二見武豊

二見武豊(ふたみたけとよ、1903.11-2006.2)は、日本の医師

来歴

生い立ち

1903年11月に、大分県別府山町(現在の別府市)出身。父は、中津藩に仕えた士族の家系出身で、平城事変に頓挫して中津を追われ別府にたどり着いた。父は中津藩庁、大分県中津支庁に勤める地方官吏であった。
中津中央小学校を経て、九州大学医学部附属中津医学専門学校へ入学。入学倍率101倍の超難関試験であったが定員20名中1位で入学。優等でならし、中津始まって以来の秀才と呼ばれた。通常3から4年を要する後期課程の試験をすべて一発で突破してわずか2年で修了。九州大学への特別推薦を固辞して進んで臨床の世界を選んだ。1922年3月に前期課程、1924年3月に後期課程をそれぞれ卒業。

医局入局

九州大学病院中津分院内科入局。医局員補として2年勤務の後、医局員へ昇進。藤原一子(中津分院長)の影響を受け、食道を専門に研究と臨床に携わる。1927年10月、藤原分院長の九州大学医学部第三内科教授就任に従い、医学部研究助手(藤原一子講座)・九州大学病院第三内科へ転属。1928年、「食道バイパス手術における内科的診療法の解明」で九州大学から医学学士を取得。1934年3月に藤原一子が退官すると、自らも大学医局を離れる。

軍医

1934年6月、陸軍軍医学校へ入校。乙種学生として6か月学び、軍医少佐として小倉市に駐屯する第42歩兵連隊に入営。連隊本部付軍医となる。1937年10月、小倉陸軍病院設置に伴い内科診療部在勤。1939年から熊本の第8師団に転じて、熊本陸軍病院内科診療部在勤となる。1939年1月の開戦に伴い、1942年にマレー半島へ従軍。野戦病院における救命救急医療に従事。敵の反転攻勢で1944年初頭に捕虜として米軍に捕らえられる。1945年3月、サンフランシスコの日本人捕虜収容所へ強制送還。収容所内で、医療行為を担当する。終戦に伴い帰国命令が下るも、捕虜収容所内で医療行為を続け、日系アメリカ人医師で収容所に医師として問診に来ていたカリー・サイトウから最新の医学書を譲り受けて帰国。

終戦後

1946年9月、帰国を果たす。旧知の資産家を訪ね歩いて資金をかき集め、中津市内で医療法人山陽会を設立。1947年1月に二見内科医院を開業する。1948年10月、大分県医師会理事・中津市医師会長に就任。1949年4月より、大分県医師会から選任されて日本医師会代議員に就任。1950年に、日本医師会が主催する九州大学医学部開学記念講演会にて招待講師を務め、「日本における救命救急医学の確立をその早期実現に向けた提言」を発表。当時、日本医師会会長を務めていた益川秀男(参議院議員)の覚えめでたく、1949年10月に文部省厚生省が共同で新設した日本医学制度調査会委員に就任。1952年に福岡県福岡市山陽会中央病院を設立したため、福岡県医師会に転籍し同会理事に就任。同年末より、九州大学医学部客員教授に就任。救命救急医療の学問的確立を図り、救命救急医学講座を担当した。

権力の階段(日本医師会会長へ)

1955年に厚生労働省医療事故等紛争処理委員会や医療法人制度委員会で学術委員に就任。1957年には、福岡県医師会会長を6年務めた阿久津忠義(元九州大学医学部長)が退任したため、後任を決める会長選挙へ出馬を表明。しかしながら、福岡県内で産婦人科医院を代々営んでいた山本権三(山本医院理事長・病院長)が、金券をばらまいて対抗馬に立候補。金権選挙となったため山本に軍配が上がる。この選挙を金権政治として批判。選挙後には、福岡県医師会に影響力を持つ堤康之(日本大学広島校医学部長)と夢河心地(博多大学医学部長)の後見を受け、福岡県医師会学術部長に就任。学術部長として、日本における救命救急医学の確立に向けた医学教育と臨床の必要性を論じた。これが日本医師会会長の前尾行平の知るところとなると、日本医師会学術調査会で全国規模の提言を期待される存在となる。1959年4月には、念願であった日本救命救急医学会を設立し、日本医学会登録組織になる。設立に伴い、日本救命救急医学会会長・日本医学会理事に選任される。

日本医師会会長

2期に及んで日本医師会会長を務めた前尾行平から直接打診を受け、会長選挙への立候補を決める。選挙戦では、前尾会長の長男である前尾繁太郎(共和党衆議院議員)の支援を受けて、政界を巻き込んだ選挙戦を展開する。1962年4月に日本医師会会長に就任。就任直後から、政界や活発化しつつあった学生運動などとの対話に応じる姿勢を見せつけ、日本の医学の進歩と医師の地位向上を目指すことになった。1965年には、自らに公開質問状を提出してきた日本大学横浜校医学部の5回生金谷菊久日本大学中央公会堂において激論を交わした。その意見に賛同すると、自らの鞄持ちとして鍛え上げ、後々の日本医師会会長にまで押し上げることになる。医師の代表を自認しており、青年医師連合会医学生全国連合会との綿密な連携体制を確立。医師の待遇改善や研修医制度の導入に基づく医局員補制度の廃止などを勧めた。医師以外の医療従事者からなる全国医療労働者連合会(医労連)との団体交渉にも積極的に参加。全国看護師会日本療法士会などへも待遇改善を命令するなど、医学関連の他組織にも発言力を強めた。以降、5期20年におよぶ強権政治を展開した。1982年に医師会長を退任して、日本医師会名誉会長に就任。1982年10月より東京大学医学部名誉教授に就任。
2006年2月に逝去。

経歴

1922 3 九州大学医学部附属中津医学専門学校卒(前期課程)
1924 3 九州大学医学部附属中津医学専門学校卒(後期課程)
4 九州大学病院中津分院内科入局・同医局員補
1926 4 中津分院内科医局員
1927 10 九州大学医学部医学教育部研究助手九州大学病院第三内科医局員(藤原一子講座)
1934 5 退官
1935 1.1 陸軍軍医少佐任官
第42歩兵連隊連隊本部付軍医
1937 10 小倉陸軍病院内科診療部
1939 1 第8師団隷下熊本陸軍病院内科診療部
1942 8 マレー半島従軍
1945 8 退官

中津市医師会会員
中津市医師会理事
中津市医師会会長
大分県医師会会員
大分県医師会理事
福岡県医師会会員
福岡県医師会理事
最終更新:2025年05月09日 21:52