『にわとり号』は薬草と香木の取引を行うために、現在も春の国の新都エリューシンの外港に停泊中である。
猫人の船医さんとはそこで別れ、私は
ホビットのガイドを雇って樹人さん(ユミルという名前らしい。綺麗な名前だ。)と一緒に夏の国に向かった。
上陸から一週間後、私たちは夏の国の樹人の集落、ユミルの家に到着していた。
ダチュラ系樹人は夏の国の古都アルシェロンの郊外に小規模な集落をいくつか形成している。
非常に閉鎖的な社会で、ユミルのように外界の人間に関心を示すのは例外中の例外のようだ。
小さな集落の外れにぽつんと建っているユミルの家は、一見するとアンティーク風の温室といった趣きだった。
樹人の住居は自分の固定概念を覆すものだった。
外壁は光と空気は通すが不透明な乳白色の材質。表面は少しでこぼこしていて、透明な樹脂を薄く引き伸ばして乾燥させたように見える。
床とベッドは深い緑色。苔の一種のようでビロードのような滑らかな感触と発酵茶のような芳香がする。
それだけだ。水場もお手洗いも調度品も無い。それはそうだろう。料理も排泄も樹人には必要ないのだから。
もともと夏の国には豪雨も暴風もない。気温も湿度も安定していて、そのまんま野宿しても風邪なんか引きっこない。
そう考えると、樹人たちにとって「住居」なんてものはこれで十分なのかも知れない。
夜になるとユミルは苔のベッドにそのまま横たわって休息をとる。私はその隣で毛布をかけて休む。
毛布は
ラ・ムールのバザールで購入したもので、細密な幾何学文様が鮮やかなグリーンのベッドに意外に映えるのだ。
私とユミルは、星空を眺めながら、眠りに落ちるまでいろんなお話をした。
◆◆◆
夏の国に到着してからは毎日ユミルと一緒に妖精郷の森を探索している。
まぁ、ユミルにとっては散歩みたいなものかも知れないけど。
「マリコ。そっちは、行かない方が、いいよ。」
漢字で書くと真理子。平凡な名前だが気に入っている。
「そうなの?他の樹人さんたちは普通に行き来してるみたいだけど。」
「私たちは、平気。マリコみたいなお肉の人は危ないの。」
「お、お肉ぅ?」
最近太ってきた自覚が無い訳でもない私としては、ユミルの言葉はショックだった。
だってだって、ここは水も空気も美味しいし、何より食材(野菜と果物だが)の味が地球とは比べ物にならないのだ。
もっとも調味料の類が徹底的に欠如してるので「料理」はとても食べられたものでは無いのだが。
香辛料と乾燥タイプの魚醤(つまり“かつおぶし”)をラ・ムールで大量に仕入れておいて本当に良かったと思った。
「お肉の人は花の匂いに釣られて連れて行かれるの。そしてそのまま食べられちゃうの。」
あー…『お肉の人』ってのは要するに、樹人以外の動物系の種族(地球人含む)ってことなのね。
「食べられちゃう…?」
「突然抱きしめられてそのまま融かされたり。穴に落とされてそのまま融かされたり。べったりくっ付かれてそのまま融かされたり。」
「どっちにしても融かされるのね…つまり地球における『食虫植物』みたいなタイプの樹人ってことか…
でも食虫植物は栄養分が欠如した環境に適応して進化した種のはずだけど、どうしてこの植物の天国でそんな形態が発生したのかしら…」
「さあ。わたしたちにとっては別になんでもないから、気にしたこともないな。」
「そりゃまあ、ねえ…」
首をかしげる私を尻目に、ユミルはさっさと目的地への道を歩きはじめる。
◆◆◆
私たちは、妖精の森の坂道を上り続けている。
深く美しい森。地球人の私にも見える程に風と水の精霊たちの力が大気に充満している。
子供みたいにワクワクしながら森の中を進む私。
そして、私の隣にはユミル。
「マリコ、舐めさせて。」
「うん…」
私の頬を伝う汗粒を、ユミルは美味しそうに舌で舐めとる。
ユミルにとっては、人間の汗がごちそうらしい。特に私の肌は(化粧っ気がなくて)舐めやすくてお気に入りのようだ。
そもそも樹人は普通の食事は採らない。水と二酸化炭素と太陽光で光合成を行い、たまに有機物やミネラル分を経口摂取するくらいだ。
そりゃ、人肌を舐めれば有機物やミネラルは摂取できるだろうけど…
お陰で最初の晩は大騒ぎだった。
人肌の味を知ったユミルが、キス魔と化したのだ。
流石に最後の一線は死守したが、全身にキスの雨を降らされてふにゃふにゃになるわ、アルカロイドで身体が麻痺するわで、それはもう大変だった。
それから毎晩ユミルは私の身体を求めてくるが、未だに全身くまなく舐めまわされるのに慣れることが出来ない。
耳や脇腹なんかくすぐったくて我慢できないし、腋の下やあそこなんか恥ずかしくって真っ赤になってしまう。
しかも最近はちょっと癖になってきてて、それはそれで非常にまずい。
ユミルのキス攻撃をかわすには、ユミルがもっと興味を惹かれること、つまり「外の世界のお話」をするしかなかった。
というわけで、あれから毎晩、二人で苔のベッドに寝っ転がりながら本当にいろんな話をした。
こっちの世界のこと、あっちの世界のこと。
自分のこと、ユミルのこと。
これまでのこと、これからのこと。
これからのことを考えると、気分が重くなる。
◆◆◆
「着いたよ。」
「わぁ…凄いね……」
ここが今日の探索の目的地。
そして私がエリスタリアに来た、そもそもの目的の地。
深くシンと静まり返った森の最奥部で、そこだけがやや開けた円形の広場のようになっている。
そしてその中心に、一本の巨大な老神樹が聳え立っている。
『世界樹の枝』。本来であれば、神木として集落の中心地に祀られ、集落の長や神官達に厳重に保護されているはずのものである。
しかし目の前に聳える巨木は、何故か誰にも祀られることもなく、母なる世界樹から分け与えられた巨大な神霊力を放出し続けている。
この『世界樹の枝』の生体組織を採取すること。
それが私の本当の目的だったのだ。
私のよう平凡な地球人ですらはっきりと五感に感じられる。
巨大な神霊力の渦と、その渦に乗って笑いさざめく無数の精霊たちの声。
私自身、滾々と湧き出る生命力の迸りに、全身の細胞が生まれ変わっていくかのようだ。
体の芯から湧きあがる感動と興奮を押し殺して、私は黙々と研究のための試料採取を続けた。
◆◆◆
私たちが『世界樹の枝』に到着してから約3時間が経過した。
採るべき試料は既に十分に採り終えている。これ以上の長居は出来ない。
森の守護者たるウッドエルフ達に見つかったら、私たちは終わりだ。
機材をまとめ、ユミルを促して、私は逃げるように『世界樹の枝』を後にした。
◆◆◆
『世界樹の枝』からの帰り道は二人とも無言だった。
この旅の最大の目的は既に果たした。
荷物をまとめて、明朝にもここを発たなければならない。
ガイドを雇ってエリューシンへ。そこで次の船便を待つ。
エリスタリアの
ゲートは多分通過できない。
別の国、できれば
ミズハミシマのゲートに向かう。
そしてその前に一つ『後片付け』をしなければ。
これから話すことを考えると、気分が重くなる。
でも、今日は初めからこの話を切り出すつもりで来たのだ。
全身から気力をかき集めて、大きく息を吸い込む。
ユミル、ごめんね。
「ユミル、ありがとね。ユミルのお陰でこれ以上無いくらい貴重な試料が採取できたよ。
これだけデータがあれば、後は地球に戻って本格的に分析に入れるわ。ああ、楽しみだなあ。」
我ながら大根だとは思うが仕方ない。
どうせいつまでもここには居られない。今のうちに距離を置いてしまわないといけない。
ユミルが私から離れられなくなる前に。
私がユミルから離れられなくなる前に。
突然、ユミルは立ち止まって私の方に向き直った。
ちょっと背伸びをして、私の頬をちろりと舐める。
「嘘。この味は、嘘を付いている味。」
ユミルの不意打ちと、図星を突かれた衝撃で、私は口をぱくぱくさせることしか出来なかった。
「マリコのからだは、ずっとここに居たいといってる。
マリコのこころは、どうして自分に嘘を付くの?」
だって。
だって、仕方ないじゃない。
研究だってあるし。家族も友人もあっちに居る。
お金はどうするの?生活は?恋愛や結婚とかは?老後は?
それに私はこの森の禁忌を侵してしまった。
エルフ達はきっと私を許さない。
大体あたしの方がユミルよりずっと寿命が短いのにずっと一緒に居られる訳ないじゃない。
あたしだって本当はずっとユミルと一緒に居たい。毎朝ユミルと妖精の森を散歩して、星空を眺めながら苔のベッドで一緒に眠りたい。
でも、そんなのできっこないじゃない。
◆◆◆
自分勝手な言い訳は、言葉にならずに宙に消えた。
ユミルの黒目がちな瞳がまっすぐに私を貫く。
後ろめたさで目をそらすこともできない。
本当はわかってた。
私より、ユミルの方がずっとリスクが大きいってこと。
排他的なダチュラ系樹人の中で、地球人と親しく交わるユミルは異端中の異端だ。
森の守護者たるウッドエルフ達は、妖精の森の奥に「外部の者」を招き入れるユミルを快く思っていない。
そしてとうとう私たちは『世界樹の枝』の標本まで採取してしまった。
それでも私一人ならいつでも「外」に帰れる。しかしユミルはここで生きていくしかないのだ。
それに寿命の違いだって、本当に辛い思いをするのはユミルの方。
それでも。
あの時、ガチガチに緊張しながら地球人である私に歩み寄ってくれたユミル。
私のために危険を冒して『世界樹の枝』まで案内してくれたユミル。
今の私に、ユミルの半分でも勇気があったなら。
◆◆◆
雨が降り出した。
あたたかで、霧のように優しい雨。
ユミルは私に寄り添って、全身で天からの恵みを受け取っている。
私は全身から気力をかき集めて、大きく息を吸い込む。
そしてそっとユミルの頭を抱き寄せ、自分に言い聞かせるようにささやく。
「一緒に暮らそう。ふたりなら、きっと大丈夫。」
それからわたしたちは、雨に濡れるのにも構わず、二人で手を繋いで、笑いながら妖精の森の坂道を下っていった。
end
●あとがき
読んでくださった方、ありがとうございました。
【良薬は口に甘し】の続編です。
なんか書いてるうちに思いっきりガチ百合風味になってしまい動揺を禁じ得ません。どうしてこうなった。
いろいろアレな作品ですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
(この二人のお話はここでいったんお終いです。あとは猫人の船医さんでもう一本書く予定です。)
- 最初のファンタジーさがディズニーみたいで楽しい雰囲気から一転してマリコとユミルの別れになったのは驚きました。考えると地球からの旅人は地球に帰るんですよね。最後にどうなるのかはらはらしましたが最後の二人を見ると何が彼女たちの想いを知る反面でこれからの二人が進む人生の困難さも垣間見えました -- (ROM) 2013-03-10 12:44:06
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最終更新:2013年03月30日 13:12