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★1960年

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6001●新安保条約、ワシントンで調印

 日米新安保条約と行政協定は、60年1月19日、ワシントンで調印された。岸首相自身が出席した。そして2月にその批准のための国会審議が始まった。
 社会党は、新条約・行政協定の問題点を鋭く追及した。それに対して政府答弁は明確を欠き、訂正等の失態を重ねた。自民党反主流派は、岸の三選阻止の方が大切で、法案審議を傍観視していた。

6001●民社党結党大会 国会議員41人、西尾末広が委員長に

 60年1月24日、前年に社会党を離れた河上派ら右派の議員は、民主社会党を結成した。西尾末広が委員長に選ばれた。

6004●韓国4月学生革命 李承晩大統領辞任

 60年3月に行われた韓国の大統領選挙で、李承晩が当選した。学生を中心に大統領退陣要求のデモが激化、ついに4月27日に大統領を退陣に追い込んだ。
 この4月学生革命は、安保闘争中だった日本の学生運動に大きな励ましを与え、その後の闘争強化につながった。

6005●新安保条約批准強行可決 国会に警官隊導入

 条約の批准については、衆議院で可決していれば、参議院の議決がなくても30日後に自然成立するというのが憲法の規定である。60年6月19日にアイゼンハワー大統領が訪日する予定になっており、岸はどうしてもそれまでに批准をすませたかった。そのためには、衆議院を5月19日までに通過させると同時に、自然延長のために会期を延長する必要があった。しかしそれらの方針は、与党議員にさえ直前までは知らされていなかった。
 5月19日午後、議院運営委員会に会期延長の提案が出されると、野党委員は当然のごとく反対した。暫時休憩が宣せられたあと、与党議員だけで議院運営委員会が抜き打ち的に開かれ、会期延長の採決が強行された。国会はにわかに緊張した。同日午後10時25分、突然衆院本会議の開会を告げる予鈴が鳴った。同時に安保特別委員会の開会が、小沢佐重喜委員長によって宣せられた。社会党議員が委員長席に詰め寄り騒然とする中で、開会から12分後、条約と協定の承認、関連法の3件が可決とされた。(社会党議員は可決を認めなかったが。)間髪を入れず清瀬一郎衆議院議長は、警官500人を院内に導入、議長室前に座り込んでいた社会党議員や秘書たちを排除させて本会議場に入り、開会を宣した。まず50日の会期延長が単独可決され、休憩を挟んで翌20日午前零時18分、3議案の採決が行われた。野党は全員欠席、自民党でも三木・松村・石橋・河野ら26名が強行採決に抗議して欠席あるいは途中退場した。

 その深夜にも、雨の中、国会を3万人のデモ隊が取り囲んでいた。
 翌朝の新聞は、激しく19日の強行採決を非難した。いまや、問題は安保より、強行採決反対・民主主義擁護であった。翌20日は10万人、21日は17万5千人が国会を取り巻き「安保反対、岸退陣」を叫んだ。
 6月4日、国鉄労組と動力車労組を中心として76単産460万人が参加し、政治的目標を掲げたものとしては戦後最大ストが行われた。商店の「閉店」ストも全国で2万軒に及んだ。政府は、政治ストは違法であると威圧したが、乗客と駅員とのトラブルはほとんど起こらず、新聞の論調もストに好意的であった。

 岸は、「日本は議会政治の国である。その議会で絶対多数を占める自民党の中の、そのまた絶対多数が安保条約の採決に参加した」と採決の正当性を主張し、デモなどに参加せずプロ野球観戦などを楽しんでいる大衆の「声なき声の支持」があることを強調した。
 これに対して、自民党反主流派は、岸の即時退陣を狙って社会党と連携する動きを見せた。

6005●「今こそ国会へ」 流血のデモ、女子学生1人死亡

 6月10日、アイゼンハワー大統領訪日の打ち合わせのために大統領の秘書ハガチーが羽田空港に降り立った。空港には全学連を中心とする1万5000人のデモ隊が集まっていた。マッカーサー大使とハガチーの乗り込んだ車はデモ隊に取り囲まれたところを警官隊に救出され、ヘリコプターで大使館に送られた。
 このハガチー事件を、新聞各紙が「国際信用の失墜」と非難した。アイク(アイゼンハワー大統領)訪日延期を要請していた社会党は、当日の羽田デモ取りやめを決めた。
 6月15日、労組を中心とする国民会議20万人のデモとは別に、全学連主流派のデモ隊が国会南門前に集結、警官隊の阻止線を突破して国会構内へ乱入した。追い返そうとする機動隊の実力行使の中で、女子学生一人が死亡した。夜半から深夜にかけてデモ隊(そして右翼)と機動隊との衝突が続き、多くの学生・市民が負傷し、検挙された。
 翌16日、岸はアイク訪日の中止を決め、閣議決定した。治安上の不安からであった。岸は赤城防衛庁長官に自衛隊の治安出動を要請したが、拒否されていた。
 17日、東京の七新聞が「暴力を排し、議会主義を守れ」と共同宣言を発表した。岸政権と全学連らのデモの両方を非難するものであった。
 6月19日午前0時、新条約は自然成立となった。翌日から再び激しくなるデモとストの嵐の中、23日朝、外相公邸で批准書が交換された。(デモ隊が押し寄せないように、批准書交換の場所がメディアに明らかにされたのは、開始の20分前であった。)
 そしてその後、岸は退陣を表明した。

6007●「寛容と忍耐」池田勇人内閣誕生 激しい総裁選経て

 岸の後継を決める総裁選には、池田通産相、大野副総裁、石井総務会長、松村、藤山外相が立候補表明した。大野は、岸が密約を守って自分を支持してくれるものと信じていたが、岸は、安保騒動中に大野が倒閣に動いたことをもって密約は無効になったと考えた。当初は静観を決め込んでいたが、最後に池田支持に自派をまとめた。池田派の参謀は大平正芳で、佐藤派の田中角栄と連携して、財界主流からの豊富な資金にものを言わせて各派に切り込みをかけた。大野は勝利を信じていたが、土壇場で岸派と佐藤派が池田支持に固まったと聞き、立候補を辞退、同じ党人派である石井の擁立に回ったが、これも切り崩され、選挙は第一回投票も第二回投票も池田の圧勝で終わった。
 7月19日、池田勇人内閣(第一次)が誕生した。
 党人事は、幹事長桝谷秀次(池田派)、総務会長保利茂(佐藤派)、政調会長椎名悦三郎(岸派)。内閣は、官房長官大平(池田派)。
 池田首相は、「寛容と忍耐」を内閣の基本姿勢とし、安保改定のために分裂した国論を修復し、政治を新しい安定軌道に乗せようとした。彼は、任期中に憲法改正はしないと言明し、タカ派の岸との違いを明確にした。

6009●所得倍増政策発表 10年で倍増の夢

 池田新首相が力を入れたのは経済政策であった。9月5日政権は、10年以内に国民所得を倍増するという政策(所得倍増政策)を発表した。これは、下村治が以前から宏池会の研究会で主張していたことであった。このとき、日本経済は未曾有の興隆期にあたっていた。1960年のGDPは14.1%にも達した。「投資が投資を呼ぶ」(経済白書)という状況で、数字的にいうと10年で倍増というのは、十分現実的なものであった。

6010●浅沼・社会党委員長刺殺される

 60年10月12日、社会党の浅沼委員長が演説中に刺殺された。犯人は歳の右翼団体に所属していた少年であった。浅沼は、農民運動の出身で、豪放磊落、庶民的な性格で大衆に愛されてきた。右派社会党出身だが、左右社会党合同後委員長に就任してから左傾した路線をとり、安保闘争を牽引し、社会党の支持層を増やしてきた「輝ける委員長」であった。
 浅沼死後、臨時党大会を開いた社会党は、江田三郎を委員長代行に選出した。この大会で、従来の階級闘争論を修正する構造改革論が初めて登場した。

6010●第回衆議院選挙 自民、絶対多数確保

 60年10月24日、池田首相は衆議院を解散、初めての総選挙に打って出た。自民党は所得倍増をスローガンにして選挙戦を戦った。
 結果、自民党は前回287議席から296議席へ伸ばし、絶対多数を確保した。社会党は、前回166であったものが145へ減った。これは、解散時、民社党へ40人が移っていたからで、実は解散時127を大きく伸ばしたものである。逆に民社党は17議席に大きく減ってしまった。

6011■ジョン・F・ケネディ、大統領に当選

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