悪魔に出会ってしまうから。
 じゃあ、世界のすべてが闇ならば?
 どこにも光が見えないのなら、私はどこへ逃げればいいのだろう?

「――――っ、ひ、ぃ」

 ああ駄目だ、闇の向こうから何かが迫ってくる。
 分かるのだ。だって私は、こいつに魅入られてしまったから。
 遠い彼方の幼い日、契約を交わしてしまったのだから。

 私にとって死よりも恐ろしい、暗がりの世界。
 解けない魔法は呪いになって、私のすべてを蝕んでいく。

 脳裏に浮かぶいくつかの顔。
 好きな人、負けられない人、苦手な人、怖い人。
 でもそのどれも、すぐ闇に呑まれて消えていく。
 おまえはずっとひとりきりだと、情けない私を闇が笑っている。

 ……そうしている間に、曲が終わりに差し掛かった。
 そこで少しだけ、ハッとした。
 自分が取り返しのつかない失敗をしていることに気付いたからだ。

(だめ、だめ、だめだめだめだめ……!
 やらないと、ちゃんと歌わないと……っ、今、ライブ中なのに……!)

 リスタートなんてありえない。
 なら、次の曲で取り返すしかない。
 でも……、……どうやって?

 この暗闇の中で、何をどうしろっていうんだ。
 もう、全部終わっているのに。
 光がないということはつまり敗北で。
 私の夢は、物語は、とうに終わってしまったということで――。
 我ながら根性がなすぎると思うけど。
 でもしょうがない。こればっかりは、しょうがないんだよ。

 ぐるぐる、ぐるぐる。
 走馬灯のように、今までの人生の追憶が脳裏を巡っていく。
 楽しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと、悔しかったこと。
 いいことより悪いことの方が圧倒的に多いのが虚しい。
 後悔だ。はじまりから終わりまで、私の人生は後悔ばっかり。

 ああ。こんなことなら、もっといろんなことしておくんだったな。
 私なんかには似合わないってうじうじもじもじしてやらなかったこと、行けなかったとこ、今になってすっごい恋しい。
 それに、意地張ってないでお父さんお母さんにももう一回くらい会っておけばよかった。
 まあ、会ってくれたかどうかは疑問だけど。最後ひっどい別れ方しちゃったし。ていうか勘当だったしアレ。


 ――もういい。非才なれど我が子は我が子と、好きに生きさせてやった私達が愚かだった。
 ――消えなさい、満点。私達は、もうおまえに何も期待しない。


 今思い出してもひどい言い草だと思う。実の子に言うことかこれが? こんな状況なのになんか腹立ってきたな。
 まあいいけどね、別に。お兄ちゃん達に比べれば私が味噌っかすだったのは事実だろうし。
 けどそれはそれとして、あんなこと言って放り出しておいていきなり懐中時計送ってきたのはやっぱりどのツラ案件ではなかろうか。

 ……なんて益体もないことを、現実逃避みたいに考えて。
 そんなろくでもない思い出達すら、今はなんだか恋しく思えていて……



(…………、…………。あれ?)



 そこでふと、違和感を抱いた。

(――そうだ。いたじゃん、お兄ちゃん)

 暮昏家は三人きょうだいだ(・・・・・・・・・・・・)
 私はその末っ子。いちばん才能のない味噌っかす。
 だから好きに生きさせて貰ったし、多少のやんちゃも許された。

 ていうかそもそもウチは魔術師の家で。
 小さい頃は私も、お父さんにあれこれ教えられていた筈だ。
 結局私があまりに才能がないので匙を投げられたし、何を教わったかもろくに覚えちゃいないけど。

 私には、お兄ちゃんがいた。
 それもふたり。なのに私はどういうわけか、今の今までそのことを綺麗さっぱり忘れていたのだ。

 仲がよかったのか悪かったのか。
 優しかったのか厳しかったのか。
 彼らがどういう名前だったのか。
 なにも思い出せない。記憶に靄がかかったみたいに、頭の引き出しそのものがぼやけて情報を引き出せないことに気付いた。

(え……? これ、なに……?)

 困惑に次ぐ困惑。
 不意に見つかった記憶の欠落は、けれど今の私には麻酔になってくれた。

(っ、違う、そんなことより……!)

 心を支配していた暗闇への恐怖が、降って湧いた不可解への疑問でわずかに薄らいだのだ。
 今しかない、と思った。手の中に、感覚だけ残ってる商売道具。
 手汗でべとべとのそれを砕けんばかりに握りしめる。
 アイドルにとってマイクは剣だ。剣がなければ戦えない。でも剣さえあるのなら――目が見えなくたって、戦える。

 魔術師の子どもであること、なんで今まで気にしてこなかったんだっけ。
 お兄ちゃんがいたこと、なんで今まで忘れてたんだっけ。
 分からない。分からないけど、そんなことどうでもいい。
 過去を気にして首を捻るよりも、今真っ先にやるべきことがある!

 ――息を吸い込む。
 失点を取り返すために、今度もまたありったけの大声が必要だと思ったから。

 相変わらず光は見えない。
 世界は闇に包まれている。
 だけどセトリは覚えてた。
 実は、記憶力にはちょっとだけ自信がある。学生時代のテストとかだいたいそれで乗り切ってたし。

 だから叫べ。
 叫ぶしかない。

 だって私は、まだ負けてないんだから。
 暗闇野郎の横紙破りくらい、殴り飛ばせなくてどうするんだ――!



「――――――――『ファナティック・コード』ッ!!!」



 さあ、取り返すぞ。
 私の名前は、煌星満天。
 満天の星はいつだって、暗い夜空にあるもんだろうが!



◇◇



「"――ファナティック・コード、さあ開闢(はじ)めよう"」

 ぐだぐだの放送事故状態。
 共感性羞恥さえ抱かせる恐慌と焦燥。
 一曲目は惨状のままに幕を閉じた。
 もはや取り返しようもないそれが、急激に流れを変える。

「"燻るように歩いてた 「どうせ無駄さ」と愚痴を吐いて"
 "フツウの方には背を向けて 夢見るように逃げ出したんだ"」

 〈鋼の恒星(ペーパー・ムーン)〉――伊原薊美は眉を動かした。
 魔人の域へ一歩踏み出した彼女は、もはや狼狽を浮かべない。
 それでも無感ではいられなかったことを、その微かな表情の機微は物語っていた。
 無理もない。薊美はきっとこの場の誰よりも、それに敏感な人間だったから。

 最初は、なんとも思わなかった。
 ロキの言動を見るに"そういうこと"なのだろうとは感じていたが、とても脅威とは思えなかった。

 だってそこには、あまりにも華がなかったから。
 能力もない、自信もない。天枷仁杜のような無自覚の超越性もない。
 いじらしく、そして惨めな石ころ。ロキがいなければ注視さえしていなかったと断言できる。
 しかしその認識が、今の叫びを聞いた瞬間一気に変わった。
 さながら夜空を切り裂いて咲き誇る、大輪の花火を目の当たりにしたように。

「"喝采の声が聞こえてる 拍手、喝采、万雷、才媛"
 "私にじゃないのは分かってる 非才、凡庸、陳腐、石槫"
 "今に見てろと眉寄せて 私は走る、醒めない夢へ……!"」

 非才の星。そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。
 焦りはない。ただ納得だけがそこにはあった。
 なるほど、と。天枷仁杜のような星が在るなら、そういうモノがあっても不思議ではないか、と。
 薊美の心は静かだ。自己すら魅了することを覚えた茨の王子は、平静と余裕のままに憤ることができる。

「"ファナティック・コード、私を見ろよ"!
 "革命前夜の誘蛾灯 最凶の歌を魅せてあげる"」

 これの根幹にあるものは、反骨心であろうと薊美は思う。
 追い詰められ軽んじられて崖っぷち、滑落の瀬戸際でなにくそと咲き誇る一輪華。
 その光は弱い。弱くて、淡い。だがひとたび爆ぜれば、その輝きは世界を吹き飛ばすが如し。
 良くも悪くも冷めている自分にはない眩しさを、煌星の偶像(アイドル)は持っていた。

「"ファナティック・コード、私を見てよ"!
 "目移りなんて許さない、オマエは私に見つかったんだ"」

 故に知れば知るほど、目移りできなくなっていく。
 窮地にて爆ぜる悪魔の星光を目の当たりにすれば、誰もがそのカタルシスに取り憑かれる。

 ……シストセルカ・グレガリアを虜にできた理由が分かった。
 世俗を愛するあの虫螻が、こんな劇物に心動かされない筈がない。
 これはそういう星。言うなれば、弱さをこそ取り柄に据える妖星だ。

「"こちら悪魔の独壇場、行きはよいよい帰りは怖い"」

 行きは、誰もが侮る。
 しかし触れれば帰れなくなる。
 まさしく、悪魔の如き罠がそこにある。
 彼女自身は気付いていないのだろうが、引いてしまうほど極悪な仕組みだ。

 そこまで理解したから薊美は、過去の侮りを捨てて認めた。
 これもまた、まさしく眩き星であると。
 人を魅了し、世界を狂わせ、我こそ光なりと恥知らずに輝く資格者であると。
 天を目指して駆ける己が、この足で踏み潰すべき怨敵であると。

「"観念しようぜ、さあ人間ども――アナタは私に魅入られた"!!」

 度し難い。
 そんな本音を、不敵の裏に押し込めて。
 いずれ討つべき敵の名前をひとつ増やす。

 されども、恨めしくはなかった。
 何しろそういう段階は既に卒業している。
 事実を事実として受け容れ飲み干し、静かに牙を研ぐは神殺しの君。ラグナロクの王子。

「――――次、いきます! さっきはカッコ悪いとこ見せちゃったけど、しっかり付いてきてくださいね……!」

 針音都市のスルト。
 神々に黄昏を齎す凶星。
 茨の君は、静かに事の行く末を見守る。
 隣で「おおぉ……!」と唸っている呑気な月をちらりと横目で見て苦笑した。
 太陽を超えて耀くならば、いずれこのすべてを呑み込まねばならない。

 ――臨むところだ、と。誰にも聞こえぬ声量で、薊美は言った。

「『愛されるべき光(スターライト)』ッ!!」



◇◇



「"We are the starlights,born to be loved"――――」

 『ファナティック・コード』は煌星満天の肝煎りだった。
 が、この『愛されるべき光』を紡いだのは満天ではない。
 彼女のプロデューサーが、持ち曲の少ない満天へ提供したものだ。

 愛すべからざる光(メフィストフェレス)が唱える、愛されるべき光(スターライト)――。
 その意味を満天は未だ解していない。
 解さぬままに、彼女は歌う。

「"見上げれば広い星の海、仰ぐワタシはきっと一番星"」

 鬱屈は狂信の法典(ファナティック・コード)で破壊した。
 斯くして夜空を覆う雲は晴れ、闇に包まれたままで星は自ら輝き出す。

「"弾けるように、爆ぜるように"
 "夜空に花を咲かせましょう、満天の一輪花を"」

 ぱちん――。
 満天が、指を鳴らす。
 驚くべきことだ。本来のダンスには含まれていない筈の動きを、要領の悪い彼女がアドリブで行ったのだから。

 今の満天に計算づくで何かする余裕はない。
 その視界は、変わらず敗北の暗黒で覆われている。
 本来ならこうして歌い続け、踊り続けられている時点で不可解なのだ。
 誰より惰弱な少女が、脳ではなく魂/本能で紡ぎあげる妖星のライトステージ。
 理屈を経由しないからこそ、迷いが挟まる余地なく炸裂したアドリブは、夜空を彩る大星雲を咲き誇らせた。

 ――微笑む爆弾・星の花(キラキラボシ・スターマイン)。
 〈蝗害〉に使った鏖殺兵器とはわけの違う見かけ倒しの爆発だが、それだけに演出としての効果は抜群である。

「"そう、きっと誰も愛されるために生まれて"
 "ナミダで始めた物語、笑って終わるが華だから"」

 星が、瞬いている。

 星が、踊っている。

 誰もが目を奪われる。

 一番星の輝き、万華鏡のような妖星の軌跡に。
 現にライブとしてのクオリティは、蝗どもを調伏した時の比ではない。
 彼女にとって死より尚恐ろしい破滅のカタチ。ウートガルザ・ロキが与えた暗闇のヴェールが、奇術王の予測を超えた超高域に悪魔を飛翔させた。

 そう、ロキは読み違えたのだ。
 満天を潰したいと思うのならば、そこに露悪的なドラマをあてがうべきではなかった。
 煌星満天の強さとは爆発力。追い詰められ、泣き喚いて転がって、泥だらけになりながらそれでも叫ぶイノセント。
 この世のあまねく理不尽は、灰かぶりの悪魔にとって起爆剤である。
 月の浮遊に魅了された奇術王は、己が神を愛する故に判断を誤った。

「"We are the starlights,born to be loved"
 "天使みたいに輝いて、悪魔みたいに笑おうぜ"」

 そしてメフィストフェレスも、静かにそれを見ていた。
 かつて自分が彼女にかけた言葉を、不意に思い出しながら。

 ――煌星さん、あなたにはアイドルの才能があります。

 まだ彼が、都市の真実を知らなかった頃。
 無論、己の契約者が星と呼ばれる存在であることも知らなかった頃に。
 悪魔は少女へ、確かにそう告げた。
 誓って嘘やお世辞ではなかったが、それでもこの光景を見れば感じ入らずにはいられない。

「"We are the starlights,We are the so cutest"
 "カミサマだって止められやしない 星くず達のパンデモニウム"」

 ――ああ、確かに神にだろうと止められないだろうよ。
 ――計算を超え、予定調和を蹴り飛ばし、泣きじゃくりながら宇宙に昇るじゃじゃ馬なんざな。

 満天は気付いていないのだろう。
 自分が今日成し遂げてきたことが、如何に驚異的な成果であるかを。
 天使との縁を引き寄せて共鳴し、英霊同士の諍いを癇癪ひとつで仲裁した。
 死の絶対的象徴である黒騎士の原型に損害を与え、迫る死の運命を歌声で打ち払った。
 今だって月の眷属たる奇術王の悪意さえ燃料に変え、その星光を更に強力無比なものへ昇華させてみせた。

 悪魔メフィストフェレスは、今になって自分の慧眼に惚れ惚れさえした。
 やはり彼女だ。彼女でなくては、都市の結末は変えられない。
 白き神が支配し、偽りの星々が廻るこの街で、十二時過ぎの悪魔だけが何かを変える可能性を秘めているのだと。
 胸中でそこまで言い切ったところで我に返り、俺まで灼かれかけてどうするのだと苦笑交じりに認識を修正して。

「"――お願い、時間よ止まって"」

 なあ、ファウストよ。
 お前あの時、マジで何を見たんだ?

 今頃は天上で福音に包まれ暮らしているのだろう旧い契約者を想い、少しだけ遠い目をした。

「"ワタシのために、止まっちまえ"」

 契約の成就は未だ彼方。
 されど、決戦の時は着実に迫っている。

 このちいさな悪魔が、真に星として――否。
 夢を叶え、十二時を超えて耀くトップアイドルになった未来。
 その時にようやく、彼と彼女の戦いは幕を開けるのだ。
 契約者の名は『愛されるべき光(スターライト)』。宵の空を照らす、絶望の大敵。



◇◇



 ――やられたな。

 ウートガルザ・ロキは珍しく敗北感を抱きながら、唇を突き出して嘆息した。
 ライブは終わった。そう、無事に終わってしまった。
 煌星満天は膝を折らぬまま、公演をやり遂げたのだ。
 ロキの企ては大失敗。偽りの星の泣きっ面は見られず、それどころか逆にその輝きを強めてしまったのだから目も当てられない。

 こうなっては足掻いたところで恥を上塗りするだけだ。
 好きな子の前で格好悪い姿を晒したくないのが男の性である。
 潔く満天の闇を解き、ロキは不貞腐れたように頭の後ろで両手を組んだ。

「ようよう、恥ずかしいなぁクソ野郎。したり顔で嫌がらせしといてよ、空振りもいいとこじゃねえか」
「まあね。今回に関しちゃ素直に認めよう。あーあ、面白い見世物にできると思ったんだけどなぁ」

 うりうり、と肘で小突いてくるシストセルカが鬱陶しいが、空振ったのは事実なのでこれはもう仕方がない。
 奇術師を名乗っておきながら、勘所の見極めを誤った自分が悪いのだ。
 その失態を口先八丁で誤魔化すのは一流としての美学に悖る。
 悪意というものにも質はあるのだ。ロキはそれを理解している。
 だからこそ上手く行かなかった時は素直に手を引き、萎えと辛酸を併せ呑むようにしていた。
 もっとも彼がそんな思いをしたのは、まだ手管の未熟だった幼少期以来のことであったが。

「ありゃ妖星だな。ある意味じゃ一番原種(たいよう)に近いんじゃないか?」
「何言ってっか分かんねえけどよ。だから俺言っただろ? あのメスはマジでヤベえって。
 やっぱり技術がどうとか音程がどうとか訳知り顔で難癖付ける奴らはなんにも分かってねえんだよな。
 本当に大事なのはハートよハート。全員ブチ殺してやるよォ~!? って気持ちさえありゃ、下手も上手もないってワケよ。うんうん」
「あ、うん。君に話した俺が馬鹿だったわ。もういいよ」

 不条理をぶち壊し、強引に己のヒカリをねじ込むその性質。
 ロキはそこに、かの白き神と同様の理不尽性を見出していた。

 となれば、やはり認めざるを得ない。
 煌星満天は〈恒星の資格者〉であると。
 今はまだ粗削りだが、都市において稀なる価値を持つ、いつか宙へ至る可能性を秘めた原星核。
 そのことが持つ意味は大きい。少なくともウートガルザ・ロキは、この事実を決して無視できない。

 何故ならそう、彼もまた――星の眷属なのだから。



「ねえ! ねえねえ! なんか……なんかこう……! すっごくなかった!?」

 己が相棒の抱く想いなど露知らず。
 天枷仁杜はライブが終わるなり、貧弱な語彙力でさっそく両隣の友人達へ共感を求めた。
 とにかく一秒でも早く、この感動を共有したかったのだ。

「最初はなんだよ放送事故かよ、鳴り物入りで出てきてめっちゃ興ざめじゃん、これだから若いだけでちやほやされてる女どもはよ~、ヘンに色気出さないでウチで受験勉強でもしてればいいのに、は~お部屋帰ってお酒飲みたいなぁって思ってたんだけど」
「お姉さんってほんとにちゃんとクズですよね」
「でも二曲目のとこでぶわーってなってさあ! 花火みたいなのがぼんぼんぼーん! ってなって! そこから最後までノンストップですごかったっていうか~……あっ、そうそう! ジェットコースターみたいな感じだったよね!!」

 前半で下げすぎて微妙に取り返しきれてない褒め言葉だったが、仁杜は鼻息荒げて興奮していた。
 この成人女性の感性は見かけ通りの年代で止まっている。すぐ感動するし、すぐ熱くなるし、すぐ泣く。
 故に彼女がいくら熱弁奮って良さを語っても正直説得力は微塵もない。
 が。今回に限っては薊美も、言葉にこそしないが、彼女の弁に同意するしかなかった。

「ねえねえ、ことちゃんもそう思うでしょ!?」
「……まあ、そうだね。確かにすごいライブだったよ」

 小都音と視線が合う。
 頷きこそしなかったが、思っていることは同じだろうと思った。

 すなわち――煌星満天は星である。宇宙にて輝く逸脱者である。
 地平の暴風、ガイアの厄災が連れてきた破綻なき理不尽の星。
 やがて極星を射つ悪魔(メシア)ともなり得る、可能性のシンデレラ。

「ていうか今思い出したんだけどさ。煌星満天ってアレだよね、SNSでバズってた爆発アイドル!」
「あ。……あー、それか。どっかで見た顔だと思ってたけど、やっと思い出した」

 辛口な大御所審査員に啖呵を切ってオーディション会場を吹き飛ばしたあの映像も、今思えば伏線のようだ。
 祓葉の時同様に、既に月の眷属である小都音は満天の輝きに灼かれることこそなかったが。
 それでも、彼女の秘めた可能性とバイタリティに気付けないほど愚鈍ではない。
 薊美に至っては言うに及ばずだ。その瞳は怜悧に細められ、悪魔への認識を観察対象からひとつ格上げしている。

 恐らくこの後、小休止を挟んでから会談に移行するのだろう。
 現在でさえ過剰戦力なきらいのある此処に、果たしてあのアイドルも加わるのか。
 どちらでもいい。事がどう転ぼうと、薊美がやるべきこと、目指すべき処は変わらないから。

「話し合いはおまかせしますね、高天さん」
「え。いいの? せめて同席くらいした方が――」
「大丈夫ですよ。にーとのお姉さんのことはともかく、あなたのことは信用してますから」

 満天という新たな敵を見つけられた時点で、薊美はひとまず満足していた。
 狡辛い駆け引きに興味はないし、今の彼女はそれを不毛と断ずる。
 この同盟の戦力は飽和状態だ。煌星満天は稀有な素質を秘めているが、現状を直ちに大きく飛躍させるものではない。
 会談が実を結び、月の一軍にひとつ星が増えようと。
 逆に決裂し、妖星と悪魔が自分達の下を去ろうと。
 薊美としてはどちらでもいいし、どうでもいい。そういう目先の事情に一喜一憂する段階はもう過ぎた。

 それよりも、今の彼女が重要視していたのは……


「……あれ、いーちゃん?」


 不意に席を立ち、自分達へ背を向けたイリス。気付いた仁杜がすかさず呼び止める。
 舌打ちしながら、イリスは意外にもすんなり足を止めた。
 が、振り向くまではしない。シストセルカはもう霊体化を済ませているようだ。

「どこ行くの? いーちゃんもこっち来て、みんなで感想会しようよ」
「誰がするか莫迦。付き合いきれないから、私は先に部屋戻るわ」
「えー。もう、相変わらずつれないんだから……」

 ぶぅ、と唇を尖らせる仁杜だったが。
 ふと違和感を抱いたのか、こてんと首を傾げる。

「いーちゃんは満天ちゃん達とお話しなくていいの?」
「必要ない。驚かされたのは否定しないけど、別に予想の範疇は出なかったし」

 天枷仁杜はぼんくらだが、そこには理屈ではない聡さがある。
 イリスがぶっきらぼうなのはいつものことだ。
 しかし仁杜はいつも通りの態度に滲む、彼女らしくない後ろめたさのような感情をうっすら感じ取っていたのかもしれない。
 だからだろう。眉をハの字にして、不安げな顔で白黒模様の背中に問いかけた。

「……ねえ、どっか行っちゃったりしないよね?」

 姿も言葉も、さながら親かきょうだいと離れるのを厭う幼子のよう。
 とてもじゃないが年上とは思えないそれに、イリスは背を向けたまま深く嘆息する。
 呆れたように片手を挙げて、魔女はひらひらと手を振った。

「此処にいればいいんでしょ。分かったっての」
「そ、そう!? えへへ、だったらいいんだけど。あー、安心したぁ……」
「はいはい良かったね。じゃあ、私は消えるから」

 胸を撫で下ろしてにへ……と笑う仁杜ではあったが、もちろん"信じている"のは彼女だけだ。
 現に小都音は何とも言えない顔で双方を交互に見つめ、さっそく今後の対応に思いを馳せ始めた。
 ある意味ではこの後に控えている満天のサーヴァントとの会談以上に厄介な案件だ。
 わんわん泣く大人を宥め慰めるというのは、とっても大変なことなのだから。

「またね、クソニート。私が言うのもなんだけど、あんたちょっとは大人になんなさい」

 せっかく煙に巻けたのだから、黙って立ち去ればいいものを。
 なのにわざわざ一言残してしまったのは、つまりそういうことだ。

 仁杜以外は理解している。
 分かっていないのは、いつまでも幼気なままのお姫さまだけ。
 イリスの背中が見えなくなるまで、仁杜はのん気に手を振って見送っていた。
 その、見ようによってはある種切なさすら覚えそうになる光景を見届けてから。
 伊原薊美もまた、おもむろに席を立ち上がる。あるいは、満を持して――と言うべきだったかもしれないが。

「私も少しお手洗いに。後で話し合いの結果、聞かせてくださいね」

 茨の王子は演技派だ。薊美の骨子はそこにこそある。
 白黒の魔女のような大根役者とは訳が違うので、その嘘を見抜くことは容易ではない。

 されども小都音は既に、薊美のそれを看破していた。
 最古の眷属を侮るなかれ。彼女はまごうことなき凡人、超越を諦めた只人だ。
 誰より自分の月並みを自覚しているから、小都音はいつだって考えている。観察している。この針音都市で、己の月と再会してからは特に。

「気を付けてね」
「言われるまでもありません」

 釘を刺すような言葉に、薊美は眉ひとつ動かさずに頷いた。
 口にした用向きが本当なら、やや違和感のある物言い。
 あえてそれを選んだのは、小都音がすべてを察しながら、なのに自分を引き止めなかった意味を分かっているからだ。


 伊原薊美は、楪依里朱を追う気でいる。
 ではそこで、天目指す茨の王子が何をするのか。
 何をしようとしているのか。考えるまでもない。

 悪魔のステージは無事に幕を下ろした。
 しかし此処は依然として、数多の思惑が渦巻く伏魔殿。
 物語はめでたしめでたしで終わるどころか、更なる混沌へ向かっていく。

 ――星を巡る戦いは、むしろこれからが本番なのだ。



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最終更新:2025年05月14日 23:13