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和光修次

和光修次(わこうしゅうじ、1894年1月~1969年1月)は、日本の政治家。
衆議院議員山形市長、共和党幹事長。
1894年1月
1969年1月

来歴

生い立ち~政界進出まで

1894年1月、山形藩(現在の山形県山形市)の貧農の子供として生を受ける。父が柔道の師範(柔術羽州新陰流)であったことから、幼少期から柔道の鍛錬を欠かさなかった。小学生時代に、父が写真館を開業したことから家族の生活は豊かになる。

小学校卒業後、旧制山形高校教養部に学び、地元小学校の教諭となる。小学校では、数学を担当し、柔道部部長監督なども務めた。

1919年から、羽州新聞社の記者として勤務する。政治、文化、教養の連載記事で注目を集めた。また、政治部記者時代には森園武人古村久敏山村彦一郎という3人の山形県知事の知事番などを務めた。

山形市

1926年の末、元羽州新聞社社長であった森野義彦山形市長が、退任を発表。翌年に、選挙が行われることとなった。山形市議会の多数派を占めていた革新本党田中謙作党首から直々の出馬依頼を受けて、山形市長選挙へ出馬する。

1927年8月、政財界からの支持を受けて、山形市長に初当選。全国最年長の33歳で市長となった。山村彦一郎山形県知事の厚い信頼によって県市一体の政治体制を構築した。
山形市長としては、市道網の整備を進め、県道、国道をしのぐ全国的にも大規模規格の市道を整備した。また、全国に先駆けた社会衛生委員の整備を進め、赤痢や腸チフスなどの社会衛生環境の整備を市民単位から進めることとなった。特に力を入れたのは、昭和7年豪雪の影響によって市内にあふれた失業者への対応であった。市内8か所に公営の共同炊事場を設置し、炊き出し・配食制度の整備を進め、市内小学校全校への無償給食を配食することを勧めた。

1932年5月、東亜同盟の設立にあたり、東亜同盟山形県支部連盟相談役に就任。

国政進出

1938年4月、3期11年務めた山形市長を退任。1938年8月、第11回衆議院総選挙に出馬し、旧山形1区から初当選を果たす。

東亜同盟から大日本政治会へ移ったのち、政治局常務委員、戦争計画本部長建設大臣厚生大臣を歴任。1945年8月15日の終戦に伴い、同月20日に議員辞職。

日本共和党結党発起人の1人として、国対委員長に就任。1946年2月から海堂内閣大蔵大臣として入閣する。戦後における国有財産の財政投融資基本計画策定を進めた。

1947年8月に、党内分裂の末に結党した協同共和党の途中から参加するも、政調会長の要職に就く。
最終更新:2026年08月09日 20:53