第25回衆議院総選挙(だい25かいしゅうぎいんそうせんきょ)は、1980年5月18日に行われた
衆議院の所属員たる
衆議院議員を選任するための
衆議院総選挙である。
選挙データ
党順 |
党名 |
代表 |
就任日 |
議席 |
選前 |
増減 |
比率 |
備考 |
1 |
自由党 |
[[]] |
年月 |
|
|
|
% |
|
2 |
社会党 |
[[]] |
年月 |
|
|
|
% |
|
|
無所属 |
|
|
|
|
|
|
|
概説・背景
戦後二度目の二大政党による衆院総選挙。この選挙で大勝した
自由党は、この後20年以上に及ぶ磐石な長期政権(
80年体制)を確保する。
解散前後の情勢
選挙前、野党は、
社会党の不祥事として表面化していた、貝原三郎(首相)、海老川(自治大臣)、欧村(厚労大臣)ら3名の個人献金(朝鮮系の料亭から総額8000万円を献金)を徹底的に追及していた。公選法では、当時も個人献金に関する規制を定めていなかったが、問題の争点となったのは外国人からの献金だった。3名はすでに全額を返金しており、政治的活動に用いた過去はないと弁明を繰り返していた。しかし世論は、内閣批判で形成されていた。与党の一部議員は、野党の内閣不信任決議案に同調するとして離脱。
4月9日(水曜)の常会閉会直前に開かれた内閣委員会の冒頭で藤沢党委員長は、「我が社会党とその内閣にある多くの人々による政治的問題によって、国民の皆様に多くの心配をおかけしていることをお詫び申し上げます」と謝罪。続けて、「私たちは、この責任を取るべきであるとして常会終了後速やかに衆議院を総辞職することを決定いたしました。」として衆院解散を明言。しかし貝原首相は、「解散権の行使は首相の専制権限だ」として衆院解散を否定。さらに官房長官の定例会見でも「衆院解散について、一回の党代表が明言することはあり得ないことだ。内閣として明確に抗議していく」と発言したことで、内閣と与党間の連携状態の悪化が露呈。11日(金曜)には、社会党の藤沢委員長と藤山幹事長、内閣の貝原首相と田村官房長官の四者協議が官邸で開催。14日(金曜)に常会閉会に合わせて内閣は衆院解散。翌5月18日(日曜)を衆院選の投開票日に定めた。
投開票
5月18日(日曜)に投開票を迎えると、20時の開票と同時に153名(371議席中)に当選確実がついた。同時刻には、主要メディアを通じて「自由党200議席を超える大躍進で政権交代が確実」と報道された。片山党首は、開票センターでの第一声で「政権交代は確実という報道もありますが、結果をしっかりと見守りたいと思います」として笑顔で開票を見守った。藤沢委員長は、「今回の選挙の争点をしっかりと見極めつつ、未来に向けて歩みだすのみです」と険しい表情となった。
選挙詳細
争点
解散名
同日選挙
党派の動き
与党
社会党の
常任幹事会は、候補者選定特別委員会で外国人からの献金を受け取っていた現職議員17名に非公認処分を発表。その一方、政権保持を目指して地元政治家や政治活動家などを急遽調整して320名の立候補者を擁立。藤沢(党委員長)は、「女性の輝く新しい社会、まったく新しい政治」と選挙のスローガンを発表したが、勝敗ラインに関しては結局最後まで明言しなかった。
野党
自由党の片山党首は、政権交代を至上命題として318名の公認候補者を調整。さらに、「勝敗ラインというものは、政権交代ができるか否かということで相違ないと思います」と強気の発言でメディアを騒がせた。
双葉陽三(幹事長)と
谷村勝国(党選対委員長)を中心に、選挙応援全国遊説本部を設立。党内で勢いのある役職者を中心に地方での応援演説を行わせた。
諸派
注目の当落
高知全県区では、
藤生光史(自由党前職)と
前澤忠雄(社会党新人)の師弟対決が注目を集める。この選挙区では、藤生が一番手で勝ち抜た。
全国的に注目されたのは、社会党の公認を得られなかった17名の選挙結果だった。その1人である
貝原三郎首相(
神奈川3区)の選挙戦は謝罪行脚から始まった。6連続首位を守ってきた選挙戦で、自由党候補2人に敗れて3位当選。一方では、同じく非公認になった元
内閣官房長官の
田村克彦(
兵庫3区)が政府の緊急対応に追われる中、8度目のトップ当選(8連続当選)を果たす。
議員
中選挙区当選者
選挙後
最終更新:2025年07月28日 01:16