概要
歴史
妥結
1989年10月の国鉄全国統一ストで、労使交渉に一応の区切りをつけ、不採算路線の私鉄化と関連従業員の移籍を決定。私鉄は、
国鉄財団と地域企業の合資会社という形で決定した。
国鉄の姿勢
1987年8月、国鉄総裁室直結の組織として、国鉄整理令計画委員会が発足。同委員会は、総裁室長が委員長を兼務し、
運輸省や組合側とのパイプ・交渉役を担当した。
同委員会は、ローカル線の廃止及び私鉄化を勧める方針を早々に固め、国鉄人員の大幅削減を推し進める方針を決定した。国鉄人員の4割削減と後継私鉄への転籍を進める方針となった。この際、待遇等は後継私鉄の方針によるものであるとの決定をした。1988年・1989年の
春闘で、組合側の意向を反映させなかった労働組合であったが、
国鉄総裁の
田邉明夫は、労働管理制度の問題点や
運輸省の後輩だった
秋村やすこ(
関東圏企業労働委員会委員長)を使って労使問題を鎮静化。非常時に備えて、後輩の
運輸省幹部を理事に新任させるほどの徹底ぶりであった。
組合側の姿勢
1988年1月の
春闘から、
日本国有鉄道に対して、私鉄化反対、人員削減反対、10%賃上げを三本の柱として団交を開始。当時の
国鉄中央労働組合連合会で中央執行委員長だった
鴨居貴は、三本の柱の内、1本でも成立すればよいとの消極的姿勢だった。結局この年、スト権確立とならず、賃上げ4%で決着を見せると、鴨居は体制の犬と批判されて委員長を退かされ、後任に「世紀の天才リーダー」と呼ばれた元全共闘委員長の
犬神宗憲が就任。7年続く犬神体制が幕を開ける。犬神体制下では、
総評仲介ありきの穏健協調路線から、スト権確立による団体行動路線に舵を切った。
1989年2月にスト権確立、同年4月12日に正午から一斉ストライキを実施する意向を発表する。しかし、
関東圏企業労働委員会からスト権不法性について
勧告を受けたため、ストライキが失敗。
組合側は、1989年10月の
全国メーデーに合わせて、8月にスト権を確立。メーデーとなる10月4日に合わせて、全日ストライキを行う旨を通告した。ストに対応する形で、国鉄側は、
警視庁から機動隊を派遣させて
国鉄本社ビル、
国鉄総裁邸宅を厳重警戒させるなど臨戦態勢を張った。
10月4日の早朝、
国鉄松本駅構内で列車火災が発生。スト中であったため消火活動に遅れが出て、周辺のビルに引火し市中で大火災となった。また、
国鉄日暮里駅では、スト中の駅員と乗客がトラブルとなり2名の重傷者が出る事態となった。また、メーデー会場となった
国鉄本社ビル前では、国鉄労組員が機動隊につかみかかるなどの事態になった。
18時ごろ、スト中4回の労使交渉が破断。同時刻、
国鉄静岡駅で、スト中の駅員と乗客の喧嘩で駅が放火され、逃げ遅れた駅員や乗客が18名死亡、46名が重軽傷という事態が発生。19時ごろには、
国鉄本社ビル前で、客と組合員、機動隊の三者で衝突が発生、死者8名を出す最悪の被害となる。そのほかにも、全国で喧嘩などによる重軽傷者は合計で300名を超えた。
国鉄青函連絡船、
国鉄明石連絡船などでも乗客と駅員でトラブルが発生し、死者が出るなど全国に被害が拡大。
10月4日20時、
雪村多稀(
国鉄中央労働組合連合会中日本本部委員長)がスト状態の解除を宣言。「多くの利用者の皆様に対して大変申し訳なく、深くお詫び申し上げます。
国鉄松本駅の構内火災に置かれまして被害を被りましたお客様に、最大限の保障を組合としてさせていただきます」と記者会見を行った。このスト解除は、中央の指令を無視したもので、反逆行為でもあった。このスト解除によって、労組側の攻勢が著しく低下。
21時には、国鉄側も鉄道公安を統括する
渡辺恒之理事による記者会見で「全日ストライキによる救援の遅れを詫びながら、国鉄再建のためにはこの道以外にないのです」と涙ながらに国民へ訴えた。国鉄側の記者会見を受けて、組合側は態度を軟化。総評も、「調整の西村」と呼ばれた
西村弘一(総評委員長)が直々に「
全国メーデーに合わせたストライキに合理性はなく、日本国全体の利益になっているかについては疑問の余地がある」と示したうえで、「健全な団体交渉ができないのであるならばそれは労働組合とは呼べない」と強く非難する声明を発表。
22時に、代々木の
国鉄中労連本部で
犬神宗憲委員長が記者会見を行い、「ただいま付けをもって、国鉄の全国統一ストライキ状態の解除を全国の地区本部及び下部組合に通達した」「国鉄のお客様が、大変に被害を被った現状に対して深くお詫び申し上げるとともに、我々の団体交渉は一応の区切りをつける」と発表した。
最終更新:2025年09月08日 08:53