最後の詩
〈始まりは一人の少女だった〉
燃え盛る炎の中、彼女は自身の生まれ変わりを男に預けた。
遠ざかる男の背中、消えていく
ハリー・メイソンの姿を見届けたアレッサ・ギレズビー。
その心には、連れて行かれる半身――――シェリル・メイソンへの羨望があった。
一度ひとつになったことで、彼女の記憶が、思い出が自分にもあるのだ。
優しい両親、温かい家庭……自分がどれだけ望んでも手に入らなかったものが、彼女にはあった。
自分がこの
サイレントヒルに呼ぶまで、彼女はその幸福を何の疑問もなく、何の苦労もなく享受していた。
それがただ、羨ましかった。
その時は、それまでだった。
自分の体が炎に焼かれ、自分の命が闇に消えていくのは――肉体を失くし、サイレントヒルの一部となることは受け入れた。
それから17年の時が経ち、再びシェリルはこの町にやってきた。
ヘザーと名を変えた彼女を救うべく、アレッサは彼女の前に現れる。
自分と同じ苦しみを与えるわけにはいかない。それは善意の行為で、彼女の優しさであった。
しかし、ヘザーはそれを否定した。
メモリーオブアレッサという名の異形が消えていく中、アレッサの心で育ったのは違和感であった。
なぜ自分の想いをわかってくれないのか。どうして自ら辛い道を選ぶのか。
疑問―――困惑。
なぜ彼女の行為は肯定され、どうして自分の思想は否定されるのか。
愛に包まれて育ったシェリルと、業に苛まれて生きてきた己の姿が互い違いに浮かぶ。
――――許せない。
困惑は憤怒になった。世界に対して、運命に対して。
自分が何をした。生まれた環境が違うだけで、どうしてここまで苦しまなければならない。
シェリルへの羨望は、ヘザーへの憎悪に変わった。
恵まれた半身は、自分を否定し見下した。ここでしか存在できない自分とは違い、肉体のある彼女はどこへだって行ける。
なんだってできる。それが認められる。彼女はよくて、自分はだめで、そんな世界を、因果を――――
許さない。
闇の中で、少女の感情は芽生え、成長していく。
霧の街は、その想いを受け入れた。街と体内に残った神の残滓がそれを歪めて叶えた。
始めは、霧で街を外界から隔て、裏に世界を作るだけであった。
ここまでは、いつものサイレントヒルと相違ない。
次に、アレッサは別の少女と出会った。
ハンナ。
彼女もまた、理不尽に苦しみ抜いた少女だった。
生まれながらに病弱で、その生涯のほとんどを寝たきりで過ごし、最後には最愛の母に否定され殺された。
そんな彼女が、アレッサの思想に共感し協力したのは、当然といえるだろう。
ハンナには外界を渡る“船”と、こちらに引きずり込む“手”があった。
一度入ったら出られない箱庭を作ったアレッサは、ハンナによってそこに他者を閉じ込める術を得た。
それでも霊魂が精々で、肉体のあるものを呼びこむことはできなかった。
蓄積されていく霊的な存在。外界と、そこを生きる者たちへの復讐は叶わない。
しかしこの時はそれでよかったのだ。結果的に彼女の望みは成就する。
ある時、彼女は舞台の中心部に、穴が開いているのを見つけた。
物理的なものではない。霊的なものだ。
それは
黄泉の門と呼ばれるもので、その穴は空間に対する扉であった。
自分たちの概念では存在しない異世界の門。
おそらくは、霊的なものが充満したこの世界を、この門は黄泉のそれと認識したのだろう。
それは、アレッサにとっては好機であった。あとはハンナの手が黄泉の門から異世界の存在を引きずり込む。
異世界の者は同じ世界の者を呼び寄せ、それは連なり積み重なる。
この頃、箱庭にも変化が現れた。サイレントヒルは見るものによって景色を変える。
それはこの街が対象の心理や回想を読み取り反映するからであり、それが集まれば、それはひとつの現実と化す。
言うまでもなく、それは外見の単純なコピーとは雲泥の差である。
亡者の記憶を読み取ったサイレントヒルはその姿を変容させ、歪なひとつの舞台を形作った。
やがて力は集まり、願いは叶う。
霊魂から始まり、死体や施設。ついには―――。
生者さえ、呼べるようになったのだ。
呼ばれし者が満ち、黄泉の門に門番を置いて封じることで、箱庭は完成した。
誰も出られない。誰も助けられない。
自分の憤怒を、憎悪を解消するための楽園。
あの理不尽な世界を否定するための術。
そうして始まったこの宴。
偽りの
ルールを掲げて呼ばれし者を殺し合わせる一方、異形たちにも襲わせる。
まるで自分が受けてきた苦痛を与えるように。
それが当たり前だと、それで平等だと。
誰かに言い聞かせるように。
サイレントヒルは罪を裁く場という者がいる。その認識は間違いではない。
彼らが無自覚に享受する安寧――幸福は、自分にとっては大罪なのだから。
「助けて欲しかったんでしょ」
闇の中から聞こえるハンナの声に、アレッサは振り向いた。
「わかるよ」
水面に映る腕の群れにハンナは目を向ける。
「私もそうだから。でも、誰も助けてくれないから。だから私たちは叫ぶしかないの。苦しいって。悲しいって」
ハンナは波紋を広げながら、アレッサから遠ざかっていく。
「もういくね。もう限界だから。あなたにはもう会えないと思う」
それはアレッサも同じことだった。サイレントヒルを導き、この宴を維持する力は、もう残されていない。
同じ世界の住人だけであるならば、もっと長くサイレントヒルの魔力で抑えつけられたかもしれない。
しかし、多種多様な世界の住人も組み合わされば、とたんにその抵抗は大きくなる。
アレッサが作り、贄を押し込めていた箱庭にはもうじき亀裂が入り、やがて壊れるだろう。
あるべき魂はサイレントヒルの魔力で変質した黄泉の門を通して、あるべき世界へ戻り、この街も元の姿を取り戻す。
肉体をもつ者は肉体があるがゆえにすぐに戻れるわけではないが、その存在が近しい人間――――同じ世界の住人を呼び寄せる。助けはすぐに来るだろう。
生者を呼ぶ方法には種類や法則がある。最初からこの町を知っているものは容易い。
この町を認識することで、ある種のつながりが生まれる。
この町に来ようとしている者はなおのことだ。来ようとしている意思を汲んで引き込めばいい。
呼ばれし者がここに呼ばれることで、それを起点にその呼ばれし者と関係のある人間を呼び込み、その人間もまた呼ばれし者にする。
アレッサはそうして生者たちを集めた。そうして宴を始めた。
だが、それももう終わる。
足元の水面に映像が映る。そこには黄泉の門とその門番が映っていた。
グラトンの姿はすでにおぼろげで、もうすぐ消滅するだろう。
そうなれば、ここに封じ込めていた霊的な存在は消えていく。
今のサイレントヒルはこの霊的な存在を集約することで維持されている以上、それはこの箱庭の瓦解を意味する。
だが、せめてその前に。
アレッサの背後に異形たちが現れる。ここまで取っておいた切り札。消える前に、せめて一人でも多く。
そのために放たないでおいた『鬼』。しかし、今の自分にはこの鬼たちを向かわせる魔力はない。
ただでさえ足りない魔力をシェリルに分けているのだ。どこかで魔力を補充する必要がある。そのための目星はつけてある。
これを乗り切れば、この宴を生き残れる。
それを教えるつもりはない。精々苦しんで死んで欲しい。
自分だって、いつ終わるともしれない苦痛の時を生きてきたのだ。
そうしていい権利があるはずだ。呼ばれし者がそうなっていい義務があるはずだ。
そんな独りよがりの理屈に身を任せて、アレッサは歩き始めた。
「お姉ちゃん」
そこに、おかっぱ頭の少女が現れた。
「やっと見つけた」
アレッサは構わず、闇へと消えていこうとする。自分にとっての最後の詩を綴るために。
「お願いがあるの」
そこでようやく、彼女は足を止めた。
〈『オヤシロさま』は、ずっと見ていた〉
今日も楽しかったのです、梨花。こんな日がいつまでも続くといいのに。
え? 眠れないから話をしろ? まったく梨花はお子様なのです。
僕がいない間はきっと涙で枕びしょびしょだったのです。
あぅあぅ。冗談なのです。だからそのワインはしまうのです。
……しまったですか? じゃあ何の話をしますですかねー。
あの話の続き? あ、そういえば梨花はあの話の途中で寝ちゃったのです。
梨花はすぐにおネムしちゃうお子様だから寝かしつけるのはチョロいのです。
あぅあぅ。これも冗談なのです。キムチは冷蔵庫に封印するのです。
……じゃあ再開するですよ? あの血と錆と霧の街で、僕が何を見てきたのか。
あれから、僕はまふゆの
カメラの中に居たのです。まふゆが行動するために、いつまでも傍観者じゃ駄目だと思ったのです。
ただ、本当はいきなり見知らぬ土地に来て、何の手掛かりもなく動きまわるのは危険なのです。
助けを待ってじっとしているのが一番なのです。結局、誰も助けにこないまま、戻って来たのですけど。
どうして戻ってこれたのかは、僕にもはっきりとはわからないのです。
ただ、僕なりに考えはあるのです。
僕たちみたいな存在――梨花たちのような存在も――は、往々にしてその土地に依存しているのです。
僕にとっては、それはここなのです。つまり、僕と雛見沢は、見えない線でつながっているのです。
この線、実はゴムひもみたいなものなのです。
だから、引っ張られて別の場所へ連れて来られても、線は切れずに、伸びただけなのです。
ゴムは伸ばしたらどうなるか梨花知ってますか。そうです。ゴムは縮もうと――戻ろうとするのです。
この力があの街の引っ張る力より強くなれば、枷や重りになる物体のない僕は意外とあっさり元に戻れるのです。
修正力? その言葉が適切かはわからないのですが、多分そうなのです。
考えられるとすれば、今まで抑え込めていたその修正力を、抑え込めることができなくなるほどに街の力が弱くなった、ということなのです。
ほかの人もそうなのかはわからないのです。僕と同じような力なのか、同じだとしても加えられる力まで同じだとは限らないのです。
けど、多分、街の力全体が弱くなっていったんだと思うのです。
だから何度も言ったように、家出でもなければ逃亡でもないのです。
だからどうにか無事に帰ってきて早々、あんな仕打ちはあんまりなのです。シュークリームじゃこの機嫌は直らないのです!
…………え、そんなに? しかもそれ以外にも……。
…………わかったのです! 今回だけですよ、あぅあぅ☆
まったく。梨花も一度あの街に行けば、嫌でもわかるのです。あんなところ、行きたくて行く場所じゃないのです。
すっかり話がそれました。元に戻すのです。
ええと、その後太った男がやってきて、何やら叫んでいたのです。多分、感情に任せて適当に走っていただけなのです。
やっぱりというか、僕にはまったく気づいていませんでした。
その頃になると、修正力のおかげか、僕の存在もすっかり曖昧になっていましたから、しかたないといえばしかたないのです。
多分、梨花でも集中していなきゃ見つけられないのです。
まふゆが男の人――もうあれは鬼です。僕とは違う意味で――を必死で説得しました。
でも、だめでした。カメラを構えたのですが、もう遅かったのです。
弾き飛ばされたカメラと、その中に入っていた僕は、まふゆがバラバラにされていくのを眺めているしかありませんでした。
その悲鳴か血の臭いのせいかしりませんが、腐った人間たちがうめき声を上げて、道に溢れていったのですよ。
ゾンビってやつなのです。ホラー映画じゃないですよ。
ちゃんとこの目で……ああ、でも、人から言われるとそういう撮影にしか思えないのです。
でもそれくらい、あの街は危険で異常なのです。梨花は行っちゃダメなのですよ。
部活の皆で? あー、たしかにそれは心強いですが、多分無理なのです。山狗とかとは次元が違いすぎるのです……。
腕も足もなくなってしまったまふゆは何かブツブツ呟いていたのですが、もう虫の息で僕には聞き取れなかったのです。
ゾンビの群れは太った男に覆いかぶさって、外側からはゾンビしか見えなくなってしまったのです。
太った男は抵抗をしたのか、そのゾンビの山はわずかに揺れたのです。でも多勢に無勢。すぐに抵抗は終わったのです。
『ァァアァアァアアァァッァアァ』
腕に、脚に、噛み付かれた太った男は、悲鳴のつもりなのか、威嚇のつもりなのか、叫んだのです。
やがて声は途切れ、血だけがそこから飛び出して……。
その光景を最後に、僕もまたこの街から消えていったのです。
僕はカメラに封印されていたのですが、そのカメラもカメラに封印する技術も、あの街にとっては異物なのです。
だからそこに居続けることはできなかったのです。仮にまふゆがいても、修正力によって長くはなかったでしょう。
結局僕は例によって例のごとく傍観者でしたのですよ。
梨花だったらどうだったのでしょう。そこでも、惨劇に挑戦するのです?
梨花? 梨花ー。……寝ちゃいましたのです。
でも、悪いことばかりだったんじゃないんですよ? あの世界の境界を超えるには、意志が必要なのです。
自分の世界に帰りたいという意志が。自分がいるべき世界への思想とでも言うのかもしれません。
だから僕は、この幸福な日々の世界にたどり着くことができたのです。
明日も楽しい日になるといいですね、梨花。
〈A-3/雛城高校・裏山(四鳴山)〉
ヘザーたちは、その場を動こうとしなかった。というより、動けなかった。
ヘザーは突然の喪失で心の整理を必要としたし、阿部もまた、気を遣っていた。
彼は泣きじゃくる女と子供を無理やり連れ回せるほどの押しはないし、むしろ巻き込まれるタイプであった。
そしてエドワードは、演技ゆえに自主性をほとんど放し、大人二人の言動に依存している。
結果、三人は自発的に動こうとしなかったため、動くには外的なきっかけを必要とした。
はっとなり、周囲の変化を見回すヘザー。阿部もやることができてこれ幸いとばかりに、目をあちこちに動かす。
エドワードはそれを契機に泣き真似をやめ、さほど興味が無さそうに霧に沈む山を見た。
「これで元通りってか……?」
「随分薄くなった気がするけどね、霧」
「ってことは、前よりずっと安全になったってことか?」
「そりゃ、見えやすくなったわけだし」
「よかったなぁ」
「うん!」
阿部に話を振られたエドワードは、内心のどうでもよさを隠して無邪気な返事。
本当は色々と“やりやすい”濃霧の方が都合が良かったのだが。
「?」
この停滞した空気がさっさと流れ出さないか。退屈に感じた心でぼんやりと前を見ていると、霧の中から誰か現れた。
遠くから来て、だんだん近づいたという現れ方ではない。霧の中に、突然出てきたのだ。
「アレッサ!」
誰だ、と自分が問う前に、ヘザーが口を開いた。アレッサと呼ばれた少女は、ヘザーに構わず、自分を一直線に見ていた。
そして手をかざし――――
「ぐっ」
エドワードは胸を抑え、たまらず悲鳴を出す。まるで心臓を鷲掴みにされたようだ。そして力が抜けていく。
これは、自分の魔力を吸い取ろうとしている。
唐突に出てきたあたりから怪しいとは思っていたが、間違いない、この女は自分側の存在だ。
――――まともな人間じゃない。
「お、おい!」
阿部の驚く声は無視する。もはや擬態をしている場合ではない。
エドワードは瞬時に元の異形へ姿を変え、愛用のハサミを――――
「があっ――――」
自身の胸を突き破る金属の棘――背後から槍で刺されたのだと気づくのに、数秒かかった。
振り返ればそこにいたのは、三角錐を被った男。
「てめえ!」
阿部がその処刑人に掴みかかるが、あっさりと振り払われて吹き飛ばされる。
そのまま大木の幹に頭を打ち付けた阿部は、それきり動かなくなった。
その間にも魔力を吸われたエドワードは徐々に干からび、萎み、やがて小さな骸を晒した。
小さな年老いた老人のような白骨。
それがそこに残されたもので、エドワード――――シザーマンの末路だった。
「いったいこれはどういうこと!」
めまぐるしく変わる状況に、ヘザーはヒステリックな叫びを上げる。
アレッサはそれに反応することなく、走りだす。
ここでの目的は達した。
「待ちなさい!」
後はヘザーを誘導してから、霧にまぎれて消えればいい。
それまでがアレッサに残された役目。
そこから先は、シェリルの役目だ。
〈B-6/アルケミラ病院〉
以前より薄くなった霧の中、一人の男がそこに現れた。霧とともに現れた男は、もはや人とは呼べなかった。
土気色――茶色にさえ映る皮膚。右肩には赤く大きな目があり、そこから太い血管や筋繊維が伸びている。
かろうじて残っている白衣が、その男を医者か科学者だと示しているが、もう誰もそうだとは思わないだろう。
G――G-ウイルスで誕生したその生命体は、かつてはウィリアム・バーキンと呼ばれた研究者だった。
G-ウイルスを開発した彼は、その後瀕死の重症からG-ウイルスを自身に投与し、再起を図る。
たしかに彼は窮地を脱したが、それにより彼は鬼――怪物と化した。
さらに言えば、その際のT-ウイルスの流出がラクーンシティのバイオハザードを引き起こしたわけだが、それはもう、彼にとってはどうでもよかった。
〈Persist〉
「いいか、慎重にだぞ」
「わかってるわよ」
病院に入った水明とユカリは、懐中電灯を片手に通路を進む。
まばらに生き残った電灯はほとんど役に立たず、時折光ってはすぐに消える。
「向こう見ずは控えてくれ。何が起こるかわからん」
「わかってるって。うるさいなぁ」
これでも自制しているのだ。本当なら、一にも二にも走ってしまいたい。
チサトのこともある。できるだけ早くミカに会いたかった。
窓か扉でも壊れているのか、どこからともなく風が入ってくる。
それに伴う物音はまだいいが、霧まで入ってくるから視界がより悪くなる。
暗い闇に加えて白い霧。それを照らすのは懐中電灯と、たまに仕事をする電灯のみ。
途中で階段を見つけたが、まずは一階ということでそこを探した。
しかし鍵が掛かっていたり壊れていたりして、入れるところは限られており、入れたところはあまりなかった。
「どうしたの?」
ユカリが拾った栄養剤と救急キットをショルダーバッグにつめていると、そばの水明が足元の物体をじっと見ていた。
それは怪物の死体で、とても正視できるものではない。
まるで人がトカゲにでもなったようなそれは、何かに引き裂かれて事切れていた。
「ここから離れた方がいいかもしれない」
「なんでよ」
「さっきも同じような亡骸を見たが、どうも数が多い」
「いいじゃん。襲ってくるわけじゃ――襲ってこなくなって」
それは好都合な話であった。
「これ以上の脅威が近くにいるかもしれないんだぞ」
「味方かもしれないでしょ。もしかしたら、ミカはその人たちに保護されてるのかも」
咄嗟に浮かんだ考えだが、案外的を射ているかもしれない。ユカリは内心頷いた。
「これが人の手によるものとは」
「もういいじゃん、どっちでも。ていうかさ、じゃあここでグダグダやって何か解決するわけ?」
たまった鬱憤というものがあった。
それはここに迷い込んだことに始まり、自分の常識や能力が通じないことによる無力感、
出会ったこの男の荒唐無稽とも言える薀蓄や仮説。
今までの不可思議と勝手が違うこともあるが、自分の思い通りにならないことが大きな原因。
いつもなら、わからないにしても行動すればどうにかなった。
自分はそれを諌める――コントロールする側であったし、行動はほとんど確実に報われていた。
だが現状はこうだ。
理解できないことは多く、それでも自分なりに行動しようとすれば途端に注意や邪魔が入る。
理屈ではわかるのだが、だからといって簡単に割り切れる程大人でもない。
イライラする。
一言でいえば、これだ。
「気をつけるに越したことはない。でなければ、命を失いかねない」
水明はそれだけ言って、ユカリが二階へ脚を運ぶのを止めはしなかった。
明確な危機ではないため、肯定しきれない一方で、否定もできないのだろう。
二階に上がると、にわかに何かの気配を感じた。それは人間なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
ともかく、ここには何かいる。ユカリにはそれがわかった。
「これを見てくれ」
水明が懐中電灯を足元に向ける。そこには血痕と、赤黒く染まったガーゼが落ちていた。
「負傷と、その治療の痕跡だ。血液の変化具合からいって、そう経ってはいない」
「ほらね」
それ見たことかと言わんばかりにユカリは胸を張る。
「やっぱりここにミカがいるのよ」
「そうと決まったわけでは……仮にいたとしても、負傷している」
「そりゃこんなところにいれば怪我だってするわよ。あたし達だってそうでしょ。
大切なのは、それを治療できるくらいの元気がある――生きているってことよ」
「……かもな」
情況証拠が少ないゆえか、調子が出てきたユカリに配慮してか、水明はそれ以上異を唱えることはなかった。
踊り場から通路へ出ると、そこも一階と似たようなものだった。
老朽化というのはないのだが、破損や汚染がひどい。どこからともなく入ってくる霧も合わさってひどい有様だ。
救いは数少ない電灯がたまに仕事をするくらいか。
奥に見えた扉を開く。そこはまた道で、扉が三つあるのがぼんやり見えた。
奥に閉まったのが一つ。右に開いたままのが一つ。そして左に、
「センパイ?」
ミカがいた。彼女は、左側の扉から出てきたところだった。
すぐに明かりが消えるが、見逃すものかと懐中電灯を向ける。
「ちょっ。眩しいなぁもう」
反射的に目を隠されたが、それは間違いなく――――
「ミカ!」
自分の大切な後輩だった。
ユカリは走りだす。今度は止められなかった。
いや、もう止められるものか。今度こそ、自分は彼女を捕まえるのだ。
こんな風に。
戸惑うミカを、ユカリの腕が包む。もう離さないとでも言うように、強く。
「センパイ、こーいうのはあたしの役目じゃ……らしくないですよ」
「うっさいバカ。バカァ……」
涙ぐむユカリにつられるように、ミカの目にも涙が浮かぶ。
腕に感じる熱や音。たしかにミカはここにいる。
この残酷な世界においても、それは確かなる事実であった。
ようやく、ようやく掴んだ。
この一年は、ムダではなかった。
感動や歓喜がとめどなく溢れてくる。
もう何かいらなかった。これで充分だった。
この瞬間が、幸福が永遠だったらいいのに。
ユカリは願う。
そしてその願いは、叶う。
〈Cautious〉
一瞬だった。
空気が揺れ、それだけで目の前の二人が物言わぬ肉塊になった。
潰れて混ざった少女たちに言葉はなかった。
悲鳴を上げる暇どころか、気づくこともできなかっただろう。
水明は飛んできた血を避けることもできず、呆然とするしかなかった。
「何が起きたの……」
ミカに遅れて、人見が左の扉から出てきた。
調査で得られた情報が確かなら、そこはナースセンターのはずだ。
右の扉そば――手術準備室前に、影があった。
形は人のようでいて、そうではない。一部が人間のそれとはかけ離れている。
パッと電灯から光が走る。
その正体はやはり、怪物だった。
全体的に赤茶色に染まっているのもあるが、特異なのは右半身。
突起のように張り出した肩、脇の辺りにある巨大な眼球。そしてその手に握られた鉄パイプ。
そこから垂れ落ちる血や引っ掛かっている肉が、少女二人の殺害を無言で証明している。
『UAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA』
怪物は、吼える。
それがオカルトの産物でないと、水明は信じられるだろうか。
それが科学の産物であると、人見は思うだろうか。
いずれにせよ、
今はただ、目の前の現実を受け入れねばなるまい。
「逃げろ!」
先に動けたのは水明だった。人見の前に立ち、銃を構え――――
それより早く、異形の手から触手が伸びた。
それは水明の口を潜り、彼はたまらず膝をつく。
「あ、ああ……」
目の前で一連の悪夢を見てしまった人見は意味のない言葉を垂れ流し、ただ呆けて眺めているしかなかった。
数秒の後、ようやく。
「こんなこと……信じない」
それだけ言い残し、横に振るわれた鉄の棒に頭を潰された。
ただ、走った。
いや、自分はそう思っているだけで、本当は歩くような速さだろう。
何もかも捨てて走った。
あの怪物はどこかへ行ったらしい。追ってもこないし、姿も見えない。それ以上は考えられなかった。
ああ、なんて愚か……いや、傲慢だったのだろうか。
心のどこかで、思っていたのかもしれない。
まるで自分が特別で、それが当然であるのだと。
だから自分が謎を解いて、事態を解決に導くのが役目だと。
胸をおさえた水明は自嘲した。結局やったことといえば、薀蓄や推測を披露して悦に入っていただけ。
何の事はない。自分も、その他大勢に過ぎなかったのだ。
吹けば飛ぶような、安い命。
その生命も、もうすぐ尽きる。
理屈ではない。ただ、そう直感する。本能がそうだといっている。おそらく間違いではないだろう。
だから、ただひとつの願いのために走った。
その時が来るまでに、あいつに会いたかった。
<Wild animal>
霧は薄くなったが、だからといって遠くまで見渡せるわけではない。
その一方で、より光が届くようになったことはマイナスだ。
いよいよ外での活動が辛くなれば、施設を渡り歩くか、そこで夜を待つしかあるまい。
いや、もはやそれを考える必要もないだろう。
もう、もたない。
体中から剥がれていく同化した同胞の霊魂。
おそらく同胞のほとんどはもうここにはいないし、残った同胞もまともに動けないだろう。
自分が行動できるのは、捕食によって総量が増えている恩恵だ。こうしている今も自身が殻から抜けていっている。
この街を抜けた先にあるのは別の世界。あるいは母体か。
なんらかの理由でここに封印された異物が、なんらかの理由で解放されようとしている。
おぼろげながら、そんな気がした。
“それ”は一直線に走る。目が使えなくても、鋭い鼻がある。その鼻に入る臭いがあれば、追跡には充分だ。
そこには求めるものがある。
そしてそこには、相変わらず邪魔者がいる。
奴と戦うのはこれで四度目――戦わなかったものを含めれば五度目――か。
どれも奴の手で――奴さえいなければ――殻の確保を阻止された。
しかし、もうあの時の殻ではない。これには、より一層の力がある。まだ、力は残されている。
自分が殻を確保するのが先か、自分が消えるのが先か。
仮に殻を確保できたとしても、それは意味がないのかもしれない。
理屈ではないのだ。この感情は――――
執着は。
――――今更か。
“それ”は小さく鼻を鳴らした。
〈B-3/路上〉
小暮という男は実直な男である。腹の中ではどう思おうと、上司の命令には忠実である。
ゆえにせっかく再会できたにも関わらず、その上司と別れることになっても、それは受け入れねばならなかった。
「よろしいのですか」
「自分は、部下でありますから」
遠のく背をじっと見ていた彼に、霧絵は問う。二度目のサイレンが鳴ったことで、闇の代わりに霧が視界を狭めていた。
「氷室さんはよろしいのでありますか」
「風海さまのおっしゃることに間違いはありませんでしたから」
「そのとおりであります」
これに欠陥や矛盾があれば、僭越ながら指摘していたものだが、理に適っている以上、それを否定することはできない。
「それでは、参りましょうか」
「はい」
背中に感じるしっかりとした重み――命の感触に小暮は気を引き締める。
自分だけの問題ではない。ここには、この手には、守るべきものがある。
「小暮さま」
「なんでありますか」
「もし私が足手まといと思われましたら、捨てていってください」
「またそんなことを」
「拒まれるのは承知しております。しかしだからこそ、小暮さまのような方が私のせいで命を落とされるのは忍びないのです」
「ぬぅ……」
そうまで言われては、頷くのも礼儀ではあるが……やはり……。
「いえ、だめであります。氷室さんは自分が守ると――それが自分の本分でありますから」
「ありがとうございます」
「こちらこそ、氷室さんには感謝しております」
不思議そうな顔をする霧絵。
「自分一人では、ここまで心を穏やかにはできなかったでしょう。氷室さんがいてくれたから、ここまで安心できたのであります」
言ってから、小暮はそこに気恥ずかしさを覚えた。厳つい顔に、朱が広がる。
ゴホゴホと場を紛らせる咳を吐く。しかし奇妙な雰囲気は拭えず、ある種の気まずさが流れた。
しかし、それもどこか心地よくて……。
「小暮さま……」
霧絵の囁く声、感じる温もりと柔らかさ。
にわかに感じる“女”に、小暮はさらに心を乱す。
「私は」
そこで霧絵ははっと声を漏らす。
「これは……いえ、しかし。まさか」
見れば、彼女は闇を見上げ――いや、見ている先は氷室邸か。
「黄泉からあふれる災厄を防ぐ門。しかしここでは、その役目はむしろ逆……」
霧絵は小暮を見る。その顔は切迫していて、何かを自分に伝えたいようだ。
「小暮さま――!」
何かが爆ぜる音がした。
「氷室さん……?」
提灯が――彼女が持っていた明かりが落ちる。
闇をかき消し、自分を照らしていた光が消えていく。
ずるりと落ちていく体を止めようとすると、滑って叶わなかった。
意図せず、自身の手を見る。
その手は赤く染まっていた。
「氷室さん!」
眼下の彼女は――正確にはその背中から――流血していた。
ぽっかりと開いた穴から流れる血が、まるで別世界のもののようで信じられなかった。
しゃがみ抱きかかえた霧絵の肌はさらに白く――蒼白になっていた。
「小暮さま……」
わずかに揺れる腕を彼女は小暮に伸ばす。
生きている。
その事実に小暮は安堵や歓喜をした。まだ生きている。まだ守れる。
死んでいないのだ。
その事実さえあれば充分。
使命感が、普段ならば逃亡や気絶を図る小暮の心を支えていた。
いつものように仲間などいない、絶望的な状況が彼から逃げ道をなくしていた。
「氷室さん、大丈夫であります。傷は浅いであります。すぐに治療すれば治るでしょう」
その冷たい手を握る。
「…………あ」
小暮の言葉に安心を感じたのか、
「ありがとうございます」
霧絵は微笑む。
そして彼女の顔は爆ぜた。
飛び散る血液や脳漿……彼女を形作っていたすべて。
そのすべてを顔中に浴びた小暮は、
「う…………うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
叫ぶしかなかった。その声に群がるように、鋭い何かが殺到する。
〈Cautiously〉
「小暮さん!?」
小暮たちより少し離れたところ、騒ぎを聞きつけた純也は振り返る。
その腹に、痛みが走る。
「なっ」
右脇腹に感じる熱。見れば、そこからじわりと赤い染みが広がっている。
撃たれた。
そう判断するのに数秒。
それが間違いだと気づくのに数秒。
霧の向こうからやってくる影に気づくのに数秒。
粘着質のある音を伴ってやってきた異形。
蜥蜴。第一印象はこれだ。赤茶色に変色した肌に、露出した脳。血をしたたらせた長く鋭い舌。
人間どころか、普通の生物ではない。
瞬時に、純也は痛感した。
「風海……!」
膝を折った純也に近づく梨花もまた、その存在に気づく。
「逃げるんだ梨花ちゃん!」
激痛で震えた声でそう叫んだ。返事の代わりに彼女は走り、霧の向こうへ消えていく。
いや、そうはならなかった。短い悲鳴を上げて、彼女は倒れる。白い霧に混じって、赤い血が広がった。
一体ではなかった。梨花とは入れ替わりに、蜥蜴の異形が複数やってきた。
それが
リッカーとラクーンシティでは呼ばれていたことを風海は知らない。
小暮の方を見やる。あちらもあちらで、リッカーに囲まれている。
冷たい汗が流れる体で、純也は拳銃を引っ張りだす。
勝てる見込みはない。
だが、ここで倒れるわけには……。
引き金を引く。しかし痛みで朦朧とした意識で当たるはずもなく、無為に銃声を重ねるだけだった。
そのうち銃を握った腕を舌で貫かれ、純也は倒れた。
遠くで小暮の怒号か悲鳴のような叫びが聞こえるが、その意味を知ることはない。
死ぬ。漠然と風海は直感する。これまでも何度かあった死の危険。しかし、今度は絶対で、どうにもならないだろうと思った。
じわじわと近づく蜥蜴の群れ。近くで見ることでわかったことだが、この異形には目が――視覚を司る器官が見られない。
もしかしたら、視覚がない分、聴覚に優れているのかもしれない。今更そんな推測、何かの役に立つとも思えないが。
これまでか。純也は観念したように目を閉じる。
遠くで、何かの足音がする。蜥蜴のそれとも人間のそれとも違う。例えるなら、トラやライオンのような猛獣の……。
かすんだ視界が、その正体をとらえた。こちらに異形が近づいている。あれはなんと表現していいかわからない。
犬の奇形児が成長したらああなっているかもしれない。ところどころ、犬を思わせるようなパーツが黒い布の隙間から見えるのだ。
それは倒れている小暮を踏み潰し、純也の前を通り過ぎていった。
蜥蜴の群れの一部は轢かれ、その音につられるように群れは異形の後を追う。
しかしスピードが違いすぎる。そのうち追い切れず見失ってしまうだろう。
チャンスだ。
純也は残された命を振り絞って立ち上がる。腕はもう上がらない。指は――手はどこかへいってしまった。止血のしようがない。
ピクリとも動かない梨花、脊椎や内蔵が潰れている小暮、首から上のない霧絵。
三人をぼんやりと眺めてから、純也は歩き出した。
もう助からない。自分を含めて、誰も。
だから歩いた。
生きて脱出する。市民を保護する。
それが無理ならせめて……。
純也は霧の向こうにいた人物を見つけて、苦笑する。
もし神がいるなら、感謝すればいいのだろうか。
最後の最後で、願いを叶えてくれるなんて。
「兄さん」
蹲っている男は、間違いなく兄だった。水明は純也を認めて、笑う。
そして、腹を突き破られて死んだ。
「なんだ兄さん。そのおまじない、役に立たないじゃないか」
胸元から腹にかけて書かれていた
太陽の聖環は破られ、もはや皮に浮いた落書きでしかなかった。
そこから飛び出したオタマジャクシのような生物は純也の首に食らいつき、食いちぎる。
そこから先の記憶も意識も、純也にはなかった。
ただ、諦めたような笑みを浮かべて倒れた。
〈B-3/湖畔〉
対象となる生物――自分と遺伝子的差異のない生物――を追っていた彼が行き着いたのは、この湖畔だった。
目の前で、水柱が立つ。それを反射的に見上げていたGは、次の瞬間には姿を消していた。
ちらりと見えたのは、巨大な口。
デルラゴ。Gと同じく、ここに呼ばれた存在。かつては皆に恐れられ、それゆえに誰もデルラゴが棲む湖には近づかなかった。
このようにして、捕食されるためだ。
湖畔には再び静寂が訪れた。
そして数秒後、静寂は再び破られた。
水中から浮上したデルラゴはのたうち回り波紋と飛沫を撒き散らす。
透き通った水に戻っていたはずの湖は、一度目のサイレンのように赤く染まる。
やがて、腹を上にしてデルラゴの巨体がぷかりと水面に浮かんだ。
その腹から、血の噴水。
中心には、Gが立っていた。その姿は、さきほどよりさらに異質なものだ。
皮膚は返り血もあって赤く染まり、上半身は右肩を中心に肥大化。
その右腕はより凶暴なものになり、デルラゴの腹を引き裂いたらしい巨大な爪は、臓物と体液がこびりついている。
「UAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA」
Gは叫んだ。その腕には、どろどろに溶けた骸があった。
かすかに残る髪の毛や骨格から、Gはそれが対象であると、かつての娘の姿だと察した。
「UAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA」
この咆哮の意味するところはしれない。大切な母体の喪失によるものか。
それともどこかに残った父の性がそうさせたのか。
「UAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA」
誰にも――Gにさえも、わからない。
そばにそびえる時計塔は、ただ淡々と時を刻むのみ。
〈C-2/教会〉
「父さん!」
「シェリル!」
その声に、先行したシビルを押しのけて、ハリーは駆け出す。
自分を求めて走ってきた娘を片腕で抱き上げた彼は、久方ぶりの笑みを浮かべた。
「嘘……本当に……」
狼狽するシビルをよそにメイソン親子は再会を喜ぶ。
その光景にともえは安堵しつつ、同時に悲しみを感じた。
彼の娘が見つかってよかった。しかし、一方で自分の父は……。
「ちょ、ちょっと待ってハリー」
娘をおろし、背負っていた美耶子を祭壇に安置したハリーはなんだとシビルに顔を向ける。
「おかしいわ。だってシェリルはもう」
早口で掻い摘んで過去の事件を説明した。シェリルの失踪から始まり、ギレスピー親子の悲劇のこと。
そしてアレッサとひとつになったシェリルの最期。つまり、ハリーが自分と異なる時代から来ているということ。
しかし……。
「その、シビル。私も作家の端くれだ。そういう考えを否定する気はない。しかし……」
困ったように悩んでいるハリーに、シビルは違うと悲鳴を上げた。
まるで『あなたは疲れているんだ』と言われているようなのが癪に障ったようだ。
「ハリー、話を聞いてちょうだい」
「ああ、とりあえずここを出てからだ。行こう、シェリル」
手を引かれた少女は、しかし首をふった。
「だめ。この街を出るんでしょ?」
「そうだ。帰ろう」
「だめなの。私はこの街から出られない。だから一緒にここで暮らそう?」
娘のわがままにハリーは訝しむ。
しかし、それがただのわがままではなく、自身の運命を告白しているのだとすぐに気づいたようで、叱ることはなかった。
「私はあなたの娘としての記憶。肉体はもうどこにもない。この街の助けがないと、この形を保てない。だからここから出られない」
ここではじめて、ハリーはまともにシビルの話を聞く気になったらしく、彼女の方に目を向けた。
「……そうよ。あなたの娘はもう、どこにもいない。いえ、正確には……」
「ここなの!? アレッサ!」
シビルの声をかき消すように、乱暴に扉が開かれた。そばにいたともえはびくりと肩を震わせる。
場の雰囲気にのまれて、周囲の警戒を忘れていた。
「……父さん?」
「君は?」
歩き始め――焦りからか、早歩きになる女性に、ハリーは警戒からか、背後に娘を隠す。
「生きてる……それだけじゃない。昔の姿そっくり」
「『父さん』って……まさかあの時の赤ん坊が」
警戒するハリー。何かを察したらしいシビル。その二人の目の前で、女性は立ち止まった。
「そう……そうよね。今の私じゃ、わかるわけないわよね」
女性は、何かを決意したようにハリーをまっすぐに見る。
「私はヘザー。いいえ、シェリル・メイソン――――あなたの娘よ」
女性――ヘザーは、「信じてもらえるかわからないけど」と付け足して目をそらした。
「すまないが、にわかには信じられない」
「そうよね。過去を知ってるこっちはまだしも、まだ知らない先の話なんて」
「あなたが『ヘザー』ね。渡すように頼まれていたものがあるのだけれど」
シビルから手渡された人形に、ヘザーは不思議そうな顔をする。追い打ちのように手紙も渡す。
それに目を通したヘザーは一言。
「気持ち悪い」
人形も手紙も放り捨てた。
「そうでしょうね」
シビルは否定しなかった。
「それで」
ヘザーはハリー――その向こうにいるシェリルに向き直る。
「これはどういうことかしらアレッサ」
「私は、この人と一緒にいたい」
ハリーの影からシェリルが前に出る。
「だからアレッサと分かれたの。私はシェリルでいたいから」
「ということは、アレッサは別にいるってこと? あっちを倒さなきゃここからは出られない?」
「その必要はないよ。だってもう、この世界は壊れかけてるから」
「待って。じゃあこの街はどうなるの?」
「完全に力を失ったこの街は、外の世界とのつながりを取り戻す。
その前に私の中にある魔力で最後のサイレンを起こして、この世界を裏返す。ひとつの世界として独立するの。
元に戻ったサイレントヒルの裏側で、誰にも認識されない世界として」
「そんなところに父さんを閉じ込める気? 正気なの?」
「ほかに方法がないから。外界で生きる術はあなたに託してしまったから」
「父さん、聞いた? こんなことに付き合ってられないわ。私と出ましょ」
「ま、待ってくれ。私は」
腕をつかみ引きづられるハリーはヘザーとシェリルを交互に見る。
どちらも自分の娘とはわかりつつも、かといってどちらかを選べないようだ。
「待って!」
額に手をやっていたともえが顔をあげる。
「何か来る!」
倒れる扉。その向こうに見えるのは闇のそれ。
黒い煙を立ち上らせ、獣のそれは唸りながら走ってくる。目標はハリーとヘザー。いや、その後ろにある祭壇か。
「ああ、もう」
「またか」
ヘザーは面倒そうに後頭部を掻き、ハリーは溜息をつく。
「あれをやるよ父さん」
「あれ? そうか、あれか」
疾駆する異形相手に、二人は武器を構えなかった。
あくまで自然体で、適度に力の抜けた理想的な体勢。
『せーのっ!』
同時であった。ふたつの蹴りが一閃。交差する場にいた異形の頭部はまるで潰れた紙細工のようにクシャクシャに歪んだ。
その威力はそれだけにとどまらず、紙切れのように吹き飛ばされた異形は教会の長椅子をなぎ倒し、壁に激突してようやく止まった。
「昔はもっとすごかったって言ってたけど、本当だったのね」
「なるほど。本当に私の娘らしい」
お互いを称える二人をよそに、シビルはその異形に銃を構える。
黒い煙は未だに上がり続け、まるで憑き物が落ちているかのように、その正体があらわになっていく。
シビルの手に、ともえの手が添えられ、そっと銃口が下がった。
「もう、これ以上は……」
「……そうね」
黒い煙の中にいたのは、小さな犬だった。汚れてはいるが、元は白い毛並みだったことがわかる。
よろよろと立ち上がった犬は、おぼつかない足取りで祭壇へと向かう。
そして一言、くぅんと鳴いて、祭壇の下に体を横たえた。
「飼い主のところに帰りたかったのかしら」
銃をしまうシビルに、わからないと首をふるともえ。
「これで娘だってわかったかしら」
「ああ、そうだな」
「だったら」
ヘザーは手を差し出す。
「だから」
ハリーは背を向けた。
「私は、ここに残る」
「どうして」
納得できないと、表情で雄弁に語るヘザーにハリーは笑う。
「今のでわかった。君は私の自慢の娘だ。今の君なら、外の世界でも、私がいなくても、きっと立派にやっていける。でもこの子は違う」
シェリルに目を向けるハリー。
「けどそいつは」
「たとえ作り物であったとしても、この子はシェリルだ。私の大事な娘だ」
だから置いていけない、とシェリルの前で屈みこむ。
「あっそ。そうなんだ」
やけにあっさりと了承するヘザーに、シビルとともえは顔を見合わせた。
ずいぶんと物分りがいい。ここまでドライな関係だったのだろうか。
「すまない」
一度振り返り詫びた後、ハリーはシェリルを抱きしめた。
「せいっ」
その無防備な後頭部へ、ヘザーは蹴りを見舞った。
鈍い音の後、ハリーはゆっくりと倒れた。
「死んだんじゃない」
「生きてるわよ……多分」
傍観している二人の前で、ヘザーは父親を背負う。
「悪いわね、シェリル。あなたの気持ち、わかっているつもりよ。でも、私の父さんでもあるから」
シェリルは首をふった。
「こうなるだろうなって思ってたから。だって私だもん」
彼女は苦笑する。
「もう一度会えて、娘だっていってくれただけで、もういいんだ。もう、アレッサのところに戻るね。
自分の始末は自分でつけなきゃ。父さんに叱られちゃう」
「……こう言うことが正しいのかわからないけど、あんたも私の一部だと思ってるから」
「うん。今度は死なせちゃだめだよ」
「わかってる」
「帰り道を教えてあげる。このままずっと北に向かって。カフェの前を通って、コンビニの横を抜ければ、そこから出られるよ。
後は戻りたい世界があれば、霧の向こうに行ける」
「ありがとう……って言うのは変かしらね」
「私にもわからない。ある意味自業自得だしね」
シェリルは笑い、ヘザーもつられて頬を歪めた。
「じゃあね」
消えていく過去の自分から目を背けるように振り返ったヘザーは、シビルとともえに目を向ける。
「私は行くけど、あなたたちはどうする? 私を止める?」
「まさか」
シビルは肩をすくめた。
「家庭の事情に首を突っ込むほど警察は暇じゃないわ。
とりあえず、この事態は時間が解決するにしても、それまでに保護できるだけの人は保護しておかないと」
「…………あ」
ヘザーはバツが悪そうにうつむき、「忘れてた」とつぶやく。
「一人、学校の裏山に放ってきちゃった。拾ってきてくれないかしら」
「いいわよ。詳しい場所は?」
「えっと地図は……あれ? ごめん、ちょっと出してくれる?」
ハリーを担いでいるため、うまく取り出せないヘザーはともえにポケットを探るよう頼む。
「わかった。……
見つからないわ」
困った顔をするともえに、ヘザーは首をひねる。
「これは推測なんだけど」
シビルは顎に手を添えている。
「この街が元に戻ろうとしているなら、それに不都合なもの――儀式に関係するものや魔力で創りだしたものは消えてしまうんじゃないかしら」
「シェリル……」
ヘザーは溜息をつく。
「消える前に言っておきなさいよ」
「いいわ。とりあえずしらみつぶしに探しておくから。たしか西……左回りね。名前は?」
「アベ。チンピラみたいな男だからすぐわかると思う」
「OK。あなたはどうする?」
ともえは少し考えこんでから顔を上げた。
「私はハリーの目になるといった。その役割を終えたのなら……」
「そういうつもりならちょうどいいわ」
ヘザーは自身の父親を顎で示す。
「私こういう状態だから、道案内人が欲しかったのよね。さっき見てたけど、あなた、他人の目を借りたりすることできるの?」
「どうしてそれを」
「そのアベってやつも同じことできたからよ」
「……そう。そうよ」
話が早い。隠す必要がない。ともえは素直に認めた。
「じゃあよろしく。多分、同じ場所にはつかないだろうから、途中までだけどね。あなたも自分の帰る場所へ帰るといいわ」
「私は……」
結局、自分は何もできなかった。ここで戻れば、そういうことになるだろう。それでいいのだろうか。
しかし、これ以上ここにいても何かができるとも思えない。
「自分は役立たずだって、凹んでるの?」
「どうして」
「『どうしてわかるの』って? 私もそうだったから。今もそうよ。
どうにか取り戻せたものはあったけど、なくしたままのものもある」
ヘザーは自嘲するような笑みを浮かべた。
「もっと外の世界を見なさい。そうすれば、自分に何が足りないか、何が必要なのか見えてくるかもよ」
「外の世界……」
それは、この街の外、という意味ではないだろう。自分の元の世界、夜見島の外、という意味だろう。
憧れていた都会――本土のことだろう。
「…………」
ともえは何か考えこむように俯き、やがてシビルに向かって顔を上げた。
「お願いがあるんだけど、いい?」
「職務の範囲内ならね」
苦笑して肩をすくめる彼女にともえは微笑む。
「ジルという女性に会ったら、伝えてほしいの」
少し躊躇したが、決意を込めて言う。
「夜見島で待ってるって」
今の自分じゃ、ここに残っていても何もできない。だから、外の世界を目指す。
ケビンとジルに胸を張れるような、そんな人間になれるように。
彼女には、そんな人間になれた自分を見て欲しい。欲を言えば、認めて欲しい。
誰かを守れるような人間になりたい。
自分の“譲れないもの”を実現するためにも。
「わかったわ」
ともえの眼差しに何かを感じ取ったのか、シビルは快諾した。
「ヘザー、余裕ができたら会いに行くわ」
「親子で歓迎するわ」
「ともえ、あなたも元気でね」
「ありがとう」
エンジン音を伴って去っていくシビルの背から、ヘザーへ視線を移す。
「短い間ですが、この
太田ともえ、身命を賭してあなたたちを送り届けます」
「期待してるわ」
ヘザーの笑みにともえも返して、二人は歩き始める。
ここでの自分の戦いは、もう終わる。
本番は、向こうへ帰ってからだ。
未来に向かって、彼女は一歩ずつ、小さいけれども確かな一歩を刻んでいく。
その姿には一本、芯が通っているようだった。
〈D-3/研究所〉
さぁ行こう。
そう促す三四の声と、サイレンはほとんど同時だった。
あたりの風景はがらりと変わり、周囲に霧が満ちていく。
ひたり。ひたり。
どこかで足音がする。
こちらに近づいてくる。
レオンが合流しようとしているのかと思ったが、足音が違う。
これは靴が地面を擦る音ではない。
裸足で……。
霧の入り込んだ廊下の奥から、一人の男が現れた。
青白いを通り越して、真っ青な肌の男。
首から左腕はドス黒く染まり、その先にある爪はまるで猛獣のようで。
「…………ミヨ?」
相談しようと彼女を振り返った。
彼女は自分を見ていない。その男を見ている。
彼女に腕を掴まれた。
ぐいっと引っ張られた。
途端に、体中を熱が走った。
熱い。
いや、寒い。
気が遠くなる……。
あれ、足が動かない。
立てない……。
◆
三四は右腕を左手でおさえる。彼女の右手は足元のジェニファーと一緒に転がっており、役目を終えていた。
とっさにジェニファーを盾にしたが、それでも右手を落とされてしまった。
止血点をおさえているため、失血死の危険性は低いが、それでも丸腰だ。無防備になっている。
しかしどうして。
さっきまで、何の気配もなかった。
隠れていた? それがサイレンと霧に紛れてやってきた?
わからない。むしろ、直感で考えるなら、霧の中に突然現れた、という印象だ。
そんな疑問や動揺を浮かべながら、三四はその怪物に背を向けて走った。
ともかく、助けを呼ばなければ。
自分はまだ、ここでは死ねないのだから。
◆
「よかったですね。機械が無事で」
「ああ。おまけにリーチときてる。こりゃ本当に後は登るだけかもな」
嬉しそうに恭也に話すジム。しかしその顔は暗い。汗が額を濡らし、かといってそれを彼は拭いもしない。
エレベーターで一階に戻った四人はぞろぞろと鉄の箱から出てくる。最後に出てきたジムは「ちょっと待った」と小さく声を上げた。
「悪い。疲れちまった。少し休ませてくれ」
了承を待つことなく、ジムは壁に背を預けて座り込んでしまった。
「俺はいいですけど……」
恭也はジルと三沢に目を向ける。
「色々あったしね。たしかに疲れもするでしょう」
そういうジルからはまったく疲労は見られない。三沢も同様だ。
ただ、彼らは軍人や警官で、それは当たり前なのかもしれない。
「残りの材料はどこにある」
三沢はジムの前で屈みこむ。
「心当たりは」
「ない。ただ、黒くてでかい海パン野郎の血ってだけだ。そいつがどこにいるかわからないと」
三沢は小さく息をもらして立ち上がる。
「ここを探してみるか」
「それしかないようね」
「あ、じゃあ俺ジムさんについてますよ」
「…………」
ジルは考えこむ。たしかに今のジムを連れて回すのは酷だ。
襲われた時のリスクもある。かといってここに置いてきて戦力を分散するのもどうだろうか。
「おい」
「待って。今考えてるから」
「そうじゃない」
三沢は顎で壁の向こうをさす。
「悲鳴だ。若い女の」
◆
「誰か……」
叫び疲れた喉が痛みを訴える。こんなことならレオンを行かせるべきじゃなかった。
あの怪物の移動速度が思った以上でなかったのが幸いか。
長時間の圧迫と乱雑ではあるが的確な止血で自由になった左腕で発砲。
効くとは思えないが、叫ぶ代わりだ。
エントランスホールまで逃げてきたが、いよいよ後が無い。
ここから上にあがるか、外に出るか……
「いたぞ!」
背後の扉が開き、誰かがやってきた。自衛隊に、若い女に少年……よくわからない組み合わせだ。
だがありがたい。
「助け……」
かすれた声を絞り出す。
「キョウヤ!」
そう呼ばれた少年が自分に駆け寄る。
「こっちへ」
頷く三四は、そのまま彼らのいた部屋へ導かれる。そこには疲れた様子の黒人男性が座り込んでいた。
その顔は俯いているためわからない。
「ここにいてください」
それだけ言って、少年は出て行く。三四はようやく一息ついて、その場に座り込んだ。
体が熱い。汗がどっと流れてきた。足も震えて悲鳴を上げている。
弾切れの銃を放り出し、額の汗を拭う。片手は失ったが、どうにか生き延びた。
レオン以外の戦力も得た。あとは……。
肩で息をする三四に、影がかかる。
緩慢な動きで彼女は首をそらす。
黒人男性が、自分を見下ろしてた。
濁った瞳と、うめき声を伴って。
三四は悲鳴を上げようとする。しかし喉は動かず、空気の抜ける音が虚しく響いた。
拾った銃は虚しい音を奏でるだけ。
嘘だ。
自分はこんなところで死ぬ人間ではない。
自分は神に――――
◆
「なんとか倒せましたね」
恭也は予備弾倉まで使い果たした
9mm機関拳銃を置き、
H&K VP70に持ち替える。
「ああ」
三沢は手際よく
89式小銃の給弾を済ませる。こちらはまだ弾薬があるので銃を替える必要がない。
彼は
グロック17と
ハンドガンの弾をジルに差し出した。
「使うといい」
「ありがとう」
武装で不安な点が残ったのはジルだった。持っていたショットガンは弾切れ。予備にしていたハンドガンもたった今使いきった。
「あ、だったら俺も」
弾たくさんありますから、と渡そうとした恭也に、ジルは首を振った。
「気持ちだけもらっておくわ」
「でも」
ハンドガンの弾をM92とM92Fカスタム"
サムライエッジ2"に詰めている彼女は苦笑する。
「私は狙って当てられるから。量より質よ」
そう言われると恭也は返す言葉もない。不慣れな以上、仕方のないことだが、彼は弾をばらまいてしまう。
言い換えれば、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる、なのである。無駄弾がジルに比べて多すぎるのだ。
そんな彼から弾薬を取り上げることは、早々に戦力外になってしまうことを意味する。
「す、すいません」
「そのうち鍛えてやる」
バツの悪そうな恭也に、三沢はぼそっと呟いた。それにジルは再び苦笑。ぶっきらぼうではあるが、根は優しい人間のようだ。
さっきの戦いだってそうだ。
恭也が本来当てるべきところを、三沢がカバーするように的確に当てていた。
ジルに比べて三沢の弾薬の消費が激しいのはそれが原因だ。
「『黒くてでかい海パン野郎』ってこれのことですかね」
恭也はうつ伏せに倒れている大男に目を向ける。病的というか、もはやこれが本来の体色なのではと思われる程青い肌。
不自然に発達した左腕。どう見てもまともな人間ではない。黒くはないが、途中で変色したのかもしれない。
海パンは、途中でなくしたのかもしれない。
「どうかしら。一度確認させた方がいいわ」
ジルとしては、似たような生物をいくつか知っている。
もしそれらと同種――それこそ似たような生物でいいというならいいが、特定の種類に限られている可能性もある。
「大丈夫なのか、あの男は」
本人がいた手前、今まで口にしなかったのだろう。三沢の疑問に、ジルは顔をしかめた。
「わからない。限界が近いのかもしれない。……そういえばキョウヤ、さっきの人は?」
戦闘に――狙われていた彼女から自分たちに――集中させるために前へ出ていたため、彼に任せた後のことをジルは知らない。
「ああ、ジムさんと一緒の部屋に避難させましたよ」
「…………」
その軽率さを叱るべきか、そんな彼に任せた自分を省みるべきかジルは悩んだ。
「しかたない。他の部屋の安全が確認できない以上、あの場ではああするしかなかった」
それを三沢がフォローした。
「それにあの人、銃を持ってましたし、何かあれば叫びますよ。さっきみたいに」
「……そうね」
釈然としないものを感じながらも、ジルは頷くしかなかった。
「じゃあ俺、ジムさん連れてきますよ」
恭也は扉に手をかけ、開く。その先を見たジルは、その光景に既視感を覚えた。
女の体に馬乗りになっているジムの背中。下の彼女はビクビクと震えているだけで、何の言葉もない。
こちらに気づき、振り向いたジムの口や顔は、血に染まっていた。
「ジムさん……?」
立ち止まり、呆けている恭也に、立ち上がったジムは覆いかぶさろうとする。
ジムはもう、恭也を仲間と見ていなかった。
ただ、新鮮な肉としてしか見ていなかった。
恭也は動けない。あまりのショックに、ジムの変貌を受け入れられないでいるようだ。
ジムは血と、肉が引っかかった歯を恭也に突き立てようと大きく口を開いた。
その口に、小銃の銃身が突っ込まれた。
「もうこいつは、ジムじゃない」
喉を潰すように三沢は小銃を押してから引き抜き、同時にジムを突き飛ばす。
ある程度距離が開いてから
マグナムを構え、躊躇なく引き金を引いた。頭の半分を失ったそのゾンビは、うめき声もなく倒れた。
「そんな……」
そう嘆いたのは恭也か、ジルか。三沢は頓着せず、倒れている女にも銃弾を浴びせる。おまじないだ。
恭也は放心状態であったが、ジルは経験もあって、こちらに近づく足音にすぐ気がついた。
ジムのあの陽気な言動を頭から振り払うように銃を構えて振り返る。
そこにいたのは、ラクーン市警の制服を着た若い男だった。
「撃たないでくれ。俺はレオン・スコット・ケネディ。警官だ」
「え、ええ……」
数瞬、ケビンを想起してしまっていたジルは、わずかに遅れて銃口を下げる。
まだ警察署がまともに機能していた頃、この青年を見たことはないが、おそらく新米なのだろう。
マービンあたりがそんな話をしていたような気がする。
「私は
ジル・バレンタイン。元“S.T.A.R.S.”よ。あなたの先輩になるのかしら」
「あ、ああ……」
するとレオンは気まずそうに視線を下に逃がした。
「どうかしたの?」
「着任早々、大遅刻してね」
「多分、咎める人は誰も居ないわ」
笑えばいいのか怒ればいいのか、ジルはわからなかった。
「あなただけかしら」
「あと二人、さっきまで一緒にいたんだが、一度別れてな。探してみたら、一人の女の子はもう……」
レオンは俯く。しかしすぐに切り替えたようで、顔を上げた。
「ミヨ……東洋人で黒尽くめの女性を探しているんだが、見なかったか?」
その顔は、せめて残りの一人は絶対に助け出してみせると、雄弁に語っていた。
その青臭さは、ジル自身も昔は持っていたものだった。自分の力で市民を守ってみせると、信念や覚悟に燃えていたあの頃。
「…………」
ジルは言葉にするのを躊躇った。かわりに体をずらし、レオンからは見えなかったであろう部屋の奥を示した。
青年から息を呑む音がする。
「どうしようもなかった」
会話を聞いていたのだろう。三沢が二人のところへやってきた。
「人員も情報も足りなかった。自分の身を守るのに精一杯で、それどころではなかった」
「くっ」
「レオン!」
声を上げるジルの前で、レオンは三沢の胸ぐらを両手で掴む。しかしすぐに放し、ずるずると膝をついた。
「なんで……」
なんで守れない。なんでこうなってしまう。彼の言いたいことはジルにもわかった。
「悪いが悲しんでいる暇はないぞ」
今度は三沢がレオンの胸ぐらを掴み、横へ投げ出す。
そのまま銃を構えると、先程の大男に向けた。
見れば、倒したはずの異形は痙攣を繰り返し、立ち上がろうとしていた。
左手の爪はより大きくなり、無表情であったそこには凶悪な怒りを浮かべている。
右胸には亀裂のできたコブのようなものができ、それは肥大化した心臓だと思われる。
「あれは」
「知っているのか」
「似たようなのをさっきな。そいつの血を」
「それってもしかして、ワクチンの」
「ああ、そうだ。知っているのか」
「話は後だ」
三沢の放つ銃火に合わせて、レオンとジルも発砲する。
遅れて気がついた恭也がそれに加わった。
〈A-3/雛城高校〉
結局、それ以上の弾どころか、銃を構える必要もなかった。
三角頭の断罪者はすごすごと引き返し、その姿は小さくなっていく。
「裁く罪――咎人がいないと判断したか」
あれはまるで興味がなくなったようだ。
宮田は銃を収め、あれを追うべきか考える。
あれの向かう先には別の罪があるか、異形の本拠地があると考えられる。
闇雲に走り回るよりはよっぽど無難ではあるが……。
しかしそこに『がいこくのお姉ちゃん』がいる保証は……。
「お願いがあるの」
振り向けば、先程別れたおかっぱ頭の少女がいた。
「お願い?」
「この世界を終わらせて欲しいの」
「…………」
「それが『がいこくのお姉ちゃん』のお願いでもあるから」
そして少女は、この怪異の成り立ちとそれにまつわるすべてを宮田に聞かせた。
すべて、『がいこくのお姉ちゃん』から直接聞き出したものらしい。
今までそれができなかったのは、この街の力に抑えこまれていたせいだという。
その枷が外れ、『がいこくのお姉ちゃん』のいる場を見つけられるようになったのが先程らしい。
「つまり真実を渡すから、見返りに救済をしろと。そういうことですね?」
少女は頷いた。
「私はこの学校に縛られているから。お姉ちゃんたちと、皆を救ってほしいの」
異世界の霊魂は黄泉の門から元に戻る。その記憶によって構成された建造物等もいずれ消滅する。
肉体を持つ生者は自力で脱出できるし、近しい者が救いに来ることもあり得る。
しかし、それ以外の者とこの歪な世界そのものは残ることになる。
その後始末を自分に頼みたいということだ。
「もししてくれるなら」
少女は丁寧にたたまれた求導服と、その上に置かれた土偶のようなものを宮田に差し出した。
「あげる」
「なるほど。報酬としては充分すぎる」
そもそも、それが自分の目的でもあるのだ。拒む理由などない。
「いいでしょう。僭越ながら、引き受けさせていただきます」
〈D-3/研究所〉
「弾切れだ!」
「こっちもよ!」
レオンは歯噛みした。もはや『泣けるぜ』なんて軽口すら出てこない。
藤田も、あの少女も、三四も、ジェニファーも、
皆死んだ。
守れなかった。
自分の力が足りないから。
こんな状況だから。自分は新米だから。
いくらでも言い訳はできる。しかし、レオンはそんな言い訳で自分を許したりはしない。
許せないからこそ、こうやって苦悩する。
「俺達でなんとかしますから、二人は下がってください!」
こんな少年にまで心配される始末だ。
少年と自衛隊員が前に出る。見殺しにした藤田の姿が脳裏をよぎる。
もう嫌だ。
レオンは役立たずの銃を放り捨て、
コンバットナイフを構える。そして前の二人を押し抜けて突進した。
「おい、よせ」
三沢の制止を振りきって、ナイフを腰だめに構える。突進力を利用した刺突。これなら有効かもしれない。
「もう、誰もやらせはしない」
命懸けの突進。いや、これ以上守れないなら、いっそ本当に。
レオンの刃は大男に届かなかった。
その異形が、高く跳躍したからだ。
巨体は自分はもちろん、少年と自衛隊員を飛び越え、
ジルに向かった。
彼女はナイフを取り出した。しかし間に合わない。
間に合ったとしても、女の細腕と小ぶりなナイフ。
どうしようもない。
体液が飛び散る。
悲鳴が上がる。
着地に失敗した大男は、撃たれた両の目をおさえて蹲り、もがき苦しむ。
レオンとジルは、出入り口に目を向けた。
銃声はふたつ。
エントランスホールに入ってきた影もふたつ。
「クリス!」「アーク!」
その二人の男に、二人は見覚えがあった。
〈ジル達に接触する数十分前〉
対アンブレラ特殊私設部隊と銘打ったはいいものの、まだ作りたての組織で、専門の人間など自分を含めて数人だ。
だから大部分はアメリカ特殊作戦軍の兵士で賄っている。
人員不足のこちらと、先のことを考えて発言権を手に入れたい米国の利害が一致したのだ。
「クリス、ジルのことは」
「もういい」
ヘリの中、クリス・レッドフィールドの左に座るバリー・バートンはバツが悪そうに頭を掻いた。
ジルがラクーンシティで消えて久しい。
バリーが救助に向かったが、彼女には接触できなかった。
彼が言うには、ラクーンシティにあと少しで到着するというところで濃霧が突如出現し、気がつけば通り過ぎていたという。
そこで滅菌作戦は発動され、結局着陸すらできないまま帰還するしかなかった。
別件で現場にもいなかった自分が批難することではない。
その濃霧がなんだったのか解明されないまま、今度は別の場所でそれは起きた。
中西部にあったラクーンシティから随分離れた北東部で、謎の濃霧が発生したのである。
それだけなら偶然の一致、天変地異で済ませていたところだ。
しかし、その濃霧を境に大量の失踪者やゾンビ、B.O.W.が出ているとなれば話は別だ。
クリスは組織されたばかりの部隊を米軍兵士で補強し、現地へ飛ぶことを決めた。
「バミューダトライアングルというものがあります」
クリスの右に座るレベッカ・チェンバースは得意そうに語る。
「迷信だぞそれ」
「例えばの話です」
バリーの指摘に頬を膨らませたレベッカは、クリスの視線に促されるように続ける。
「その海域では昔から、船舶や航空機、あるいは搭乗した乗務員のみが消えてしまうという伝説があるんです」
「ラクーンシティにも同じことが起きたと?」
「仮説ですけどね。そしてその出口が、今回の現場になっているかもしれません」
報告によれば、その濃霧を調べようと現地の警察や報道機関が向かったらしい。
当初はバリーのような“空振り”を続けていたが、ここ最近は違うという。
入ったまま出てこないのだ。それと入れ替わるように、ゾンビやB.O.W.が現れている。
感染拡大を防ぐため、その時点で一帯は完全封鎖。非常事態宣言が発令された。
軍隊が警備と隔離を進める一方、自分たちに出動が要請された。
この件に関し、アンブレラは関与を否定している。
そもそも今の糾弾と裁判の対応に追われている状況を考えれば、覚えがあるにしても知らぬ存ぜぬで通すだろうが。
「突入します!」
「わかった」
パイロットの声に、クリスは立ち上がる。自分たちが乗るヘリを先頭に、後続の部隊がきちんといることを確認する。
霧を抜けたそこには、街があった。
まるで悪夢のような街が。
「おい、向こうに見えるのはラクーンの警察署じゃねえか」
「あっちにあるのは時計塔ですよ多分」
「詮索は後だ」
クリスは備え付けの通信機を手に取る。
「これより機銃掃射によるランディングゾーン(着陸地点)の形成を行う。
その後、その場をコマンドポスト(司令所)として運用する。以降は到着次第指示する」
スピーカーから発せられるいくつかの『ラジャー』。
「ウヨウヨいやがる」
窓の外を見るバリーの下で、ゾンビやB.O.W.が機銃によって散らされていく。中にはクリスが見たことのないタイプもいる。
「着陸後はどうするんですか」
「ブリーフィング通り、バリーはアルファチームの指揮をして探索、レベッカたちブラヴォーチームはCP(コマンドポスト)を拠点にして要救護者と負傷者の手当と搬送」
「自分はワンマンアーミーか」
「ジルと合流するまでだ」
重々しく着陸したヘリの扉が開いた。クリスはコルトパイソンを構えて降りていく。
「バリー、後の指揮は任せるぞ」
「気ぃつけてな」
機銃によってバラバラになった死体が転がる道を進む。目の前に霧のかたまりが見えた。
いや、何かが霧を纏っているといった方がいいか。
近づいてみれば、それは客船だった。老朽化が見られるが、立派な船だ。
それが動き、遠くへ行く。あの方角は、バリーが警察署があると言っていたはずだ。
「クリス」
霧に消えた客船からそちらへ振り返る。
「クラウザーか」
別のヘリにいた兵士がそこにいた。ジャック・クラウザーはアメリカ特殊作戦軍から派遣されており、自分の部隊の所属ではない。
しかしこの男はどうにも放っておけないところがあって、折にふれては接触していた。
「これがその……B.O.W.なのか?」
足元にある残骸にクラウザーは顔をしかめる。
「そうか。初めてだったな」
戦地で数々の武勲を立てた男でも、それは通常の戦場だ。B.O.W.が跋扈する場所は経験していないのだ。
彼にとってB.O.W.はCryptid.(未確認生物)と同じなのだろう。
「ブリーフィングで教えただろ?」
「ジョークだと思っていたよ」
たしかに冗談だとも思いたいし、悪い夢で終わらせたい。クリスは苦笑した。
「ついてくるか」
「いいのか?」
「B.O.W.との付き合い方を教えてやる。もっとも、歴戦の兵士には釈迦に説法かもしれないが」
「そんなことはないさ」
クラウザーはバツが悪そうに首に手をやった。
似ているのだ。
自身の力に満足せず、常に力を求める。それがたとえどんなに危険な力であっても。
あのアルバート・ウェスカーのように。
自分に何かができるとは思えないが、目を離せない危うさがあるのだ。
短い付き合いになるかもしれないが、その間だけでも側においておきたい。
市街地戦というのは死角が多い。
機銃が届かない場所も多く、かといって生存者の確認がある以上爆破することもできない。
大きな通りの敵は一掃できても、危険が完全になくなったわけではないのだ。
「どうだ。慣れたか」
何匹目だったか。クラウザーは倒れた
ハンターに向けた銃口をおろした。
「でかい爬虫類で、人間よりタフな生物」
「そうだ。そういう考え方でいい。必要以上に恐れる必要はない」
ホテルに入ったクリスは、慎重に中を探る。
「距離と弾薬にさえ気をつければどうとでもなる」
階段を上がると、長い廊下の左右に扉が並んでいる。
そのうちのひとつがわずかに揺れた。
クリスは片手を上げてクラウザーに『待て』のサインを送り、そこに近づく。
慎重にドアノブを回し――――
何かに気づいたクリスは横に飛んだ。そのまま廊下に伏せた格好で扉に銃を向ける。
扉は勢いよく開き、中から銃口が突き出された。
罠だ。
クリスに何者かの銃が向けられた。
「クリス!」
「止せ、撃つな」
クラウザーはピタリと動きを止める。
「人間……か?」
「お互いにな」
茶色の短髪の男性が廊下から出てきた。緑のアウターに白のインナー、カーキ色のズボンを履いている。
「対アンブレラ特殊私設部隊のクリス・レッドフィールドだ。君たちを助けに来た」
立ち上がったクリスに、男は少しバツが悪そうだ。
「あー、すまない。悪いが間に合っている。私立探偵のアーク・トンプソンだ。ここには友人を探しに来ている」
アークの話によればこうだ。彼はラクーンシティにいる友人を独自に捜索したが、一向に見つからない。
軍に保護されていないか、あるいは死亡者リストに名前が載っていないか、生存者の中で行方を知る者はいないか。
あらゆる線を洗った結果、この濃霧による怪奇現象に行き着いたという。
「なるほど。探偵というのもあながち嘘ではないのかもな」
肩をすくめるクラウザーに、アークは苦笑いを浮かべた。
「気持ちはわかるが、危険過ぎる。ここから南にあるキャンプに行ってくれないか」
「残念だがこれから北に向かうんだ。俺の身柄を確保したければ令状を持ってきてくれ」
今度はクリスが肩をすくめる番だ。
「それより」
アークは懐を探り、数枚の写真を取り出した。受け取ったクリスは眉をしかめる。
「これをどこで」
「独自のルート、とだけ。もしこいつらがここにいるのなら、俺達の装備では力不足だとは思わないか」
「…………クラウザー。取ってきて欲しいものがある。俺たちはこのまま北上する」
「令状は?」
「命令だ」
「なら従うしかないな」
クラウザーは鼻で息を出してから走りだす。
「ジル・バレンタインという女性を知らないか」
「いや。レオン・S・ケネディという男を知っているか」
「知らないな」
「…………」
「…………」
二人はやれやれといった具合でホテルを出た。北を目指す彼らの目に、ラクーン大学が映った。
そこから発せられる銃声は、彼らを呼び寄せるには充分すぎた。
<Brother and Sister>
【Sister】
そこはあの場から近いところにあった。
「ここは……」
入江診療所。かつての自分が治療を受けた場所。
「でも」
周囲を見回す。こんなところにあっただろうか。霧でよく見えないが、記憶ではもっと別の――――
きゅるるるる……。
空腹の音色に、少女ははっとなる。
「まあいいですわ」
ここになら、食べ物があるだろう。なくても、中にいる人に道を聞けばいいのだ。家に帰れば、それなりに食べ物はある。
少女はそこに何があるかわかるはずもなく、ただただ、
そこを目指す。
【Brother】
入江診療所には誰もいなかった。何もなかった。探す途中で騒がしい音と風景の変化があったくらいで、特別変わったことはなかった。
結局、診療所には手掛かりという手掛かりはなかった。それどころか、まるで人のいた形跡というものがなかった。
放置されたと考えても間違いではないだろう。
だからといって、自分の足が、考えが止まることはない。
妹を、希望を奪った人間を、許すつもりはない。
この力で、裁く。
診療所を出ようとする。
入口を出る。
前を見る。
そして、立ち止まり、驚愕する。
「そんな……」
どうして……。
「にーにー……?」
失ったものが――守りたかったものが、そこに――――
「やめ……!」
腕を突き破ろうとする触手を手でおさえる。
しかし止められない。手の拘束を抜けだした触手は、一直線に沙都子へ向かう。
「あれ……?」
悟史の制止がぎりぎり間に合った。頭を狙ったそれは逸れて、肩をかすった。
本来皮が裂け、血が吹き出すはずのそこは、粘着性のある何かがボトボトと落ちるだけだった。
「沙都子……?」
そんなことありえない。
人間だったら、そうなるはずはありえない。
つまりそれは……。
「マーカスの忘れ形見か。よもやこんなところで目にするとはな」
悟史が動揺しているところに、一人の男が現れた。
黒のサングラスとスーツ。金髪をオールバックにした男。
彼の名は、アルバート・ウェスカー。
「誰だ!」
悟史は腕を振り、今度は自分の意思で触手を飛ばす。
当たればケガだけでは済まない威力だ。
ウェスカーは苦もなくそれを掴んだ。
「そして手に入れ損ねた支配種
プラーガか」
そのまま上に振り上げる。当然、つながっている悟史も宙に舞った。
そこから一気に振り下ろす。
「がっ」
アスファルトが沈む程の威力に、悟史は呻いた。
手を離したウェスカーは銃を取り出し、悟史に向ける。
そのまま躊躇なく引き金を引いた。途端に、少年に電撃が浴びせられる。
「テーザー銃だ。銃のようなスタンガンといえばわかるかな。通常の人間では感電死するレベルに改造してあるがね」
「さと……こ……」
悟史はウェスカーを見ていなかった。呆けて一部始終を眺めている妹を気にしている。
「心配するな。一緒に回収してやろう」
一緒になれるかは保証できないが。ウェスカーはそれだけ言って、沙都子にもテーザー銃を撃った。
何かが破裂するような音の後、沙都子は横になった。
「どちらも冷凍処理をして運んでおけ。組織への手土産としては十分だ。脱出する」
耳につけている通信機にそう言うと、霧の向こうからトレーラーが現れ、中から防護服を来た数名がやってきた。
タンクを背負い、ホースを向ける者達に悟史は抵抗できないまま、その意識を体ごと凍らされた。
「クリスも来たか」
霧で曖昧ではあるが、向こうにヘリの群れが見える。
「私とお前の決着の場はここではない。私の描いたシナリオは別の場を用意してある」
ウェスカーは目の前に降ろされた縄梯子に掴まる。離脱を始めるヘリに乗り込んだウェスカーは、特に感慨もなく霧の街を見下ろした。
「それまで生き残ることだな、クリス」
〈B-4/灯台〉
ハンクは舌打ちをした。一難去ってまた一難。
あのB.O.W.を片付けたと思えば、今度はあの「化け物」だ。
自身の部隊が全滅し、自身も殴りつけられて気絶するハメになったあの化け物。
ケチのつき始めはこいつからだ。多少の変異はしているものの、こいつで間違いないだろう。
ハンクは弾切れの銃を放り捨てる。こうなるだろうとは思っていたが、やはり弾が足りない。
コンバットナイフを構えるが、やり合うつもりはない。機を見て逃げる。
時計塔まで来たのだ。救援か、あるいは別の部隊と合流できる可能性があると思ったが……。
その時、ライトがハンクを照らした。腕で目を守り、とっさに上を向く。
ヘリだ。ヘリが来たのだ。
“ナイトホーク”か。
ハンクは腕を振りつつ、通信機に手を伸ばす。
周波数をあわせ、口を開き、声を。
弾丸の雨に、声は飲まれていった。
後に残ったのは、バラバラになった男の死体と、穴だらけになった化け物の残骸であった。
「“G”沈黙」
「そう。再起動する前に凍らせておいて。後はマニュアルどおりに」
「了解」
スタッフに命じたエイダ・ウォンは退屈そうに窓の外を見て、すぐに手元のノートパソコンに視線を戻した。
機銃でGを撃った際に誰か巻き込んだが、瑣末なことだ。
「組織」からの指令は、この現象の調査である。
仮にこれがアンブレラによるものであるなら、その成果を奪取してこいということだ。
すでに軍や別の組織が動いている以上、深入りはできない。それらしいものを回収して早急に離脱するのが無難だ。
ウェスカーもそうするだろう。
「レオン、あなたもここにいるのかしら」
何が起きているかわからない、この地獄に自ら。いや、ひょっとしたら巻き込まれているのかもしれない。
それでも心配はしていない。レオンの通る道に困難はあれど挫折はないと自分は確信している。
どんな理不尽な運命にも彼は抗ってきたのだ。きっと今回もそうだろう。
「また会える日を楽しみにしているわ」
誰にも聞こえないセンチメンタルな呟きは、ヘリの騒音にかき消された。
〈研究所・1階エントランスホール〉
「ジル、無事だな」
「クリス。あなた……」
「話は後だ」
クリスは腕をおさえて駆け寄ったジルの前に出て、大男に銃口を向けた。
ヒュプノスT-型。
タイラントの派生型にあたるB.O.W.。
複数の細胞同士を競争させ、最後まで残った優秀な細胞をタイラントに組み込むことで生み出された。
通常のタイラントよりも小型であり、左手にはT-002型のような巨大なツメが生えていることが特徴である。
ヒュプノスは立ち上がり、咆哮する。すると体はさらに肥大化し、裂けた右胸から心臓と思われる器官が露出した。
より凶暴性を増した面と体に、周囲は息を呑む。
「アーク。どうしてここに」
「行方不明の友人を探すのに一々理由がいるのか? タダ働きだよ」
「……今度何か奢るよ」
「お前の初任給でな」
ベレッタM8000を構えるアークは小さく笑う。
会話から、彼らが信頼に足る人物と判断したのか、恭也と三沢は口を挟むことなく戦闘を再開した。
「他に武器は!」
「これだけだ」
「拳銃だけじゃムリよ」
ジルのおさえた手から、血が溢れて落ちていく。弾が足りないのもあるが、これではまともに戦えない。
「心配ない。察しのいい探偵からアドバイスをもらっている」
クリスは笑い、ややあって背後で扉が乱暴に開く。
「クリス、ここか」
屈強な軍人は中を見て、瞬時に状況を判断したらしく、持っていた兵器を躊躇なく放った。
「これを使え!」
クリスとアークの間に、それが転がる。
RPG-7。
ソ連の開発した携帯対戦車擲弾発射器である。
「レオン、お前がやれ」
「しかし……俺は……」
クリスの言葉に、レオンは躊躇する。
今まで何も守れなかった自分に、一体何ができるのか。そう言いたいようだった。
その肩に、ジルの手が置かれた。
「お願い、あなたしかいないの」
助けによって傷は浅いとはいえ、ヒュプノスの攻撃で片腕の使えないジル。
残りの4人は――――クラウザーも加勢して5人となった――火力の低い銃器で足止めを行っている。
「…………」
レオンは無言でそれを手に取り、片膝で構える。
簡素な照準器の向こうに、集中砲火を浴びる大男が見えた。
「……泣けるぜ」
自嘲か嘆息か。
レオンの手によって放たれたロケット弾は、吸い込まれるように怪物の胸に命中した。
◆
「生存者は」
キャンプに戻ったクリスを迎えたレベッカは手元の治療道具から顔を上げた。
「3名です」
「こっちを入れて7か……」
「8じゃなくてか」
バリーに視線を向けられたアークは肩をすくめた。
「細かいことは気にしない」
「レベッカ、久しぶりね。早速で悪いんだけどお願い」
「はい!」
イスに腰掛けたジルに、レベッカは駆け寄る。
「……7名」
リストを受け取ったクリスは、テント内を見回す。
そこにはベッドに寝かされていたり、あるいは腰掛けている人々がいた。
「率直に聞こう。あなたたちはなぜここに来たんだ」
「そんなもん、こっちが聞きたいぜ」
クリスの問いにアベが呻いた。
「気がついたらこんなところにいたんだよ」
その言葉にだいたいが頷いた。
「私は違うわね」
その中で、シビルだけが意見を述べる。
「私は元々、このサイレントヒルの隣にあるブラマ市で警官をやっているんだけれど、前にもこういうことがあったの。
だからバリケードを作っていたんだけど、それでも入ろうとする人達がいて、それにくっついていった形ね」
結局、その人達は守れなかったけど……。俯くシビルに、レオンは同情的な視線を向けた。
「その時、霧を通りませんでしたか」
マキノの問いかけに、シビルは「ええ」と答えた。
「この街に何かが起こる時、こんな深い霧が出るの。まるで外部をシャットアウトするような」
「事実、そのようですよ」
「何か知ってるんですか?」
キョウヤは不思議そうにマキノを見た。
すると彼は立ち上がり、全員の視線を集中させるように前に出た。
「すべてをお話しましょう」
これは自分が見聞きした成果だと前置きし、マキノは語り始めた。
アレッサ・ギレスピーという少女の出生から宿命。
そこから生じた悲劇。それがいかにしてこの地獄につながったか。
そして一方で、ヘザーを筆頭に人々を救いたがっていたということ。
そのために
メトラトンの印章を各地に設置していたこと。
「んだよ、あいつはとっくに脱出済みかよ」
ヘザーの無事を聞いて、アベは腕を組んで横になった。
「矛盾していない? そのアレッサって子は私達を苦しめて殺そうと集めたわけでしょ?
なんで同時に救おうとしているのよ。だったら最初からこんなことしなければいいじゃない」
ジルの考えに数人が頷いた。
「憎しみに囚われた彼女は、彼女の一面でしかないのです。この街に潜在する魔力が彼女の意思を曲解した結果といってもいい。
本来の彼女は、とても優しい心の持ち主なのです。それが魂の分裂や邪神を宿すことで歪になってしまっていた」
「精神疾患……多重人格か」
ミサワはつぶやく。
「憎しみを吐き出すにつれ、彼女は持ち前の優しさを取り戻していきました。
かといって、完全に憎しみは制御できず、優しさもまた歪な形で現れたのです」
「それがシェリル――ヘザーへの対応の正体ね」
シビルは思い当たる節があるらしい。
「彼女は自分の半身を憎みつつも救いたいと願い、その一方でこの地獄を終わらせようとした。私はその後始末を託されたのです」
マキノは懐から奇妙な道具を取り出した。粘土細工のような……土偶というものだろうか。
「ミスター・バートン。あの件は」
「あの目から血を流してるゾンビみたいなやつか。言われたとおり、ふん縛って集めておいた」
「ありがとうございます」
「あいつら何なんだいったい。頭ぶち抜いてもしばらくしたら動きやがる。あんたの言うとおり縛っておかなかったら危なかった」
「屍人というものです。あれは霊魂でも生者でもなく、一方で肉体を持つために特別な手段でないと対処できないのです。
赤い海に還っているものは海がつれていきますが、ここに残ったものは私が始末をつけなければなりません」
「それは我々の救助活動を手伝うということでいいのか」
クリスにマキノは首をふる。
「いいえ。あなた達が脱出した後、私はメトラトンを完成させてから屍人を解放します。危険ですからね」
「車を一台用意しよう。それで街の外に出てくれ」
「ありがとうございます」
使うつもりはありませんけどね。マキノは誰にも聞こえないよう呟く。
「あの、皆さん信じるんですか」
レベッカは恐る恐るといった風に声を出した。
「その、魔力がどうとか儀式がどうとか」
「信じるしかないんだよ」
レオンが諦めたように言った。
「違う場所どころか、違う時間から来た人間だっている。そんなものを説明できるほど科学は発展しちゃいない。
そこに納得できる理屈があるなら、それを信じるしかないんだ」
レオンに反論するものはいなかった。ここに連れてこられた人間は、大なり小なり心当たりがあるのだろう。
「脱出についてですが」
マキノは話を続ける。
「この霧はある種の境界になっているのです。
皆さんが異なる時代や異なる場所から来たように、この霧の向こうは地理的に正しい場所や時間につながっているわけではありません。
あなた達が抱く、帰るべき世界という像が導くのです」
「理想の世界に帰れるということかしら」
ジルは心なしか嬉しそうだ。もし帰れるなら、バイオハザードが起きる前のラクーンシティを彼女は望むだろう。
ひょっとしたら、それ以上の昔かもしれない。
「理想、とは違いますね。たとえば死んだ人間が生きている世界を望んだとしても、心のどこかでその死を受け入れている場合、やはりその人間は死んだままの世界になります。
自分にとっての現実、そう言った方が正しいでしょう。
その死を否定し続けることで、あるいはそういった世界に行き着く可能性は否定しませんが」
「悪いなジル」
クリスはすまなそうに頭をかく。
「君がそうした場合、俺は君とは一緒の世界に行けないようだ。そんなに器用じゃないんでな」
「わかってるわよ。聞いてみただけよ」
ジルは居心地悪そうに顔をしかめた。
「自分がいる世界がどうあるべきか、皆さん今のうちに思い描いておくべきでしょう。それでは私はこれで」
言い残して、マキノはテントを出て行く。
「……止めなくてよかったのか」
バリーの言葉にクリスは溜息をついた。
「令状がないからな」
「もしかして根に持っているのか?」
「さあな」
アークは気まずそうに頬を掻いた。
◆
生存者への対応、B.O.W.を筆頭にした怪物の駆除。死体の収集と身元確認によるリスト化。
そういった様々な活動を終え、対アンブレラ特殊私設部隊の任務は終わろうとしていた。
「死体はすべて焼却ですか」
「どんな病原菌を持っているかわからないからな。妥当だろう」
燃え盛る死体の山を牧野と三沢は眺めていた。
「それにしても……」
求導師はサイレントヒルの街並みに目を向けた。
「すっかり様変わりしましたね」
「生存者や魂の記憶を元に作られた街なら、それらがいなくなれば消えるのは当然だ」
「これですら偽りの姿ですけどね。完全に元に戻すためには、サイレンで世界が裏返ってから消さなければなりません」
「そろそろタイムリミットか」
「ええ。お急ぎください」
牧野は微笑む。少し考えたが、三沢は目の前の男に感じていたことを告げることにした。
「君は牧野慶ではないだろう」
「……あなたとは初対面のはずですが」
「そんな気がしただけだ。否定しようが無視しようが構わない」
「私は牧野慶として生き、牧野慶として死ぬ」
男は相変わらず笑う。
「それだけです」
「そうか」
三沢はそれ以上追求はしなかった。そのまま背を向け、去っていく。
「心配しなくても、君は救世主だよ」
最後にそう言い残して。
飛び立っていくヘリの群れ。それらが霧の向こうへ消えていくのを牧野慶――宮田司郎は見送った。
彼は振り向き、目の前に並ぶ屍人の列を眺める。すべて拘束され、醜くもがいていた。
メトラトンの印章はすべて指定された場所に配置した。じきに発動するだろう。
そして――――
「今、お前たちを楽にしてやる」
自分が思い描く牧野慶は、救世主としてここに完成する。
サイレンが鳴る。
男は持っていた土偶――宇理炎を掲げる。
変貌する世界の中を、救済の光と炎が駆け巡る。
◆
「終わるんだね」
光に包まれる世界を仰ぐシェリルに、アレッサは黙って頷いた。
「ごめんね。父さん、連れて来られなかった」
「後悔はしてないんでしょ」
「うん」
「ならいい」
シェリルの伸ばした手をアレッサは無言で握った。
幸福は、自由は、やはりヘザーのものだ。自分たちには遠い幻想のようだ。
もはや羨望も憎悪もない。
かといって満足したわけでもない。
あるのはただ、無だ。
吐き出すものを吐き尽くしたあとの、燃え尽きたような何か。
未練がない、というのが一番近いか。
「ハンナは?」
「もう行った」
「次の世界で、幸せになれるといいね」
この世界の境界を超えるには、自分のあるべき世界の姿を抱く必要がある。
もし、本当に彼女が幸福を――救われることを望んでいるのなら、あるいは。
「綺麗だね」
「そうね。本当に」
世界の終焉。
自身の消滅。
何も残らない。
はるか昔に自分が望んだこと。それがようやく叶う。
ずいぶんと回り道をしてしまった。
「でもこれでよかったよね、ヘザー」
彼女は失ったものを取り戻せた。それだけで充分ではないか。
彼女は、自分たちの幸福を担っているのだ。
だから、彼女は幸せでなければならない。
最後の最後で、その手伝いができた。
やはり自分には、未練というものはない。
愛する父と、幸せに。
それだけを祈って、少女は光に飲まれていった。
【雛咲真冬@零~ZERO~ 死亡】
【エディー・ドンブラウスキー@サイレントヒル2 死亡】
【エドワード(シザーマン)@クロックタワー2 吸収】
【長谷川ユカリ@トワイライトシンドローム 死亡】
【岸井ミカ@トワイライトシンドローム 死亡】
【式部人見@流行り神 死亡】
【氷室霧絵@零~zero~ 死亡】
【小暮宗一郎@流行り神 死亡】
【古手梨花@ひぐらしのなく頃に 死亡】
【霧崎水明@流行り神 死亡】
【風海純也@流行り神 死亡】
【ジェニファー・シンプソン@クロックタワー2 死亡】
【鷹野三四@ひぐらしのなく頃に 死亡】
【ジム・チャップマン@バイオハザードアウトブレイク 死亡】
【ハンク@バイオハザード アンブレラ・クロニクルズ 死亡】
【宮田司郎@SIREN 消滅】
〈最後の詩――
ヘザー・モリス/ハリー・メイソン/シビル・ベネット/阿部倉司〉
「まだ怒ってるの?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん……」
家に連れ帰ってから数日、未だにムスッとしている父にヘザーは溜息をつく。
「こんなきかん坊に育ってるとは思わなかった」
「そう育てたのは父さんでしょ」
「育ててない」
「揚げ足とらないでよ」
自分に似て――いや、自分が似たのか――頑固なところがあるから、しばらくはこの調子だろう。
玄関のベルが鳴ったので、ヘザーは拳銃片手に向かう。
クローディアはもういない。教団も沈静化している。わかっていても、警戒するに越したことはない。
「ヘザー、ちょっといいかしら」
「シビル」
すっかり顔なじみになった女性警官がそこにいた。
「今日はどうしたの」
「行き倒れを拾ってね」
彼女は親指で自身のバイクをさす。
「あなたにどうしても会いたいっていうから」
「ああ……」
そこでぐったりしている男性に、ヘザーは安堵のような声を漏らす。
「あんたもこっちに来たの、アベ」
「仕方ねえだろ。日本に帰る場所はねえしよぉ……高飛びするっきゃよぉ」
ぐきゅるるるる。
情けない腹の虫がアベの腹で暴れている。
「とりあえず飯」
「私もランチにしようかしら」
「そうね……」
ヘザーは少し考えこんでから、室内に顔を向けた。
「ねぇ父さん。外食にしない?」
今日の昼食は、少しは賑やかになりそうだ。
「本当についてきてよかったんですか」
「言っただろう。鍛えてやるって」
田舎道を歩く恭也の後ろを三沢は歩いて行く。
「それにあそこには興味があるんだ。いや、借りかな」
「はぁ……そうですか」
羽生蛇村まで、あと少し。
〈最後の詩――レオン・S・ケネディ〉
シーナ島に潜入した二人は注意深く周囲を見回す。
「しかし着任当日に失職とはお前もついていないな」
「悪いな。奢る話はしばらく先になりそうだ」
「この仕事は対アンブレラ特殊私設部隊の下請けだ。ギャラは折半して俺に奢る分引いて――それがお前の手取りになる」
元々このシーナ島については、アークがアンブレラとの関連について調べたものをクリスに報告したものだ。
それを受けて、クリスが正式な依頼として排除と調査を命じたのだ。
「今月の家賃くらいは残しておいてくれよ」
「そいつはこれからの働き次第だな」
アークの言葉にレオンは苦笑した。
〈最後の詩――ジル・バレンタイン/太田ともえ〉
「お嬢に会いに遠路はるばる……ご苦労なこってす」
ぺこりと頭を下げる若い衆にジルもならう。
「突然の訪問で失礼を」
片言の日本語でも意味は通じたのか、彼は手を上げて首を振る。
「お構いなく。あなた様のことは言付かっておりますので。いつ来ても失礼のないようにと」
「それで、彼女は」
「もうそろそろ帰ってくると思いますよ」
「漁か何か」
「いえ、本土からの船です」
「旅行かしら」
「いえいえ。留学ですよ」
ほう、とジルが息を吐く。
「“えあめーる”ってのでアメリカのどこかにいるって聞いてます。元は本土の大学に入ったんですがね。そこから……」
侍女から受け取った日本茶に渋い顔をしたジルは適当な相槌を打つ。
「なんでもこれからの“ぐろーばる”な社会を生き抜くためには積極的に異国と関わる必要があるとかで。
昔、先代やお嬢を含めた島の連中がいなくなっちまうことがありましてね。
数日たってお嬢だけ帰ってきたと思ったら『本土に行く』なんて言うもんですから、気でも触れたのかと島中心配しましたよ。
でもこうして人や物の流通が増えて活気が出てるのを見ると、存外的を射ていたのかもしれませんねえ。
いったい、いなくなっている間に何があったのか……ご存知ですか?」
「ちょっとした事件があって……私はその頃の縁で」
「そいつは手前どもの頭が世話になりまして」
頭を下げる男に合わせてまた頭を下げるジル。日本人はどうしてこうペコペコするのだろう。
「トモエは立派になったようね」
「後は婿の問題でして。出来が良すぎて島の男は及び腰になっちまい、
ひょっとしたら異人さんでも連れてくるんじゃないかと……ああ、いや、外国の人がだめだっていう話じゃなくて」
ジルは苦笑し、窓から海を眺めた。そこからは活気あふれる港が見えた。
どんな辺境の閉鎖的な島かと覚悟していたら、むしろ観光地のような賑わいだ。
元からこうではなかったのだろう。多分、ともえが変えたのだ。外の世界を見て、自分の世界を広げた結果だろう。
自分はこれから、本格的に対アンブレラ特殊私設部隊――BSAAに参加する。おそらく、しばらくは会えないだろう。
ひょっとしたら、もう会えないかもしれない。
会うのが楽しみだ。
ジルは茶碗を傾け、コーヒーとは別種の苦味に顔をしかめた。
◆
予定よりすっかり遅くなってしまった。
テロ対策のための厳重な警備とやらのせいで、帰国まで随分時間が掛かった。
ともえはキャリーバッグを転がして、空港の中を早足で進んでいく。
相変わらずの和服姿は向こうで大層珍しがられたが、スーツ姿の自分が想像できないだけで、パフォーマンス目的ではない。
「あ、すみません」
誰かとぶつかってしまった。英語が出そうになったところを、慌てて日本語で謝る。
「オウ、ソーリー」
それを英語……いや、片言の日本語で返された。どこかで聞いた声。
相手の落としたものを手に取る。それは棒状で、袋で隠されているが、日本刀だとすぐにわかった。
顔を上げると、そこには茶色がかった黒髪、無精髭、彫りが深い……西洋人だ。
ああ、なんてことだ。
どうしても笑みを浮かべてしまう。あの背中を、実家においてきた拳銃を思い浮かべてしまう。
「サムライブレード、ですか」
「好きなんですよ、サムライ」
英語で問うと、今度は流暢な英語が帰ってきた。彼の隣にいた黒人男性が陽気に手を組んで刀を握るジェスチャーをする。
受け取った刀を掲げて、子どものように笑う彼。
懐かしさと嬉しさと…………
「あなたは好きですか?」
「ええ」
そのほかの温かい何かをこめて、
「とっても」
彼女は微笑んだ。
最終更新:2016年03月13日 14:20