瀬川貞宗

瀬川貞宗(せがわさだむね)〈1879年11月ー1943年12月〉は、新潟県知事内務官僚自治官僚

来歴

1879年11月、新発田藩出身。地元の商家で資産家の家系に生まれる。

地元小学校卒業後、旧制新潟高校(現・新潟県立新潟高等学校)を首席で卒業。県費留学生として、東京大学法学部に進学。大学在学中、同郷の文化人として知られる橘享利(戯曲家・銀行家)の書生として住み込み、東欧文学に関心を寄せた。1901年には、東大柔道部の主将として、全日本大学生柔道選手権大会第4回大会個人優勝を果たした。

日本勧業銀行

1902年、大学卒業後に日本勧業銀行へ入行。本店融資審査部、本店金融資産部、ワシントン支店での勤務を経て、1910年に30歳の若さで横浜支店長に就任。1914年から本店金融資産部長を務めた。
ワシントン時代に親交のあった「峰岡雅子」と、1911年に結婚。峰岡貴純内務庁警視局警務課長・警視監)が義父となる。1913年に長男の瀬川記之第51代内閣総理大臣)、1918年に次男の瀬川登日本軍少将)、1919年に長女の瀬川真紀子(増田喜太郎日本電業社長の妻)が生まれる。

内務庁自治省

1919年、第1次世界大戦終戦のどさくさの中、義父の手引きで内務庁へ入庁。選挙法局自治局を経て、新潟県庁へ転籍。新潟県内務部長、新潟県選挙部長を歴任。

1935年8月、新潟県知事(官選13代)に就任。村上・新発田地区の軍需工場開発や新潟港の造船機能整備などを進めた。1938年12月に退任。1939年1月より自治省地方財政局長に就任。1943年6月まで務め、退任後には地方行政審議会委員に就任。

しかし、1943年12月に肝臓がんの悪化と治療の遅れのため死去。
最終更新:2025年10月09日 23:38