瀬川記之(せがわのりゆき)〈1913.10ー1996.10〉は、日本の政治家、
労働官僚。
来歴
生い立ち
東大時代
1936年3月、東京大学経済学経済学科を卒業。東大の卒業同期は、
浅上浩二(
内務庁入省、後に総理へ)であった。大学卒業後、採用通知を受け取った
労働省に入省せず、
村勢愛子研究室の研究員に入職。1936年12月には、「経済市場における自由競争への原理理解」で東大総長特別表彰を受けて、東京大学特任講師(有期契約:1937.4ー1939.3)に就任。講師在任中に、
コロラド大学大学院経営経済学院へ交換留学。しかし、コロラドでは野球賭博に熱中して、留学助成金を使い込むなどの問題行動が目立ったため、1938年5月に東大講師を解任となる。
1938年10月、
入省留保扱いになっていた労働省へ入省。労働省
職業局職業安定課に配属。翌々年の1940年4月、
高知県庁労務部職業課長補佐として転出。戦時中は、高知で空襲に遭うなどしていたが、1944年4月、
企画院国民労農本部労務対策課課員として中央へ帰任。1945年4月には、
陸軍参謀本部第7部兵員徴集特別室次長として出向。1945年8月の終戦に伴い、一時期放浪の身となるも、翌月には本省へ復帰。労働局職能推進課課長補佐へ。1946年4月、
関東圏企業労働委員会へ事務次長として出向。翌々年には、事務局長に昇進。戦後のこの時期、これまで親交のあった恩師である
村勢愛子の末女で2歳年上の
村勢美馬(
商工省官僚)と結婚。
1949年9月、
日本大学学術機構設立の知らせを聞くと、教員募集に応募。合格した後、1950年3月満期で退官。1950年4月、
日本大学横浜校経済学部教授(マクロ経済学講座)に着任。同大で文学部教授として着任した
村勢彦一(社会学者・前
武蔵大学准教授)は義理の兄にあたる。学者としては、戦中政策に協力した革新官僚の1人として
戦後派に属さず独立。日本政府の民主化に伴う経済市場への積極的介入を批判。徹底的な失業者対策の重要性を訴えた。1958年「日本が担うべき自由競争経済の旗頭」を発表。自由競争社会に変化する日本において、日本経済の在り方を示した。
1970年5月、
第7回地方統一選挙となる「神奈川県知事選挙」へ一番乗りで出馬を表明。8月、
社会党はかねてから公認予定だった弁護士の
青島輝夫(
神奈川県弁護士会会長/
横浜市民法律相談所代表パートナー)の公認を発表。同日に行われる横浜市長選挙も、
共和党と
社会党の対立となった。事実上の与野党一騎打ちの様相を呈することとなった。9月、現職の
森岡洋二知事が国政進出のために、五選目への不出馬を表明。10月、「共和党本部」「共和党神奈川県連」「神奈川県議団保守の会」「横浜市民政治連合(市議団体)」の保守系4団体が連名で共同推薦を表明。11月、両候補の選対本部が
神奈川県民会館に入居。ほかの立候補に意欲を示していた、
大西幸信(
小田原市長)は、無所属での出馬予定であったが取りやめた。選挙戦では、選対事務長に加藤善文(
共和党選挙対策副局長/
衆議院議員神奈川1区選出)が就任。与野党の両代表が応援演説に訪れるほど、全国区での盛り上がりを見せたが、結果としては与党及び右派統一候補が勝利した。12月、相手候補を追いやって見事当選を果たす。県知事としては、「横浜
学術特区」や小田原再開発計画、県土防災強化基本大網の制定を推し進めた。また、与党独自の外交ルートを県政でも発揮。
神奈川県庁職員では、キャリア採用組の留学制度や県独自の国際経済交流施策を打ち出して積極的な県政運営を行った。1974年12月の
第8回地方統一選挙、1978年12月の
第9回地方統一選挙でも続けざまに勝利。1975年には、
共和党と
保守党の
自由党への合併を受けて、自らも自由党に参加。他に県知事として自由党に参画したのは、
松中子平太(
兵庫県知事)や
津屋晴澄(
岐阜県知事)だった。国政において
社会党が政権を占める中、かつて社会党の大票田ともいわれていた
神奈川県全体は、
自由党の手中にあった。二期目以降、知事としては、環境福祉政策偏重の
神奈川県議会を無視して経済発展と、失業率対策に重点を置いた。「横浜
みなとみらい構想」「川崎
医療特区構想」「太平洋沖地震対策特別基地整備」は、知事時代に実現させた県土強靭化を実現させた。
1982年7月、県知事選挙へは出馬しない旨の意思を表明。四選を目指さないことを決めたため、後援会からの意向や
自由党からの要請もあって、
衆議院総選挙への出馬を表明した。1983年6月5日、
第26回衆議院総選挙へ
神奈川1区から出馬。知事時代の知名度で得票率は群を抜き、最後の
中選挙区制選挙においてトップ当選を飾った。当選後、
浅上内閣、
浅上内閣(改造)の
厚生労働大臣として初入閣。厚生労働大臣として、人権擁護の重要性を主張し、特に被差別部落の救済や在日朝鮮人をはじめとした当時における社会的弱者に対して政策を行った。一方で、これらの活動が右翼団体と敵対する原因として後々まで尾を引くことになる。選挙を目前に、選挙区調整の必要があり、前回の中選挙区で最多得票を取っただけに、
神奈川県内で最も難しいとされていた
神奈川3区からの出馬を党本部から要請される。この選挙区には、
社会党の支持母体として大きな勢力を誇っていた
労働者教育連合(労教連)全国本部が所在していた。当然相手候補は、社会党内で新進気鋭としてもてはやされていた
加藤勝治(社会党
団体運動本部次長)であった。
総理に至るまで
1987年5月、
第27回衆議院総選挙を経て
自由党幹事長に就任。
東京大学の同期で、旧知の中でもあった
浅上浩二は、自派閥である
治水会に引き入れることを条件に、全国の知事とコネクションを持つ瀬川を重用する人事案を前党首として提言。国際派総理として、機運を高める
内原幸徳に代わって、党の国内情勢に気を配り
第14回参議院通常選挙での勝利を引き寄せた。選挙に強く、党の国内情勢も把握する瀬川は、次の総理に推す声も大きかった。1989年4月、
電信電話公団の民営化を推進するための「
自由党公団調査会」の№2たる事務総長に就任。9月に予定していた
特別会での、民営化推進法案成立を目指して全国の党員から意見を募った。しかしながら、
自由党内部の国会議員らは、利益団体である
全国電電関連団体労働会議に遠慮して民営化に中立の立場を表明。特別会に提出された、「
電気通信関連産業構造改革基本法」に中立の立場として投票を見送る事態が発生。
衆議院電気通信委員会での法案通過には成功したが、本会議での通過が難しい状況となっていた。本会議の直前に
国会対策委員長の
福田真一を懐柔して、党議拘束をかけることに成功。しかしながら本会議では、反民営化の代議士を中心に集団欠席。本来ならば、党議拘束を守らない議員は、「党規違反」になるが直前の党議拘束自体も「党規違反」にあたる可能性があったため対応が難しかった。党内では、民営化への反対の是非を巡って対立が激化。特に、党議拘束を独断でかけた福田国対委員長は、利益団体からの圧力によって辞表を出さなければならない事態となる。瀬川自身も責任を取るつもりだったが、
内原幸徳は、この機に及んで衆議院解散を決断。
電信電話公団民営化を実現する必要性を訴えて、議論軸を与党対与党にするため、幹事長の瀬川に奔走を命令。
内原幸徳を中心とする党幹部は、解散に対して積極的な姿勢を表明。党内の長老は、解散に対して積極的ではなく、突然の解散は危険であるとして危惧。しかしながら、衆議院を解散して党内の反体制派を押さえつけることの重要性を説き懐柔を働きかける。通常ならば、代議士会を通じて解散を決定するものの、党の幹部らによって強行的に決定。
特別会の中、
衆議院を解散する。一方の
社会党とも、健全な関係性を取り付けるため
衆議院総選挙において、社会党が指定する10選挙区で候補者を擁立しないことを発表。衆議院解散後、
幹事長としてぶら下がり会見に応じた。「内閣の方針に従わない代議士を公認するほど、今の国民党に余裕がないわけではない。」と発言したことで、反体制派の国民党非公認を公表。選挙戦では、全国の
都道府県支部に対して党員票の掘り起こしを命令。選挙区調整が間に合わない選挙区では、地元の県議や市議を辞職させて出馬させるなど急遽準備を必要とする選挙戦となった。
選挙後・総理大臣就任
退陣
1990年6月10日に投開票を迎えた
第15回参議院通常選挙、
自由党は改選大敗の結果を受け入れることになる。改選98議席中、38議席に落ち込み全体で過半数の獲得に失敗した。「内閣として責任を取る必要がある」として、
内閣総辞職を表明。特に、支持派閥である、
青洲会からの総辞職要求の声が高かったことも原因となった。党内派閥として、出身母体の
治水会に会長代行として復帰。1995年1月1日付で、
治水会会長(3代目)に就任する。
船中内閣では、一貫して重鎮議員を務めてきたが、実務には携わらなかった。
逝去
派閥会長就任時から、健康不安説は出ていたが周囲の反対も押し切って政治家を続ける。後援会長の
大石多鶴(
大石不動産社長)は、健康不安説が出ている以上は、政界引退することを勧めていたが、最終的に固辞。
船中内閣の後、復権を狙っていたが、1996年10月に、
神奈川藤岡記念病院で急逝。
選挙歴
最終更新:2025年07月22日 19:48