日本共和党(にほんきょうわとう) は、かつて存在した日本の国政政党である。 1945年12月以降、海堂内閣を単独政権で形成していた。
成立年月日 | 1945年9月18日(立党宣言日は9月19日) |
前身政党 | 大日本政治会 |
解散年月日 | 1946年8月12日・1950年8月 |
解散理由 | 協同共和党への党実権移譲 |
後継政党 | 協同共和党・共和党 |
院内会派 | 共和クラブ |
政治思想 | 中道右派 |
機関紙 | 日本の共和 |
大日本政治会で国際協調を目指していた、共和派のメンバーを中心に結党された。
役職 | 名 | 就任日 | 備考 |
総裁 | 海堂武臣 | 45年9月 | |
鶴田正弘 | 49年10月 | ||
幹事長 | 大路晴雄 | 45年9月 | |
鶴田正弘 | 46年8月 | ||
国会対策委員長 | 和光修次 | 46年1月 | 海堂内閣の大蔵大臣として入閣したため辞任 |
森定匠 | 46年2月 | ||
和光修次 | 46年8月 | ||
杉浦静 | 46年12月 |
海堂首相が党務に携われないため、党の実質的な最高権力者。 幹事長代行、幹事長代行代理がそれぞれ2名ずつ存在する。
国会論戦を行うために日本の政党で初めて設立された組織。国対政治の始まりを告げる。
日付 | 衆 | 参 | ± | 備考 |
1945.9 | 日本共和党結党 | |||
1945.12.17 | 183 | 第13回衆議院総選挙 | ||
1946.8 | 64 | -119 | 大路晴雄を中心に協同共和党結党のため離党 | |
1946.10 | 62 | -2 | ||
1946.11 | 61 | -1 | (衆議院議員)が急逝 | |
1946.12 | 32 | -29 | 第14回衆議院総選挙 | |
1947.8 | 31 | -1 | 和光修次が離党、協同共和党入党 | |
1948.6.13 | 31 | 2 | +2 | 第1回参議院通常選挙 |
1948.7 | 30 | 2 | -1 | (衆議院議員)が離党 |
1949.10.9 | 24 | 2 | -6 | 第15回衆議院総選挙 |
1950.8 | 0 | 0 | -26 | 解党、共和党へ参加 |
選挙 | 開票日 | 総裁 | 議席 |
第13回衆議院総選挙 | 1945.12.17 | 海堂武臣 | 183 |
第14回衆議院総選挙 | 1946.12 | 海堂武臣 | 55 |
第1回参議院総選挙 | 1948.6.13 | 海堂武臣 | 2 |
第15回衆議院総選挙 | 1949.10.9 | 海堂武臣 | 24 |
1945年9月、解散した大日本政治会のメンバーを中心に、派内勢力の共和派が結集して結党。共和派の中心人物であった大路晴雄(大日本政治会院内幹事長)が音頭を取った。1945年9月18日に内務庁選挙法部に届け出を行い、翌19日に陸軍会館大講堂で結党宣言大会を開いた。結党宣言大会では、現役閣僚を前に立党宣言を行った。その後、戦後処理に追われた海堂武臣首相を総裁に迎えて体制を整えた。
1945年12月の第13回衆議院総選挙で183議席を獲得して比較第一党になり、保守党とともに政権党を担当した。戦後の健全な民主主義育成に党の目標を決定、新憲法案の制定を政権の最終目的と確認した。しかしながら、新憲法成立直後、海堂内閣が大陸諸国と急接近。内閣の外交方針に異論を持った大路幹事長は、海堂総裁に対して離党を勧告。海堂内閣の日本共和党所属閣僚が辞職したため、閣内不一致で内閣総辞職。党内でも、海堂派と大路派で分裂したため、大路派を中心に119名が離党して協同共和党に実権を移譲した。
1946年8月、海堂武臣が率いる親中派と大陸協調派が残る形で衆議院議員64議席において日本共和党が存続。同年12月、新体制下において第14回衆議院総選挙が行われる。この選挙において、議席を半分以上減らして32議席に転落。この選挙後に、協同共和党との交渉を水面下で進めた和光修次(国会対策委員長)が更迭される。後任の国会対策委員長に、杉浦静が就任。党内の悶着を抱え、第2次大路内閣、第1次長田内閣の野党として働く。1948年1月の民主党結成の際には、党内の鉄の結束により離党者を出すことなく党勢を維持。しかしながら、1949年10月の第15回衆議院総選挙では、民主党の躍進により24議席と議席を縮小。共和党よりも議席数を減らし、党の存続に関して議論を引き起こすことになる。