「…………、…………」
「…………、…………」

 自己紹介の意味も兼ねたライブステージをなんとか切り抜け。
 視界も回復し、達成感と少しの疑問を得て、満天はようやく椅子に腰を落ち着けることができた。
 のだが、今度は隣に座る女との気まずい沈黙に心を擦り減らす羽目になっていた。

 ファウストは今、高天というマスターと話し合いを行っている。
 話の内容は微妙に聞き取れないが、彼なら上手く纏めてくれるだろうからそこは心配していない。
 彼の傍にはロミオ。自分を守る役目である筈だが、高天の傍に彼女のと思しきサーヴァントが控えている以上、流石に丸腰で会談に臨むのは憚られたのだろう。どうにかして丸め込んだらしい。狂戦士相手にも臆さずそれができるのが、ゲオルク・ファウストという男の凄いところだと思う。
 そう、それはいい。問題は――この状況だった。

(き、気まずい……!)

 今日の満天は本当にがんばってきた。
 しかし忘れないであげてほしいことがひとつ。
 煌星満天という人間は、アイドルだとか恒星の資格者だとか、そういう以前に重度のコミュ障である。
 そんな満天にとって、見知らぬ人間と共有する沈黙というのはすなわち針の筵とイコールだった。 

 いま、満天の隣にいるのは小柄な少女だ。少なくとも満天はそう思っている。
 長い黒髪にあどけない顔立ちと雰囲気。自分より七つも年上の大人だとは知る由もない。
 女は"にーとちゃん"とか呼ばれていた。それはもうふつうに悪口ではなかろうか。どんなあだ名だよと心の中で突っ込んだ。

 その"にーとちゃん"はというと、こっちもこっちで満天の隣でずっとなんだかもじもじしている。
 こういう態度をされると満天みたいな人間は弱い。もしかして何かやらかしたのではと不安になってくる。まして今はライブの後なのだ。
 アクシデントがあった割にはなんとか頑張れたのではと、内心抱いていた達成感が一気に不安と後悔で上塗りされ始める。

 やっぱり私ってミジンコ以下……へっぽこアイドル……これからは草むらでバッタ相手にライブして生きていくしかないのかも……

 そんなネガティブモードに突入するまでも早かった。が、見る間にしおしお萎れていく満天に、"にーとちゃん"がおずおず話しかけてきた。

「あ、えぇっと……満天、ちゃん……だったよね?」
「ひょぇっ?! ひゃ、ひゃいっ!!」
「わひゃぁ!? び、びっくりしたぁ……。いきなり大声出すのやめてよぅ……」

 弾かれたように反応した満天と、それに驚いてすっとんきょうな声をあげる"にーとちゃん"――天枷仁杜
 小動物と小動物のミラーマッチ。お互い気の強い方では決してないので、このようになんとも情けない光景が展開されるのは道理だ。

「ゴ、ゴメンナサイ……。それで、あの、何かご用でしょうか……」
「う、うん。さっきのライブなんだけどさ……」
「――――っ」

 来た。ほら来た。
 待ってまだ心の準備が。
 ちいさく身を縮こまらせた満天に、仁杜がかけた言葉は、しかし。

「めっっっっちゃ……よかったよ……!」
「えっ。…………え、えっ? そ、そう……?」
「うん……! なんかこう……、演出も歌もすっごいよくてびっくりしちゃった……。
 最初は正直大丈夫なのかな、って不安だったんだけど、途中からはもうそんなの忘れてアガっちゃってた……!」

 満天のネガティブな予想に反して、何の含みもない大絶賛だった。
 緊張しているのか、途切れ途切れなつたない言葉ではあったものの、身振り手振りを駆使してわちゃわちゃとライブの感想を伝えようとしてくれる仁杜の姿に、満天は身構えていたところをスカされた脱力感もそこそこにだんだん口角を上げ始める。
 自分のパフォーマンスを評価されて嬉しくない演者なんて、ひと握りの変人だけだ。
 そしてこの煌星満天というアイドルはそういうタイプではない。むしろ真逆。

 ――褒められ慣れていない彼女は、貰った高評価には遠慮なくでれでれしてしまうタイプである。

「そ、そうかなぁ……。
 だったら良かったっていうか、めちゃくちゃ嬉しいんだけど……ヘヘ、エヘヘ……そっかぁ……。そんなに良かった? 私のライブ……」

 頭をぽりぽり掻いて、そわそわ身体を揺らしながら、ぽっと頬を染める。
 ちょこざいにもテンション上がってるのを悟られまいとしているのか、すまし顔を装ってるのがなんとも小賢しい。
 しかし口元もほっぺたも緩みに緩んで、全体的にだるんだるんになっているので誤魔化しはまったく奏功していなかった。
 そんな満天に仁杜もうっすら顔を赤くして、ありったけの笑顔で「うん、よかったよー……!」とこくこく頷く。

「わたし、ああいうちょっとカッコいい系の曲すっごい好きで……!
 実は現地でライブ見るのこれがはじめてだったから、サビのところでわぁって言っちゃった……へへ」
「か、カッコよかったかぁ。んふ……むふふ……」
「バッタさんがあんなに褒めちぎってたのも分かるなぁって。ねぇねぇ、CDとか出してたりする? 落ち着いたらポチっちゃうかも……!」

 あっ、これ、駄目だ。
 これ、駄目になる。
 麻薬ってこんな感じなのかな――満天は褒めの過剰供給でもうあっぷあっぷ言っていた。

 満たされてはいけない。
 ちょっと認められたくらいで情けない、あの日の涙をもう忘れたのか煌星満天。
 悪魔の少女は自分を叱咤していたが、無理からぬことではある。
 人生ではじめてのソロライブ。それを曲がりなりにも完遂した熱も冷めやらぬ内にこうして惜しみない賛辞を送られているのだ。
 創作者然り演者然り、あらゆるエンターテイナーは"感想"の持つ魔力と無縁ではいられない。
 緩んだ顔をどうにか律そうと努力しつつ、隣の少女(満天はそう思っている)のぶきっちょだけど真摯な感想に耳を傾ける。

 これで満たされたら駄目どころか終わりだと頭じゃ分かってる。
 それでも、やっぱり嬉しいものは嬉しかった。

 自分は、褒められたくて頑張ってるんじゃない。
 けれど、誰にも認められないアイドルなんかが頂点へ行けるわけがない。
 その当たり前を改めて理解できたことは、ずっと一人で走ってきた彼女にとってきっと大きな"成長"で。
 輝きを増す妖星の胸の内など知らないまま、この世の誰より幼気な女は言葉を紡ぎ続ける。

「実はさ。わたし、今までアイドルってあんまり好きじゃなかったんだ。
 でもさっきのでイメージガラッと変わっちゃった。やっぱり木を見て森を見ず、ってよくないね」

 煌星満天は、この日大きな成長と躍進を遂げた。
 もはや昨日までの彼女と今の彼女は別物と言っても過言ではない。
 ホムンクルス36号の眼は曇っていた。別の星を擁した彼ではやはり、異教の星を正しく評定することができなかったのだ。

 改めて断じよう。
 煌星満天は、まさしく〈恒星の資格者〉である。
 ただただひた向きに駆け抜け、爆発で壁を粉砕する躍動の妖星。
 誰より忙しなく、誰より予測のつかない嵐みたいな熱狂の偶像(アイドル)。

 そして。


「ほら、あの輪堂なんとかって子みたいな? ちょっとかわいいだけで自分は何しても許されるんだーって思ってる痛い子。
 そういう子ばっかりだと思ってたけど、満天ちゃんみたいな子もいるんだって新しく知れたよ。……えへへ、なんだかちょっと楽しいや」


 ――――天枷仁杜は彼女の真逆を行く、停滞と堕落の満月である。
 その純真無垢な悪徳は、時に悪意ないまま牙を剥く。



◇◇



 頭が痛い。あと胃も痛い。
 高天小都音は今、許されるなら叫び出したいほどプレッシャーを感じていた。

 元は自分と仁杜のふたりで始まった同盟だが、そこに薊美が加わり、それだけならまだしも一時的とはいえ蝗害の魔女・楪依里朱まで同行する事態になってしまった。
 戦力的には至って申し分ない。それどころか、正直どこの誰が来ても返り討ちにできるだけのが揃っていると思う。
 だがある意味、小都音の悩みの種はそこだった。贅沢言うなと怒られてしまうかもしれないが、自分達は少々強くなりすぎた。

 現状、小都音にとって無条件で信用できる存在は天枷仁杜だけである。
 彼女のサーヴァントはウートガルザ・ロキ。最強の奇術師。正直いけ好かない男だが、彼と自分のトバルカインが合わされば大概の敵は鎮圧できると踏んでいる。しかし逆に言えば、その範疇を超えた爆弾を抱えてしまえば足が出る。危険の二文字が付きまとい始める。
 楪依里朱と〈蝗害〉はまさにそれだ。鎮圧自体は出来たものの、二度目も同じように行くとは限らない。
 仁杜の手前邪険にはできないしする気もないが、かと言って警戒を解くわけにはいかない相手である。
 もっともイリスはどうやら自ら進んで離脱してくれるようなので、そっちの心配は消えた。
 が……懸念はもうひとつ生じていた。ついさっきイリスを追ってエントランスから消えた伊原薊美の"変化"についてだ。

『――――コトネ。あのガキ、妙なこと掴みやがったぞ』

 ライブの話を聞かされてエントランスへ向かう道中。
 トバルカインは怪訝な声音で、小都音にそう念話を送ってきた。
 言われるまでは気が付かなかったが、注視してみると確かに少し違和感があった。

 これまでに輪をかけて仕草、表情、あらゆる所作に淀みがない。
 すべてが円滑。美しいまでに整っていて、時折垣間見えていた少女性さえ鳴りを潜めている。
 たかだか注視した程度で茨の王子の異変に気付ける時点で、小都音も常人の外側に片足を突っ込み始めていると言えたが、それは置くとして。

『それに……、ロキのクソ野郎から何か受け取ったみてえだ』
『……何か、って?』
『"死"だ。今の薊美からは、とんでもなく濃い死の臭いがする』

 ……こんなことを言われてしまったものだから、彼女に対しても改めて注意を払わねばならなくなってしまった。
 個人的には、正直信じたい気持ちもある。が、陣営の事実上の長として、私情と合理性は切り離して考えなければならない。
 仁杜に心酔しているロキが無策に危険物を渡したとは思えないので当座は大丈夫だろうが、それでも不穏は不穏だ。
 やっぱりあの高校生ふたりに、何かしらアクションを起こしておくべきだったか……と今になって後悔した。


 ――そして。そんな高天小都音は今、隣にトバルカインを侍らせて、およそサーヴァントらしからぬ身なりの男と対峙している。


「困りましたね。彼女……楪依里朱についても、できれば議題に挙げたかったのですが」
「すみません、そこは諦めてもらえると。私が言ったところで聞いてくれる子じゃないですから、彼女。
 なんだったら追いかけて貰ってもいいですよ。どうなるかは保証できませんけど」

 煌星満天の"プロデューサー"と名乗った男は、キャスターのサーヴァントであるという。
 黒縁眼鏡にぴっちりとした七三分け。眼光は怜悧だが、その実ひどく暗い。死んだ魚のようとも、泥濘んで底の見えない沼のようとも思えた。
 英雄らしさなど微塵も感じさせない、当代風の装いで身を固めたインテリじみた男。一言で言うと、ビジネスマンにしか見えない青年。
 外装名、ゲオルク・ファウスト。真名をメフィストフェレス。ある少女との契約でこの世にまろび出た、詐称者(プリテンダー)である。

「失礼、本気で言っているわけではありませんよ。ちょっとした軽口です」
「……もしかしてあなた、結構いい性格してます?」
「ご想像におまかせします。お互いに実りのある話し合いができれば何よりと思っていますよ、高天小都音さん」
「こっちこそ。……じゃあすみません、まず私からいいですか?」

 小都音が彼に対して構えている警戒のハードルは高い。
 無論、聖杯戦争が殺し合いの儀式である以上、誰に対してもそう当たるのが当然ではある。
 が。それ以前にひとつ、明確に警戒せねばならない理由があった。

「――――そのバーサーカー、どこで拾ってきたんです?」

 自分の隣で、トバルカインがそうしているように。
 会談の席に着いた彼を守るように立つ、目を瞠るような美形の男。
 見間違えるわけがない。というか、この顔は一度見たら死ぬまで忘れられないだろう。

 先日遭遇し、交渉を持ちかけられた厳つい刺青の"傭兵"。
 トバルカイン曰く"話のできない狂人"。"生かしておいてはならなかった男"。
 その懐剣であった美男子、何なら真名まで予想のつく狂戦士を、会談相手が何食わぬ顔で連れているのだ。警戒しない理由がない。

 猜疑心を隠そうともせず見つめる小都音に、ファウストはまったく動じなかった。
 高天小都音が狂戦士・ロミオと面識を持っていたという新事実でさえ、彼の眉を動かすには役者不足だったようだ。

「驚きましたね。ノクト・サムスタンプと面識がおありで?」
「……顔とやり口は知ってます。追い返しましたけど」
「それは幸運だ。そちらのセイバーには感謝した方がいいでしょう」

 チラリと視線を向けられたロミオは、『懐かしいな。また機会があれば踊っておくれよ、お嬢さん』とトバルカインにウインク。
 振られたトバルカインは眉間に巌のように深い皺を浮かべて、『死ね』と一言で袖にする。
 実に"らしい"やり取りだが、そこに突っ込んでいる余裕はあいにくない。
 小都音は怪訝な顔をあえて崩さぬまま、ファウストに突っ込んだ。

「ヘンな言い方するんですね。仲間じゃないんですか?」
「関係を持っているのは事実ですが、仲間と言うのは語弊がありますね。
 むしろこちらは強請られている立場でして。彼が狂戦士でなければ、こんなやり取りも怖くてできません」

 単純だと言われれば返す言葉もないが、少し安心した。
 同時に、あの時トバルカインがノクトらを徹底的に拒んでくれたことに今更ながら感謝する。
 この知的を絵に描いたような男でさえ、隙を見せればやり込められてしまう危険な詐欺師。
 ノクト・サムスタンプという傭兵に対する危険度の認識を小都音は二段ほど引き上げた。
 次にまみえることがあれば、即座に全戦力を使って排除するべきだと確信した。

「とはいえ、バーサーカーに関しては警戒なさらずとも大丈夫です。経緯は省きますが、彼に関してはこちらがイニシアチブを握っている」
「握られている。フフ、我がジュリエットのプロデューサー殿は実に優秀でね」

 ……(推定)ロミオがビジネスマンの横でピースサインしてる……。
 小都音は頭がくらくらしたが、今更こんなことで動じるなと自分の惰弱に鞭打った。

「それはさておき。
 今のお話で分かっていただけたと思うのですが――我々は今、いささか不自由な状況にありまして。
 〈蝗害〉に導かれた奇妙な縁ではあるものの、可能ならこの機会を有効に活用したいと思っていました」

 そう――身なりがどうであれ、相手はサーヴァントなのだ。
 歴史が違う。年季が違う。持っている知見もひり出してくるアイデアも、たかだか二十年ちょっとしか生きていない小娘が敵うわけがない。

 だからせめて油断なく、ない頭を絞ってベストを尽くし人理へ挑め。
 自分がポカをやらかせば、みんなが割を食うことになる。もちろんそこにはあの大事な親友も含まれる。
 兜の緒を締め直す。油断なく己を見つめる小都音に、ファウストは容赦なくその年季を見せつけた。
 会談・交渉の基本とは何か。こればかりは、世界にその概念が生まれた瞬間から現代に至るまで不変だ。

「しかし残念ながら、我々はあなた方とは組めない。
 ライブとその前後だけのわずかな時間ではありましたが、そちらの陣営を信用できない理由は十分に見出だせました」

 相手に決して主導権を渡さないこと、である。
 常に自分が場を牽引し、話題を作り、相対する論敵を受けに徹させる。
 その上で後の先を取らせない。無論これは言うだけなら簡単な理屈の典型例で、普通はそう上手くなんていかないのだが、その理想論を素で実現できる智慧がゲオルク・ファウストという男にはあった。

「ウートガルザ・ロキ。あのサーヴァントは駄目でしょう。失礼ながら、〈蝗害〉並みに質が悪い」

 そう来たか、という気持ちと。
 やっぱりそうなるよな、という気持ちがふたつあった。
 あまりにもごもっとも。何せかく言う小都音も、未だにあの奇術師には良いイメージをひとつも抱けずにいる。
 悪辣。奔放。そしてそれらの悪癖が生む弊害を、すべて自分ひとりで何とかできてしまう圧倒的な実力。

「彼が弊社のアイドルに働いた狼藉もそうですが、それ以前の問題です。
 只でさえノクト・サムスタンプに悩まされている現状で、これ以上隙あらば背中を刺してくる手合いを抱えたくはない。
 ――無論、あなた方が彼という戦力を放逐すると誓うなら話は別ですが。その場合、喜んで再度検討させていただきますよ」

 できるわけがない。論外だ。
 陣営の最大戦力であることもそうだし、何よりロキは仁杜のサーヴァント。
 相棒であり、親友である、あのウルトラ社会不適合者がどっぷり依存し信頼している存在なのだ。
 自分が彼女に何を言ったところでロキを放棄することはないだろうし、仁杜をロキ共々放るのは言うまでもなくあり得ない。

 小都音は、間違いなくこのホテルに根を張った同盟体(コミュニティ)の中で最も"まとも"な人間である。
 無辜の犠牲を拒みはしないが、それでも進んで払うことには抵抗を覚える。
 その時点で、この伏魔殿では十分すぎるほどまとも。唯一の良心と言っても過言ではない。

「……それは、できない」

 しかし――それでも、高天小都音には譲れない優先順位というものがあった。
 彼女の最優先は天枷仁杜。夜空の月たる、十年来の親友だ。
 仁杜を害するあらゆる選択を、小都音は何があろうと絶対に拒否する。
 たとえそこに人の命や、はたまた自分自身の命が懸かっていたとしても、小都音は仁杜を第一に考える。
 そんな美しい友情も、今この時は弱点になる。ファウストの続く言葉が、それを鋭く指摘していた。

「そう、そこです。
 理由の第一はウートガルザ・ロキですが、第二はあなただ」

 悪魔の慧眼は、目の前の一見すると巨大に見える同盟の欠陥点を見抜いている。
 天枷仁杜とウートガルザ・ロキ。
 伊原薊美とジョージ・アームストロング・カスター……ファウスト達が未だその得体を知らぬ〈将軍〉。
 そして高天小都音とトバルカイン。
 楪依里朱とシストセルカ・グレガリアの存在を除いても、彼女達の同盟は非常に強大だ。強大すぎる。
 状況を正面戦闘に限ったなら、ロミオの存在ありきでも、自分達では百度挑んでも勝てないだろう。
 それほどまでの巨大陣営。が――完全無欠ではない。少なくともファウストは、そう思っていた。

「あなたは聡明ですが、価値観や感性に限って言えば実に月並みに見える。
 私との会談にあなたが出てきたのも納得の行く話です。あなたを除いて、他の誰にもそちらの頭脳(ブレイン)は務まらない」
「買いかぶり過ぎですよ、私は――」
「いえ、間違いなくあなただけが適任だ。
 楪依里朱を追ったあの少女はなかなか非凡に見えましたが、見たところどうも厄介な性を抱えている。 
 優秀ではあっても指揮官には向かない。そしてあちらの女性……天枷さんでしたか? は言うまでもなく論外だ。たとえ得難い資質を有していても、彼女は人の上に立てる人間ではないでしょう」

 つまり。

「高天小都音さん。あなたの身に何かあれば、そちらの陣営は崩壊を免れない」

 まともな人間がひとりであるなら、それが欠ければもはや集団は立ち行かない。
 統率を取れる人間が消えた時点で、後に残るのは力と狂気に溢れた恐るべき烏合の衆だ。
 こうなると、もう外側から何か力をかけて壊そうとする理由もない。十中八九、勝手に自壊する。

「言わずもがな、それは組むかどうかを考えるにあたってあまりにも巨大なリスクだ。
 よってこちらから会いに来ておいてなんですが、あなた方と直接的には組めないという結論に至りました」

 ただでさえ、ノクト・サムスタンプという目の上の瘤を抱えている身で。
 誰にだろうと牙を剥く悪意の狂犬を飼い、その上死人ひとつで崩壊するリスクまでも秘めていながら、力だけは恐ろしく大きい集団という"見えている地雷"を抱え込むことに意義はないと。
 ファウストはそう判断し、突きつけた。完膚なきまでの正論であったことは、言われた小都音の苦い顔が物語っている。
 そんな顔になるのも当然だ。何故ならそれは、小都音が此処まで常に抱え続けてきた悩みの輪郭を正確無比に言い当てる言だったから。

 天枷仁杜。彼女は、友達には優しいし義理立てもできる。
 が――逆に。
 "どうでもいい"人間に対しては、どこまでも杜撰で配慮がない。

 もしも自分があの時、仁杜に会いに行くことを選ばなかったら。
 今頃彼女はロキの戦力を振り翳し、立ちはだかる敵のすべてを遊び感覚で撃滅していただろう。
 使命なく、覚悟なく、他者への尊重など欠片も見せることはなく。
 それこそゲームの雑魚敵を蹴散らして経験値を稼ぐみたいに、惨事を生み出し続けていた筈だ。
 自惚れと言われても構わない。この世で、天枷仁杜という人間を一番理解しているのは間違いなく自分だ。
 だから断言できてしまう。自分以外に、天枷仁杜を制御できる者は存在しないと。

 よってぐうの音も出ない。
 まさにいちばん痛いところを突かれた形だ。
 この"プロデューサー"は、本当に頭のいい男なのだなと思う。
 そこで小都音が選択したのは――変に足掻かず、食い下がらないことだった。

「わかりました。じゃあ、残念だけどそっちはお流れということで」
「ご理解いただけて助かります。その方が、お互い不要な心労を被らずに済むでしょう」
「ええ、はい。ぶっちゃけ例の詐欺師(ノクト)が絡んでくるかもしれないってなると、こっちも色々面倒ですし」

 ちら、と隣のトバルカインを見る。
 ガキ扱いすんじゃねえ、という視線を向けてくるが、この人斬りは一度殺意を覚えたら抑えられない質だ。
 ノクトという厄ネタが関与している以上、いつその"職業病"が発揮されて屍山血河を築くか分からない。

 ……実のところ、ロミオの姿を認めた時点で、小都音もファウスト達と直接的には組みたくないと思っていた。
 バックに反社がいる人間と関わってはいけない。現代における人間関係の鉄則である。

「――私達が陣営レベルで蜜月やるのは確かによくない。じゃあ、私達ふたりで個人的に、だったらどうですか?」

 その上で、今度は自分から踏み込んだ。
 ファウストの眼鏡の奥の眼光が、キラリと光った気がした。

「勘違いだったらごめんなさいだけど、プロデューサーさんって、聖杯のために戦ってないですよね」
「……ほう、何故そう思うのです?」
「あの子……満天ちゃんにずいぶん寄り添ってあげてるから。
 正直、街がこんな有様なのにアイドルをさせ続ける理由ってないじゃないですか。
 なのにあなたは"プロデューサー"の役目を果たして、満天ちゃんのライブを邪魔したロキにもちょっとだけ感情を滲ませてた。
 それを見て、考えて、思ったんです。あなたと満天ちゃんのゴールは、聖杯を手に入れることなんかじゃないのかなって」

 歴史が好きだった。小説ではミステリが好きだった。
 だから、与えられた情報を元に何か考えるのは得意な方だ。
 考察と構築。非凡なりに身に着けた数少ない特技。 
 それに加えてもうひとつ。この世界、この状況だけのエッセンス。

「私も"そう"だから、なんとなく分かっちゃって」

 ――自分も同じだ。正確には歩む道はまったく違うのだが、聖杯の獲得を主目的にしていない点では共通している。

「……、……」

 ファウストは、一瞬、何かを思案するように沈黙。
 その後、机の上に置かれていたシャーペンを手に取ると、手帳の一頁を千切り取って筆を走らせた。
 音に聞く自動書記かと見紛うような速筆。されどお手本のような読みやすい筆致で、悪魔からのメッセージが紙面に躍る。

『みだりに言うものではありません。誰が聞いているか分からない』

 ノクト・サムスタンプのように、使い魔や人を使って監視盗聴しているケースはごまんとある。
 ファウストの指摘に、小都音は自分の迂闊を恥じつつ、手渡されたペンを用い文字を記した。

『私は、生き残れるなら"脱出"でもいいと思ってる』
『成程、生還枠の数が問題と。となるとお相手は』
『にーとちゃ(横線で消す) 天枷仁杜。彼女と私を最優先で、そこがクリアされるなら他のマスターの生還に力添えしても構わない』

 一見すると流暢に筆を走らせているように見えるが、その間も頭の中ではずっと思考を回している。
 ゲオルク・ファウストにこれを明かすことのメリットとデメリット。
 この男はノクト・サムスタンプと繋がっている。しかし、ノクト陣営と満天陣営の関係が良好なものでないのはたぶん間違いない。
 ノクトは狂人だ。神寂祓葉に灼かれている以上、どんなに知恵者ぶっていても彼の行動は最終的にそこへ帰結していく筈。
 煌星満天という"星"を見初め、育てることに専心しているこの男にとって、ノクトのそんな悪癖は煩わしいものだろう。
 彼と組み続けることで得られる恩恵を踏まえても、目指す到達点がズレている以上、可能ならどこかで蹴落としたいと考えているのではないか。
 詐欺師の計略に、大切なアイドルを利用される前に。

『カムサビフツハって女の子のこと、知ってますか』
『ええ。もしや交流がおありで?』
『戦闘しました。楪イリスに関しても、望むなら情報提供はできます。一応停戦を結んでるので、あんまりヘンなことはしてほしくないけど。
 逆にこっちも情報がほしい。私達は今、カムサビフツハにもう一度会う方法を探してます』

 以上の理由をもって、小都音は眼前の"プロデューサー"を一定の信用を置いていい相手と判断した。
 それに、あらゆる可能性を視野に入れたい都合、組む組まないを度外視してもコネクションの幅だけは広げておきたい。
 無論リスクは最小限に押さえる。開示する情報は"前回"絡みの話に留めて、こちらの手の内は少なくとも今はまだ明かさずにおく。

『とりあえずこの場では情報を交換するに留めて、お互い何かあれば必要に応じて連絡を取り合う。そのくらいのゆるい関係で、どうですか?』

 そんな文面で小都音は筆を置き、話を結んだ。
 現状ではこれ以上提供できるものはない。
 よって後は彼の出方次第だ。頷いてくれれば僥倖、断られたならそれはもう仕方がないと諦めよう。
 ファウストは置かれたシャーペンをなかなか取らず、此処まで綴られた文面に目を落としていた。
 考えている。自分なんかが英霊相手に一考の余地を生めた事実は、正直ちょっとだけ誇らしかった。

 時間にして数秒ほどだろうか。 
 息の詰まるような静寂の果て、ファウストの手がとうとう筆を握った。
 さあ、どうなる。小都音の視線の先でさらさらと、黒芯は文字を綴り始め。

『話は分かりました。では』

 いつの間にか交渉に形を変えていた、この会談の成否を記さんとして。


「――――、まずいな」


 文が核心に触れる直前で、ファウストが顔を上げた。
 眉間に皺が寄っている。苛立ちの混じった、厳しい顔だった。
 どうした。何か問題でもあった――いや、何か起きたのか。
 そう焦ったところでようやく、小都音の耳は言い争うような声を捉えた。
 振り返るまでもなく事の仔細を理解して、思わず髪の毛を掻き乱した。
 しくじった。心の中でそう呟く。今日は何もかも上手くいっていたので、つい警戒を怠ってしまった。

 そう、高天小都音は知っている。
 ……あの大切な親友が、如何に"人の心がわからない"かを。



◇◇



 脳みそがぐわんぐわんと揺れるのを感じた。
 人に本気で殴られたことはないけれど、あったとしたらこんな感じなのかもしれない。
 あまりの衝撃で感情が鈍麻しているのか、そんな間の抜けた感想さえ抱いてしまう。

 隣に座っている少女が、どんな気持ちで聞いているかなど一顧だにせず。
 彼女より干支半分ほど年上な"お姫さま"は、ご機嫌に語り続けていた。

「満天ちゃんも迷惑だよねぇ。ああいうのが業界にいるとさ、みんなおんなじように見られちゃうでしょ」

 仁杜の主戦場はアニメとゲームだが、SNSなんかに常駐していると嫌でも旬のゴシップが目に入ってくるのが令和のインターネットだ。
 なので彼女の耳にも、天使と呼ばれるトップアイドルの醜聞は入っていた。
 ファンと関係を持っている。大物芸能人とそういう仲で、金を貰ってメンバーを斡旋している。
 裏垢で気に入らない後輩の誹謗中傷を繰り返し、個人情報を横流しして遠回しな排除を画策している――いずれも根も葉もない噂、デマゴーグの類なのだったが、見知らぬ誰かの名誉のためにファクトチェックしてやるほどこの社会不適合者は他人に優しくない。

 仁杜にとって親しくない他人とは、生きた人間でないのと同じである。
 漫画を読んで、嫌いな登場人物について厳しく寸評するように。
 仁杜は得意げな顔をして、あくまでも満天を褒める一環として罵詈雑言を並べていく。

「ねえねえ、実際どうなの? やっぱり業界の中だと、そういう噂とかって聞こえてきたりする?」
「ぁ……あー……。人気になると、どうしても変な人って出てくるから。
 愉快犯とか、妬み嫉みとか……。ニュースや週刊誌が言ってることが全部正しいってわけじゃ、ないと思うよ……?」
「え~? でもでも、火のないところに煙は立たないって言うじゃん」

 内心の不快感と動揺を堪えながら、当たり障りなく窘めようとする満天。
 そのたどたどしい口調から、彼女が"この話題"を快く思っていないと見抜ければ話は此処で終わった筈だ。
 ――だが仁杜は逆に、これ幸いとばかりにアクセルを踏み込んだ。

「ほんとにみんなから好かれてる子だったら、庇ってくれる人のひとりふたり出てくるでしょ。
 なのに出てこないってことは、やっぱり元々そういう子だったんじゃない? 嫌われる人ってやっぱり、相応の理由があると思うんだよ」

 満天は、視界が赤くなっていく錯覚すら覚えていた。
 後ろ手に隠して握った拳が、今にも砕けそうだった。
 くらくらする。息が、うまくできなくなる。
 だからこそ自制が必要であった。そうでないと、今にも取り返しの付かないことをしてしまいそうで。

「…………違う、よ。天梨ちゃんは、本当にすごいアイドルなんだよ。
 ファンと繋がるとか、誰かを貶めるとか、そんなプロ意識のないこと、絶対しないから」
「へ~……? そうなんだ。んふふ、でもさ。もうホントとかウソとか、どっちでもおんなじだよね。こうなっちゃったらさ」

 煌星満天は、輪堂天梨の長年のファンである。
 だからこの都市に来る前も来てからも、彼女にまとわり付く心ない噂にはずっと腹を立ててきた。
 でもそれはあくまで他人、ステージと客席の距離感で抱く怒りで。
 その点、今の満天が抱くものは質が違う。何故ならもう、満天はあの天使と"他人"ではないのだ。

「シロでもクロでも人生終了だよ、ああなっちゃったら。有名税って怖いよねぇ。わたしは一生引きこもりでいいや」

 ライバルで、友達。
 同盟相手で、ラスボス。
 闇の先で待っている、光。

 もう、ステージと客席なんかじゃない。
 天使の舞い踊る舞台(フィールド)に立つ資格を得て、そうして改めて触れる、光を穢す悪意は、あまりにも。

「えへへ……。満天ちゃんさ、よかったね」

 そう、あまりにも――――吐き気がするほど、許しがたくて。


「席も空いたんだし、満天ちゃんならいつでもトップアイドルになれるよ。きっと」


 その言葉を聞いた時が、限界だった。
 目の前の壁を吹き飛ばすための、燦然と煌めく爆発とは違う。
 ただどこまでも鈍く熱く、自傷行為で流す血のようにどす黒く紅い怒りが弾けた。
 理性は感情に追い付けない。気付けば隣に座るちいさな女の胸倉を掴み上げ、床に引き倒していた。

「えっ――ぅ……ぁ……!?」
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」

 生まれついての気弱と人見知り。
 要領も悪ければ度胸もないので、人を殴ったことなんて一度もない。
 それでも今だけは、この時だけは、もう理屈じゃなかった。

「――――なにが、わかるの?」
「ひ、っ……!?」

 涙を浮かべて怯えた顔をしている仁杜に、満天は震えた声音を絞り出す。
 微妙に舌が回っていない。感情の制御が利いてない証拠だ。
 格好は付かないが、だからこその生々しさがそこにはあった。

「会ったことも、ないくせに。喋ったことも、ないくせに。
 どうせあの子のライブも歌声も、見たことも聴いたこともないくせに……!」
「ぇ、や、ちがう、ちがくて、えっと、えっと……」

 ただ推しているだけじゃ分からない強さがあるんだと、彼女の"敵"になって初めて分かった。
 輪堂天梨はすごいアイドルだ。彼女がトップアイドルであることを、それに触れたら二度と疑えない。
 だからこそ超えたいと思った。あの子を超えることこそ、自分の目指した光に辿り着くことだと信じた。
 友として語らい、悪魔として追いかける、もっとも優しき光の星。
 彼女が自分に向けてくれた言葉、笑顔、魅せてくれた光のひとつひとつまで余すところなく覚えている。

「なのに――――」

 それは満天にとって、きっと何物にも代えられない宝物で。
 このいつ終わるとも知れない白昼夢を生きていくための、戦う理由のひとつで。
 誰にも譲れない、触れられたくない、心のいちばん柔らかいところ。
 天枷仁杜は、そこに土足で踏み入った。踏み入って、踏み荒らした。故にその無粋は、悪魔の怒りを買ったのだ。

「――――知った風な口で、私の友達を、語るなぁぁぁッ!!」

 頭じゃ駄目だと分かってる。
 でも、身体はそれで止まっちゃくれなかった。
 左手で仁杜を床に押さえつけ。右手で拳を握り、掲げる。

 こいつだけは、この女だけは、一発ぶん殴ってやらないと気が済まない。
 ぶん殴って、謝らせてやる。
 誰より優しくて、誰より傷ついてて、なのにそんなことまるで無いみたいに笑ってるあの子に――絶対、謝らせてやる! 
 後は振り下ろすだけ。そこで――


(……煌星さん、駄目ですッ!)


 沸騰した脳さえ一瞬で冷ます、"プロデューサー"の声が聞こえたから。
 ハッとして、ようやく止まる。その咄嗟の判断が自分の命を救ったことを、次の瞬間には思い知る羽目になった。

「あれ。やめちゃうのかい?」

 底冷えするような声が、響いて。
 満天の肩に、誰かの手が触れた。
 弾かれたように振り向けば、そこに立つのは金髪の優男。
 ホストを思わせる甘いマスクと微笑み。あらゆる女の警戒心を刹那で解体できるだろう慈愛の貌の中で、両の眼だけが笑っていない。

「ムカついたんだろ? 殴ってもいいよ、別に止めない」
「ぁ……」
「どうしたの? やれよ。ほら、やれって」

 本能が告げていた。
 この男に逆らえば、自分は必ず殺される。
 同時に確信もしていた。
 さっき、自分にあの"闇"を与えたのは、この男だと。

「石ころの分際で、俺の星に汚ぇ手で触りやがったんだ」

 背丈は精々百八十あるかないかという程度だろう。
 長身だが、逸出しているとまでは行かない体格だ。
 なのに満天の眼から見上げる彼は、天を衝く巨人の如く強大な何かに見えた。
 分かるのだ。これは、ヒトが手を出していいモノではないと。
 可能なら視界にも入らぬよう努め、生涯をかけてやり過ごすべき魔性であると。

「当然、酸鼻を極めた死を迎える覚悟もあるんだろう?
 なら俺もその志を尊重しよう。さぁ、殴るといい。見ててやるから、命を懸けた勇気って奴を魅せてくれよ」
「ぅ――ぁ、……ひ――」
「ほら」

 語りかけるその声が、否応なしに記憶の中のソレと重なる。
 悪魔の声。暗闇から来る、破滅と絶望の象徴。
 あの形なき影の声と、これの発するそれはひどく似ていた。

「早くしろよ。なあ」

 戦え。
 逃げろ。
 思考中枢が下すいずれの指示も意味を成さない。
 蛇に睨まれた蛙のように、全身の節々が硬直し固まっているからだ。
 結局満天は、組み敷いていた女に力ずくで跳ね除けられるまで、振り上げた拳を一寸たりとも動かすことができなかった。

「ふ……、……ふええぇぇええぇえん……!! ロキくぅぅぅぅん……!!!」
「――――っ、あ……」
「こわかった、こわかったよぉ……! びぇえぇぇえぇぇん……!!」

 不意の衝撃に押し出され、さっきまでの威勢が嘘のように情けない姿で床に転がった。
 見上げる視界には、変わらず死の象徴として佇む英霊と、その背中に抱きついて泣きながらこちらを窺う仁杜。
 憶えた怒りも捨て去らざるを得ず。ただ見上げるだけの満天を、仁杜のサーヴァントは鼻で笑って。

「よしよし、もう大丈夫だよにーとちゃん。俺の麗しの月、お姫さま。
 ごめんな、怖い思いさせちゃったなあ。でももう大丈夫。ニセモノの星は俺が綺麗さっぱり掃除しとくからさ」

 その悪意を隠そうともせず、穢いものを見るように見下ろした。
 翳した右手に魔力が横溢していく。虚空に刻まれる異形は北欧のルーン文字。

「ヘタレ女が。一丁前にキレてんじゃねえよ、みっともない」

 星を覆うものはいつだって闇だ。
 こと煌星満天という星に関しては、特に。
 ロキはそれを理解していた。だからこそ、刻まれたルーンが呼び出したのは生命を呑み喰らう深淵の常闇。
 満天の四肢を臓腑を眼球を、抉り貪るべく無数の手々が殺到する。
 満天も反撃しようと『微笑む爆弾・星の花』を放つ構えを取るが間に合わない。
 為す術なく蹂躙される運命が確定した哀れな星は、手を突き出した格好のまま迫る闇に喰われかけて――


「無礼な。貴様――誰の許可を得て我が伴侶(ジュリエット)の前に立っている?」


 肌に触れるか否か、その寸でのところで。
 横から割って入った美男子の剛剣に助けられた。
 闇の腕々が一太刀にて断ち切られ、末期の蠢きだけ残して消える。
 彼――ロミオは己が星の命を救った功績を誇るでもなく、美術品のような顔を赫怒で染めながらロキに斬りかかった。

 振るわれるは恋の細剣(レイピア)。
 受け止めるはウートガルザの王、その指先。
 鬩ぎ合いは一瞬。すぐさまロミオが後ろへ退き、ロキは片腕に北欧の神器を現出させる。

「あー大丈夫大丈夫。心配無用だよ、愛する女を遺して早合点で死んだ間抜けの美男子くん。誰もそんなニセモノに横恋慕なんてしないからさ」
「――取り消せ」
「ああ、君ってそういう性癖なのかな? そっかそっか、なら仕方ない。素敵じゃないか応援してるよ。守られるしか能のないつまんねー雑魚じゃないと愛せないんだもんね。そんでもって、それを守る自分に酔い痴れるなんて実に高度な変態だ。
 俺には到底真似できないや。割れ鍋に綴じ蓋とはまさにこのことだな。世の中には色んな趣味があるもんだなァ」
「黙れと言っているッ! その薄汚い口で、我が最愛のジュリエットを語るなど笑止千万だぞ――悪魔めッ!」

 一触即発、いやそれを三歩は飛び出た崩壊の状況。
 口角泡を飛ばすロミオの顔にもはや理性の兆しはない。
 恋は盲目。想いを寄る辺に戦う狂戦士にとって、ロキの吐いた侮辱は決して聞き流すことのできないものだ。
 一方のロキも発された気勢に臆するどころか、臨むところと悪なる凶念を編み上げて立ち塞がる。

 片や妖星。片や月。
 別の星の狂信者同士が対峙している以上、火蓋が切り落とされればもう穏便な結末を期待するのは不可能だ。
 最悪、このホテルそのものが都市から消えることになる。 

 それぞれの星は、どちらも今まともに動ける状況ではない。
 仁杜はロキに泣きついているし、そもそも彼女はこれを止めるタイプの人間性をしておらず。
 満天は依然として忘我の境。得意の爆発も、この精神状態では轟きようがない。
 すべてを台無しにして骨肉の争いが勃発する。それはもはや不可避かと、そう思われたところで。

「――――やめろカスども。誰の目の前で殺意撒いてやがる」

 地獄の底から響くような、低く鋭い少女の声。
 ロキ、ロミオ。眷属両者の瞳が咄嗟に声の方を向く。
 瞬間迸ったのは斬撃だった。一切の容赦なく、首筋を切り裂かんと閃いた銀の軌跡。

 防がない選択肢はない。
 男達はまさに竜虎と呼ぶべき強者二柱であったが、その彼らでもこれを素で受けるのは分が悪すぎた。

 ロミオは剣身で防ぎ、一歩下がり。
 ロキは神殺しのヤドリギでつまらなそうに受け止める。
 肉薄した状況に、英霊一体分の空白地帯が生まれた。
 そこに躍り出、ふたりを物理的に阻む障壁となったのはトバルカイン。狂気も幻も、斬れば同じと豪語する殺戮の求道者。

「この場の元締めはウチのマスターだ。そこのクズ女が使い物にならねえからな。
 そのメンツ潰すような真似してンじゃねえ。警告するぞ、双方、それ以上一歩でも動けばこの場で解(バラ)す」

 無駄口のひとつさえ許さないと警告する声音そのものが剣である。
 更に言うなら、警告の対象は二騎の英霊のみではない。
 仁杜に満天。事の発端になった星々にさえそれは向けられている。

「ガキじゃねえんだからよ、いちいち面倒起こすなやボケが」

 チッ、と舌打ちをし、指で"下がれ"とジェスチャー。
 本来ならロキもロミオも、この程度の脅しでは引き下がらないだろう。
 特にロミオはバーサーカー。話の通じる相手では当然ない。

 しかし守るべき星、麗しの君が射程圏内に収められているとなれば話は別だ。
 狂戦士でさえ、いや或いは、恋に生きる益荒男だからこそより強く感知できる死の気配。
 ジュリエットの鮮血という最悪の未来は、言葉も武力も物ともしない彼にさえ圧力として機能した。
 やり口としては完全にヤクザ者のそれだが、だからこそ破局へ向かう熱狂を沈静化させるには最適だったらしい。

「――失礼。弊社のアイドルが場を乱したようで」
「……いや、今のはこっちが悪いです。すみません、後でよく言っときますから」

 場が収まったのを確認し、ファウストと小都音が互いに詫びを入れる。
 これでひとまず、この場は手打ち。
 そうしなければどちらにとっても損しかないと分かっているから、双方共に異論はなかった。

「話し合いに関しては先の形で落着としましょう。
 こちらはあなた方と組まないが、しかし協調の余地は残しておく」

 小都音は気まずさを感じながらも、ええ、と頷いた。
 話は通せた。アクシデントはあったが、心象を理由に判断するタイプでなかったのが救いだ。
 仮にファウストがロキやあの魔女のように過激に灼かれている手合いだったなら、小都音の努力はすべて水泡に帰していただろう。

 ――とはいえ、満天との間に遺恨を残す形になってしまったのはやはり少々具合が悪い。
 此処に関しては、今後の時間と関わりで解決していけることを祈るしかなかった。

「ついては、我々は此処を去ります。
 当て付けのような物言いにはなりますが、いささか危険な状況ですのでね」
「それは……うん。重ね重ね本当にごめんなさい」
「こちらに私用のアドレスを記載しておきました。
 状況が落ち着いた時で構いませんので、後ほどご連絡いただければ幸いです」

 ファウストが差し出してきた紙を受け取る。
 心臓が何個あっても足りないような綱渡りだったが、とりあえず成果は得られた。
 この聖杯戦争において、〈はじまりの聖杯戦争〉の関連人物に関する情報は値千金の価値を持つ。
 祓葉を中心に廻る運命の役者ども。彼ら彼女らの攻略なくして、都市で未来を語ることは不可能だ。

「行きましょう、煌星さん。それにバーサーカーも」
「……、……」

 ファウストに促され、満天は俯いたまま立ち上がる。
 ぺこ、と小都音の方に頭を下げ、足早に彼へ続いた。
 ロミオはその背中を守るように歩き、最後に一度だけ、ロキ達の方を振り返る。

「剣士のお嬢さんに感謝することだ、下郎。
 君は僕の"愛する者(ジュリエット)"を愚弄した――――次は討つ」
「おーこわ。さっさと尻尾巻いて帰れよ三下。
 ロミジュリ担当は俺達でもう間に合ってんだ。シェイクスピアの骨董品がいつまでものさばってんじゃねえっての」

 チャキッ、と、トバルカインの刀が苛立たしげに音を鳴らす。
 一触即発、眷属達の諍いは火事になる前になんとか収拾した。

 悪魔たちは踵を返し、万悪蠢く伏魔殿を生きて後にする。
 それが、蝗害の導いたゲリラライブの顛末。
 互いに少しの益と、断絶の傷を残して――双星の接近というビッグイベントは、互いに相容れぬまま幕を閉じた。



◇◇



「……で、ファンの前で散々に"推し"をこき下ろしてブチ切れさせたと」
「うん……」
「バカだねぇ……本当に、あぁもう本当に、めちゃくちゃバカだねぇ……!!」
「ひぎゅぅううぅ……。で、でもでもっ、ぜんぜんそんな素振りなかったんだもん……!
 煽るつもりとかなくて、満天ちゃんはあの炎上アイドルよりすごいよーって褒めてあげるつもりで……」
「何かを褒める時に何かを下げるのはやめなさいバカ!! そんなだからしょっちゅう炎上するんだよ!!」

 むにーーん……と、仁杜の両頬を左右に思いっきり引っ張りながら小都音はキレていた。
 成人女性とは思えないもちもちほっぺはとってもよく伸びる。
 もういっそどこまで伸びるか試してやろうか、そう思うくらいには今の小都音はお冠だった。

 今回ばかりは多少の体罰も許される。いいや許して貰わなきゃ困る。
 何せ、本当に生きた心地がしなかったのだ。
 人が英霊相手に胃の痛い交渉をしてる横で、まさか相手のマスターの地雷原でタップダンス踊り出すとは思わなかった。
 交渉が破談になるだけならまだ良し。最悪、完全に決裂して殺し合いになっていた可能性さえある――というか事実そうなりかけていた。

 トバルカインがあの魔人どもに割って入れる強者だったから何とかなったようなもので、そうでなければ冗談抜きに終わっていただろう。
 少なくとも煌星満天の主従とは今後一切友好的な関係を築けず、それどころか討つべき集団として敵視を食らったことは想像に難くない。
 となれば彼らが狂人ノクト・サムスタンプをこちらにぶつけようという発想になるのは自然な流れであり、一体どれだけ不毛な戦いをする羽目になっていたことか考えただけでも恐ろしい。

 なので今回のやらかしに関しては、殊更に厳しく行くことに決めた。
 べちんべちんとメモ帳で頭を嬲りながら、小都音は日頃の恨みもそこそこ込めて折檻に勤しむ。

「ひぃ~~~ん……! ロキくん助けてぇ……!! ことちゃんに殺されるぅ~……っ」
「すぐ保護者に頼らない! 大人しくべちべちを受けなさいこのクソニート!!」
「あっ、うぁ、へぶっ、うぶっ、んびゃっ、ぴゃふっ」

 とにかく、最低限丸く収まってくれてよかった。
 自分を褒めてやりたい。後、トバルカインには後で何か好きなものを奢ってあげようと思った。
 安堵と怒りに荒ぶる小都音に、肩を竦めながら近付く影がひとつ。

「おいおい、そんなに叩いてにーとちゃんの頭がバカになっちゃったらどうしてくれるんだい?」
「もうバカだから少しでもマシになるように叩いてるの」
「はぁ~、これだから野蛮人は……。よしよし、今助けてあげるからねラブリースウィートマイハニー」
「あっ、ちょっと!」

 ひょいと仁杜をお仕置きの渦中から抱えあげ、よしよしとあやし出すロキ。
 不満を顔中で表明しながら、小都音は彼を睨みつけた。
 ロキはもちろんどこ吹く風だ。えーん;;と縋ってくる仁杜を愛でながら、白々しくぴろぴろ口笛を吹いている。

「ていうかあなたにも言いたいことあるんだからね、キャスター。すぐ喧嘩売って事大きくするのやめて欲しいんだけど」
「職業病。でもさっきのはそれ以前にまずライン超え。自分のマスターが手あげられて動かない英霊はいないよ」
「……それはそうだけど。でも、そもそも悪いのはにーとちゃんの方でしょ。もうちょっと穏便に諌められたんじゃないかって言ってんの」
「俺にそんな殊勝さ期待されてもな。大体、俺が出るようなコトになってた時点で君の監督責任じゃない? 大変だね、引率役はさ」

 許されるなら横っ面を一発ぶん殴ってやりたい気分だった。
 恐らくその発言が、ファウストの評を聞いた上でのものだと分かってしまうから尚更だ。
 何が質悪いって、これを言われると小都音としては言い返せない。

 ファウストが指摘した通り、この集団には致命的な欠点がある。
 各々の個我が強すぎる一方で、それを監督できる人間が圧倒的に足りていない。
 多少社会経験があるというだけの自分以外に、集団を引率できる者がいないのだ。
 いかに強大な戦力があっても、そこに付け込まれれば一気に瓦解する不安定さを秘めている。
 さっきの騒動などまさにその顕れだ。小都音にもう少し能力があれば、仁杜の暴走とロキの蛮行を諌めつつ、もっとつつがなく話を進められただろう。そうなればもっと議論を深め、予想もつかない成果を得ることもできたかもしれない。

「それに、ことちゃんの考えはズレてる」
「……どういうこと?」
「良いとか悪いとか、そんな話じゃないんだよ。
 空が曇って雨が降ってきたとして、そこに責任を求める奴がいたとしたら馬鹿だと思って笑うだろ?
 真の星が何をしようが、人はそれを善悪を以って論ずることなんかできない。
 〈恒星〉っていうのはそういう存在だ。にーとちゃんの取った行動がすなわち法となり、理になるのさ。その存在と影響にあらゆる異論は認められない」

 ……またわけの分からないことを言い出した。
 小都音の感想としてはそれだったのだが、ロキにふざけている様子はなかった。
 いつもの薄笑みを浮かべながら、至って真剣に、星とは何ぞやを説いている。

「俺達の眼で見れば蛮行だろうが、この子にとっては関係ないんだ。
 夜空の月に限界は存在しない。
 際限がないからこそ、月は極星に並び得るんだよ」
「……それは」

 問おうとして、一瞬躊躇した。
 軽率に口にできる言葉ではない。
 相手は月の眷属。自分と同じ、されど仁杜の敵をあまねく鏖殺する力を秘めた巨人王。
 もしその地雷を踏ん付ければ、殴られるくらいでは済まないと分かる。

 しかしそれでも、やはり訊いてみることにした。
 知りたかったのだ。
 このウートガルザ・ロキが、"彼女"についてどう思ったのかを。

「さっき、煌星満天がやってみせたみたいに?」
「――――」

 誇張でなく小都音の命運を分かつ沈黙が流れる。
 されど幸い、その問いが彼の逆鱗に触れることはなかった。
 それどころか、身構えていた側からすると拍子抜けするほど穏やかに。
 あっさりとロキは、小都音の質問に頷いてみせたのだ。

「そうだね。さしもの俺も、少し認識を改めた」
「……そっか。やっぱり"そう"なんだね、あの子も」
「あの子"も"っていうのは違うな。
 アレは贋物だ。ただし、本物に迫るほどの可能性(かがやき)を持っている」

 ウートガルザ・ロキは天枷仁杜の狂信者である。
 彼がどれほどこのお姫さまと共鳴しているかは、その異常な強さが証明していた。
 夢見るが故の全能。生まれ落ちた月の落胤、いつかの可能性を先んじて物語るが如く。

 その彼が他者を、ましてや競合の星を高く評価するなど些か不自然に思える。
 少なくとも小都音にとってはそうだった。

「茫洋と夜空に在りて理を狂わせる宵の月とは違う、破壊と躍動の妖星だ。
 この聖杯戦争のはじまりが神寂祓葉であるならば、煌星満天はきっと一番オリジナルに近い」

 白い極星・神寂祓葉が、あまねく理を破断するように。
 闇の妖星・煌星満天は、自分に迫った現実を爆破する。
 言われて気付くその類似点。月に焦がれながら、巨人の王は油断なく銀河の彼方を見つめていたのだ。

「もし完成すれば脅威だよ。ああいうタイプは俺のやり口と相性が悪い。
 許されるならさっき殺しておきたかったんだけどね、誰かさんが怒りそうだから」
「……そりゃね。あなたも知ってるだろうけど、私は別に聖杯戦争を勝ち抜きたいわけじゃない」
「重々承知さ。にーとちゃんの手前許してやってるが、本当なら笑っちゃうほど度し難い腑抜けた考えだからな。それ」
「はいはい、甘ちゃんで悪うござんしたね……」

 とはいえ、ロキの言うことも一理ある。
 〈蝗害〉の反発が怖いが、あの時満天を殺しておくべきだったのではないか――という考えは実のところ小都音にもあった。
 もっともそこへ踏み切れないのが、高天小都音という女の月並みな部分。
 星の眷属でありながら、ロキやイリスのような狂信に至らないという稀有な才能であるのだったが。

「ところで、なんかずいぶん優しくなったね」
「ん? 何が?」
「あなたがにーとちゃん以外の誰かを褒めるなんてないと思ってた。
 正直ちょっと疑ってるんだけど。"また"ヘンなこと企んでるわけじゃないよね?」
「非道い言い草だな。まあ言われても仕方ないけど」

 ロキは依然として傲慢の極致。
 仁杜以外の星を贋物と断じ、己以外の英霊を骨董品と侮蔑することも憚らない。
 底なしの悪意で万物万象を嘲弄する者。それがウートガルザ・ロキという英霊だ。

 が。その彼がどういうわけか、他者への評価なんてものを口にするようになった。
 一体どんな心変わりだと、小都音が怪訝な顔をするのも無理からぬこと。
 ロキのような男がそんな殊勝な姿を見せてくるのは、率直に言って不気味である。改心などするタマでもあるまいに。
 正面からそう指摘されたロキはからからと笑い、答えた。

「別に大した理由でもない。
 俺だって必要なら警戒するし、万全も期すよ。
 普段ビッグマウスやってるのに、いざって時に油断慢心でやらかす男なんて幻滅モノだろ?」
「……じゃあ、いよいよそういう状況になってきたってことか」
「正解。ことちゃんも気付いてるだろうが、悪魔ちゃん以外にも面白いことになってる奴はいる。俺達のすぐ近くにね」

 魔女を追って出ていった、威風堂々という言葉の似合う少女の顔が脳裏に浮かぶ。
 トバルカインの認識は正しかった。既に変調は兆しどころでなく顕れている。
 願わくば、それが獅子身中の虫にならないことを祈るばかりだったが――ロキがその気になっているという時点で、そこの望みは薄いかもしれない。

「あっちが期待に応えてみせた以上、此処で出し渋るのはエンターテイナーとしての矜持に悖る」

 ウートガルザの王はステージスターだ。
 神すら騙し、世界をも意のままに踊らせる奇術師の極み。
 どれだけ悪魔じみた所業・言動を繰り返そうが、彼の骨子はそこにこそある。
 三日月を描く口元は世界が終わるその日でさえ不変。誰にもロキの邪悪を崩せない。

「――――だから此処からはガチで行こう。月の相棒らしく、我らが姫の敵を鏖殺してみせるともさ」

 これまで見せた跳梁など所詮は序章に過ぎない。
 星間戦争の過熱を歓迎して、月の奇術師は己が神代(ユメ)を開帳する宣言をした。

 小都音は呆れたように息を吐く。
 どうやら、自分の心労は当分尽きてはくれないらしい。
 酩酊に加えさっきの出来事ですっかり疲れ果てたのか、月の姫はロキの腕の中ですやすや寝息を立て始めていた。
 起きたらもう一発くらいひっぱたこうと思う、小都音なのだった。



◇◇



 無料提供の珈琲を啜り、心と身体を休める。
 考えることはいっぱいだ。が、考えすぎても仕方ない。
 この状況だからこそ休める時にはしっかり休むのが肝要だ。
 そう思っていると、小都音の隣にトバルカインが座った。

 行儀悪く足を組み、もちゃもちゃとキャラメルの入ったチョコバーを頬張っている。
 此処に来る前コンビニで調達したものだ。
 この刀鍛冶はすっかり現代の甘味にハマっているらしく、こうしていると見た目通りの幼女にしか見えない。

「なあ、コトネ」
「んー……?」

 ずじじ……と、珈琲をまた一口啜りながら答える。
 いつもはブラック派なのだが、今回は多めに砂糖を入れている。
 少しでも頭の回転を助けてくれるのを期待してのことだ。
 プラシーボ効果も意外と馬鹿にならない。頼れるものにはなんでも頼ってみようという腹である。我ながら凡人らしい発想だと思う。

「やめるなら今の内だぞ、これ」
「……これ、って?」
「お前がやれって言うなら、すぐにでもニートも薊美もブチ殺してやるよ」

 まるで世間話でもするみたいに発された物騒な発言に背筋が強張る。
 ロキと同じだ。英霊の言うこの手の発言は、冗談か本気か分からない。

「さっきのアイドル女も今から追いかけて殺してやる。
 色ボケバーサーカーをバラして、眼鏡野郎の首刎ねりゃ星だろうが何だろうが丸裸同然だろ。
 私なら全員十分でやれるよ。そうすりゃお前は自由だ。もうバカ共のために腹痛める理由もねえ」
「一応聞いとくけど、冗談だよね?」
「本気だよ。伊達や酔狂でこんなことは言わん。お前にいつ命令されてもいいように、ずっと準備だけはしてるからナ」

 もちゃもちゃ。もにゅもにゅ。
 可愛らしい咀嚼音と共に紡がれる殺人計画。
 原初の鍛冶師(トバルカイン)。人を殺すということの極みに達した女のそれには、魂の凍るような説得力があった。

 自分が一言でも頼めば、彼女は本当にそれを実行へ移すだろう。
 一切鏖殺、待ったなし。
 錬鉄された死は都市を蹂躙し、数多の命が露と散る。
 彼女にはそれができる。生き竈の剣が未だ血に濡れていないのは、マスターが小都音だからだ。
 そして小都音には、いつでも彼女という暴力装置の起動スイッチを押すことができる。
 それはこの世界でただひとり、高天小都音にだけ許された権利だった。

「どしたのさ、いきなり。無茶させすぎて怒らせちゃった?」
「そういうわけじゃないよ。ただ、お前がこんな背負う必要があるのか疑問でね」
「――にーとちゃんのこと?」
「それもそうだし、薊美やロキ野郎のこともそうだよ。
 どいつもこいつも好き勝手やりやがって、そのくせ面倒は全部お前任せ。
 見てて気分いいもんじゃねえ。私も人のことは言えねえけどナ、とんだクズどもが集まったもんだよ」

 これは大変だぞと思って理由を聞いてみて、思わずぽかんとしてしまう。

「……心配してくれてたの?」
「は? 違うし。そんなんじゃないが?」
「心配してくれてたんだ」
「おい、あんま言うとお前から殺すぞ」

 実際、大変であることは否定しない。というかできない。
 やりたい放題な彼女達に言いたいことは山ほどある。

 自分に何かあれば全体が立ち行かなくなるのだと改めて他人から指摘され、プレッシャーも正直すごい。
 全部投げ出して自分のために戦えたらきっと楽だろうなとも思う。
 けれど、それでも、トバルカインに返す言葉は決まっていた。

「ありがとう。でも、今はこれが私のやりたいことだから」
「……ま、言うと思ったよ。そんなに良いかね、あのクソニートが」
「あれで結構いいとこあるんだよ」
「人間誰でも美点のひとつふたつはあるだろ。ねえのはロキ野郎くらいのもんだ」
「それに――私がいないと、あの子ひとりになっちゃうから」

 星とか、眷属とか、そういう話は実は結構どうでもいい。
 だから自分は、彼女に狂わされていないのだろう。

 天枷仁杜。夜空の月、自堕落なお姫さま。
 あの子を嫌う人間はたくさん見てきた。
 理解しようとした結果、ふるい落とされた人もだ。
 最高学府に一夜漬けでフルスコア入学した頭脳を見初めて、かいがいしく世話を焼いていた教授はある日突然大学をやめてしまった。
 私には、彼女のすべてが理解できない。職を辞す前日、肩を落としてそう言った恩師の顔は今も忘れられない。

 仁杜は普通の人間ではない。
 そういう範疇の、はるか外側で微睡む存在。
 何故自分のような凡人が振り落とされず、狂いもせずにその隣に居続けられてるのか、理由は皆目分からないが。

「親友なんだよ。私の、世界でいちばん大事な相棒なんだ」

 ならその分不相応な幸運を、命尽きるまで甘受しよう。
 ――天枷仁杜の友達として、孤独なお姫さまの傍にいたい。
 せめて自分の隣でだけは、あの子がいつまでも笑えるように。
 クズでもわがままでも何でもいいから、ありのままのカタチで過ごせるように。

「あの子のためなら、私は星屑にだってなっていい」

 与えられた、選択の権利。
 身の丈に合わない"責任"か、すべてを投げ出す"自由"か。
 高天小都音は、改めて前者を選んだ。
 月の光に照らされながら、星辰の物語に身を投じることを決めた。

 トバルカインの喉が動く。
 チョコバーの最後の一欠を嚥下して、甘ったるいため息をついた。
 救いようのない馬鹿に呆れるように、そしてそんな馬鹿を見捨てられない自分自身へもそうするように。

「後悔すんなよ」
「しないよ。振り回されるのは慣れてるから」

 ――何せ、中学からの付き合いだからね。
 そう言った小都音に、トバルカインはもう何も言わなかった。
 彼女は刃で、仕事人だ。クライアントの意向がそれであるなら、後は殉ずるのみ。

(あーあ。つくづく、面倒な職場に呼ばれたもんだナ――)

 優しい女の暴力装置は独りごちる。
 手には凶刃。その刃はまだ今暫く、頑固で不自由な片割れのために。
 面倒だなんだと愚痴を垂れても、結局なんだかんだで、このお人好しな依頼人のことを見捨てられない。
 トバルカインは自他共に認める人でなしの殺人鬼だが、彼女も大概、"義理"という不自由に縛られた生き物なのだった。



◇◇



 うまく抜け出せてよかったと、楪依里朱は安堵していた。
 色間魔術は万象を二色の色彩で定義し、そこに神秘を見出す思想の結実。
 これを利用した土地そのものから魔力を吸い上げての自己回復は、イリスが自ら開発した虎の子だ。
 まさかこんな序盤で使う羽目になるとは思わなかったが、やはり備えあれば憂いなし。
 シストセルカの無茶でごっそり持って行かれた魔力を全快とは行かずとも、粗方補うことができた。
 高乃河二に撲られた腹はまだ痛むが、それでもだいぶマシになっている。
 これならもう庇護下に置かれずとも、十分に聖杯戦争を続行できる――となれば、あの伏魔殿に長居はもはや無用だった。

「煌星満天。本名、暮昏満点……」

 歩きながら片手で弄ぶスマートフォンの画面には、アイドルの情報を羅列したwebサイトが表示されている。
 昨今ではプライバシーの観点で本名までは出てこないことも多いのだろうが、『煌星満天』は活動歴だけならそれなりだ。
 だからか、検索すればそれほど労なくパーソナルな情報に辿り着くことができた。

「……暮昏。はあ、なるほどね。
 またけったいな名前が出てきたというか、なんというか」

 聖杯戦争に参戦するにあたり、現地近郊の魔術師の家柄は粗方調べた。
 その際に目にした名前のひとつに、『暮昏』の名はあった。

 イリスは最初、暮昏は恐らく候補として名乗りを上げると思っていたし。
 それは何も彼女に限った話ではないだろう。もっとも、蓋を開けてみれば〈はじまり〉に集った七人の中にその名前は存在しなかったわけだが。

「――――ふざけやがって」

 吐き捨てるように毒づく。
 この都市は、どこまでも自分をおちょくるのが好きらしい。
 星、星、星。それが何かも知らず好きに語る恥知らずばかり。
 あれしきの輝きで、癇癪任せの躍動だけで、あの祓葉に対抗できると考えるその浅はかさに虫唾が走った。

 楪依里朱は煌星満天という、第三の資格者を受け入れない。
 ノクト・サムスタンプが輪堂天梨を否定し、蛇杖堂と赤坂が資格者は現れずと断じたように。
 ホムンクルス36号がそうしたように――魔女は、悪魔を認めない。

 アレが星などであって堪るものか。
 浅はか、ああ浅はかの極みだ。
 いずれ現実を知るだろう。その時こそ、あの恒星気取りの小娘は跪いて絶望に喘ぐだろう。
 滅びるがいい妖星。おまえはどこにも辿り着けないし、尊いものなどである筈もないのだから。


 じゃあ。
 あの、月のような女は?


「あ。良かった、間に合った」


 不愉快な思考に脳を回しかけたその時だった。
 裏口からホテルを出て、いざ立ち去らんとする背中を呼び止める声があった。
 仁杜のものではない。小都音のものでもない。
 凛とよく通る、自信と自負に磨き上げられた声音。

「どこに行くんですか、いーちゃんさん。お姉さんがまた泣いちゃいますよ」

 伊原薊美。
 代々木公園で、自分に神寂祓葉とは何者なりやと問うてきた女。
 イリスは内心の不快を隠さずに、振り向いた先の彼女へ口を開く。

「私がどこに行こうが勝手でしょ。あんなぬるま湯みたいな空間に長居なんてできるかっての」
「でしょうね。私があなたでもそうしたかも。そのくせ戦力だけは馬鹿げたくらい充実してるから厄介ですよね」
「そうね。で? 無駄話は趣味じゃないんだけど」

 白黒の魔女は誰もが認める激情家である。
 祓葉に灼かれてからは、特に酷い。
 何気ない会話の中に無数の地雷が隠れていて、ひとつでも踏み抜いたら魔女は容赦なく殺しに来る。
 薊美もその危険は承知しているだろうに、今、茨の王子に臆した様子は微塵もなかった。

「勘違いしないでほしいんですけど、別に引き止めに来たわけじゃないですよ。
 私としても正直、あなたと〈蝗害〉は時限爆弾みたいでぞっとしなかったんです。
 なので消えてくれるのはむしろありがたい。どうぞご自由に、どこへなりと行ってください」
「そりゃ何より。じゃああんたは私のお見送りにでも来てくれたってわけ? はっ、そんな殊勝なタイプには見えないけどね」
「ええ。お察しの通り、違います」

 イリスの眉がぴくりと動く。
 彼女は戦争を知る者だ。だからこそ、既に気付いていた。
 伊原薊美。少なくとも先刻は、ごくありきたりな"あてられた"人間のひとりでしかなかった彼女の総身から滲む――

「いーちゃんさん。いえ、楪依里朱さん」

 ――闘志のようなものを、感じ取ったのだ。

 普通に考えれば、それはあり得ないこと。
 まず、そうすることに意味がない。
 まったくの無益。百害あって一利なしと言う他ない行動。
 だが薊美はその常識を、林檎のように踏み潰して。

「私と、勝負してくれませんか?」

 緊張など欠片も感じさせない微笑みと共に、あり得ない申し出を告げた。
 沈黙が流れて、次に響くのはイリスの乾いた笑い声。

「はっ。何を言うかと思えば……」

 元の造形がいいから、魔女の笑顔は実に絵になった。
 薊美も弩級の美形だが、イリスのそれはまた種別が違う。
 より少女的で、初々しい青さを感じさせる顔だ。
 しかし次の瞬間。チャンネルを切り替えたように表情は消え、能面のような無表情で魔女の眼光は薊美を貫いた。

「死にたい――ってことでいいのよね?」

 響き渡る羽音が、破滅の到来を静かに告げる。
 怒り、殺意、あらゆる負の想念がオーラとして滲み出たかのように、イリスの背後に生じる黒茶二色の旋風。
 大地を都市を人を神を、視界のすべてを餌と認識して食い尽くす暴食の軍勢が展開されようとしている。

 〈蝗害〉の物量は、この聖杯戦争において並ぶ者のない頂点だ。
 ロキや満天と、相性を活かして彼らに食い下がったものは確かにいる。
 だが逆に言えば、そうした一芸でもない限り正攻法での〈蝗害〉攻略は依然として不可能に等しい。
 イリスが黒き死を解放すれば、悪名高き騎兵隊はまさしく波打ち際の砂の城同然だ。
 少なくとも現状では万にひとつも勝機はない。薊美もそれは分かっている。分かった上で――茨の王子は動じない。

「まさか。ちゃんとした殺し合いでイリスさんに勝てるなんて思ってないですよ。
 理想と現実は分けて考えないと。私の手持ちの戦力じゃ、逆立ちしても蝗さん達には勝てないでしょう。
 無駄です、無駄。無駄なのは嫌いなんです。なんかこういう漫画の主人公いましたよね。お姉さんなら知ってるかな」
「おちょくってんの?」

 これ以上無駄口を叩けば、それすなわち開戦の合図とみなす。
 イリスは端的な言葉で、そう示した。
 薊美が肩を竦める。代々木公園の時とはまるで立場があべこべだった。

「殺し合いじゃなくて、あくまでお遊びの"勝負"ですよ。
 私とあなたで一対一、サーヴァントの介入はお互い無し。
 ただそうですね、遊びの範疇を超えると彼らが判断したその時だけは、止めに入ってもいいものとする。これでどうですか」
「…………お前、何考えてんだよ」

 薊美の説明は、かえってイリスの困惑を深めさせるだけとなった。
 それもその筈だ。何から何まで意味が分からない。

 何故このタイミングで、マスター同士で命も懸けない勝負などしなければならないのか。
 第一彼女は昼間の喫茶店で、自分が英霊相手にも抗戦できるだけの力を持つことを知っている筈だ。
 百歩譲って上記二点はいいとしても、イリス側にルールを守ってやる理由が欠片も存在しないのは不可解すぎた。
 どうあがいても薊美とカスターでは〈蝗害〉に勝てないのだから、話など聞かずにすり潰すと言われたらそれでおしまいではないか。
 何なら今この瞬間にそうしてやってもこちらはいいのだ。不都合なんて何ひとつありはしない。
 怪訝な顔をするイリスの考えを見透かしたように、薊美は続ける。

「大丈夫。私は、イリスさんがズルいことなんてしないって信じてますよ」

 だって。
 王子の口元が、にぃ、と吊り上がった。
 爽やかな気風と、女の情念を綯い交ぜにした――魔女のような、顔だった。

「それをしたら、認めることになる。
 神寂祓葉を知り、その輝きに灼かれ、取り憑かれた燃え殻のあなたが。
 私という新たな星/主役(スター)が現れたって――認めることになるでしょう?」

 瞬間。
 イリスの放つ殺意の桁が、目に見えて危険域まで跳ね上がった。
 肌を突き刺し、鳥肌を粟立てさせ、心拍数を加速させる本物の殺意がそこにある。
 噴火寸前の活火山のような災厄の気配は、薊美の言葉が魔女にとって無視できない棘であったことを雄弁に物語っている。

「……思い上がってんなよ、端役の雑魚屑が。
 祓葉にビビって震えてたモブ女が、誰に何を認めさせるって?」

 これに限っては、相手がイリスか否かは関係ない。
 〈はじまりの六人〉は呪われている。賢者も愚者も破綻者も、誰もが白き光に取り憑かれている。

 故に彼らの感情、行動は意図の有無に関わらず根源たる太陽の方に引き寄せられていき。
 太陽たる神寂祓葉の名前が話に絡んだ瞬間、彼らは途端に狂人の顔を出す。
 そういう生態なのだ。その点、薊美の挑発は最短ルートでイリスを乗らせる妙手だった。

「始める前にひとつだけ。
 あなたがこっそり私達の前から消えようとしたのって、本当にただ居心地が悪かっただけですか?」

 無論――薊美としても、見かけほど涼しい心境で臨める勝負ではない。
 何しろ相手は本物の魔人。死を超えて黄泉返り、都市を闊歩する狂気の衛星が一。
 言葉の楔がちゃんと機能して、〈蝗害〉を封じられたとしても、これが死線であることに変わりはないのだ。

 カスターが止める間もなく、白黒の秘儀が自分の身体を千々に引き裂くかもしれない。
 今まで臨んだどの舞台よりも緊張する。
 失敗を許容したことなど人生で一度たりともないが、今回はそれとは次元が違う。
 だからこそ意義がある。薊美は虚空に手を伸べ、封じていた刀身を引き出した。
 破滅の枝。取り出しただけで周囲の空気が塗り替わるのを感じる。
 神殺しの王子たる自分に相応しい、巨人王からの贈り物だ。
 これを片手に担って、我が身はスルトの偉業を再演する。

「違いますよね。これ以上あそこにいたら、好きになっちゃうからでしょ」

 イリスの顔に、単なる激情でない緊張が走る。
 薊美が抜いた"神造兵装"の脅威を感じ取ったのももちろんあるだろう。
 でもそれだけじゃないんだろうなと、薊美は思っていた。
 観察眼は女優に求められる必須技能。青臭い癇癪持ちの娘ひとり見誤るようでは、茨の王子は務まらない。

「お姉さんのこと、大事に思っちゃうから抜けたんでしょ。違いますか?」

 まあ、仕方ないですよ。
 綺麗ですもんね、あの人。
 本当に、見惚れちゃうくらい。
 面白いですもんね――――月のお姫さまは。

 嘲りでなく、どこか同情するように言う薊美に。
 イリスはもう一度沈黙し、くしゃりと髪の毛を握った。

 刹那、地面の色彩が侵食されていく。
 無骨なアスファルトに展開される黒と白のチェスボード。
 姿を現しかけていた蝗の群れは引っ込み、代わりに魔女の秘儀がヴェールを脱ぐ。

「ああ、認めてやるよ。あんたは本当に見違えた。
 公園で泣きべそかきそうな顔してたのが嘘みたい。
 だからそうだな。自分でもらしくないと思うけど、敬意って奴を示してあげる。
 見事だよ、凡人どもの王子さま。その躍進に敬意を評して――」

 怒りという感情は、一周回ると逆に激しさを失うらしい。
 薊美自身、それは知っている概念だったが。
 改めて目の当たりにすると、やはり戦慄を禁じ得なかった。
 あんなに怒っていたイリスの顔に、静かな笑みが浮かんでいる。
 とても穏やかな顔なのに、ああどうしてだろう。
 それが、今まで見た彼女の顔の中でいちばん怖い。


「――肉片も残さず殺してやるよ。かかってきな、雑魚が」


 勝負は成立した。
 聖杯戦争においては異例も異例、英霊を排して行う一対一のタイマン勝負。
 賭けるのはプライド。己を己たらしめる魂の屋台骨。

 故に今宵の敗北は――命よりも重い。
 挑むは茨の王子。受けて立つは白黒の魔女。
 その戦いは伏魔殿の裏手にて、燃え上がるように幕を開けた。



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最終更新:2025年05月14日 23:14