気付けば日は沈み、東京には夜の帳が下りている。
 日輪が消え果てたことでようやく表を出歩けるようになった者達の存在を、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティはまだ知らない。

 いや、或いは彼ならば。
 予選期間中に起こった不審な失踪事件や殺人事件のデータから下手人共の"事情"を割り出すことも可能だったかもしれない。
 日光に嫌われた悪鬼の存在を白日の下に晒すことだって、こと調べる者が彼であるならば不可能ではなかったろう。
 しかしながら今、ウィリアム――犯罪卿たる彼にそれを行える余裕はなかった。
 夕方までの時点でさえ常にタスクを抱えていた彼だが、現状の切迫具合はその時点でのものを遥かに超えていた。
 その理由は言わずもがな、新宿区を爆心地として勃発した、大破壊(カタストロフ)と呼ぶに相応しい破局にある。

 ――やられたな、と素直にそう思った。
 それを迂闊だと誹謗するのはあまりに酷というものだったろうが、さりとて彼はその手の慰めを自分に掛けてあげられる人間ではない。
 言い訳するでも取り乱すでもなく、冷静にこの災禍を読めなかったことを自己の不覚として認知する。

 この界聖杯内界には二匹の蜘蛛が存在する。
 一匹は老いた蜘蛛。もう一匹は若き蜘蛛、犯罪卿その人だ。
 そして二匹の双方に共通して言えることが、これまた二つ。
 一つは、老若どちらの蜘蛛もお互いの存在を疎み、最上級の警戒を払っていること。
 もう一つは――

「("青龍"の目撃談は予選の間から確認されていた事柄だった。
  板橋区で起こった戦闘の報せで、件の龍が今も生存していることも分かっていた。
  であれば、予め糸を張っておくべきだった。我々は"それ"に対してあまりに脆弱なのだから)」

 彼らはいつだとて、災害(ハリケーン)に弱い。
 どんなに人脈を作って策を巡らせて盤石の布陣を築いても、まさに先程新宿を襲ったような災禍に曝されればたちまち消し飛んでしまう。
 犯罪卿(じぶん)は青龍の情報から、彼がいずれ何らかの形で自分達にとって致命的な事態を引き起こすことを想定し備えておくべきだった。
 他人に求めたなら噴飯されること請け合いの批判を他でもない自分自身に対して行いつつ、犯罪卿は先を見る。
 新宿事変という起きてしまった災害を今更どうにかするのは不可能だ。
 今、真に肝要なのは、"新宿事変が起きてしまった"ことを踏まえた上で――では、どうするか。を考えること。

「(新宿区内に居た協力者はいずれも音信不通。彼らに集めさせていた情報も回収は難しいだろう。
  ……"犯罪卿"として選ぶべき最善手は、新宿周りで起こったことは全て"仕方がなかった"と切り替えることか)」

 爆心地となった新宿で一体どれだけの被害が出たのか、具体的な全貌は今以って不透明だ。
 だが報道機関、及び関係各所の見立てによれば犠牲者は数万人単位になると目されている。
 実際妥当な数字だろうと犯罪卿は思う。出回っている映像を見ても、数百数千の犠牲で済まないだろうことは明白だった。
 けれど冷たいことを言うならば、此処で真に注視するべきは死んだ人数ではない。
 インフラの停止を始めとした二次被害の発生と……新宿事変の勃発を受けて他陣営がどう動くかだ。

 それこそもう一匹の蜘蛛がいい例だろう。
 犯罪卿以上に都市と密接して体制を築いている彼が受ける打撃は、当然自身の比ではない筈。
 そこで彼がどう動くかを観測できれば、今後の老蜘蛛狩りが大きく楽になるかもしれない。
 だが……。

「(しかし。私がそうする方を選んだなら、彼女は……酷い貌をするに違いない)」

 犯罪卿は冷徹ではあっても、冷血ではない。
 彼がマスターの"きもち"を無視して最善手のみを取っていたならば、既にその辣腕は幾つかの主従を終わらせていたに違いない。
 それが出来るのが犯罪卿だ。英国中にその正体が露見し、後ろ盾の一切を仰げない状態に立たされて尚大義のための殺人を続けた超人。
 手段を選ばなくていいのであれば彼の脅威性は対抗馬たる蜘蛛にさえ並ぶ。

 だが、彼は今手段を選んでいる。
 取る行動の選択肢を絞っている。
 可能性の幅を狭めて、進むべきでない岐路へ進んで。
 そんな不合理を自覚しながら良しとしているのが犯罪卿の現状だ。
 しかしてそれでも、彼はその愚を改めようとは思わない。
 それをすれば失ってしまうものがあると、そう分かっているからだ。

 兎にも角にもまずは折り返しの電話を入れるべきだろうと、犯罪卿は携帯端末を取り出した。
 例の破局が起こってからすぐに摩美々から連絡があったが、その際には落ち着くこととくれぐれも早まった真似はしないことを言い含めた上で、状況の確認が完了次第折り返すと伝えて電話を切っていた。
 そして確認は済んだ。今後のビジョンも……まだ大まかなものではあるが、浮かんだ。
 であれば彼女と話をし、それを共有して次に繋げるべきだろう。そう思い、電源ボタンを押したその時。

「……、……」


 『俺はお前にとって、単に計画に必要な駒か? 
  そうでないなら、俺を舞台に上げろ。 From H』


 届いていたメール。
 それを見た時、犯罪卿は素直に驚いた。
 チェスの対局中、相手から予期せぬ一手が飛んできたような――そんな表情。
 だが、今の犯罪卿にとってこれは渡りに船と言っていい申し出だった。
 界聖杯内界、東京都という名のチェス盤に並べられた彼の駒達。
 その何割かが、チェス盤に突如として生じた陥没に呑まれて消え去った今。
 何を置いても必要なものとは何か。当然、決まっている。――新たな、駒だ。

「……いいでしょう。貴方が何を考え、このような申し出をするに至ったのかは不明ですが」

 駒で終わるつもりはないと、メールの主たる彼は言っていた。
 実に結構だ。そのくらいの危害がある相手でなければ、腹を割って話すなんて出来やしない。
 犯罪卿はメールの宛名欄をタップし、次いで表示されたメニューから通話ボタンを選び、もう一度タップ。
 無機質な電子音が数秒、響いて。通話の向こうから、声が届いた。


◆◆


「突然の連絡すまなかったな。こんな状況で俺の求めに応じてくれたことに、まずは礼を言わせてほしい」
『礼には及びません。しかし貴方もご想像の通り、我々も今はあまり余裕のある状況ではないのです。
 故に――まず、率直に用件を聞かせていただきたい。それを以って私の腹の中、曝け出すかどうか決めましょう』
「じゃあ単刀直入に言うぞ。283プロダクションのプロデューサーが攫われた」

 始まった会話、開かれた会談。
 その始まりは実に淀みなく、立て板に水を流すが如しであった。
 状況に余裕がないのはお互い様だ。双方抱える事情も置かれた現況も違えど、同様に切迫している。
 落ち着いて冷静に立ち回るのは肝要だが、しかしてある程度焦って事を進めなければ取り返しの付かない損失を生み出しかねない崖際。
 であればやり取りに婉曲さなど不要。対話の形は直球の投げ合いこそが最適である。
 少なくとも"犯罪卿"ウィリアム・ジェームズ・モリアーティに自ら進んで踏み込んだアシュレイ・ホライゾンはそう考えていた。

「予想外の事態ってわけじゃないよな。お前の部下から一通りの経緯は聞いてる。
 ドブとかいう見張り役の男からの連絡が途絶えた報告はお前の元にも行っていた筈だ」

 283プロダクションのプロデューサーは、何者かによって攫われた。
 犯罪卿が使っていた駒の一つは恐らく消失(ロスト)。
 まんまと襲撃者達はプロデューサーの略取に成功し、当の彼の行方は杳として知れない。
 アッシュの言葉を聴き終えた犯罪卿は特段濁すでもなく素直に彼の指摘が正しいことを認めた。

『私としても、かの"プロデューサー"の動向は出来る限りつぶさに把握しておきたいと考えていた。
 故に本来であればすぐにでも彼の在宅を確認させ、もし部屋を空けているならば追跡の手を用立てるつもりでした』

 犯罪卿のマスターは283プロダクションと関わりが深い……どころか、十中八九そこに所属するアイドルだ。
 件のプロデューサーによって眩しいステージの上へと導かれ、故に彼に対して抱く信頼と親愛の念は非常に強い。
 アッシュのマスター、七草にちかと同じように。なればこそ、この犯罪卿としてもプロデューサーは捨て置けない相手であると察しが付いた。

 そして事実、犯罪卿(かれ)はプロデューサーの失踪を知るなり、その行方を探るつもりでいた。
 相手もまた現世の道理に縛られない存在(サーヴァント)である以上追跡は至難に思われるが、それを何とかするのが犯罪卿だ。
 逃げる側が超常の民ならば、追う側もまた同じ。そこに鬼ごっこの関係性は十分に成立し得る。
 しかしそれは、聖杯戦争が波風立たない凪の戦況を保ったまま進んでいた場合の話である。

「だが、問題が生じた。お前の頭脳をしても予想だにしない事態が起きた」

 境界線の青年や犯罪卿のような聡さが無くとも、誰でもそれが何かは想像が付いたに違いない。
 それほどまでに先程起きた……新宿区を中心として轟いた"事変"の影響力は甚大だった。
 今まさに張られようとしていた新たな糸諸共に、若き蜘蛛の計略の網を散り散りに吹き飛ばしてしまった。
 全くの予想外。予兆なき天変地異になぞらえて語るしかない、超弩級の理不尽(インシデント)。
 プロデューサーの行方は確かに重要なファクターだったが、そこに手を伸ばすのが致し方なく遅れてしまう程に、最強生物二体の激突は犯罪卿の俯瞰する盤面を大きく狂わせてくれた。

『お察しの通り。当初プロデューサーの現況を探る予定だった私の目論見は、新宿の災禍によって大きく掻き乱された』

 此度の犯罪卿は勝利のみを求めて行動している訳ではない。
 それでも、自分を呼び出したマスターという存在がある以上行動指針に一定の優先順位を設けることは必要だった。
 依頼人(マスター)である田中摩美々の意思にコミットはする。だが、その為に彼女の命と未来までもを擲つつもりはない。
 冷たくも狂いなき天秤はその時も、いつも通りに正論という名の最適解を導き出してくれた。

『我々が居を構えている土地もかの区からそう遠いわけではありません。
 災禍の時間が本当に終わったのか、それに伴う二次被害はどの程度の規模で広がっているのか。
 我が身に掛かる火の粉を振り払うことに労力を割かねばならなかった。不覚と責められるべき計算外(エラー)です』
「それは自罰的過ぎるってもんだろ。あのな、ああいう輩が湧いてくるのはいつだって突然なんだ。
 その手の馬鹿の出現を大真面目に受け止めてたら胃が擦り切れるぞ。犬に噛まれたとでも思ってさっさと切り替えた方がいい」

 生前のきらびやかな、本当に色んな意味できらびやかな記憶を思い返しながら、アッシュは心胆からのアドバイスを贈った。
 とはいえ別に光に限った話ではない。属性が、陰陽が何であれ、そういう輩は何処にでも湧く。
 古都プラーガを舞台とした銀の運命(シルヴァリオ)を踏破した後の人生でも、アッシュはそれを幾度となく実感させられた。

『いやに実感の籠もった物言いですね。さぞや生前は苦労の多い生涯を送っていたものと推察します』
「ご想像の通りだよ。おかげで忍耐力だけは人並み以上にまで鍛えられたけどな」

 とはいえ、まあ……そんな苦労も巡り巡って今の自分をより強固に形作る鎧になってくれていると感じる場面も多々あるから、実際にはそれほど悪しく感じているわけでもないのだったが――閑話休題。 

「話を戻すぞ。俺は、プロデューサーを追いたいと考えてる。そしてそれはお前も同じの筈だ――そうだろう?」

 犯罪卿の返事を、答えを待つことはしない。
 彼も同じ考えを抱いていると確信しているから、アッシュは言葉を紡ぐのを止めようとはしなかった。

「新宿の一件と奇しくも期を同じくして動き出した連中が居る。
 お前ほどの知恵者でさえ完全には読み切れないほど目まぐるしく戦況が変わる、そういう状況になってきたわけだ。
 もうそろそろ腹を割って話す頃合だろう。そうじゃなきゃ、俺もお前もいつか大きな荒波に呑まれるぞ」

 何も鳴動は自分達の周りだけで起こっているわけではない。
 恐らくはこの異界東京都の全域で、ほぼ全ての主従が何らかの分岐点に立たされ、自ら進んで行動を起こし始める。
 安穏とした凪を破り、自ら進んで鉄風雷火の吹き荒ぶ大時化の運命へと船を出す。
 そんな混沌を生み出せるほどの力が、あの新宿事変にはあった。
 そして犯罪卿も、アッシュの考えには全くの同意見だった。

『本来であれば貴方がたとはある程度距離を置きつつ、信用に値するかどうかをもっと時間をかけて見極めるつもりでした。
 しかし戦況……以前の会話から引用するなら"チェス盤"がこのように歪み果てては話も変わる』

 いや、そもそもからして思い上がり過ぎていたのだろう。
 犯罪卿(ウィリアム)は自らの慢心を認め、そして羞じる。
 脳内にインプットされた聖杯戦争の概略とセオリー。
 そんなものが実戦で役に立つわけもないなんてこと、少し考えれば分かることであった。
 盤面が盤面の形を保って進む安穏な聖杯戦争は、そもそもこんな異常な量の主従数でなど執り行われない。
 チェス盤は崩壊して駒の位置と向きは見る影もなくシャッフルされた。
 もはや此処から先の戦争に、今までの常識と固定観念は通用すまい。 

「お前は、プロデューサーを攫った相手に心当たりがあるのか」

 根拠ありきで口にした問いではなかった。
 ただ、この男なら混迷した状況の中でも凡人には理解出来ない論理と推論で解を導き出してもおかしくないという、そんな信用があった。

 アシュレイ・ホライゾンは聡明だ。しかし仮に他人からそう評されたとして、彼は決して素直に頷きはしないだろう。
 何故なら彼は、あまりにも自分より上の人間を見すぎたからだ。立場ではなく、能力を見た話。
 頭脳面で言うならば、自分に"運命"を与えた楽園の審判者がまさにその典型である。
 あの炯眼を敵としても味方としても目の当たりにしてきた身で、自分の頭の出来を誇るなどとてもではないが出来やしない。

 そして――アッシュの目から見た犯罪卿は、かの審判者に匹敵し得る傑物として映っていた。
 無論それは性能(スペック)のみを見た場合の話だ。
 犯罪卿にかの者の狂的な執念と突き抜けた思想はない。覚醒という奇跡など起こせるわけもない。
 だからこそ信用に足る。
 共闘相手としての信用と、一人物としての能力に対する信用。
 その両方を安心して傾けることが出来る。
 無論、警戒の一線はちゃんと引いた上で付き合うつもりだったが、それでも常に一挙一動に警戒を巡らせて神経を擦り減らす必要がないのはありがたかった。

『まだ予想の域を出ない推論ではありますが……大方彼らだろう、というのは』

 そして犯罪卿とは、その信用に応えられる男なのである。
 少なくとも能力面に関して言うのであれば、犯罪卿はアッシュの期待を悉く満たす。
 普通なら買いかぶり過ぎだと肩を竦めるような問いにだとて、この通り。

『――"割れた子供達(グラス・チルドレン)"。裏社会では都市伝説的に語られる集団ですが、聞き覚えは?』
「いや、生憎そっち方面の情報収集までは手が回らなくてな。手間じゃなかったら説明して貰ってもいいか?」

 犯罪卿は語って聞かせる、"彼ら"の話を。
 少年犯罪の凶悪性に着目して組織された子供だけの殺し屋集団。
 ネバーランドならざる常世でピーターパンが導いた狂おしき若人の群体。
 そして彼らを率いるピーターパン、殺しの王子様(プリンス・オブ・マーダー)。
 その少年は犯罪卿を憎悪している。必ずや蜘蛛を巣から叩き落として踏み殺してやると憤怒している。
 状況証拠とタイミング。犯罪卿ウィリアムが冒したたった一つの、不可避の失策。
 彼自身それに気付いていたからこそ、暫定容疑者を導くまでに時間はかからなかった。

「……脅威だな。一人ひとりは武器を持っただけのNPCでも、それが百人単位で揃ってるなら立派な傭兵団だ」
『私は彼らの頭目から恨みを買っている。そして私が283プロダクションと縁深い身であることも"知られてしまった"』

 自ら晒したアキレス腱と、今の犯罪卿を戒める鎖。
 仮に下手人が彼らもとい幼狂を率いる"彼"なのだとすれば、実に見事な手際だと言う他なかった。
 数刻前、283プロダクションの事務所での邂逅は犯罪卿の完勝に終わったが。
 それで燃え上がらせた闘志を糧に、あの王子は見事犯罪卿の横っ面にカウンターを叩き込むのに成功したのだ。

『監視役がSOSを出すことも出来ずに消されてしまった程の手際、この局面でプロデューサーを攫うという選択。
 全くの第三者が偶然彼を狙ったという可能性を度外視し、その上で現状の情報の中で考えるならば……』
「いや、待て。それで決めて掛かるのは少し早計じゃないか?
 事務所……283プロダクションは何者かの計略によって悪目立ちさせられているんだろう。
 お前と"割れた子供達"の間に確執があるのは分かったが、283プロダクションという誘蛾灯に寄せられてきた別の勢力って可能性は考えられないか」
『仰りたいことは分かります。しかし私も、それを見落とすほど慌てふためいてはいません』

 新宿事変が勃発するまで、283プロダクションは此度の聖杯戦争の中心と言っても過言ではないほどの影響力を持っていた。
 無論、悪い意味で……だが。
 白瀬咲耶というアイドルの死を発生源に蚊柱の如く巻き上がり拡散した情報の濁流。
 そこに目を付けているサーヴァントなりマスターなりが居ないというのは考えにくいし、であれば下手人は割れた子供達に限らず、そうした未知の手合いの可能性も考えられるのではないか――アッシュの指摘は尤もだ。
 事実犯罪卿も、これが既知の相手でない何者かの犯行である可能性はそれなりにあると踏んでいる。
 しかしそれを差し引いても尚、容疑者候補の最有力は割れた子供達だ。犯罪卿はそのオペラ歌手のようによく通る美声で、精密な思考の糸を手繰る。

『まず、私はこの"本戦"に進出した二十三組の内、既に三分の一ほどを把握しています。
 直接確かめたわけではない推定の顔触れも含まれますが、恐らく間違いはないものと感じている』
「まあ、今更それくらいのことには驚かないよ。続けてくれ」
『その中で敵対の可能性が高い、ないし敵対が不可避である主従は三組。
 皮下病院を根城としていた"院長"、峰津院財閥を統べる"当主"、そして割れた子供達の"頭目"。
 彼らには恐るべき共通点がある。社会的基盤なり組織力なりに基づいた、"長"としての強さです』 

 正確に言えば、皮下医院の院長に対しては確信を以ってそうだと断言出来るわけではなかったが。
 それでもあの病院に付き纏っていた奇怪さ、不穏さを鑑みればこの面子と同類に語っても問題はないだろうと、犯罪卿は判断した。
 大方、院長の皮を被り善人を演じながら、水面下では特殊部隊なり何なりを率いている――そんなところではなかろうか。
 そして実際、その推測は的中していた。鬼ヶ島という"反則"のことを除けば、犯罪卿は皮下医院の実情をほぼほぼ看破していた。

『新宿での災禍を知りながら、予定を崩さずプロデューサーの誘拐に踏み切るというのも彼らならば可能でしょう。
 逆に言えば、彼らほど大きな群れを作った陣営でもなければ……こうもスマートに事を〆ることは難しい筈だ』

 だが、と犯罪卿は続ける。

『だが、皮下勢力と峰津院財閥にはある種の"アリバイ"がある。新宿事変です』
「確かに皮下医院の院長があの災禍に一枚噛んでたかもしれないってのは分かる。
 けど、そこで峰津院が出てくるのは何故だ? またぞろ"こんな事もあろうかと"の賜物か?」
『峰津院財閥は非常に強大な組織です。もはや公権力の一つと看做してもいい。
 されど組織が大きくなれば、それだけ隠密に行動するというのは難しくなるものだ。
 ましてや偉大な当主が直々に何処かへ出向くという話なら尚更です。
 それでもある程度の情報統制は可能かもしれませんが、私の情報網をすり抜けるほど小さくはなれません』

 峰津院からは手を引いた身だが最低限の監視は続けていた。
 その一環で皮下医院に当主大和が向かうという情報を察知出来たため、覚えていたというだけのこと。
 さしもの犯罪卿も、情報を得た時点ではあんなことが起こるとは思っていなかったが。

『新宿事変は皮下真峰津院大和の両陣営が激突したことによって生じた大災害です』
「……そして、アレは奴らとしても予想外の事態だった」
『彼らに利が一切ありませんからね。
 私のような策謀家の築いた地盤を吹き飛ばせるのはメリットと言えるかもしれませんが、それでもデメリットの方が遥かに大きい。
 "長"として何かを率い統べる者であれば嫌う展開の筈です。皮下に至っては自分の拠点を失っているのですから尚更だ』
「成程な。――だから、犯人は一人しか居ないってわけか」
『そういうことです。新宿事変の余波が冷めやらぬ中で、明らかに計画的な誘拐を変更なく遂行出来るだけの勢力がまだ隠れているとは思い難い』

 因みに今、犯罪卿は意図的に"老いた蜘蛛"のことを省いて話している。
 同類故の直感のようなものだった。あの蜘蛛は、こういう形で動いては来ない。
 直接敵対してくるとすればもっと致命的で、もっと破滅的な局面となる筈。
 そう悟っていたから、敢えて可能性からは排して考察を進めたことを、此処に補足しておく。

『第三者の介入という可能性を完全に潰せたわけではありませんが、手持ちの情報(カード)のみで考察するならこんなところかと。
 私自身些か勇み足な結論だという自覚もあります。何か反論があれば、どうぞ遠慮なく聞かせてください』
「いや……正直唸らされたし、納得したよ。だから反論はない。その代わり、此処からは俺のを聞いて貰ってもいいか」

 犯罪卿から聞かされた情報を咀嚼し、反芻しながら。

「あの白熊って男は、帰還していく警官隊を目撃してる。
 誘拐する側にどんな目的があるにせよ、わざわざ進んで事を荒立てることにメリットはない。
 であれば、通報したのは他でもないプロデューサーの側だということになる」

 淡々と――どこか白々しく。
 アッシュは己の知る、知ったことを語っていく。

プロデューサーは敵に目を付けられ、実際に接触するまでに至った。
 しかしそこで、彼は諦めなかったし投げ出さなかった。
 我が身に迫った窮地の中にこそ、現状を切り開く活路を見出そうとしたんじゃないか」
『"283プロダクションのプロデューサー"は、聖杯を狙う腹積もりでいる……と。そういうお考えですか』
「とぼけるなよ。俺に思い付く程度のことだ、お前に限って見落としてたなんてことはないだろう」

 白々しくなるのも当然だ。
 アッシュは相手を決して過小評価などしない。
 それどころか彼は既に、この犯罪卿の傑物性を見抜いている。
 なればこそ此処まで想像が付くのは当然の帰結だった。
 プロデューサーは恐らく聖杯を狙っている――アッシュが先程導き出したこの結論。
 犯罪卿ことWは、自分が辿り着くよりも遥かに前からこの段階にまで辿り着いていたのだと、アッシュはすぐに看破していた。

「とっくに気付いてたんだろう、そのことには。そしてお前は、俺がそこに至れるように導線という名の布石を敷いていた。
 或いは本筋ではない横道(サブプラン)だったのかもしれないけどな。けど俺はこうして、お前の期待に応えられたわけだ」

 何とも面倒臭い、遠回りなやり方だと思うが……逆に言えば"この程度"も頭を回せない相手を重用など出来ないということなのだろうと納得する。
 実にこいつらしいと思うし、実際自分は彼の敷いた布石をきちんと拾って模範解答に辿り着けた。
 であれば今更頭を抱える必要も、その婉曲さに難色を示す必要もない。
 そのハードルは既に越え終えたぞと、堂々としていればそれでいいのだ。

「なあ、流石に様子見はもういいんじゃないか? 俺達にはお前の力が必要だし、お前だって俺達の協力があるに越したことはないと思ってる筈だ」
『……非礼を詫びましょう。ええ、確かに貴方の推察の通りです。
 私は予備候補(サブプラン)として、貴方がたを対等な同盟者として受け入れるつもりでいた』

 よくも、いけしゃあしゃあと――
 そんな感想を抱かせない気品と、不思議な魅力がこの男にはあった。
 さぞや上等な身分にあったか……そうあるべく知識と振る舞いを蓄えてきたのだろうとアッシュは察する。

『ならば最初からそう持ち掛けろというのは尤もな話ですが、しかしそこはご容赦いただきたい。
 獅子身中の虫を好んで体内に招き入れることになるかもしれないリスクと、腹を割るに値しない凡であった場合のリスク。
 先の電話でのやり取りだけでも貴方が聡明で優秀な人物ということは分かりましたが、しかしてこれらのリスクは排し切れなかった』
「分かってるさ、それを非礼だと責めるつもりはない。こっちとしてもむしろ、お前という策謀家の信用度は上がったくらいだよ」

 苦笑しつつアッシュは応じる。赦す。
 しかしその言葉にお世辞や誇張はない。
 犯罪卿(W)が日々どれだけの布石と導線を敷き、策を練り戦っているかが分かったからだ。
 成程、なかなかどうして頼れる男だと思う。
 少なくとも敵に回したい手合いでは確実になかった――極晃も使えないこの身で相手取るには確実に手に余る。

「腹を割って話せる相手だと、そう思ってくれたと信じて訊く。
 お前は――283プロダクションのプロデューサーをどうしたいと思っている?」
『かの事務所に縁ある身として言うのならば、奪還してその心を開かせ、聖杯戦争からの脱出に向け手を取り合いたいと』

 当然、そういう答えが返ってくるだろう。
 では、とアッシュは次の問いかけを紡ぎ出す。


「じゃあ、"W"としての本音だとどうなる?」
『彼の存在は、不穏分子過ぎる』


 即答だった。
 その回答はあまりに酷薄なものであったが、しかし彼の立場を思えばアッシュはそれを責められない。
 プロデューサーと会ったことがないどころか、その声すら聞いたことのないアッシュではあるが。
 それでも件の男の人物像はにちかの言及や反応を参考にするだけで自ずと察せられた。
 さぞかし誠実で、真面目で、優秀な男だったのだろう。
 そんな男が変転し、聖杯を求めて修羅の茨道を歩んでいると知ったなら……あまつさえそれと戦わねばならぬと突き付けられたなら。
 彼を信じた娘達がどれほど"揺れる"のかは、想像に難くない。

『彼の一挙一動、その思想、現況。
 およそ彼に付いて回るあらゆる情報が、私の守るべき方々に大きな影響を及ぼし過ぎる。
 冷徹な蜘蛛としての視点から言わせていただくならば、彼には早い内に消えて貰った方が都合がいい』
「けど、今のお前にそれをする気はないんだな。その物言いからするに」
『ええ。……実に不合理な話ではありますがね。
 今の私にとってはその最適解こそが、最もリスクのある一手と化してしまっている』
「大変だな」
『実に。しかし、もう慣れました』

 ――"283プロのプロデューサー"は存在がリスクの塊だ。

 これについては、アッシュも反論は出来ない。
 彼の生死と動向はその全てがアッシュのマスターであるにちかの、そしてWの周辺の(恐らくはアイドルであろう)者達の精神を揺さぶる。
 存在そのものが障害であり、出来ることなら可能性の器として存在していては欲しくなかった特異点。

 が、アッシュには言わずもがな彼を消して面倒事を排する選択肢などなく。
 犯罪卿もその選択肢を認識してこそいたものの、それを選べばどうなるかを正しく把握していた。
 プロデューサーの排除を選べばこれまで築いてきた信頼関係、絆、その全てが水泡だ。
 だから犯罪卿はプロデューサーを排除出来ない。彼を救う方策を考えることを余儀なくされる。
 首輪に繋がれた蜘蛛とは、これまた妙ちくりんな話だな――と。
 心の中でそう思いつつ、アッシュはまた口を開いた。

「そいつは何よりだ。……そして、そんなお前に改めて質問する」

 否。本題に戻った、と言うべきか。

「俺はお前にとって、単に計画に必要な駒か?」

 チェス盤は崩壊した。此処から先は混沌が描かれる。
 であればこそ駒の価値は下がる。
 盤面にいつ生まれるとも知れない亀裂、それに呑まれてしまえば終わりだ。
 その駒に対して費やしたリソースも駒の存在ありきで編み上げた蜘蛛糸(さくぼう)も無為と帰す。
 この男に限ってそれを理解していない筈はない、そのことを念頭に置いた上でアッシュは問うた。

「お前は同じ役者としての俺に、何を求める?」

 ……。
 …………。
 ………………。
 沈黙が、流れ。
 やがて若き蜘蛛は、通話の向こうでその口を開いた。

『私は貴方を、あくまで駒として考える。この大前提が揺らぐことはありません』
「それは残念だ。少しは考えも変わってくれてるものだと思ったんだけどな」
『生憎と、その席はもうとうに満席なのでね。
 少なくとも……"場合によっては"これまでの状況や立場を白紙にして殺し合う可能性のある相手に与えられる席ではない』

 アッシュは、気付かない。
 "その席はとうに満席"というのが、聖杯戦争が開幕するよりも遥か以前の話であることに。
 気付ける由もないし、犯罪卿もまたそれを承知で口にしていた。
 真の意味で"彼"とそうなれた未来を己が知らないこと、そこに微かな痛みを覚えながらも――

「じゃあ何だ。お前は、俺をどうしてくれるっていうんだ」
『導きましょう。打ち手(プレイヤー)として』

 あくまで彼は打ち手としてあり続ける。
 犯罪卿に剣はない。犯罪卿に盾はない。
 彼にあるのはいつだとて己が頭と、それが導き出す権謀術数の蜘蛛糸のみだ。
 そしてそれは、これから先も変わらない。
 犯罪卿はアシュレイ・ホライゾンの意思を受け止め理解した上で、その上で駒として使う。
 だがその意味合いは、決して余人が思うほど軽くはない。チェスの駒にとて――序列と優劣はあるのだから。

『貴方という駒を最大限に活かします。それでは不足ですか?』
「……いや。それで構わないよ、W。
 案外そういう関係性の方が、お前とのやり取りはうまく行きそうだ」

 口から溢れたのは非難ではなく、苦笑だった。
 自身に課された運命を乗り越えてからはずっと他人と向き合うことに生涯を費やしていたからだろうか。
 今の言葉が犯罪卿/Wが自分に出せる最大の誠意なのだということが自然と理解出来た。
 ならば難色を示す理由などない。望んでいたのとは少し違う形だが、これくらいは誤差として片付けよう。

「契約成立だ。俺はお前が信用に足る悪人である限り――お前の、お前達の味方をするよ。
 ただしその代わり、一人であれこれ抱え込んで意味深に笑ったりするのはナシだ。
 せめて使う側として最低限の説明くらいはしてくれ。そのくらいは求めてもいいだろ?」
『出来る限りは、善処しましょう』

 それでは駒にならないでしょう、と突っ込まれないか冷や冷やしていたが、流石にそこまで塩の効いた男ではなかったらしい。
 何にせよ、助かったとアッシュは思う。これが単なる口約束であることを踏まえてもだ。
 犯罪卿(こいつ)のような優れすぎた男を味方にする時は、気休めだろうが優しい言葉が欲しくなるものだから。

「で……お前が今編んでいる腹芸は――割れた子供達の殲滅。これで合ってるか?」
プロデューサーを攫った容疑者の第一候補は彼らです。それに、そうでなくともその存在は目の上の瘤すぎる』

 私にとってはね、と、犯罪卿。

『彼らの頭目を務める少年……"ガムテ"は傑物だ。そして彼が従えるサーヴァントもまた並の英霊ではない。
 主神の玉体にも匹敵する霊基を持つ、生まれながらの怪物(ナチュラル・ボーン・デストロイヤー)。
 当初はもう少し様子見を続けるつもりでしたが――私の冒したミスが災いし、彼らは今目下最大の脅威として我々の喉元に迫っています』
「ミス、か。お前には似合わない言葉だな」
『可能な限り失策は無いように心掛けていますので。しかし、完全犯罪などという単語は物語の中だけに許される幻想だ。
 現実でそれを目指せば必ず何処かで綻びが出る。……それどころか先の邂逅での私は、完全犯罪(それ)を志すことすらしていなかった』

 そうすることが出来ないほど、あれはギリギリの状況だった。
 数多くの綱渡りを平然と渡ってきた犯罪卿をして肝を冷やすものが、あった。
 一手でも間違えれば、一言でも過てば、それで全てが御破算になる。
 ガムテとその側近のみならいざ知らず。
 彼らに侍っている――或いは彼らが侍る側であったのか。そこまでは、分からないが。

 確かなのは、犯罪卿がそこで失策を冒すのは必然であった――ということ。

『私はミスをした。そしてそのミスは、聡明なる幼狂によって拾い上げられてしまった。
 であれば……』
「自分で後始末を付ける、ってことか。お前らしい考え方だな」
『元々、そうせねばならない立場でしたので』

 そも、犯罪卿を失脚……もとい"後に引けない状況"に追いやったのは一人の俗物であった。
 その名を此処で語る意味はないが、隠蔽し切れない欠陥故に見過ごすしかなかったという点においては酷似している。
 犯罪卿の頭脳を以ってしても、永劫に真相の露見しない完全犯罪の実現は並大抵の難易度ではないのだ。
 罪を犯すまでに辿った生涯、罪を犯した時に周りを囲んでいた状況、関係――犯罪の精度はそれらに大きく左右されるのだから。

「分かった。詳しい話は後々、直接合流してからでもいいだろう。
 この期に及んで断られたら正直面食らうが……お互い、直接顔を合わせることに異論はないか?」
『異論を唱えるつもりはありません。ですが、その場合一つ条件を設けさせていただきたい』
「……聞くよ。俺達に何を望むんだ?」
『私が先の電話でお伝えしていた、"あなたのマスターに用のある人物"と会っていただきたいのです』

 今度は、アッシュが沈黙する番だった。
 別に不審がっているわけではない。ただ単に、疑問に思っただけだ。
 それほどまでに……彼の言う"七草にちかに会わせたい人間"とは、彼我の関係性を築くにおいて重要な人物なのかと。

「そうでなければ話は始まらないと?」
『話を始めること自体は可能ですが、お勧めはしません。少なくとも私の予想では、十中八九恐ろしく角が立つ事態になる』
「疑念ありきの発言じゃないことを先に断っておくけど……怖いな。触りだけでも聞かせては貰えないか?」

 アッシュがある程度の説明を求めたのも無理はないだろう。
 何しろ大事のために小事を優先するというのは、犯罪卿の人物像らしくない。
 彼がそうまでするということは、即ちそれに値するだけの重要度があるということであり、
 アッシュが慎重になるのは当然の話であった。
 そして無論、犯罪卿もそれを理解している。
 だからこそ彼の求めた"触り"を返した。
 それを聞いた彼が何を感じ、どう答えるか――……全て読み切り、予測した上で。 

『"七草にちか"が聖杯戦争を生きるに当たって、避けて通ることの出来ない命題です』
「……、……分かった。だがいざという時のフォローは頼むぞ。化学反応を起こして戦火が大爆発――なんて洒落にもならないからな」

 アシュレイ・ホライゾンが納得するにはその一言で充分事足りた。
 七草にちかは偶像(アイドル)たり得る人物だ。
 凡人? 才能がない? そう彼女を嗤うならば節穴が過ぎるぞと、この一ヶ月にちかと時を共にしたアッシュには断言出来る。
 が、その実。七草にちかという少女がひどく不安定な均衡の許に成り立っている人物であることに異論はなかった。
 元の世界ならばいざ知らず。聖杯戦争という、何もかもが不明瞭で一寸先さえ窺えない霧中にあっては。

 その彼女にとって必要不可欠な課題だと、そう言われればアッシュとしても何も言えない。
 仔細までは知らないし、犯罪卿も敢えて語っていないのだろうが――彼が言うからには、それなりの命題が待っているのだろう。
 そしてそれと向き合わなければ、かの蜘蛛に近付くことは叶わない。足並みすら揃えられない。
 であれば、どうするか決めるのはアッシュではない。こればかりは、彼の一存では決められないのだ。

「良い返事が聞けたらメールするよ。悪いが、待っててくれ」

 そう言って、アッシュは電話を切った。


◆◆


 境界線と犯罪卿の対話が終わった頃には、時刻はもう夜になっていた。
 夜のない街と呼ばれる世界有数の大都市にだって、こうして夜はちゃんと来る。
 空を塗り潰して、光を遮って、人の心に影を落とす――そんな夜が。

「ずいぶん長電話でしたけど……Wさん、なんて言ってました?」
「交渉は上手く行ったよ。駒は駒だって言われてしまったが、あいつが打ち手ならきっと大丈夫だ。
 もちろんあいつの心が別なところに向かい始めたと察したら、すぐに退職届を突き付けるから安心してくれ」
「まあ……その辺はライダーさんに任せますけど。それより――その。プロデューサーさんのこと、とかは」

 通話が始まった時にはもう、アッシュはにちかの所へ戻っていた。
 にちかも最初は通話の内容に耳を傾け、アッシュの言葉や反応から何を話しているのか推測しようと頑張っていたのだが、いつにも況して動揺している今のメンタルでは集中などとても出来ず、途中で頭を使うのを諦めた。
 アッシュも、にちかが今何を……否、誰を気にしているのかは理解している。
 自分のプロデューサーだった男が聖杯を求め、戦っている――それも、恐らく自分のために。
 そんな話を聞かされて心をかき乱されないほど、にちかは超人でも大人でもなかった。
 ましてや――

プロデューサーが何者かに誘拐された可能性が高いってことは、さっき伝えたよな」
「……はい。聞きました」
「その実行犯に当たりが付いた。Wと浅からぬ因縁のある奴らで、プロデューサーに目を付けたのもその絡みらしい」

 実行犯が分かったと聞いても、にちかの表情は晴れない。
 彼女も理解しているのだ。そういう可能性があることを、既に頭の中に入れている。
 プロデューサーがもしただの被害者で。
 悪の誘拐犯共を打ち倒して彼を救い出せばそれでオーケー……そんな状況だったならどれほど良かったろうか。

 だが、現実はそうではない。そうはならない。
 実行犯と推定される割れた子供達を叩き潰したとして、それでプロデューサーが帰って来てくれる保証はない。
 いや、むしろ。真実がアッシュの推測通りであったなら、その逆の可能性の方がずっと高いのだ。

「誘拐犯は単独じゃなくて組織だ。それも、どいつもこいつも人殺し上等の殺し屋集団だと聞いてる。
 単純に野放しにしておくには危険すぎるし、プロデューサーの指針がどんなものであれ奴らの元に置いておくのは不味すぎる。
 だからWの勢力と合流して、当座の脅威である件の集団に対処しようって話になったんだが……」
「……だが、なんですか?」
「Wがこう言って来たんだ。それは構わないが、"その前に"七草にちかをある人物に会わせろと」
「…………え。この状況で真っ先にそれなんですか? 誰なんですか、その私に会わせたい人間って」
「相変わらずそこのところは教えてくれなかったが、Wはこう言ってたよ」

 にちかは繊細だ。
 だから話すか迷ったが、やはり秘めておくわけにもいかない。

「避けて通ることの出来ない――七草にちか(きみ)が向き合うべき命題、だそうだ」
「……、……」

 そんなことをしている暇があるのか、この期に及んで。
 相手の素性も教えてくれないのに一方的に会え会えって、ずいぶん勝手な話ではないか。
 不満たっぷりのにちかだったが、こう言われてしまっては黙るしかなかった。
 にちかが向き合うべき命題。避けて通れない、相手。
 にちかには相手の心当たりが全くない。
 自分をこの先で待つ人間の顔が、全く見えない。

「なんなんですか……」

 だから、困惑した。
 ただただ、困惑していた。

「誰に会えって言うんですか、私に。
 私に、何を……」


 ――私に、何を話せって言うんですか。


 そんな言葉は、外気に触れることなく上下の歯に阻まれて消えて。
 七草にちかは困惑の中、自らの運命(Fate)との邂逅に導かれていくのだった。


【品川区・プロデューサー自宅の最寄り駅近く/一日目・夜】

七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:健康、精神的負担(中)、動揺
[令呪]:残り三画
[装備]:
[道具]:
[所持金]:高校生程度
[思考・状況]基本方針:283プロに帰ってアイドルの夢の続きを追う。
0:?????
1:殺したり戦ったりは、したくないなぁ……
2:ライダーの案は良いと思う。
3:梨花ちゃん達、無事なんだよね……?
4:私に会いたい人って誰だろ……? そんなに私にとって重要な人って、いったい……?
[備考]聖杯戦争におけるロールは七草はづきの妹であり、彼女とは同居している設定となります。

【ライダー(アシュレイ・ホライゾン)@シルヴァリオトリニティ】
[状態]:全身に軽度の火傷(ほぼ回復)
[装備]:アダマンタイト製の刀@シルヴァリオトリニティ
[道具]:七草にちかのスマートフォン(プロデューサーの誘拐現場および自宅を撮影したデータを保存)
[所持金]:
[思考・状況]基本方針:にちかを元の居場所に戻す。
1:Wの返信があり次第指定された場所に向かう。そして、にちかを"命題"の人物と会わせる。
2:界奏による界聖杯改変に必要な情報(場所及びそれを可能とする能力の情報)を得る。
3:情報収集のため他主従とは積極的に接触したい。が、危険と隣り合わせのため慎重に行動する。
4:セイバー(宮本武蔵)達とは一旦別行動。無事でいてほしい。
5:武蔵達と合流したいが、現状難しそうなのが悩み。なんとかこっちから連絡を取れればいいんだが。
[備考]宝具『天地宇宙の航海記、描かれるは灰と光の境界線(Calling Sphere Bringer)』は、にちかがマスターの場合令呪三画を使用することでようやく短時間の行使が可能と推測しています。
アルターエゴ(蘆屋道満)の式神と接触、その存在を知りました。
割れた子供達(グラス・チルドレン)の概要について聞きました。


◆◆


「……そうですかー。ついに来るんですねぇ、もうひとりのにちか」
『あちらの"七草にちか"がどう選択するかにも拠りますが……彼女が承諾するのでしたら、そう遠くない内に顔を合わせることになるでしょう』

 犯罪卿――ウィリアム・ジェームズ・モリアーティからの連絡は簡潔に纏められていた。
 プロデューサーの誘拐。割れた子供達をこれ以上無視するのは難しくなったという旨。
 そして、もうひとりの七草にちか及びそのサーヴァント、"H"との合流。
 敢えて長々説明しなかったのは、ウィリアムなりの摩美々に対する配慮であった。

 時に多弁は追い打ちになる。
 特に、それが人の心を抉るような話題であるならば。
 摩美々は聡い少女だ。
 当然、ウィリアムの意図は分かる。それでも――忘れてはならない。
 彼女もまた、七草にちかのように。
 結局は、ひとりのまだ青い少女なのだということは。

「いまは、我慢します。アサシンさんを困らせない"良い子"でいようと思います」
『……、……』
「でも――今回だけはぁ、摩美々もあまり長く待てません。
 にちか達の話が終わったら、その時はちゃんと説明してください。いろいろ、ぜんぶ」

 新宿のことも、プロデューサーのことも。
 その言葉を呑み込んだのは、きっとそこまで口にしてしまえば堪え切れなくなるから――であろう。
 摩美々の心も摩耗している。
 喪失、異変、不安、焦り。
 感情と感情と感情と感情が奏でる四重奏に心が掻き乱されている。
 ウィリアムはややあってから、摩美々に対して素直な言葉を口にした。

『申し訳ありません。今回の件に関しては、明確に私の落ち度です』

 責任転嫁の余地などないしする気もない。
 ウィリアムは何ら言葉を付け足すことなく、摩美々に詫びた。
 摩美々はそれを黙って聞いている。責める気には、なれなかった。
 この人が自分達のためにどれだけ身を粉にして頑張っているかは、ちゃんと知っているから。

『時が来れば必ずや、貴女と……にちかさん達の不安を払拭するため尽力すると約束しましょう』
「……約束、ですよ?」
『ええ、犯罪卿の名に誓って。破れば私の名は血と罪だけでなく、泥にも塗れることになる』
「そういうのは、いいですからー……私と、あなたの。アサシンさんの約束を、してください」

 犯罪卿の名に誓われてもピンと来ない。
 誓うんなら、もっと身近な距離感で誓ってほしい。
 そうでなければ安心なんて、とてもじゃないけど出来やしない。

「指切りげんまん、です」
『……では、嘘であったなら針千本を飲みましょう』

 そう、こういうのがいい。
 こういうので、いい。
 摩美々は自分を落ち着かせるように深呼吸して、また口を開いた。

「……じゃあ、私はにちかに今のを話してみますー。
 にちかとにちかで腹を割って話すなんてー、絶対何処かで角が立つの見えてますしー」
『ありがとうございます。助かります』
「じゃ、切りますねー。また後で」
『ええ。また、後で』


 ――通話を切って、ふう、とまた息づく摩美々。
 そんな彼女のことを見ている少女。七草にちかの表情は、険しかった。
 摩美々と同じ、いろいろなものが入り混じった胸中。
 それを表情筋に出力しているのだとすぐに分かる、そんな複雑な顔だった。


「――来るんですか、もうひとりの私」
「あっちのにちかが断る可能性もあるとは言ってたけどー……来るだろうね、多分ー。
 ていうか来てもらわないとこっちも困るし。だよね、にちか」
「……はい。摩美々さん達にまで、私の都合に合わせてもらうのはちょっと申し訳ないですけど――」
「水臭いこと言わないのー。にちかがずっともやもやしたままだったら、摩美々達だって困っちゃうんだからー」

 そう言って、ぽんぽん、と摩美々はにちかの肩を叩いた。
 少し安心したように、にちかが身体に入っていた力を抜く。
 もうすぐ此処に――もしくは、また別の場所を目印にするのかは分からないが。
 もうひとりの七草にちかがやって来る。
 今此処に居る、アーチャーのマスターの七草にちかとは別な世界を生きた"七草にちか"が。

「じゃあにち会談の前にー、アサシンさんから聞いたこと……にちかにも話しておくね」
「に……にち会談……」
「こうやってぽわぽわした名前にしておけばぁ、ちょっとは緊張も和らぐんじゃないかと思ってー」

 とはいえ、これから摩美々がにちかに対して行う"説明"を聞き終えたなら、彼女の表情はもっと曇るだろう。
 そのことは分かっているが、しかし伏せておくわけにもいかない。
 もはや誰も見て見ぬ振り、知らない振りは出来ないのだ。
 そういうところまで、この物語は既に墜ちており。


 そんな奈落の只中で、界を隔てた運命(Fate)が、奏でられようとしていた。


【世田谷区 七草にちか(弓)のアパート/一日目・夜】

田中摩美々@アイドルマスター シャイニーカラーズ】
[状態]:健康、赤い怒りと青い憂欝、動揺と焦燥感
[装備]:なし
[道具]:白瀬咲耶の遺言(コピー)
[所持金]:現代の東京を散策しても不自由しない程度(拠出金:田中家の財力)
[思考・状況]基本方針:叶わなくなっちゃった
0:にち会談(仮称)の行方を見守る。何かあったらフォローしたい。
1:霧子、プロデューサーさんと改めて話がしたい。
2:アサシンさんの方針を支持する。
3:咲耶を殺した奴を絶対に許さない。
[備考]プロデューサー@アイドルマスターシャイニーカラーズ と同じ世界から参戦しています

七草にちか(弓)@アイドルマスター シャイニーカラーズ】
[状態]:健康、いろいろな苛立ち、若干の緊張
[令呪]:残り三画(顔の下半分)
[装備]:不織布マスク
[道具]:予備のマスク
[所持金]:数万円(生活保護を受給)
[思考・状況]基本方針:生き残る。界聖杯はいらない。
1:"七草にちか"を待つ。
2:あの野郎(プロデューサー)はいっぺん殴る。
3:お姉ちゃん……よかったあ〜〜〜。
[備考]※七草にちか(騎)のWING準決勝敗退時のオーディションの録画放送を見ました。

【アーチャー(メロウリンク・アリティ)@機甲猟兵メロウリンク】
[状態]:健康
[装備]:対ATライフル(パイルバンカーカスタム)、照準スコープなど周辺装備
[道具]:圧力鍋爆弾(数個)、火炎瓶(数個)、ワイヤー、スモーク花火、工具
[所持金]:なし
[思考・状況]基本方針:マスターの意志を尊重しつつ、生き残らせる。
0:"七草にちか"を待つ。いざという時にはすぐ動けるよう準備。
1:にちかと摩美々の身辺を警護。
2:『自分の命も等しく駒にする』ってところは、あの軍の連中と違うな……
3:武装が心もとない。手榴弾や対AT地雷が欲しい。
[備考]※圧力鍋爆弾、火炎瓶などは現地のホームセンターなどで入手できる材料を使用したものですが、 
アーチャーのスキル『機甲猟兵』により、サーヴァントにも普通の人間と同様に通用します。
また、アーチャーが持ち運ぶことができる分量に限り、霊体化で隠すことができます。


【世田谷区・七草にちか(弓)のアパート付近/一日目・夜】

【アサシン(ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ)@憂国のモリアーティ】
[状態]:健康
[装備]:現代服(拠出金:マスターの自費)、ステッキ(仕込み杖)
[道具]:ヘルズ・クーポン(少量)
[所持金]:現代の東京を散策しても不自由しない程度(拠出金:田中家の財力)→限定スイーツ購入でやや浪費
[思考・状況]基本方針:聖杯の悪用をもくろむ主従を討伐しつつ、聖杯戦争を望まない主従が複数組残存している状況に持って行く。
0:ライダー(アッシュ)を"使う"。だがまずは"七草にちか"同士で顔合わせをさせる。
1:『彼(ヒーロー)』が残した現代という時代を守り、マスターを望む世界に生還させる。その為に盤面を整える。
2:首尾よくライダー(アッシュ)と組めた場合"割れた子供達"を滅ぼす。その為の手筈と策を整えたい。
3:いざとなればマスターを信頼できるサーヴァントに預けて、手段を選ばない汚れ仕事に徹する。マスターには復讐にも悪事にも関与させない。
4:『光月おでん』を味方にできればいいのだが
5:"もう一匹の蜘蛛(ジェームズ・モリアーティ)"に対する警戒と嫌悪。『善なる者』なら蜘蛛を制するのではないかという読み。
[備考]ライダー(アシュレイ・ホライゾン)とコンタクトを取りました。以後、定期的に情報交換を試みます。
七草にちか(弓)七草にちか(騎)の会談をセッティングしました。




時系列順


投下順



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065:醜い生き物たち(後編) 田中摩美々 092:Hello, world! ~第一幕~
アサシン(ウィリアム・ジェームズ・モリアーティ 089:ブラック・ウィドワーズ(前編)
043:I will./I may mimic.(後編) 七草にちか(弓) 092:Hello, world! ~第一幕~
アーチャー(メロウリンク・アリティ)
074:動点Pおよび境界線H上の接点Nとの距離を求めよ 七草にちか 092:Hello, world! ~第一幕~
ライダー(アシュレイ・ホライゾン)

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最終更新:2022年02月13日 09:39