序
ある日網膜音楽の創始者いとととが、X上にて「楽譜は網膜音楽か?」という問いを投げかけられたことを皮切りに、現代4コマ周辺のコミュニティでさまざまな議論が起きた。ここではトピックを3点に絞り論述していく。また他の人物による論考も掲載する。
論考
1. 楽譜は網膜音楽か?
結論から言えば、楽譜は「網膜音楽」とは言えないが「網膜的」であると考えられる。なぜなら音楽に造詣のある人物であれば、楽譜からその旋律を想起できる可能性があるからだ。ただしこれには相当な技術を要するため、楽譜は「秘匿的な言語で表された網膜音楽」としての側面を持つと言えるだろう。
一方で網膜音楽は、音楽の語彙をより大衆的な言語へと変換することに成功している。網膜音楽は音楽の新しいジャンルであると同時に、楽譜といった語彙と並ぶ音楽的言語の一形態とされる。同様の論説は「網膜音楽」の記事でもなされているため(リンク)ご一読いただきたい。
一方で網膜音楽は、音楽の語彙をより大衆的な言語へと変換することに成功している。網膜音楽は音楽の新しいジャンルであると同時に、楽譜といった語彙と並ぶ音楽的言語の一形態とされる。同様の論説は「網膜音楽」の記事でもなされているため(リンク)ご一読いただきたい。
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ここで「網膜音楽」そして「網膜的」というそれぞれの用語について振り返りたい。
現在の「網膜音楽」は既存の音楽(鼓膜音楽)の言語を変換したうえで別な作品として(主となるアプローチは画像によるもの)提示し、視覚からの連想によるメロディーの再現を試みる芸術運動の名称である。過去の体験を呼び覚ます芸術、と言いかえることもできよう。
一方で「網膜的」とは、先に挙がった楽譜のように「網膜音楽として発表された作品以外のものを目に捉えることによって旋律を覚えること」である。一般的な楽譜が網膜音楽と峻別され、網膜的と表現されるに留まる事由はここにある。
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ここで「網膜音楽」そして「網膜的」というそれぞれの用語について振り返りたい。
現在の「網膜音楽」は既存の音楽(鼓膜音楽)の言語を変換したうえで別な作品として(主となるアプローチは画像によるもの)提示し、視覚からの連想によるメロディーの再現を試みる芸術運動の名称である。過去の体験を呼び覚ます芸術、と言いかえることもできよう。
一方で「網膜的」とは、先に挙がった楽譜のように「網膜音楽として発表された作品以外のものを目に捉えることによって旋律を覚えること」である。一般的な楽譜が網膜音楽と峻別され、網膜的と表現されるに留まる事由はここにある。
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2. 網膜音楽で取り上げられた音楽を聴いたという過去の体験自体は網膜音楽か?
網膜音楽はあくまでも視覚からのメロディーの連想を狙った、ヴィジュアルアートを出発点とする音楽芸術の運動名である。その目的は、先述したように過去の体験を呼び覚ますこと。よってその過去の体験自体に網膜音楽の名称をあてることはできないと考えられる。
3. 網膜音楽は既存の音楽の存在に依存するか?
現時点では是という他ない。網膜音楽はまだ実験段階にあり、過去の想起、原典のある音楽を再現する芸術であることは否めない。しかし網膜的な事象を包括し作品へと投影していくことで、創造の芸術へと転じさせることは可能であると考えられる。
例えば楽譜を見て旋律を知覚することを筆頭に、母校を見て校歌を思い出すとか、海を見てそれに関する曲を連想するとか、そういった現象は総じて網膜的と言える。このような物事を研究していけばさらなる飛躍を見ることができるだろう。この網膜的事象の最たる例として、作曲家が何かを見て新たなるメロディーを思いつくことがあるであろう事実も忘れてはならない。
例えば楽譜を見て旋律を知覚することを筆頭に、母校を見て校歌を思い出すとか、海を見てそれに関する曲を連想するとか、そういった現象は総じて網膜的と言える。このような物事を研究していけばさらなる飛躍を見ることができるだろう。この網膜的事象の最たる例として、作曲家が何かを見て新たなるメロディーを思いつくことがあるであろう事実も忘れてはならない。
よって網膜音楽の到達点のひとつとして、個々人の音楽的な創造性をかき立てるアートへの進化が挙げられる。楽譜を大衆的なわかりやすい言語へと置き換えるという従来の方針は、「大多数の人が知っているものごと」つまり「共通言語」を用いるからこそ成り立っていた。「ベートーヴェンの4コマ」においては、「ベートーヴェンの肖像画」という広く知られたモティーフ、そして交響曲第5番第1楽章「運命」を選定したことが成功に繋がった。この「共通言語」という武器を解除し、人々が裡に秘める旋律を呼び覚ます芸術への転換に成功すれば、もはやひとつの「網膜音楽」から皆が同じ言語を読み取る必要はなくなるのだ。
他の論考の事例について
桜桃氏
網膜音楽を「パッと見で曲の雰囲気やリズムを得られやすいが細かい音程などはわからない『感覚派』の網膜音楽」、楽譜を「パッと見でどんな曲かは分かりづらいがちゃんと見れば細かい音程などを知ることができる『理論派』の網膜音楽」と定義している。
→【リンク】
→【リンク】
トランプ氏
網膜音楽が鼓膜音楽より先になり立たない可能性を認めつつも、そこから脱するために網膜音楽の「新曲」を生みだす必要性について説いている。
→【リンク】
→【リンク】
匿名氏
楽譜から元の曲を連想することを音楽と言えなくもないとしつつも、それを網膜音楽のフォーマットで行う必要性についての疑問を述べ、そして独自性を追求するための案を挙げている。
→【リンク】
→【リンク】
いととと氏
網膜音楽用の楽譜を新曲として発表するという新たなる道を提示した。
→【リンク】
→【リンク】
トウソクジン
跋
現在の網膜音楽は再現の芸術であるという事実を認めることで、このアートはより前進することができるだろう。創造の芸術へと高めるには作家たちのたゆまぬ実験と努力が必要となる。しかしすでに、網膜音楽の「新曲」を生み出す機運は高まりつつあることを感じている。未知なる奏を予兆する、この興味深い動向を注視していこう。