潮気の香る、薄暗い船室。椅子に腰掛けた私はボトルに水を注いだ。
ボトルにパイプを挿入。そのパイプへ吸口のついたホースと灰皿を取り付ける。
灰皿に煙草を詰め、炭に地球人から貰ったライターで火をつけた。炭から煙草に火が移るまでゆっくりと待った。
薄っすらと煙が立ち上り始めてから私のぞろりと鋭い歯の並んだ口へ吸口を差し込み、パイプ越しに紫煙を吸う。
すると水を潜ったことで適度に冷やされた煙草の甘い香りが鼻の中一杯に広がり、
クルスベルグの
ドワーフたちの炉のように私はもくもくと煙を吐き出す煙突となった。
この水煙管は
ラ・ムールの猫人たちの愛すべき悪癖だ。と同時に、私にとって苦くもあり甘くもある記憶と共にある。
あれは私が運送業者として駆け出しの頃だった。
ラ・ムールへ行商に訪れている最中だった私は前触れのない嵐に見舞われ、所有していた貨物船はあえなく沈没。
駆け出し故の無謀と無知により資産の分割もしていなかった私は一夜にして積荷と財産の全てを失うことになった。これまで多くの窮地に見舞われてきたが、あれほどの絶望は後にも先にも無いだろう。
ラ・ムールの主神ラーは自らの領域へ訪れるあらゆる者へ気まぐれに試練を課す。それが最下層の民だろうが、頂点に立つ王だろうが、何者でも関係なく突然に。
では、あの不幸はラーが私に課した試練だったのか。今となっては知る由もない。
事実として私が記憶していることは、災いの後の幸運。地球人の使うことわざで言うところの「禍福は糾える縄の如し」というやつだ。
ケチでがめつく冷たいと偏見を持っていた猫人たちは予想以上に無一文になった私に優しかった。
ラ・ムールは商人たちの国だ。同じ商人ながら唐突な不幸で全てを失ってしまった私に同情してくれたのだろう。
港で途方に暮れていた私を拾い、数日屋敷に居候させてくれた挙げ句「お前に投資してやる。いつか3倍にして返せ」と猫人の老商人が貨物船をまるごと一隻譲ってくれたあの日のことは忘れようもない。
目の前へ跪き、涙を流してその手を取り感謝を述べたことは未だ昨日のことのように思い出すことができる。
その後貿易に成功してたくさんの財宝と共に意気揚々と借りを返しに
ラ・ムールへ訪れたところ、ひと月前にその老人が亡くなっていたのを聞いた。瞬間膝の力が抜けた嘆きも一生覚えているだろう。
この水煙管はその滞在中に覚えた。あの老人が好んでいたものを吸わせてもらったのが切っ掛けだった。
すっかり癖になってしまってもう手放すことができない。海中の
ミズハミシマでこれはうまく吸うことができないから、きっと私は死ぬまで故郷へ腰を落ち着けず世界中の海の上を船で移動しているに違いない。
希望も、悔恨も、この涼し気な紫煙がゆったりと私の思い出を彩ってくれる。
───と、私が水煙管を心ゆくまで愉しんでいたところ、その船室の扉をばたんと開いて入ってくるものがあった。
「失礼! 船長、外が………───う、また煙草を吸っていましたのね?」
扉の天辺をくぐるようにして船室に入ってきた大柄な女が微かに顔を顰めた。愛嬌よりは凛々しさがやや勝るものの、その細面は十分美人だ。
波打つ亜麻色の髪は出港前こそ垂らしていたが、今はしっかりと束ねられて活動的な印象となっていた。それでもその髪型で器量が損なわれることはない。
しかし首から下はそんな繊細さが薄れる。広い肩幅。鋼糸の束を捻ったような逞しい腕。
今は薄黄緑色のドレスで覆っているものの、その衣服の下の胴は女らしい皮下脂肪で薄っすらと覆われた筋肉の鎧で覆われている。
(何故知っているかというと航海の最中のスコールにおいて船上を下着姿ではしゃいでいたからだ。淑女ならば少しは恥じらいを覚えてほしいものである)
そして胴は美しい小麦色の毛並みをした、上半身以上に全身これ筋肉の塊といった風情の四足へと繋がっている。
言うまでもなく、彼女は
イストモスの
ケンタウロスだ。正確には東
イストモスの貴族のお嬢様だ。そして私の今回の積荷のひとつでもあった。
「いケマせンか、ジゼル姫? 船ノ行く先なラば、精霊に見張っテもらっテいマスが」
「個人の時間を咎めるわけではありませんが、私にはこの香りは少々甘すぎるので………あと姫はおやめなさいと言っているでしょう!
………いえそんなことはよいのです! はやく外に出てください! 摩訶不思議なことが起こっていますわ!」
喋っている間にころころと表情が二転三転する。最初は怒ったようにぷりぷりと眉を吊り上げていたのに最後は好奇心旺盛な子犬のように喜色満面だった。
相変わらず元気で小気味良いお嬢さんだ。私は苦笑しながらゆっくりと椅子から腰を上げ、室外へ急かしながら誘う彼女………ジゼルの背中を追った。
開かれた扉へ彼女の後に続いて外に出る。潮の香りが途端に強くなった。やや曇りがちながら、先程まで陽光に照らされた海面が延々と水辺線まで───………おや。
「なんですのっ! これはなんですの!
イストモスでは見たことのない景色ですわ!」
「ああ………星屑雨でスね。こイつがいキナり見られるとハ、幸先がいイ」
「綺麗………!」
ジゼルが両の手のひらを胸の前で組み、うっとりと空を見上げる。無理もない。
新天地でこれを初めて見る者は誰だってこんなふうになる。
それは途方もなく美しい光景だった。曇り空から降り注ぐのは雨でもなく雪でもなく、きらきらと瞬く淡い黄金色の明かりだ。
見渡す限り、雲の広がる彼方までその幻想的な風景が途切れること無く続いている。
ひらひらと舞い降りるその光は何かに触れるとまるで何もそこに存在しなかったように跡形もなく消えてしまう。
例え方はそれぞれだ。
エリスタリアの
エルフたちはこれを
世界樹から年に一晩だけ無数に湧く蛍たちの輝きのようだと言う。
大延国の狐人や狸人たちは宙の彼方へと浮いていく灯籠流しの祭りのようだと言い、私の故郷の
ミズハミシマにおいては海の深い場所で見られるという果てなき降雪のようだと言う者もいる。
ひとつ確かなのは、この明かりの正体についてはっきりとしたことを誰も知らないということ。
新天地の神とされる
レギオンは何も語らず、
新天地のあらゆるものは未成熟に過ぎ、真実を確かめる余地は無い。
それでも地上の人々の浅知恵を嘲笑うように、この神々しい光は不定期的に地べたへ這いつくばる者どもへと降り注ぐのだ。
「夜なラばもっト綺麗なンですガね。とハイえ、なかナか船上で見らレるもノではあリマせンよ」
「なんて美しい光景………!
イストモスの満点の星空にも劣りませんわ! 是非父上や母上にもお見せしてあげたい………!」
意識せずジゼルの口から漏れた言葉を耳にしてつい笑みが浮かんでしまう。
イストモスのやんごとなき名家のお屋敷から体面上は半ば勘当同然で放り出されたにも関わらず、ジゼルも彼女の両親も本当のところは互いに互いを思いあっている。
自分としては出港前にジゼルの両親が遣いに出した狗人の使用人から手渡された、ジゼルの身柄を保障する巨額の資産に手を付けずに済むのが一番なのではあるが。
だがこうして船旅を共にしているとつい思ってしまう。この娘は案外うまくやれてしまうのではないかと。
図太く、めげず、案外抜け目なく、そして他人を巻き込みつつ前進する力に長けている。現に巻き込まれているのが私だ。
イストモスであんなお家騒動へ偶然一枚噛むことになった時はどうなることかと青い吐息を漏らしたが、まったく現実というのは数奇なものである。
「星屑雨ガ見らレたといウことハ、
新天地ノ沿岸が近イはずでス。………ほら、沿岸が見えルでシょう?」
「えっ!? どこどこっ、どこですのっ!? あっ、本当ですわっ! 薄っすらと見えましてよ!
新天地ですわ!」
船の欄干から身を乗り出すようにしてぴょんぴょんと跳ね、ジゼルが喜びを顕にする。万が一船から落ちると大変だから抑えて欲しい。
だが私も気持ちは同じだ。星屑雨の歓迎を受けながら、その光の中で私も微笑みを口の端に滲ませた。
これまでもそうだし、これからもそうだろう。船へ貨物を満載し、荒波を越え、次の港へ辿り着く。そのたびに私は今回と同じように安堵するのだろう。
そして感謝する。ここまで来られた幸運に。そして願う。ここから出ていくときも平穏無事に次の積荷を積んで出港できる幸運を。
新天地はこの星屑雨の美しさに似合うほど麗しい場所ではない。厳しい原初の法則が適用される、ハイリターンながらハイリスクを帯びる地だ。
この星屑雨だって所詮は偶然に過ぎないなんてことはよく分かっている。それでも思わずにはいられないのだ。何度でも思わずにはいられないのだ。
幸先が良かったことを喜ぼう。それは永続しないけれど、瞬く間に終わるかもしれないけれど、どうかその瞬間の幸運がなるべく続くように祈ろう。
そのために、根気よく、諦めず、そして賢くあれ。若き私に再起の切っ掛けを授けたあの猫人の老商人の教えは今も私の中に息づいている。