白瀬財閥

白瀬財閥(しらせざいばつ)は、日本の財閥。「六大財閥」に数えられる名門で、医療・医薬品事業を中心にアジアトップの企業である。

概要

白瀬財閥は、1810年代から医療・医薬品事業で財閥を形成。林財閥桜田財閥雨宮財閥近江グループ生田財閥と並んで、国内六大財閥を形成する。1800年代を通じて国内最大の民間医療・医薬品事業者となる。1866年に日本最後のである新橋藩が設置され、現在の新橋区発展の基礎を築く。それらの背景もあって、現在でも新橋区は、「新橋白瀬村」「新橋白瀬通」という異名が付く。1890年以降、民間医薬品会社として、国内最大の流通事業体として機能する。1918年に、白瀬医薬品研究所が開発した「HD508」の販売を開始し、この医薬品は世界で最も流通された医薬品となる。
1946年8月公布、同年9月施行の過度経済力集中排除法に伴い、企業分割がすすめられ、メディパルHD株式会社と白瀬通商株式会社を中心とした事業体に再編する。

関連企業

白瀬漢方商会
新橋駅上百貨店白瀬商館
白洋銀行
関連企業集団

歴史

設立(1810-1840)

大学寮翻訳方に出仕していた洋学者の白瀬吉右衛門が、東洋医学に造詣の深かった関係から1812年に独立して「白瀬漢方商会」が設立される。漢方医薬品の製造販売流通を一貫して取り扱い、流通網を早い段階から日本国内全土に回すことになる。1819年、海運事業の廻船に進出し、米・塩・海産物・木材・鰊・昆布などの流通事業で莫大な利益を得ることになる。当時、京都の豪商としても知られていた細野家(近江大津藩家老首座)と手を結び、金融事業にも大きな権力を持つことになる。1827年、東京府新橋に、白瀬屋薬舗を開設して東京府御用達医薬供給を一手に担うことになる。1832年から翌年にかけて発生した平城事変では、白瀬漢方商会として薬品と米を大量に供給し、「人道の白瀬」として新政府にも近い存在となる。

政商・国内最大手の医薬品事業者(1840-1860)

1840年、府立堺療養所(後の大阪国立病院)、府立広島療養所(後の広島国立病院)の設立に伴い、人員や医薬品を含めて全額出資。西国での医療拠点確保に貢献し「医療商家」として、政商としての地位を確立する。1843年に、白瀬長崎屋白瀬横浜屋を発足させて、対外交流を進める。国外から翻訳書の輸入を勧め、外国商館や大学寮の出身者などの役人とのパイプを作った。1851年の太平洋和親条約締結に伴い、日米間の相互貿易船運用が始まると、第1便に白瀬漢方医薬品のコンテナを積載させ、海外販路の道を開いた。1859年の東京遷都と同時に本店を白瀬屋薬舗に移し、白瀬漢方商会の中心的機能は東京の新橋へと移ることになる。旧本店は、白瀬大坂屋という名前で支店となる。

新橋藩の帳簿掛(1860-1890)

1866年、日本最後の立藩となる新橋藩が設立される。藩主には、佐倉藩(5万石)、川越藩(8万石)から国替えしてきた、芝宮家が12万石としてお国入り。藩の設置後、藩政、藩校新橋医学館(後の帝都医科大学)へ資金を提供。1869年、新橋停車場の開業に合わせて、白瀬商館を設立して鉄道貨物事業への進出を表明。1876年、東京の本郷に、白瀬製薬所白瀬医薬品研究所を設立。このころ、国内最大の民間医薬流通業者となり、日本国内の官立医療機関ほとんどすべてで、白瀬製造の医薬品が用いられることになる。新橋藩の藩政は、白瀬漢方商会がそのほとんどを出資していたことで国内でも優良と呼ばれる水準だった。「帳簿掛」と呼ばれたのは、藩の帳簿のほぼすべての項目に「白瀬」の名前が載っているからであった。

新橋区白洋銀行の設置(1890-1900)

1890年に国鉄新橋駅が開業し、新橋駅舎上百貨店を創業。日本初の駅ビルであり、当時世界最大規模の高さである14階を誇った。1895年に新橋区が設置され、新橋区指定金融機関とするために白洋銀行が発足。新橋区長は、芝宮朝義が務めることになったため、区の財政支援を一手に引き受けたのが「白瀬財閥」となった。
最終更新:2025年09月09日 15:08