原慎太(はらしんた)〈1892.9ー1977.11〉は、日本の軍人、経営者。戦後における日本政財界のフィクサー的存在である。
来歴
生い立ち
1892年、
華族列せられる大阪の名門商家「
梶原家」出身の両親の元、
東京都に生まれる。旧制駒場高等学校(現
東京大学駒場高等学校)を経て、
海軍兵学校に進学。高校時代の同期が官僚としての道を開く中、典型的な愛国少年として軍人の道を志すことになる。
1908年4月、
海軍兵学校に入校。海軍兵学校の海軍士官教育を受けて、
第8期生として卒業。
海軍少尉に任官。1911年4月、
第1教育艦隊隷下
練習艦靖国に配属。1913年4月以降、
呉要港部に配属を命ぜられ、呉警備本部、呉第1海防艦隊に長らく勤務。転機となったのが、1919年8月1日付で
海軍中尉に昇任したことであった。これ以降、呉要港部の他、
佐世保要港部、
舞鶴要港部にて事務職を渡り歩き能吏ぶりを発揮。1928年1月1日付で
海軍大尉に昇任。
軍令部教育総局に配属。養成部教育課にて、
水兵団設立の基礎要綱を取り纏める。1932年、軍隊教育制度の視察を行うため、欧米各国に2年ほど留学。1935年1月1日付で
海軍少佐に昇任。
第1教育艦隊司令部実科指導班長に配属。艦隊教育の基礎や実科教育の重要性を説いた。1937年4月に
第1艦隊第3空母打撃群空母赤城の船務科員として配属。主に空母上での水兵教育を担当した。1938年12月、開戦の機運が高まる中、
呉要港部動員部動員召集課長に配属。1939年2月に
日米開戦を迎えると、呉要港部補給部資源資材管理課長、補給部燃料課長を歴任。要港部内の資源備蓄量を管理調査する。1941年1月1日付で、
海軍中佐に昇任。
台湾政府に派遣、
台湾海軍総司令部燃料資源局管理部長に配属。台湾では、資源管理等で能吏ぶりを発揮。しかし、1944年1月3日の
台湾大空襲により、居住していた官舎が焼失。奇跡的に生き延びることができたが、左目の視力を完全に失った。台湾の海軍病院から、
呉海軍病院を経て、
東京海軍病院本院に転院。1945年1月に軍務に復帰。
軍令部補給局資源部現地備蓄管理室次長、
参謀局太平洋作戦部南洋諸島方面経済戦略室次長を兼任。
終戦
1945年8月、海軍中佐として終戦を迎える。退役の道を選択し、台湾に渡る。英国統治下の
台湾で、地産資源の輸出入を行う
台湾製糖社常務取締役営業担当に就任。台湾製糖社は、
台湾海軍の復員兵を中心に戦後規模を拡大。その中核とされてきたのが、台湾を中心に世界経済に影響を及ぼす営業力で、陣頭指揮を行ったのが原本人であった。1947年9月、日本で払い下げが公表された
神奈川県横須賀市内の資源貯蔵庫を競り落とす。台湾製糖社は、日本国内で倉庫業を中心に商社的な機能を果たすため、
日興商事を設立。日興商事取締役事業本部長を兼任する。その後、事業本部として旧軍の備蓄資源売買で多額の富を得ると、日興商事を資本的に独立させて、日興商事無任所取締役に転身。北海道に可能性を感じとり、北海道の物流事業などで数社の立ち上げに参画。1954年には、自らが熱烈に音頭を取った
北海道ヘリコプター航空株式会社を日興商事の傘下会社として設立させ代表取締役社長を兼ねる。1955年4月、
東京中央証券取引所の開設に伴って日興商事が上場、日興商事取締役会長に就任。
入閣
晩年
1957年12月、
日興商事代表取締役社長に就任。証券事業を中核とした経営規模拡大を図るため、
蔵山証券を買収。1960年、
日興蔵山グループを設立、代表取締役社長に就任する。1962年4月、「70歳がちょうどよい」として18社の代表権と34団体の要職を放棄。
役職歴
18社の代表職
34団体の要職
最終更新:2025年06月17日 14:36