協同共和党(きょうどうきょうわとう)は、日本にかつて存在した
国政政党である。
設立年月日 |
1946年8月 |
前進政党 |
日本共和党 |
解散年月日 |
1949年3月 |
解散理由 |
党内分裂のため |
後継政党 |
協同党、共和党 |
院内会派 |
協同共和 |
政治思想 |
中道右派、保守主義、共和主義、親米主義、対中強硬路線 |
概説
海堂内閣の総辞職に伴い、
日本共和党内の
大路派・
同志会と呼ばれる勢力を中心に結党。親米、対中強硬の主義思想の下に集った政治組織となった。首班指名を経て、党総裁の
大路晴雄を首班とする
第1次大路内閣を形成した。最終的に少数与党となり、無所属議員を取り入れた院内会派「協同共和」を形成した。党内には、大路晴雄(党総裁)を中心として国際協調路線を目指す大路派、
田中形堂(党副総裁)と
森定博昭(党選挙部長)を擁して国際協調路線に旧態依然とした封建体制の打破を加えた革命的外交路線を目指す田中派という2大勢力が存在。
第1次大路内閣、
第2次大路内閣という2代続いた内閣を政権党として保持した。しかしながら、その後の
民主党合流や
協同党独立などの流れを見ると、協同共和党自体に大きな政治的な意義があったと言うことはできない。最終的に、党内が分裂。1949年3月に
共和党として新たなスタートを切った。
組織
役 |
名 |
就任 |
後職 |
派閥 |
備考 |
総裁 |
大路晴雄 |
46年8月 |
|
大路派 |
|
副総裁 |
田中形堂 |
46年8月 |
|
田中派 |
|
選挙部
選挙部長 |
森定博昭 |
56年8月 |
|
田中派 |
|
選挙副部長 |
横溝大成 |
56年8月 |
|
田中派 |
|
政務調査会
政調会長
1 |
[[]] |
|
|
|
2 |
和光修次 |
1947年8月 |
後に田中派 |
日本共和党からの移籍後、役職者に列せられた |
議席
議席変動
日付 |
衆 |
参 |
± |
備考 |
1946.8 |
139 |
|
|
協同共和党結党 |
1946.12 |
177 |
|
+38 |
第14回衆議院総選挙 |
1947.5 |
176 |
|
-1 |
(衆議院議員)が急逝 |
1947.8 |
177 |
|
+1 |
和光修次(衆議院議員)が入党 |
1947.11 |
176 |
|
-1 |
(衆議院議員)が急逝 |
1948.1 |
129 |
|
-47 |
民主党参加に伴い離党 |
1948.1 |
128 |
|
-1 |
(衆議院議員)が急逝 |
1948.6.13 |
128 |
39 |
|
第1回参議院通常選挙 |
1948.11 |
95 |
36 |
-36 |
協同党設立に伴い離党(衆33・参3) |
1949.3 |
0 |
0 |
-131 |
共和党への党名変更 |
選挙結果
党史
結党
海堂内閣は、
日本国憲法成立以後、急速に大陸諸国と距離を詰める。日米関係の再構築を目指していた
大路晴雄(日本共和党幹事長)は、党の政権綱領と沿わない外交方針に対して海堂内閣への不信感を強める。海堂内閣は、
日本共和党所属の閣僚複数名が辞表を提出したため、後任の閣僚選任を急ぐも、最終的には総辞職を選択。海堂内閣の後継候補を選任すべく、
日本国憲法に則った初めてとなる首班候補者の指名が
衆議院に委ねられた。首班指名選挙を目前に、大路晴雄を中心とした日本共和党の面々は、院内会派で親米反中を提唱していた
協同会を取り込んだ協同共和党を結党した。党総裁に大路晴雄、党副総裁に
田中形堂(衆院
院内会派協同会元代表)を配して結党の理念である親米反中を中心的路線とした外交安全保障論を提唱した。
日本共和党119名、
協同会18名、
無所属2名により
衆議院139議席を獲得。
大路晴雄は、政権確保。単独で過半数を獲得できず
保守党との是々非々体制を構築。日本国憲法の施行に合わせた衆院解散について党内決定を行い、保守党との時期調整をすることで合意。1946年12月に
第14回衆議院総選挙を行う。
第14回衆議院総選挙で、177議席を獲得して比較第一党を継続。
大峰義人(保守党党首)との党務代表者会議を経て、保守党との院内連携を行う第2次大路内閣を組閣する。当然この背後には、次の内閣を保守党から誕生させるという密約があった。しかしながら、1948年に、保守共和連立体制の立役者と言われていた
長田秀三(保守党国会対策委員長)が党を飛び出して新組織となる「
民主党」を結集。水面下での民主党への合流を模索していた執行部であったが、党内の若手や連立相手である保守党との関係悪化によって断念。保守党との関係断絶により、衆議院での過半数を得られない現状での内閣継続は無謀であるとして第2次大路内閣は総辞職。
党の荒廃
民主党の結党後、47名の所属衆院議員が参加を表明。衆院における議席数は128議席にまで減少した(2名は在任中に死去、補選なし)。1948年6月の
第1回参議院通常選挙に起死回生を狙っていた党執行部であったが、民主党や保守党に議席数で競り負ける惨敗。120名擁立した選挙で、獲得議席が39議席であったことからも党内体制に不満を持つ一部の議員は、選挙に強い党に生まれ変わるべきだとして総裁交代を提言。最終的には実現されなかったものの、反大路派と呼ばれる一部議員(36名/衆33/参3)が離党。党名の一部をもじった「
協同党」が1948年11月に設立。1949年3月の通常国会終了後、党名を
共和党に変更して新たなスタートのため舵を切った。
最終更新:2025年07月19日 10:41