峰岡貴純

峰岡貴純(みねおかたかすみ)〈1861年8月-1931年8月〉は、内務官僚

来歴

1861年8月、会津藩出身。家系は、会津藩の剣術指南役という名門で、祖父や父は、会津戦争函館戦争に従軍した。貴純も、藩校日新館で学び、1876年に14歳の若さで、函館戦争の後詰部隊に参加した。1880年に帰郷し、日新館代用教員に着任。西洋事情などの研究を務めた。

1881年に函館戦争が終結。会津藩庁が設置されると、学務方に従事する。1886年、第27期国費留学生として、ドイツフライブルク大学へ留学。ドイツの近代法、治安維持制度を学び、日本の警察制度に関する関心を身に着けることになる。1888年の帰国後、高等文官試験を経て、内閣審議会の命で新潟港築造部公務官として赴任。

内務庁・官僚

1890年4月、内務庁が発足すると、同庁へ移籍。内務庁警視局警務課勤務を経て、飯田藩警察部長野県警察部で経験を重ねる。1900年2月に「警察法」が公布施行されると、警視正に任官。神奈川県警察部保安課長、同刑事課長を経て、警視庁刑事部捜査課長に就任。1907年、在アメリカ合衆国日本国大使館書記官として、家族とともに赴任。ワシントンで、市警制度に関する研究調査を担当した。1909年に帰国。
1909年10月、警視監へ昇進・内務庁警視局警務課長に就任。1911年には、長女の「峰岡雅子」が瀬川貞宗日本銀行行員)と、長男の峰岡正友白瀬藤五郎白瀬屋薬舗代表取締役社長)の次女と、それぞれ結婚。1914年・静岡県警察部長、1917年・埼玉県警察部長。1918年8月、東日本管区警察局初代長官に就任。1922年6月に退任し、翌月から全国警察行政審議会委員に就任する。

経歴

1888 9 新潟港築造部・公務官
1890 4 内務庁警視局警務課
1893 7 飯田藩警察部
1895 10 長野県警図書課
1897 7 長野県警飯田警察署長
1899 4 長野県警上田警察署長
1900 2 警視正」任官
神奈川県警保安課長
1903 7 神奈川県警刑事課長
1905 7 警視庁刑事部捜査課長
1907 7 在米日本大使館書記官
1909 10 警視監」昇進
内務庁警視局警務課長
1914 7 静岡県警察部
1917 7 埼玉県警察部
1918 8 東日本管区警察局長官
1922 6 退官
7 全国警察行政審議会委員
1930 6 退任
最終更新:2025年10月10日 01:42