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大友雷三

大友雷三(おおともらいぞう)〈1927年10月~2006年10月〉は、教師、共和党党職員、社会活動家。第三社会党政党役員。

来歴

1927年、鹿児島の名門大問屋「大友屋」に生まれる。異母兄の鍛冶屋聡史郎は、大友屋社長や鹿児島市長を務めた。

新聞記者時代

鹿児島教育大学附属高等学校を経て、鹿児島教育大学教育学部社会学科を卒業。1950年、西日本新聞社へ入社。奈良支局、大阪政治部、神戸支局、広島経済部を経て、1958年から本社文化部。唐津焼の大家であった絹山壮一門の人間国宝認定という誤報記事が出た「西日本新聞社人間国宝誤報問題」の責任を負って辞職。

研究者時代

1960年10月から、九州福祉大学附属大野高等学校で古典の非常勤講師として勤務。1967年3月、九州大学大学院社会研究科社会史専攻において「第二次世界大戦時の朝鮮半島地域における現地雇用労働者の実態」を発表して博士号を取得。1967年4月九州大学東アジアセンター客員研究員。福岡県文化学術審議会委員、九州歴史学者連絡会議事務局長などを務めた。
1970年、戦後歴史映画の偉大な1作である松田旭の「幻の半島(昭栄配給)」で歴史参照を担当。

政界進出

共和党党員となった鍛冶屋聡史郎の誘いで、新聞記者時代から志していた政治家への道を歩むことになる。1971年10月、九州大学を退職して共和党に入党。鹿児島県連事務局で働きながら、大槌八雲薩摩市長)の私設秘書を務める。1973年9月16日投開票の第23回衆議院総選挙鹿児島2区から共和党公認候補として立候補するも落選(4人中4位)。1975年から自由党に転じ、選挙区調整の末、福岡4区支部に移籍する。この年、党の方針で第10回参議院通常選挙福岡選挙区から急遽立候補するも落選(8人中6位)。第24回衆議院総選挙(1978年7月2日投開票)においても落選。1980年5月18日に第25回衆議院総選挙において福岡4区から初当選(8人中3位)。大友屋久留米支社の社員が選挙事務所の職員として活躍した。当選後、江藤派に参加。
離党
1982年、梁建国(中華民国国家主席)の来日に反対して、駐中華大使外務事務次官の更迭動議を提出。この身勝手な行動が問題視され雄伯会から除名処分を受ける。暴動が発生した総務委員会で委員長を殴りつけたことなどが影響し、懲罰委員会に付されることになる。懲罰委員会から60日間の登院停止処分が勧告されることになる。懲罰委員会の後、「暴力を振るったことは事実であり、言論の府においてあってはならないことであった」と釈明。1982年11月に議員辞職。
1983年1月、共和党を離党。

第三社会党

議員辞職後、政界再挑戦の機会をうかがいながら、地元鹿児島に戻って政治活動を再開。1983年4月、政治団体の第三社会党を結集。党委員長として、1年以内に行われる衆院選への候補者擁立を表明。自身も鹿児島2区からの立候補を表明する。1983年6月5日投開票となった第26回衆議院総選挙への出馬調整が間に合わず、不出馬のまま選挙を終えた。1980年代中盤の市民連合ブームに合わせて、鹿児島中央市民連合の支援を受けて鹿児島市議会議員選挙や薩摩市議会議員選挙への候補者擁立を行った。社会党の支持基盤である日協からの選挙応援もあり地方議会を中心に複数議席を獲得。
地方選
1986年の第11回地方統一選挙鹿児島県知事選挙への出馬を表明。第三社会党のバックアップを受けた出馬となり、多くの市民連合が応援を表明した。しかし、選挙戦では第三極の泡沫候補に過ぎず、自由党が推薦する現職の芦谷信明に惨敗。知事選の後、第三社会党相談役に退く。福岡県知事選での落選後、1987年7月の薩摩市長選挙へ出馬表明。しかし3週間後には一転して出馬取りやめ。同年10月から鹿児島中央市民連合代表顧問に就任。市民運動家として日本各地の市民運動に参加。1988年12月に行われた衆院長崎3区の補欠選挙に出馬。市民組織の支援もあったが次点で落選する。
国会議員へ復帰
第28回衆議院総選挙に向けて、1989年7月に日本プレスセンターで記者会見を開き、衆院選に向けた政党方針を発表。柏光親委員長、高倉ゆきこ幹事長とともに、次期衆院選候補者選定委員長として会見を行う。
「次の衆院選では、全国津々浦々の選挙区に30名弱の候補者を擁立する予定である」と宣言する。1989年10月29日の第28回衆議院総選挙では、鹿児島2区から出馬するも落選、重複立候補の九州西南比例区で復活当選となる。当選後、第三社会党国会対策委員長に就任。
国会活動
日豪輸出入協定改正に際し、衆院日豪通商特別委員会の委員長としてオーストラリア産農作物の関税15%引き上げを主張するが、最終的に相互関税12%を成功する。その後、、大友委員会が権力を持つようになる。大友自身らも苦戦を強いられ、21議席まで減らした。しかし、大久保内閣も中露開戦に伴う国際情勢の変化にうまく対応できず、経験不足を露呈。さらに、複数名の閣僚に発覚した年金不正受給問題などで信用力を低下させ、極め付けには新党革新の光が統一地方選挙での惨敗により資金繰りがショートしたため崩壊。
最終更新:2026年01月20日 22:35