過去は未来に復讐する




(一)

 真冬の背を冷たい汗が伝っていった。背後からは、玲子がけらけらと嬌声を上げている。
 一瞬前まで歪んでいた青年の顔からあらゆる表情が消え、能面のように静まり返った。
 しかし、得てして能面とは人々の感情の機微を表しているものだ。
 青年の胸中で、昏い想いが吹き荒れていることは容易に想像が付く。いや、もう既に真冬には感じ取れていた。
 彼から伝わってくるのは、アパートを覆う血錆のように赤黒い感情の渦だ。それは水中に落ちた澱みの如く、周囲へ滲みだしていく。
 青年は息荒く肩を震わせる。彼の右手が腰の後ろに隠れた。
 真冬は床を蹴って、青年の腕に跳び付いた。が、一振りで払われてしまう。壁に強かに叩きつけられ、真冬は咽た。
 青年の手には拳銃が握られていた。青年の口から、獣じみた吐息が漏れる。銃口はそのまま、踊り場の玲子へと向けられる。
 真冬は素早く立ち上がると、背後から青年に組み付いた。
 青年は唸り声を上げながら、真冬を振り払おうと身を捩った。肩越しに向けられる彼の瞳は、炯炯と赤く光を放っているように見えた。
 歯を食いしばり、真冬は振りほどかれぬよう力を込める。青年の動きだけでなく、彼から溢れ込んでくる過去の記憶が真冬を苛んだ。
 周囲からの嘲笑と侮蔑、幾度も傷つけられた自尊心と抑圧された自我――。
 青年の過去は、他者から見ればよくあることと一笑に付されるようなものかもしれない。だが、まさしく他愛もない事柄の一つ一つが、この青年の心をずたずたにしていたのだ。
 おそらく、青年は自分を表現するのが苦手だ。それは真冬も同じだが、自分には妹という理解者が居た。だから、周囲を取り巻く環境と折り合いをつけることが可能になった。
 果たして、青年には想いを吐き出せる相手が居たのだろうか――。

「駄目だ! そんなことをすれば、君も同じだぞ!?」

 彼の感情は正しい。玲子の言葉は無礼だ。だが、彼がこれから起こそうとすることは間違っている。彼を苦しめてきたものたちと同じところまで堕ちてしまう。
 揉み合う最中で、真冬の足がもつれた。突き飛ばされ、真冬は床に転がった。
 青年が銃口を真冬に向けようとし――足を踏み外した。
 真冬の視界から青年の姿が消えていく。それはコマ撮りのように、ひどく緩慢に感じられた。
 肉が叩きつけられる鈍い音が続き、一際大きい落下音が響いた後で何も聞こえなくなった。
 真冬は乱れようとする呼吸を懸命に抑えながら、四つん這いで階下を覗き見た。
 踊り場にいる玲子は無事だった。手で口を覆って目を丸くしている彼女の姿はとても滑稽に見えた。
 彼女の視線の先に、あの青年がいた。
 壊れた柵の間から転げ落ちたのだろう。青年は、一階の非常扉の前で四肢を力なく投げ出している。
 真冬は階段を駆け下りた。鼓動が、痛いほどに激しくなっていく。それに反比例して、心中は冷えて行った。
 懐中電灯に照らされる彼の顔は、蝋のように真っ白見えた。後頭部を壁に預けている。周りの汚泥のせいで、出血しているのかどうかは判別できない。
 彼の被っていた帽子が、少し離れた床に転がっている。 

「きみ……大丈夫、かい?」

 あまりに間の抜けた問い掛けだと自戒する。だが、口が酷く渇いていて、そう紡ぎだすのがやっとだった。
 青年に反応は見られない。
 傍らに跪き、首に指を当てる。指先は、脈の振動を伝えてこない。いや、自分の指が震えすぎているだけか。
 思考を放棄しそうになるのを堪えながら、真冬は彼の鼻腔にそっと手の甲を当てた。
 微かだが、呼気が肌の産毛を揺らした。
 深く、真冬は安堵の吐息をついた。
 だが、事態が好転したわけではない。最悪の、一歩手前だったというだけだ。
 青年は頭を打っていて、しかも意識がない。医療知識の乏しい自分でも、下手に動かしてはいけないことは分かる。
 必要なのは医者だが、この町にまだ残っているだろうか。
 とにもかくにも、人手が必要なのは明らかだった。
 真冬は顔を上げた。
 このアパートに入るときに使った扉は、青年の巨体に引っかかって開けることが出来ない。

「なぁんだ。弾入ってないじゃん。お似合いだね、玉なしデーブ」

 降りてきていた玲子が拳銃を放り棄て、おかしそうに嗤う。
 拳銃には弾が込められていなかった――ならば、自分がしたことは一体なんだったのか。
 青年に殺意がなかったとは言わないが、結果として殺人が起きることはなかったのだ。つまり、己がしたことは青年を階段から突き落としただけ――。

「気にすることないですって。こんな不細工は吐いて捨てるほどいるんですよ。で、真冬さんみたいな、恰好いい男の人は代わりが少ないんですから。謂わば、あっちは保健所で処分される可愛くない野良猫で、真冬さんはペルシャ猫です」
「一体何を言ってるんだ、君は!? 人が一人死にかけているんだぞ!? まだ息はあるんだ。人を呼んで、安全な場所に移さないと……!」

 あまりに常軌を逸した玲子の言動に、真冬は振り向きざまに声を荒げた。
 玲子はショックを受けたようにびくりと肩を震わせ、顔を真冬から逸らした。ぼそりと、彼女が何事か独りごちるのが聞こえる。

「……うっわ、まじホワイトキック」
「ほわ――え……?」
「……なんでもないでーす。汚物への隔たりのない優しさっていうのもポイント結構高いんで、問題ないです」

 玲子の顔には、既に先ほどと変わらない笑顔が貼りついていた。

「でもでもー、誰か呼んでくるにもそこのきしょデブが邪魔で出られませんよー? どうするんですかあ?」

 玲子の、妙に甘ったるい声に苛立つもそれを抑え込む。苛立つのは、自分が怖がっているからだ。人殺しになることからどうにか避けようと焦っている。
 それを、妹ぐらいの少女に当たるのはあまりに理不尽だ。

「……二階に上がりましょう。ちゃんとした出入口が他にあるはずです」

 青年を放置するのは気が引けるが、ここで玲子を一人に出来るはずもない。
 階段を上り、二階の通路へと踏み入れる。その際、荒井少年の遺体を玲子に見えぬよう身体で隠した。気休め程度でしかないが。
 一緒にくるつもりなのか。羽入と名乗った少女の霊が、少し間を開けてついてくる。
 回収した鉄パイプを握り直し、慎重に進んでいく。
 通路は、気が滅入る風景に変わりないが、真冬たち以外のものはいないようであった。一室だけ扉が開いているのは、あの青年が出てきたからだろう。
 通路の中ほどに、出口と赤く示された扉がある。
 足早に駆け寄ってドアノブを捻るが、扉はびくともしない。

「あ、そのドア開かないんですよ。超MMって感じですよね」

 苦闘する真冬を弄ぶように、玲子が他人事のように告げてくる。流石にむっとしたが、態度には出さないようにした。
 玲子を見て、静かに口に出す。

「それじゃあ、僕たちは外に出られない……?」
「……えっとですねえ、そこの突き当りにある部屋の窓から隣のアパートに行くことができるんですよ。超ウケるっていうか。欠陥住宅ってやつ?」

 玲子は焦らすように、指をくるくると回した。
 苛立ちを溜息にして、真冬たちは通路を進んだ。
 その部屋は、玲子の言葉通り、隣のアパートの非常口と思われる扉とほぼ接するような形になっていた。
 おそらく、今いるアパートよりも古いのだろう。非常口からは濃厚な、饐えた腐臭が漂ってきている。
 窓枠に足をかけたとき、野太い咆哮が響いた。咆哮は壁を震わせる。玲子と羽入が耳を塞いでいた。二人の表情に恐怖が奔る。
 続いて響いてきたのは大きな足音だ。ゆっくりとだが、音の主は――近づいてきている。
 真冬は非常口と窓枠を跨いでバランスを取った。その状態で隣のアパートの廊下を照らす。床に倒れている人影が見えた。
 行くべきか――真冬は逡巡した。
 ドアを破るような破砕音が響き、外壁から落ちた粉塵が真冬の頭にかかった。
 尚も同じような音は続く。何かを探しているのだろうか。
 脳裏に浮かんだのは、テレビコマーシャルで流れていた、マスクを被って鉈やナイフを振りかざす大男たちの姿だ。
 それらと似たようなものが入ってきたのだとすれば、あの青年はもう――……。

「真冬さん!」

 玲子が甲高い声を上げた。
 そうだ。迷っている余裕はない。隣のアパートに身体を移す。
 左手で身体を支えながら、玲子に右手を伸ばす。
 玲子の手をしっかりと握り、非常口へと引き込んだ。

「もう、あの白ブタのことなんでどうでもいいですよね!? バッカじゃないですか!?」

 玲子の声に呼応するように、咆哮が上がった。玲子が悲鳴を上げて、走り出した。
 真冬もその後に続く。散らばった薬莢が転がり、不協和音が響いた。後方で、今出てきた部屋の扉が砕かれる音が聞こえる。
 玲子が真冬の方を振り返った。いや、彼女が見たのは真冬の更に後ろのものだ。彼女の顔が大きく引き攣るのが分かった。
 衝動を抑えられず、真冬も振り返った。非常口の向こうに湛えられた闇の中に、紅く光る双眸が見えた。懐中電灯の輪の中で浮かび上がる影は、大きな角を備えた"鬼"のように見えた――。
 ふいに、背中を突き飛ばされた。あまりにも意表を突かれ、真冬はバランスを崩して蹈鞴を踏んだ。

「福沢さん――?」

 走り去っていく玲子の背中が見えた。

≪まふゆ!≫

 羽入の悲鳴とほぼ同時に、真冬の側頭部を衝撃が掠めて行った。途端に平衡感覚が失われ、意識が宙に飛んだ――。



(貮)


 どれほど経ったのだろうか――。
 真冬は声を聞いた。視界に光が戻ってくる。
 頭を打ったせいか、自分の身体の感覚がうまく掴めなかった。床に倒れたまま、身体を起こすことができない。
 血錆に塗れた通路に、転がる死体と薬莢――映る風景は変わらないが、焦点が度々合わずに、ノイズのようなものが飛ぶ。
 聞こえてくるのは男女の話し声だ。
 通路中ほどの部屋の扉が開いていて、声はそこから聞こえてくる。

「――いものだね、これは」

(この声は……高峰先生?)

 捜していた恩師に呼びかけようと喉を震わせるが、声は出ない。

「状況を見るに、自殺……ね、多分。これは……認識票? ≪B・コーエン≫……アメリカ海兵隊員か」

 知的な雰囲気のする女性の声だ。

「恋人かもしれないね、この娘の」
「あるいは家族かも……ところで、これはニッポンの一般的な弔いなんですか? タカミネ先生」
「違うよ、マクスウェルくん。もっとも、日本は地域によって冠婚葬祭の方法が数多あってね。例えば富士山近隣の村では、墓穴に鎌を吊り下げたりする。しかし、太田さん……だったかな。彼女の信仰する神はそんなもの望んじゃいないと思うがね?」

 高峰が、マクスウェルと呼ばれた女性とは別のものに声を掛ける。

「ひどく器の縮こまった神様なんだな、耶蘇教ってのは。こいつはな、化け物に身体を好き勝手されませんようにってまじないだよ、外人さん。年頃の娘が可哀ぇ相だろう」

 しわがれた声が応える。

「ふむ……それが君たちの魔除けか。その腰に佩いたものも添えるのかね?」
「…………。刀じゃあ海からくるものを祓えねえ。魔を滅せるのは、こいつだけだ」

 哀悼か――沈黙が少し続いた。

「作家先生よ、一々書き留めるのは癖か何かか?」
「考えというのは、常に抽出しておかないと忘れてしまうものなんだ。此処や君たちの話は実に参考になる。次の作品のね」
古のものを仕留められにゃ、次もくそもあるめえ」
「その方法も練っているのさ。それに、貴方なら斃せるんだろう――?」

 高峰の声が遠くなっていく。

(待ってください、先生――!)

 胸中で叫ぶも、真冬の想いは届かない。
 静かになった通路は、いつの間にか光が入ってきていた。床や壁の汚泥も取り払われて、人の生活ができる光景に変わっていた。
 窓から差し込む光は、首のない死体をどこか優しく包んでいるようにも見える。
 その死体を、やってきた銀髪の兵士がちらりと見下ろし、すぐに興味を失ったように通路の角に消えて行った。
 続いて、手前の通路から二十歳前後の女性が現れた。右手に握られた大ぶりナイフが、薄明に怪しく光っている。また、左手にはネックレスのような、細い鎖状のものを握りしめていた。
 濡れたような黒髪に縁どられた顔は整っているが、憂いに満ちていた。
 女性は死体を意に介した素振りも見せず、高峰たちの声がしていた部屋に入っていった。

「――アンジェラだろ!? おい、待ってくれ!」

 聞き覚えのある声が響いた。女性を追いかけるように、男が飛び出した。

(ジェイムス……?)

 男は、数時間前に遭遇したジェイムスの生前の姿だった。
 真冬は漸く合点がいった。今、己はこのアパートの過去を視ているのだ。
 しかし、そうなると疑問が湧き上がってくる。

(……なぜ、高峰先生の名前が名簿になかったんだ? さっきの会話からしても、先生が"鬼"になっているとは考えられない)

 ジェイムスは、転がる死体を目にして一瞬動きを止めた。
 だがすぐにジェイムスは切羽詰まった口調で、捲し立てつづけた。

「君はあれからどうしたんだ? これはどうなっているんだ!? 私は……――!?」

 ジェイムスは、開いたままの扉を見つけ、そこに飛び込んだ。そして、引き絞るような悲鳴が扉から漏れた。
 やがて、よろめきながら出てきたのはジェイムス一人だけだった。 

「違う……そうじゃない。こんなものは私が望んだものじゃない……! メアリー……君はどこに行ったんだ……? 還してくれ……」

 壁を這うように、ジェイムスは手前の通路へと戻っていった。
 風景に、幕を重ねるようにして、視界から光が抜け落ちていく。
 と、赤い閃光が通路を満たした。焼け焦げる臭いと火花の散る音が聞こえる。

「これで通れる!」

 ライトの光輪が壁に揺れ、複数の人影が手前の通路から飛び出してくる。
 先頭を切っているのは、ニット帽を被った長身の兵士だ。
 男は奥のドアを蹴り開けると、安全確認らしき動作をした後で大きく腕を振った。

「ケンド! エルザ! 行け! ホソダにリサ! もたつくんじゃねえ!」

 兵士が怒鳴り、後続の人影が次々と扉へ飛び込んでいく。その中に、見覚えのある肥満気味の少年の姿があった。
 一人――バイクウェアを着込んだ少女が留まろうとするような素振りを見せたが、中年の男に止められた。
 その間も発砲音が響いていた。まだ仲間がいるようだ。

「リタ、ハリー、ブラッド! ほんと、頼むぞっ」

 通路から声が響く。婦人警官が力強く頷いたが、あと二人の警官はびくりと肩を震わせただけだった。
 じりじりと後退してくる眼鏡の青年が現れた。身に着けた防弾ジャケットには"R.P.D."と書かれているのが見て取れた。手にしているのはショットガンか。
 兵士が援護に付き、スコープのついた突撃銃が火を噴いた。

(細田くんは……彼はこの町で死んだんだ。なら、なぜ彼の死に際の思念が読み取れなかったんだ……?)

 細田の名前もまた、名簿にはなかった。
 名簿に載る人間と載らない人間の違いは何だ。
 細田に関して言えば、彼はとうに死んでいるということだ。しかし、ジェイムスは死んでいたにも関わらず、名簿に載っていた――。
 銃弾で身体をズタボロにされながら、黒いローブとフード付のケープに身を包んだ男が兵士に襲いかかる。

「死ね……死ね……死ね……死ね……」

 ラテン語系の言葉を溢す男の口からは幾本ものの触手が蠢いていた。

「英語喋れこの野郎!」

 青年の散弾が、フードごと頭部を吹き飛ばす。
 二人は時間を稼いでいるのだろう。二重の銃声が響き合い、薬莢が床の上で跳ね続ける。
 銃弾が尽きたか、拳銃に持ち替えた青年が悲鳴を上げた。 

「なんだ、あいつ――!?」

 手前の通路から弾丸のように影が飛び出し、青年の悲鳴が掻き消えた。青年の身体は、糸が切れたように力なく倒れた。一拍遅れて、ごとりと床に丸みを帯びたものが転がる。 

「ロイ――っ……畜生!」

 兵士は踵を返す。その後を、長い爪を備えた類人猿のような怪物が追いかけて行った。
 通路には、青年の死体が残された。


(二)

≪まふゆ! まふゆ!?≫

 頭に響く声に、真冬は顔を歪ませた。
 痛みが頭を刺し、吐き気が込み上げてくる。
 胃液を呑み込み、瞼を開いた。くしゃくしゃにした羽入の顔が眼前に広がっている。
 確かめるように手を握ったり開いたりしてみる。ゆっくりと身体を起こす。足がふらつき、肩を壁にぶつけた。それを支えに、もう一度立ち上がる。
 左手を頭に当てると、生乾きの血が指先に付着した。血で髪が固まり、不快な重みを伝えてくる。
 手探りで床を探す。鉄パイプと懐中電灯はすぐに見つかった。倒れた拍子にスイッチがオフになってしまったらしい。
 懐中電灯を点け、瞬きをする。通路からは血錆が消え、代わりにどこからか入り込んだらしい霧が薄く漂っていた。
 ショルダーバッグの中身も散らばっていたが、目についたものだけを回収するに留めた。
 部屋の壁の一部が破壊されている。その真下の床に、拉げた拳銃の残骸が散らばっていた。あの衝撃は、これが掠めて行ったことによるものだろう。

「福沢さん、どこですか……?」

 大声を出したいが、うまく呂律が回らない。倒れた時に打ち付けたのか、脇腹の痛みもぶり返してきていた。
 食い散らかされた警官の死体を避け、北に伸びる通路を照らす。
 折り重なる死体の向こうに、半ばで壊された鉄格子が見えた。

≪まふゆ、あのあの――……≫

 何事か告げようとする羽入を意識的に無視する。
 通路中ほどの部屋の扉が半開きになっていた。読み取った"記憶"の中で、高峰やジェイムスが入っていた部屋だ。
 "204"と刻まれたその部屋を覗きこむ。
 人が出払って随分と経つのだろう。床には朽ちた天井板の破片が散らばり、剥がれた壁紙が垂れ下がっている。
 腐臭に、真冬は咳き込んだ。
 綿のはみ出たベッドマットの上に、女性が寝転がっている。
 死体はもう変色し腐敗が始まっていたが、それでもこの女性が美しかったことは分かった。
 遺体の傍には、大ぶりのナイフが安置されていた。猫や魔物除けのようだが、ナイフそのものは女性が持っていたものだ。
 首に開いた創が第二の口のように見えた。そこから噴出したであろう血潮が、天井や壁を赤茶色に染めている。
 腹の上で組み合わされた両手には、鈍色の認識票が見えた。
 真冬は眉根を寄せた。彼女の胸に、奇妙な形をした枝のようなものが突き立っている。
 マクスウェルの言っていた、奇妙な弔いとはこのことだろう。
 元々、仏教はその教義において遺体の扱いに対し無頓着なこともあり、日本は遺体を丁重に扱うという観念は相対的に希薄な文化を持っている。
 それは戦後からである土葬から火葬への変遷が迅速に広がったことからも分かる。
 また、中世において九相図が多数制作されたことからも推測できるように、曝葬や林葬、水葬なども日常的に行われていた。
 しかし、枝を、それこそ吸血鬼を封じるかのように死体に突き立てる葬儀法などは聞いたことがない。
 ふと、羽入がこの部屋に入ってきていないことが分かった。彼女が何かを怖がるように、入り口の縁から顔だけを覗かせている。
 その視線は、女性に――引いては突き立った枝に注がれているように見えた。
 真冬は直感的に、枝に触れた。
 そこから視えてきたのは、現し世とは全く違う混沌とした世界に聳え立つ大木の姿だった。
 思わず指を離す。同時に伝わってきたのは、あまりにも強すぎる生命の鼓動だった。枝には、まだ生命が息づいている。
 魔を滅する――高峰と一緒に居た太田という男の言葉が蘇った。
 祓いにおいて、西日本では少なからず生き物を贖物として用いることがある。
 彼が指したのは、この枝だと確信する。
 真冬は意を決し、枝を掴んだ。ぐずりと音を立て、女性から枝を引き抜く。心が痛んだが、枝のお蔭か知らないが、彼女の魂はこの部屋に留まっていないようだ。
 触れても、彼女の遺体からは何も流れ込んでこなかった。細田と同じく、魂の痕跡すらない。まったくの空っぽだった。
 枝をショルダーバッグに仕舞い、部屋を出る。

≪あのあの、その枝……僕には近づけないで欲しいのです……≫

 羽入がおずおずと告げてきた。それに、曖昧に相槌だけを打つ。
 気を失ってどれほど時間が経っているのだろう。玲子はとうにアパートから抜け出しているかもしれない。
 死体が山になった通路を選びはしないように思える。
 ならば東か。
 体の向きを変えた時、また傷が痛んだ。壁に手を突き、身体を支えた。
 スポーツバッグを投げ捨て、通路を駆け抜ける玲子が視えた。そして、その後を重戦車のように追いかける"鬼"の姿――。

「福沢さんっ」

 過去の映像でしかないと分かりつつ、真冬は痛みを無視して足を速めた。
 通路の突き当り――婦人警官たちが出て行った扉が破られている。
 階段を駆け下りる。踊り場の壁にも大きな穴が空いていた。悪い予感に焦燥を募らせながら、真冬は外へと続く扉を開けた。
 風が頬を撫ぜる。霧が町中を覆っていた。
 爪先が柔らかいものに触れた。
 懐中電灯で足元を照らした。真冬は息を呑み――そして瞑目し歯を食いしばった。
 玲子は居た。血に染まったセーラー服の切れ端に混じって、路上に散らばっていた。
 真冬は躊躇いなく玲子の肉片に触れた。
 死の間際の記憶が流れ込んでくる。
 外に飛び出た玲子の目の前に、"鬼"が降ってきた。
 はち切れんばかりに膨張した筋肉が上半身を覆い、短い金髪の中から牡牛のような角が一対、皮膚を突き破って生えていた。類人猿のように前かがみになっているが、立ち上がれば二メートルは優に超すだろう。
 捲れた口唇からはみ出した牙に、爛と光らせた紅色の双眸――しかし、その容貌には記憶にある、気の弱さと人の好さが残っていた。
 尻餅をついた玲子の両腕を"鬼"が掴み上げる。

「やめてごめんなさいすいませんもうしませんやめてやめてやめてや――!」

 磔のような格好で持ち上げられた玲子が泣き叫ぶ中、"鬼"は彼女の両腕を人形を壊す様に引き千切った。
 彼女の腕を手の中でに握り潰し、鬼は地面に転がった玲子の足を踏みつける。その上に屈みこみ、痛みに引き付けを起こしている彼女の顎をむしり取った――。
 真冬の指は彼女の亡骸から離れていた。
 羽入が心配そうに見上げてくるが、それに声を掛けてやることはできなかった。
 あの"鬼"は――あの青年だった。真冬が突き落とし、瀕死に追いやった――。人が生きながらにして"鬼"となる――彼の生霊が変じたのだろうか。
 なぜ、彼は自分を殺さなかったのだろう。死んだと勘違いしたのか。だが、玲子への執拗な破壊を見れば、その可能性も疑問が残る。
 判明しているのは、真冬が荒井少年のことに興味を持たなければ、玲子は死なず、青年は人殺しにならなかったということだ。
 玲子の最期に、妹の姿が重なる。慌てて、それを振り払う。妹は――深紅は違うと繰り返す。
 ふと、ずたぼろになった玲子がこちらを見ていることに気付いた。下顎を失くし、露わになった口蓋が唸る。
 彼女は身体の各所を欠損させた姿で真冬に迫ってくる。右肩にくっついた左腕を、ぎこちない動きで真冬に差し出した。ついてきてとでも乞うように――。
 真冬は射影機を構え、ファインダー越しに玲子を見た。

「すいません、福沢さん。もう、僕は一緒には行けないんです……」

 フラッシュと共に、地縛霊の姿は霧消していった。
 二度目の死を与えた事実が、胃液を逆流させる。
 それを呑み込みながら、真冬はある違和感を感じていた。
 霊とは魂に刻まれた記憶の残滓だ。特に地縛霊などは、現世との結節点が限定されているが故に魂そのものの本質とは大きく異なっていることが多々ある。
 しかし、それ以上に今の玲子の霊は脆すぎはしなかっただろうか。まるで、結節点以外の部分が全て抜け落ちてしまっているかのように。
 思考に逃げ込むことで、罪を逃れようとしているのか――真冬は自嘲した。ジェイムスの言葉が脳裏に浮かぶ。
 と、目の前に人影が飛び出した。青い制服を着た、十代半ばほどの少女だ。彼女は真冬に目を向けることなく、走り抜けて行こうとする。

「きみっ――!」

 引き止めようと、思わず手を伸ばす。
 指先が、彼女の肩に触れる。
 イメージが身体を駆け抜けていく。それは、これまででも類を見ないほどに強烈な力を持っていた。
 銀髪の女性を前に、少女が呻き苦しんでいる――
 男性の亡骸に縋りつき、金髪の少女が声を殺して泣いていた――
 黒山羊の姿をした異形を前に、男性が決然とした表情で立ち向かっていく――
 男性に肩車をしてもらい、はしゃぐ少女と、それをみて微笑む女性がいた――
 墓場のような場所で、一組の男女に赤子が拾われる――
 業火に焼かれた少女を、屈強な大男が身を挺して救い出す――
 女性に何度も殴られた後で、黒髪の少女が一人静かに涙を流していた――
 銀髪の少女と戯れ、黒髪の少女が柔らかな笑みを浮かべる――
 黒髪の少女が、隣を歩く女性の手を握ろうと、そっとを手を伸ばす――
 次々と、イメージが水泡のように湧き上がり、弾けて消えていく。
 やがて、混沌が満たす空間に、ひとつの巨大なモノが視えた。
 それは、言葉の枠に無理やり嵌めこむとすれば"サカナ"だろうか。
 その巨大な"サカナ"が死に、朽ちた遺骸は無数の欠片となって混沌の中に広がっていく。
 欠片は光や大地に変じるものもあれば、白い竜のような異形へと変じるものもあった。
 やがて、その欠片の一つが緑豊かな大地に降り立った――。
 弾かれるように、真冬は後ずさった。
 少女の姿はもうどこにもない。

「羽入、あの少女は何処に?」

 足元の少女に問い掛ける。羽入はただふるふると首を横に振った。

≪あのあの、まふゆは何故泣いているのですか?≫

 頬に触れると、指先を涙が濡らした。
 あの少女が持つ、父親への強い思慕に影響されたのだろうか。玲子の死に涙を流さなかったというのに。
 真冬は一つ息を溢した。少女のイメージの中に、ある一つの言葉が根強く残っていた。
 "病院"――少女は強くそれを念じていたようであった。
 それは使命感のように真冬の中にも残り、自然と爪先を西へと向けさせる。
 病院が何処にあるのか。真冬は知らなかったが、今は既に分かっていた。
 真冬は霧に包まれた路地を歩き出した。その少し後ろを、羽入が恐る恐るといった素振りでついていった。




【福沢玲子@学校であった怖い話 死亡】


【C-6/マンソン通り/二日目深夜】

雛咲真冬@零~ZERO~】
 [状態]:側頭部に裂傷(止血)、吐き気、脇腹に軽度の銃創(処置済み→無し)、罪悪感
 [装備]:鉄パイプ、懐中電灯
 [道具]:メモ帳、射影機@零~ZERO~、細田友晴の生徒手帳、ショルダーバッグ(中身不明)、滅爻樹の枝@SIREN2
 [思考・状況]
 基本行動方針:サイレントヒルから脱出する
 0:病院に行く
 1:ハニュウに話を聞いてみたい
 2:この世界は一体?
 3:深紅を含め、他にも街で生きている人がいないか探す

【羽入(オヤシロ様)@ひぐらしのなく頃に】
 [状態]:精神体
 [装備]:無し
 [道具]:無し
 [思考・状況]
 基本行動方針:???
 1:真冬にくっついていく


【C-6/カッツ通り/一日目真夜中】

エディー・ドンブラウスキー@サイレントヒル2】
 [状態]:鬼、真っ裸
 [装備]:無し
 [道具]:無し
 [思考・状況]
 基本行動方針:???????
 ※サイレントヒルに来る前、知人を殺したと思い込んでいます


※クリーチャー詳細付き雑誌@オリジナルは紛失しました。
※東側アパート(ウッドサイド・アパート)の二階通路に、福沢の水泳部バッグ(ハンドガンの弾(9発)、名簿とルールの書かれた紙)が転がっています。



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さらに深い闇へ 雛咲真冬
さらに深い闇へ エディー・ドンブラウスキー 最後の詩

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最終更新:2016年03月13日 15:34