今日も僕は殺される
(一)
纏った黒衣を翻し、坂上に似た男が迫る。彼は間合いを図り、小刻みに足を送った。すれ違いざま、男の腹を薙ぐ。耳障りな奇声を上げながら、男が床に倒れ伏す。背後には既に幾人もの"坂上"が血溜まりに沈んでいた。
彼は哄笑を上げた。物音を聞き、床を蹴って後退する。寸前まで身体があった位置を銃声が貫いた。
見やれば、玄関から入ってきた男がショットガンに銃弾を込め直している。それが終わる前に、彼は間合いを詰めるべく駆けた。右足の踏み込みと同時に、上段に構えた刀を一気に振り下ろした。踵が地面の砂利を弾き、刃唸りを纏った霜刃は弧を描く。
袈裟懸けに切り込んだ刃は、しかし空を斬った。刃が土間の上で虚しい音を奏でた。余裕をもって体を捌き、刃をかわした男が笑った。彼は嗤い返した。標的は保持していたショットガンを彼に押し付けた。
愚かな相手だ。見た目こそ絶体絶命の構図だが、それは愚民であればこそだ。神に愛された人間には、そんなものは意味を成さない。
腐った肉を奪い合う蛆虫たちと彼との間には決定的な隔たりがある。それを彼は理解している。
蛆虫たちにとって死は全ての終わりだ。
故に、彼以外の塵芥は死を恐がる。死への畏れは、精神を縛り、身体を鈍らせる。それがために、結局は死に追いつかれる。醜く恐怖に歪んだ瞳の数々を、彼は憶えている。
だが、彼にとって死は終わりではない。死を、彼だけは乗り越えられる。彼は死を恐れない。死すら、彼を縛ることはできない。
だからこそ、如何なる状況でも冷静に対処できる。
己が死した瞬間――あの痛み、あの苦痛。
それらはより己を高みに導いてくれると彼は信じている。屈辱的な死の記憶を充足した心地で思い出しながら、彼の身体は――動かなかった。
引き金は引かれ、大量の鉛弾が彼の臓腑を八つ裂きにした。
銃把を握りなおす。持ち主の好みに合うようにカスタマイズされたそれは、己の手には合わない。慣れ親しんだ愛銃とは異なる重みが腕にかかる。
その変化を何処か新鮮に思いながらも、ジルは目の前に突きつけられた選択に頬を歪ませた。
正面に見える光――柔らかく温かみを帯びた光明は、旧時代的なものに見えた。
無理を押して接触する価値があるか、否か――その見極めは、非常に難しかった。
トモエのような一般市民であるならば、まだいい。何らかの理由をつけて置き去りにする手段とて取れる。
単なる見間違いだったとしても、好転となる可能性もある。もしくは、諦める理由ぐらいには。
最悪の状況は、こちらに敵意を持つ存在の場合だ。
ジルは同行者二人に振り向いた。
大男に肩を貸し、足がふらついているトモエ。その彼女に出来るだけ負担をかけないようにと、足を突っ張って身体を支えているケビン。
逃げられない。二人を見捨てれば、あるいは自分だけは助かるかもしれないが、その選択は結局自分自身を殺すことになるだろう。
手元の大型拳銃には三発。ホルスターに仕舞ってある拳銃に再装填したとしても三十発はない。
対処に慣れてきた
ゾンビにしても、遥かに心許ない残弾だ。弾が切れれば、後は己の身ひとつだ。ゾンビ相手に格闘戦とは、笑えない冗談だ。何の間違いで感染するとも限らない。
だが、ここはラクーンシティではない。ラクーンシティとは別種の異形のものたちが蠢く土地だが。
それにゾンビは道具を使わない。故に、まともな人間である可能性は充分に残されている。
ただ、頭をよぎるのは駅で遭遇した職員だ。ジル本人は見ていないが、ケビン曰く、あの男は死んでいた。死体が動き出すことは、既に珍しいことではない。
しかし、あの男は言葉を発した。呻き声ではなく、確かに喋っていた。一定の知性と意思を感じられた。それに敵意も。
知性があるならば、道具も使えるかもしれない。
そう考えると、あの明かりは愚かな獲物を誘き寄せるための疑似餌か何か見えてきた。
もし、あの駅職員と同類のものが他にいるのだとすれば――知性を持つゾンビというものが他にもいるのだとすれば、人間だと確信が持てない限り徒に接触はできない。または対抗できるだけの準備を整えるか。
ジルは二人に小さく嘆息して見せた。
「接触せず、警察署に行きましょう。武器を揃えないと、迂闊に行動できないから」
「引率の先生に任せる」
「トモエは?」
「ジルを信じる」
「ありがと。だけど、まず、ケビンの怪我の具合を診てからにしましょうね。その恰好で警察署には行けないでしょう、ケビン?」
「……そうだなあ」
ケビンが苦笑を返す。トモエは曖昧な笑みを浮かべていた。
先程上ってきたばかりの階段を折り返し、改札口へと続く通路の中ほどでトモエにケビンを下ろすよう支持した。赤く汚れた床の上に、トモエへ礼を告げたケビンが大きく息を吐いて座り込む。
大型拳銃を元の持ち主に返し、手早く愛銃に弾丸を詰め直す。それらをホルスターに収め、ケビンに目を向ける。
表情に余裕はあるが、呼吸は荒く、血の気の失せた肌は脂汗が浮かんでいた。出血と痛みで大分参っている。トモエが風変わりなハンカチでケビンの汗を拭ってやっていた。
傷の具合を診ると言ったものの、碌な道具を持ち合わせていない。レベッカ・チェンバースなら同じ状況でも最良の判断と処置を実行できるのだろうが、彼女はヨーロッパだ。当然、自分に彼女のような医学知識もない。
「服を脱がせたほうがいい?」
「そうね……いいえ、今はいいわ。動かしていいものか分からないから」
トモエと場所を交代し、ケビンの腕に手を置く。露出している太い腕を彩る血の筋は乾いてきていた。
「……敢えて聞くけど、痛い?」
「多分、おまえさんが想像しているよりもな。引っ張られでもしたら、ちょっと泣くかもしれねえ。ただ――」
「ただ?」
「腕の感覚が鈍って来ているような気がする。それに連れて、痛みも薄れているような……慣れただけかもしれねえが」
「今、あなたの腕に手を置いているんだけど、分かる?」
「………………。参ったね、こりゃ」
ケビンは自嘲した。感覚がないということは、神経に傷を負ったのかもしれない。また、腕への血流に何らかの支障があるのか。
トモエに手伝ってもらいながら、ケビンに制服の留め具を外させる。
ジルは身頃の左半分を広げ、ライトで照らす。それでアンダーシャツの上からでも見て取れるほど、肩は大きく腫れ上がっていた。骨折か脱臼か――いずれにしろ、まともな治療なしで治るような代物ではない。
次いで、背後から傷口を見る。
分厚い布地が上手い具合に傷口を覆ってくれていたからだろう、出血は止まっているようだ。そのことに少し安堵する。
傷口の消毒をと思ったが、無理に引き剥がす必要はないだろう。患部周辺の血を拭い取る程度に留めて置いた方がよさそうだ。再度止血するには、救急キットに入っていたガーゼでは絶対的に量が足りない。
ジルは救急キットから清浄綿を数枚取り出した。
一言断って、服の裂け目から肌を清浄綿で拭う。取り出すと、妙に粘り気のある血液が付着していた。
生乾きの血といえばそれまでだが、どうしても思考は悪い方向へと転がっていく。
直接見たわけではないが、傷は浅くないはずだ。そんな傷の出血が、あの短時間で止まるだろうか。
確実に、ケビンは他のラクーン市民たちと同じ末路に近づいていっている。
強張ったジルの表情を見たのだろう、ケビンが皮肉気に唇を曲げて見せた。
「そんなに具合悪そうに見えるか?」
「……頭は悪そうに見えるわね」
「よっし。いつもの俺だな」
「否定しなさいよ。振りでもいいから」
半眼になりながら、思考を隅に追いやる。遠くない未来のことであっても、それは今ではない。
しかし、今打てる手は何もない。
「名称がよく分からないから見当違いかもしれないんだけど、ケビンの治療に役立つものがないんじゃない?……肩はこれで固定する?」
「そのようね。まあ、これでどうにかできるなら唾つけても同じだから。……これは使えるわ。鎮痛剤よ」
救急キットの中身を丁寧に広げていたトモエから三角巾を受け取りながら、鎮痛剤の小箱を取り上げる。
どこまで効果を期待していいか分からないが、炎症を多少なりとも抑えてはくれるだろう。それがプラシーボ効果であったとしても、今はどんなものでも必要だ。
水の代わりに、拾った
栄養ドリンクを、蓋を開けてからケビンに渡した。
赤黒い汚れの浮いたビンの表面を見て、ケビンは嫌そうに顔をしかめた。
「これで飲めってか? 衛生局が乗り込んでくるぞ」
言葉とは裏腹に、ケビンは大人しく錠剤をドリンクと共に飲み込んだ。
トモエと協力して、三角巾でケビンの左肩を包んだ。気休めかもしれないが、無造作に揺れるがままにしておくよりはいいだろう。
「これじゃ現場は無理そうね。事務の勉強でも始める?」
「そいつはぞっとしねえな。想像するだけで退屈だ」
「じゃ、いっそ警官辞めて漁師になるとか。海老とかの」
「……トム・ハンクスが俺の前に現れたら本気で考える」
肩を動かす際にケビンが小さく呻いた。
手を止めたトモエに催促し、しっかりと固定する。ケビンが深く息をついた。彼から視線を外し、ジルは立ち上がる。
「私が見張るわ。しばし、休憩を取りましょう。ケビン、あなたも。ろくに寝ていないでしょう?」
「……そりゃそうだが、今は眠る方が怖えよ」
ケビンが諧謔を含んだ声音で笑った。言葉が見つからず、ジルは彼から目を逸らした。逸らした先で、不安げなトモエと目が合った。
彼女は改札口の方へ顔を向けた後、ジルを見上げた。
「休むぐらいなら、病院に行くべきじゃない? もっと道具があるだろうし……電車なら、速いし」
「見た目によらず、鋼の心臓ね。また出るかもしれないわよ、幽霊。今度こそ逃げられないかもしれない」
「それは、そうだけど……」
敵との遭遇だけは避けねばならない。敵に遭えば、ケビンは戦おうとするだろう。死に急ごうとするだろう。
ケビンは死ぬ。"ケビン"として死ぬ。それは確実に近い未来だが、まだ諦めたくはなかった。諦めるには早すぎる。思い出になるにはまだ早すぎる。
だが、本当にそれだけかと投げかける己もいた。
あらゆる"未来"と戦う。その決意は、まだ水面のような揺らぎがあった。
だからこそ、純粋にケビンを気遣っているトモエを見るのは辛かった。結局彼女からも視線を逸らし、汚れた天井を見上げた。
口ごもったトモエに向け、ケビンが右手を軽く振ったのが目の端に映る。
「どのみち、武器がなきゃどうにもならねえよ。俺のこたぁ気にしねえで、少しでも休みな。せっかく怖ぁい先生が目ぇ光らせてくれてんだから」
「………………」
トモエが不満げに吐息をついた。ちらと見やれば、彼女は目を瞑っている。ケビンの言葉に素直に従うつもりのようだ。と、その直後、びくりとトモエの身体が跳ねた。
目を見開いた彼女の顔は、それこそ悪夢でも見たかのように強張っていた。呼吸も大きく乱れている。
「どうかした?」
「……な、なんでも、ない」
鼓動を整えるように、トモエが胸に両手を当てた。そうしてから
髪飾りにも触れる。やがて、静かな寝息が聞こえてきた。
それを確認してから、低い声でケビンに呼びかける。
「なんだ?」
「あなたには恰好つけさせやしないからね」
「……あいよ」
ケビンの苦笑がやたらと耳に残った。
(二)
彼は目覚めた。荒れ果てた屋敷の中を吹き抜ける風音だけが鼓膜を振るわせる。あれほど聞こえていた銃声や爆音は何処へ消えたのだろうか。斬り捨ててきた男たちのその残骸は何処にも見当たらなかった。
現れたときと同じように、陽炎のように消え失せてしまったらしい。
鈍痛の残る頭を振りつつ、彼は腹部に手を当てた。触り心地のいい、清潔なワイシャツの手触りが返ってくる。撃たれたというのに、その痕跡は跡形もない。
眼下に奔った閃光と、無数の異物が体内に潜り込む感触。ふいに湧き上がった記憶を払うように、彼は頭を振った。
身体が動かなかった。死が眼前に置かれたとき、四肢は強張り、彼の命令を拒否した。あたかも、数多の愚かな獲物たちが見せてきた反応と同じように。
違う――。
彼は胸の奥で叫んだ。あれは油断だ。驕りが生んだ、僅かな失敗だ。それを正せばいいだけだ。難しいことではない。彼は、己が容易に失敗を血肉に出来ることを知っている。
同じ轍は踏まない。
ストレスだ。不快なる澱みが腹の内に溜まったのを感じる。それを吐き出さなくてはならない。
魯鈍なる黒ずくめの男は、彼を仕留めたと誤解し、ここを去ったのだろう。追って仕留めるか。それは容易いことだが、わざわざ己が出向くという行為は相応しくない。
獲物の方から来るべきなのだ。愚者の後を追うなど、神に選ばれた人間が為してよいものではない。
転がっていた刀を拾うと、彼は屋敷を早足で出た。あれほど斬ったというのに、蝋燭に照らされた刀身には血脂ひとつ付いていない。刀までが特別性なのだ。
興奮のままに古びた棟門を抜けると、吼え声を耳が拾った。あの汚らわしい畜生どもだ。剥き出しになった筋肉と、腐った内臓を引きずりながら駆け寄る不浄な獣たち。
連中を一刀の元に両断する。それで多少は気が晴れる。万能な、いつもの自分自身に戻ることが出来る。
腰を落とし、彼は脇に刀を構えた。鋭い牙に彩られた顎が迫る。今度はしくじらない。油断もしない。己は死を乗り越えしものなのだから――。
先頭のポメラニアンを、きらめく半月が迎えうった。甲高い悲鳴をあげて、力を失った肉が架け橋の上で跳ねる。翻弄されぬよう上手く勢いを逃がしながら、手首を返す。返す刀が、続いて飛び掛ってきたチワワの首を刎ね飛ばした。
刀はまるで抵抗が存在しないかのように、肉を、骨を切り裂いた。その感触に、興奮で肌が総毛だっていく。
愉悦を刻んだ彼は三匹目のドーベルマンを見定めた。鋭い呼気を共に、腕を絞り込む。突き出した切っ先の目前で、犬が欄干を蹴って軌道を変えた。
門に掲げられた仄明かりに、両あごの間で糸引く唾液が見えた。
死が迫る。それに踏み込み、活路を得る。彼の喉は気勢の声を上げようと震えた――しかし、前へと進んだのは彼の意識だけだった。
強張った身体はやはり動かなかった。喉から漏れたのはか細い悲鳴だった。彼の喉笛に鋭い牙が喰らいついた。
吹き上がる己の真っ黒い血潮に彼の視界は覆われた。
彼女は自由を求めて身体を大きく撓らせた。頭を振り、所構わず叩きつける。周囲の構造物は容易に砕け、瓦礫が彼女の身体に降り注いだ。
もう幾度同じことを繰り返してきたのか。そんなことは彼女の頭の中には無かった。
ただ、己を不快にするものを取り除く。その一点だけに全身は取り憑かれていた。
漸く、彼女を煩わせていた根源が消えた。
自由を取り戻した彼女に中に生まれたのは歓喜ではなく、憤怒だった。
彼女は女王だった。その行く手を遮るものなどあってはならない。
憎むべき糧たちの臭い。その僅かな名残を彼女の舌が絡め取った。
赦せるものか。
赦してなるものか――。
彼女は頭をもたげると、臭いの方向に向かって前進を始めた。
(三)
頭が酷く重く、歩くたびに鈍痛が響く。身体に力は漲っているのにも関わらず、指先を動かすことにさえ集中力を要した。呼吸も荒い。まるで幾日も寝ていないかのような倦怠感が身体を包んでいた。
彼は手近な民家の中で体を休めていた。刀は犬が咥えていったのか、何処にも見当たらなかった。
どこかで犬の遠吠えが聞こえた。無意識に身体が跳ねる。
食い破られた腹腔から引きずり出される腸の感触も、牙が肉を切り裂いていく痛みも、全て彼は記憶している。それだけではない。首を脊椎ごと引き抜かれたことも、長い時間をかけて窒息したことも――それらは追体験できるほど鮮明に、頭と身体の中に残っていた。
犬の爪が敷板を掻く音は聞こえてこない。安堵のため息が漏れた。
直後、彼は怒りに身を震わせた。これでは、まるで己が狩られる側ではないか。エリートたる人間は常に狩り、奪う側に立つ。それがこの世の論理であり、真理だ。
そのエリートの頂点に立つのが彼のはずだ。
おかしい。
何かがおかしい。
どこかで普遍の理が乱れた。その大罪を犯したのは誰だ。
彼は弾かれた様に顔を上げると、憎悪に鼻面を歪ませた。
あの女か――。
記憶の中に浮かび上がったのは、和服を纏った細身の女だ。あの女と出会い、汚らしい縄を振るわれ――全てが狂った。霧絵と名乗ったあの雌豚が、己の輝かしい道程を穢したのだ。
あの女は何処だ。
彼は立ち上がり、外へと出た。
通りは静寂そのものだった。爆発炎上する車も、飛び交う砲弾も何もない。その痕跡すら残っていなかった。まるで夢か何かのように、全て消えてしまっている。あるのは、滞留する闇だけだ。
踏み出そうとした足が何かに引っかかった。それが何か確認する暇もなく、彼は地面に引きずり倒された。強かに顔面を打つ。衝撃で眼鏡が外れた。
低い呻き声と饐えた臭いが鼻をついた。見えずとも分かる。あのゾンビたちだ。ゾンビに足を掴まれ、あまつさえ地面に倒された。
憤怒に任せて振り払おうとするが、駆け巡る激情とは裏腹に足は力なくアスファルトを叩くだけだ。
ゾンビが彼の腹部を鷲掴みする。先ほど喰い散らかされたばかりの肉を指が突き破り、中の臓腑が引き抜かれる。悲鳴を激痛が押し潰した。
殺人クラブの面々が彼を見下ろしていた。侮蔑に満ちた表情だが、それに怒りを覚える余裕は彼に残されていなかった。
何かが眼窩に潜り込んだ。ゾンビの指だ。抵抗するも、腕はびくともしない。ついに眼球がつぶれ、生暖かい液体が溢れ出して頬やこめかみを濡らした。
絶叫が口腔から飛び出そうとしたが、その前に喉は噛み千切られた。己の耳に届いたのは、水が泡立つような喘鳴だけだった。
薄皮を剥ぐように夜闇を脱ぎ捨てた警察署を視界に納め――ジムは口をあんぐりと開けて佇んだ。
背の高い古風な格子門の向こうに、荘厳な雰囲気を漂わせる大ぶりの建築物が泰然と構えている。建物の入り口を照らす電燈は迷い人を招き入れる慈悲の導に見える一方で、半開きの扉は獲物を誘い込む甘い罠にも見えた。
魂なき亡者の呻き声が耳元で聞こえたような気がした。四人で逃げ込んだときの記憶が――大量のゾンビたちとの攻防が鮮明に蘇る。
この建物を、ジムは知っていた。いや、彼と同郷の人間であれば見覚えのないものなどいないだろう。
見間違えるはずはない。しかし、有り得ない。
この町は、彼の故郷ではない。見も知らぬ――名前すら知らなかった町だ。
だから、今目の前にある建物は"ラクーンシティ警察署"であるはずがない。
そのはずなのに、重苦しいアーチの上にはでかでかと"ラクーン警察署"と掲げられていた。まるで悪趣味な冗談を目の前で披露されているような心地だ。只でさえ混乱しそうな頭が、これでは一気にオーバーヒートしてしまう。
「趣味の悪い警察署だな。何かを履き違えているようにしか思えない」
少女の亡骸を背負ったハリーが朴訥とした調子で呟いた。
彼に背負われた美耶子の死に顔は眠っているかのように美しいままだった。ふとすると、本当に眠り姫か何かのように思えた。
彼女をこのしみったれた最低の糞町に置き去りには出来ないが、かといって彼女を背負ったまま彷徨い歩くのも現実的とはいえない。
あの狂った軍人の同類や正体不明の怪物に襲われることは大いに有りうる。その際、咄嗟の行動に支障が起こるかもしれないし、何より彼女の亡骸を徒に辱めることにも繋がりかねない。
この点については、ハリーも同意してくれてはいた。現に、今の彼は銃を構えることすらできないのだから。
「……本当にな。見た目通り、ローマ法王の金玉みたいなもんだよ。あるにはあるけど、まったくもって役に立たねえ」
自分の混乱を隠すように、ジムは悪態をついた。ハリーが小さく眉をあげる。
「辛辣だな。警察に嫌な思い出でも?」
「俺は生まれてこの方ずっと善良な一市民さ。たださ、警察ってのは、個人はともかく、いざってときに組織として役に立ったことがあるかい?」
「何事も起こらないことが、つまりは警察が役に立っている証拠だと思うよ。そうでなくなってしまったら、期待するほうが酷だ」
ハリーの面白くもない答えにジムは鼻を鳴らした。
ラクーン市警の個々の奮闘は目にしている。だが結局、彼らは事態を収拾することができなかった。結果的に見れば、やはり警察は役に立たなかったと見るより他にない。
と、こちらに近づく物音が聞こえた気がした。ハリーもそうだったらしく、二人は一斉に音へと体を向けた。銃も同時に向けるも、機関銃のずっしりとした重みに銃口はすぐ下に垂れてしまった。
闇をくり抜いたように、懐中電灯のものらしき光が近づいてくるのが見えた。
歩調に合わせて上下に揺れる光は鬼火のように見えた。
「動かないで。話が通じるのなら、動かないで」
よく通る声が夜気を震わせた。静かだが、鋭さを含んだ女の声だ。相手が人間であることに安堵しそうになるが、それをとっさに堪えた。
化け物は言葉も喋るのだ。そして何より、相手が人間だからと言って安全とは限らないのだ。
ラクーンシティは新興都市だ。それ故に、治安は実に不安定だ。あの夜がくるまで、一番危険な存在は人間だった。そして、双方の導く最悪の結果が死であるならば、人間も化け物も、危険性は大して違いはしない。
ジムは下がっていた銃口を再び持ち上げた。
「あんたこそ止まりな。こっちはランボーみてえな銃持ってんだ。クライマックスを飾りたくなかったら、それ以上近づんじゃねえ」
内心を気取られないよう気をつけながら、できる限り声にドスを利かせて告げる。引き金にかかる指に力が籠った。
と、ふいに聞き慣れた失笑を耳が拾う。
「――エディ・マーフィーに凄まれてもな。チャーリー・シーンよりハクがありゃしねえ」
「ケビンっ!?」
雑な足音と共に、闇の中から見慣れた優男の顔が現れた。
「よぉ。トモエの言った通りとはな。しばらく見ない間に、ちったぁ男の顔になったじゃねえか」
「ほんの何時間か前まで一緒だっただろ? よりによって、またあんたとかよ」
「ご挨拶だな。聞屋の姉ちゃんのがよかったか?」
「せっかく逃げ延びたってのに、次の取材先がここじゃ可哀相だろ」
ケビンは銃を握った右手を軽く挙げた。顔に血の気はなく、左腕は血で汚れた布で吊っている。人を食ったような表情は相変わらずだが、それもどこか無理をしているように見えた。
彼のあとから二人の女が現れた。一人は見覚えのある若い白人だ。彼女は警察署を見上げ、呆けたように口を開けた。ラクーン市民の一人なのかもしれない。ケビンもいるのだから、それはありえないことではない。
そして、もう一人を――ジムはヨーコが来たと思った。
だが、すぐに違うと分かった。顔はヨーコに比べればきつめで、服装もニッポンの伝統衣装だ。似ているのは背格好と、東洋人であることぐらいだ。
ラクーン大学で忽然と消えてしまった彼女のことを、まだ諦めきれていないようだ。彼女の失踪が意味するものは一つしかないことは分かっているのに。ラクーン大学で再会したジョージの変わり果てた姿が、そのままヨーコに入れ替わる。
ケビンの連れは、
ジル・バレンタインと
太田ともえといった。彼らは武器を調達しに、ここまで来たらしい。
ジルはあの"S.T.A.R.S."だという。道理で見覚えのあるはずだ。ラクーンシティの住民で"S.T.A.R.S."を知らないものはいない。アンブレラ社と同じく、彼らは市の象徴となっていた。
発展と安全。市が向かうべき未来を約束する証――。
所詮、それは泡沫の夢であった。
一番必要な時に必要なことができなかった"S.T.A.R.S."。滅びを運んできたアンブレラ社。夢を、ただの"夢"だと悟るのが遅すぎた自分たち。
これが現実の姿だった。夢は覚めた。炎の弾ける音と亡者の呻き声によって――。
華奢なジルの立ち姿は、ラクーンシティの見る無残な夢の欠片そのもののように見えた。
彼女は銃を持ち帰ると、自嘲的な笑みを浮かべた。
「最悪の挨拶の仕方をして、ごめんなさい。チャップマンさん、メイソンさん」
差し出されたジルの右手を握る。
その力強さに、ジムは離された後で自分の掌をまじまじと見つめた。なんとなく、内心を読まれたようでばつが悪い心地がした。
彼女はまだ敗けていない。そういう意思が伝わってきた。
「君は撃たなかったんだ。それでいいじゃないか」
握手をしながらハリーが微笑む。
ジルの質問を受け、ハリーが簡単にことの顛末を説明した。
サイレントヒルのこと。大量の化け物たちの死体。轟いた銃声と爆音。路面に空いた大穴。そして、牧野と美耶子の亡骸――。
「それで、あの爆音だったわけね。……色々ありすぎて、もう勘弁してほしいわ、全く」
「ところで、君たちは私の娘を見なかったか? 歳は七つ。髪の色は黒なんだが」
「いいえ。三人で行動を始めてから、まともな人間に会ったのはあなたたちが初めてです。何か手がかりは?」
深刻な顔で話し始めたジルとハリーから目を逸らし、ジムは塀に寄り掛かるケビンとともえに目を向けた。大きく肩を上下させるケビンの額を、ともえが変わったハンカチで拭ってやっている。
その仕草も、どこかヨーコに似通って見えた。いつからだったか、ヨーコが一枚のハンカチを大切そうに扱うようになった様子もありありと思い出された。
語りかけるともえにケビンが自嘲じみた返事を返すが、それも半ば以上、上の空の様子だ。
あれはマークの知り合いだったか。名前は思い出せないが、屋上でゾンビになってしまった禿頭の男の姿が今のケビンに重なる。
デビッドと並んで死にそうにない男が今、亡者の列に加わろうとしている。それが、とてつもなく寂しく思えた。
ジムは無理やり笑みを浮かべた。親指で門扉を指す。
「ケビン、一体いつあんたの職場は引越ししたんだ?」
「……おまえの職場もだよ。おめでとう。今なら巨大なヘビのペットもついてんぞ。ジェニファー・ロペスはいないがな」
「なんだ、そりゃ」
ケビンの言っている意味が分からず呻く。彼はにやりと笑っただけだった。
「ラクーンシティの地下鉄駅があるのよ、この町に」
ハリーから事情聴取していたジルが口を挟んだ。
「私たち三人の職場とそっくりなものが、この町にある。これって偶然かしらね? まるで縁の深い場所がわざわざ選ばれているみたい」
最後は独りごちるように呟いたジルに、ハリーが首を傾げた。
「つまり、この警察署は君たちの町のものなのか?」
「そっくりですね。観光地と言いましたが、他所の町をコピーして観光の目玉にでもしているとか?」
「旅行の前に調べたが、そういう話は聞かなかったな」
ハリーは顎に指を当てて眉間に皺を寄せた。ケビンが大仰に右肩を竦めた。
「まあ、うちの署長と同レベルのアホがいるのかもしれねえよ。アホの中じゃアイアンズの糞署長はプレスリーみたく崇拝されてたりしてな」
「丸々建物が移動してきているって考えるよりは筋が通るかもね。駅の説明にはならないけど」
知らない町並みの中に、唐突に現れる見知った場所。繋がらない理屈。既視感とは違う理不尽さは、悪夢のそれと似ていた。ラクーンシティの見せられていた夢の続きに入り込まされているような違和感があった。
加えて、これはラクーン市民に限ったことではない。ミヤタやマキノたちのことは分からないが、あのチサトという少女の見知る場所は此処にある。
「言いたくはないんだけど、まだ夢のように思えるんだ。ラクーンシティは悪夢みたいな現実だったけど、こっちは現実みたいな悪夢っていうか」
「これが夢なら人は死なない。そもそも誰の夢になるんだ?」
ハリーが幾分厳しい声音で言った。彼の肩から美耶子の白い顔が半分見える。それから目を逸らして、ジムは口をとがらせた。
「分かってるよ。だけど、正直な感想なんだよ。全部ちぐはぐだ。ニッポンの高校があって、ラクーンシティの駅と警察署までありやがる。夢に出てくる風景と同じ脈絡のなさだ。どこにも成りきれていないってかさ」
「ニッポンの高校まであるの?」
「なるほど。つまり、俺たちゃ全員ベトナムに居て、これから息子が迎えに来てくれるってわけか。めでたしめでたしだ」
「君は……ベトナム帰還兵なのか?」
「…………。マジな顔してそういうことを言うのは犯罪だ」
ハリーの憐憫を帯びた言葉に、ケビンが悔しそうに呻く。その仕草に、ジムは甲高い声で噴出した。
「良かったじゃない。テイラー二等兵ならハクつくわよ」
「俺は兄貴の方が好きなの。ビリー・ザ・キッドだし」
にやと笑ったジルが付け加え、ケビンは更に口をへの字に曲げた。彼らの反応に、ハリーはただ目を瞬かせていた。おだやかな空気が通りを漂った。
その俄かな笑声を、短い悲鳴が貫いた。
最終更新:2013年11月14日 21:50