経歴
生い立ち
大学卒業後、
商工省へ入省。1918年4月
製造局製造課に配属。1920年4月
特許法局登録情報課配属。若手として商工省で頭角を現したが、自身に関わりのなかった1925年の
公逆事件に連座して左遷人事の憂き目にあう。1925年10月
新潟県庁工業部工場監督課。1928年4月本省の
大臣官房文書課主務として帰任。1929年4月文書課課長補佐。
1930年11月、
立憲党が目指した省庁制度再編を目的として、商工省新組織委員会に配属。1932年5月、
松井内閣で
商工大臣を務める
竹田信哲の秘書官に転じる。産業の自由競争を促進させることで、技術革新を促すための「
産業基本三原則(管理市場・技術投資・貿易規制)」を担当した。1934年9月、39歳の若さで
通商局経済課長。三原則の一角を担う要職として期待された人事だった。1936年4月通商局長。次期商工次官候補として優秀な地位にあった。
政界入り
1938年6月、次官候補の最有力だったが、当時
東亜同盟の幹部だった
竹田信哲(民生部長)からの推薦で政界入りの打診を受ける。最終的に打診を受け入れて、
第11回衆議院総選挙に
茨城1区から出馬を表明。表明の前日に
商工省を退官した。選挙では、全5名中4位で初当選、初登院を果たした。選挙後の
吉永内閣では、
商工大臣補佐官に就任。対外経済政策の取りまとめとして、貿易の規制緩和に向けた外交的役割を担った。就任直後、
中華民国に渡って対中貿易の必要性に言及。この時、中華民国経済省副長官で知日派として知られていた
黄俊煕と交流。日中間の貿易政策の必要性を確認した。戦後まで続く親中国会議員としての立場を確立したのがこの時期である。1938年12月、東亜同盟の後継組織である
大日本政治会へ加入。続く
山崎内閣以後、大日本政治会選挙部に所属。全国を回って政治機能の活性化に勤めた。戦中唯一の選挙となった
第12回衆議院総選挙では、官僚出身者や官僚経験者を集めて政界への転身を勧めた。
第12回衆議院総選挙では、
茨城1区で全体2位で二選。選挙後、
竹田信哲(大日本政治会幹事長)が親米派議員を集めて党内派閥の
共和派系同志会を結集。この対抗組織として、親中協調派の国会議員を集った「
共和派保守研」の設立に尽力。設立の中心メンバーで
遠藤内閣の
外務大臣を務めていた
海堂武臣が、保守研初代会長に就任する。保守研の中で影響力を発揮すると、1944年3月、
運輸大臣(
葉山内閣)として初入閣。腹心の
杉浦静が、運輸大臣補佐官として就任した。杉浦も同様に、保守研の設立メンバーで聖戦を戦っていくことになる。
大日本政治会は、1944年12月に戦線規模の縮小の責任を取るため総理大臣の交代を党内で決定。これに対して
同志会は、交代を反対し親米派の葉山専七郎に終戦の手続きをさせるべきだとして強硬に指名。一方で、
天皇陛下の旧友であり天皇派として知られていた
柴里嘉一郎を推す
保守研で完全に分裂状態となる。最終的に、陛下のご聖断を仰いで
柴里内閣に組閣の大命が降下。1945年1月、
商工大臣(
柴里内閣)として横滑りで入閣。1945年8月、終戦直前の
赤坂で戦後の総理を誰にするのか派閥間協議が行われることになる。候補となったのは、
同志会の
竹田信哲、
保守研の
海堂武臣両会長が首相候補者となった。天皇の御裁可を経て、
海堂武臣が
内閣総理大臣に就任することが決定した。1945年8月17日、組閣の大命が降下した
海堂内閣で
運輸大臣として横滑り入閣。海堂武臣の首相就任に伴って、
保守研二代目会長に就任した。
1945年9月18日、
日本共和党の結党宣言大会に参加し党への所属を決めた。党内では、幹事長代行代理に就任する。
日本国憲法の公布後、親中政策を推進する
海堂内閣を積極的に支持していたが、反対する親米推進の立場であった
大路晴雄が、
協同共和党を形成して集団離党。親中派や大陸協調派が集まって
日本共和党は継続した。1946年8月、日本共和党幹事長に就任。総裁の海堂武臣とともに親中派政策を推進した。日本共和党は、その後も大陸路線を歩む中道右派勢力として独自路線を展開。1946年12月、
第14回衆議院総選挙において四選目を果たすと、この選挙で初当選を果たした
赤城勇作を自身の最側近として育てるため幹事長代行代理に抜擢。国会対策委員長に
杉浦静を指名した。選挙後、現役国対委員長で重鎮の
和光修次が、急速に当時の
協同共和党に接近。それらの好意をいぶかしんだ
海堂武臣総裁に、和光の要職外しを打診した。
第1次大路内閣・
第2次大路内閣では、野党の地位にあって、保守共和連立体制をカヤの外から見ているに過ぎなかった。1948年1月の
民主党結党では、議員の引き抜きを食い止めて独自の第三勢力として政党の地位を確立。
第1次長田内閣では、「
鉄道基本法」の
日本共和党案を提出して
衆議院鉄道委員会での議論を率いた。この政権の下では、衆議院で最後となる鉄道委員長(1948年1月ー1949年10月)を務める。1949年10月、
第15回衆議院総選挙で五選目を果たす。この選挙を指揮した後に引退した
海堂武臣総裁の後任として、
日本共和党の第二代総裁に就任。総裁時代、
共和党が進める中道右派勢力の合併に支持を表明。
共和党のオーナーである
大路晴雄との政策的な遺恨に決着をつけるため、水面下での交渉を始める。選挙区調整から合併後の役職者の選任について、共和党幹事長の
和光修次と久方ぶりの実務者協議を行う。共和党の
大路晴雄は、「派閥を残してもよい」という寛大な言葉を受け取って共和党への合併を選択。
日本共和党の所属議員全員の合意を経て1950年8月に日本共和党を解体した。
共和党内の重鎮議員であり、
大日本政治会で大きな影響を持っていた
竹田信哲が、1951年1月に急逝。葬儀委員長の互選について議論となった。
大路晴雄(共和党総裁)ではなく、竹田の終生のライバルであった
海堂武臣を推薦した。党内では、竹田と師弟関係だった大路が最終的に引いた。1952年5月、
第16回衆議院総選挙で六選目。この当選において、党内で最大派閥として
大路晴雄がけん引する
二期会が44名の
衆議院議員を確保。対して
保守研が、32議席で衆院における比較第二派閥となる。1952年5月より、党内連協の目的から2代目の
共和党幹事長に就任。1954年の「
第6回共和党党大会」において、実務を行っていなかった
大路晴雄の後任として、総裁候補に名前が挙げられる。対立候補には
和光修次(総裁臨時代理)が挙げられていたが、年齢を理由に共和党2代目総裁に選任を受ける。選任時には、自派閥である
保守研の他、
構造研会長代行の
遠山昇に対して後任候補としての支持を表明。党内で衆参両院含めて71名の支援を受けたため優位な票数で総裁に就任した。この総裁選出の際に、東奔西走したのが鶴田の懐刀として後に派閥を率いることになる
杉浦静であった。しかしながら、構造研も、会長の
小原真郎を飛び越えた密談であったことに対して対立を巻き起こし、最終的な派閥分裂を迎えてしまうことになる。
1955年5月15日、
第17回衆議院総選挙において過半数を超えて大勝したため、首班指名を受ける。59歳で第36代内閣総理大臣として、
鶴田内閣を組閣。就任直後の1955年8月、永田町の夏休みと言われる8月に
臨時会を参集。輸送関連三法の改正を進めるため、足並みをそろえるための国会運営を進める。「
航空法改正」「
鉄道基本法改正」「
高速道路法改正」の昭和の三改正を実現。実現を勧めた
運輸大臣の
原慎太は、
東大駒場庭球部の先輩で、
民間人入閣を要請する。1956年の
通常会では、「
新幹線法」成立に向けて、
社会党との共闘体制を確立。
東海道新幹線、
山陽新幹線設立に関する基本的な政策実現を目指した。新幹線路線を中心とした、中核的な地方都市開発を推進した。1957年以降、
共和党のキャスティングボードを握るため、総裁や総裁経験者への権力集中を強化。1957年4月の「
第9回共和党党大会」において、党所属国会議員における合議を経て「共和党党則」の廃止を決定。総裁選任の規定に関しても、(党所属国会議員による投票)、総裁任期(任期なしの最長6年/再選禁止)を決定した。1957年6月9日に
参議院通常選挙を行うこととするための
政府与党連絡会議を開催。同会議において、
衆議院総選挙を同日に行う旨を決定。党内における話題は、総選挙後の新総裁選任に関するものでもちきりとなった。選挙前、総裁選任の規定に基づいて、
遠山昇(
構造研会長代行・
外務大臣)を後継候補者として
保守研の派閥を率いて応援を表明する。
第18回衆議院総選挙において、過半数を獲得して勝利を果たすと、総選挙後の総裁選任に関しても大きな影響力を持つことになる。
総裁選と「鶴田院政」
後継総裁の選任について、
遠山昇と
小原真郎(
選挙対策局長)、
多田信勝(
同志会会長)の3名が出馬を表明。各候補は、
保守研と構造研遠山昇派(後の
玄徳会)、
構造研小原派、
同志会・
二期会・
雄伯会がそれぞれ支援を表明した。最終的な合議の後、
雄伯会が意思統一に失敗して票が固まらなかったため票固めに成功した
遠山昇が総裁に就任する。遠山総理総裁は、盤石な基盤をもって安定的な政権を運営していた。しかし
遠山内閣は、国難と称された「
国際空港開発法」が党内分裂を誘ったために、求心力を失った。鶴田は、すぐさま見切りをつけて
保守研からの後任選出を求めた。1959年になると、内閣に対して衆議院解散による法律制定を目指すように要請。鶴田自らも
政府与党連絡会議に臨時で出席しながら、最終的に同年7月12日の総選挙という日程を認めさせた。
第19回衆議院総選挙で九選目を果たす。選挙後の総裁選任において、遠山総裁に退任を迫り、
杉浦静を総裁選候補に担ぎ上げた。この一連の流れの中で、
保守研解消の職責を
杉浦静に禅譲する。鶴田は、
保守研最高顧問に就任する。杉浦総理総裁は、渦中の
運輸大臣に
白石大吾の留任を要請。鶴田自身は、党内の立法事務を統括するために、
運輸部会長に就任。国会論戦では、強行採決も辞さない考えで法案の本会議提出を強行。最も課題であった
参議院での法案通過を目指すために、
社会党との政策調整による賛成票も得て法案を可決。1960年6月12日の
第5回参議院通常選挙において、過半数の議席を超えることができなかったものの、政権は継続。
杉浦改造内閣以降、内閣への組閣協力を辞退。次の
衆議院総選挙後における新しい総裁を擁立するための権力固めに注力することになる。
離反と終幕
1961年8月、
保守研の鶴田支持を表明する一部議員とともに離反。
村上謙吾(
共和党幹事長)の誘いを受けて、
糸原幸喜(
大蔵大臣)が会長を務める
進歩会に合流することになる。
進歩会最高顧問に就任すると、次の総裁として
村上謙吾を選任させるべく工作に走ることとなる。1963年1月初頭の
政府与党連絡会議で、当年中の
衆議院総選挙が決定すると、
中村健治(
はくあ会会長)に接近して、派閥固めに奔走。1963年7月14日、
第20回衆議院総選挙で十選目を果たし、総裁選任に向けて大きな金が動くことになる。
赤城勇作は、
はくあ会・
同志会の支持を得て総裁に選任。しかしながら執政では、派閥にとらわれない横断的な政略で注目され、買う方面に盤石な政権基盤を構築させた。
赤城内閣は、1964年以降の
東京五輪の反動景気によって日本経済の低調がそのまま内閣支持率に反映。
赤城内閣の改造などを打診したが、最終的に意見が通ることなく、発言力が低下。最終的には派閥の長老というポジションに収まった。1965年以降、長く患っていた肺結核が急速に進行したことで入退院を繰り返し、1966年3月、70歳にして世を去った。没後は、
共和党党葬によって葬られることになる。
選挙結果
最終更新:2025年07月17日 18:26