外伝『彼の名は「善き人」』
この戦争の間、南大陸各地には数多くの捕虜収容所が建設され、そこには数多くのシホールアンル帝国軍将兵が収容されることとなった。
こういった戦争捕虜たちの日常生活というものは極めて単調なものであり、この環境に適応できない人間にとっては苦痛でしかない。もちろん変化が皆無なわけではないがそれもさしたるものではなく、もともと単調な生活に適応できない連中が満足するはずもない。その結果フラストレーションを溜め込んだ一部の捕虜たちによる暴力沙汰がたびたび起こり、収容施設を管理するアメリカ側を悩ませていた。
もちろんアメリカ側が何もしていなかったわけではない。監視に当たる人間を増やし、罰則を厳しくする一方で映画の上映会やかの有名な『交流団』に参加している音楽家やコメディアンを呼ぶなどして、捕虜たちの『ガス抜き』に努めていた。だが、アメリカ側がどうやっても提供できないものがあった。それはこの世界の娯楽である。楽師の奏でる音楽、役者たちの演じる芝居、そして街角で演じられる大道芸、いずれもアメリカ側から見れば原始的で洗練されていないものだったが、この世界の人々にとってはこれこそが本当の意味での『娯楽』であった。
もちろんアメリカ側が何もしていなかったわけではない。監視に当たる人間を増やし、罰則を厳しくする一方で映画の上映会やかの有名な『交流団』に参加している音楽家やコメディアンを呼ぶなどして、捕虜たちの『ガス抜き』に努めていた。だが、アメリカ側がどうやっても提供できないものがあった。それはこの世界の娯楽である。楽師の奏でる音楽、役者たちの演じる芝居、そして街角で演じられる大道芸、いずれもアメリカ側から見れば原始的で洗練されていないものだったが、この世界の人々にとってはこれこそが本当の意味での『娯楽』であった。
このことに気づいた者もいた。実際幾つかの収容所では現地の劇団や音楽家、旅芸人などに慰問演奏を行うよう働きかけていたが、彼らから返ってきたのは明確な拒否だけであった。当然だろう、北大陸の数々の国を侵略、征服し、さらに自分たちの故郷がある南大陸まで侵略の手を伸ばしたシホールアンル帝国の将兵たちを楽しませるために自らの芸を披露しろというのだ、いくら報酬をはずまれてもうんと答えるはずもない。こうして、捕虜たちに現地の娯楽を提供しようというアメリカ側の思いつきは失敗に終わった。
だが、そんなアメリカ人たちの目の前に一通の請願書が提出されたことが状況を変える。『捕虜たちによる、捕虜たちのための慰問団結成』、それは娯楽に飢えた捕虜たちが考えついたものだったが、彼らの不満をそらすため四苦八苦していた収容所側にとっては渡りに船だった。もちろん経費はかかるだろうし、この制度を悪用しようと考えるものが捕虜たちの中にいるであろうことは間違いない。だがそんな問題点を考慮に入れてもこの提案は魅力的なものだった。
こうして南大陸各地に数多ある収容所の幾つかで『捕虜慰問団』(Service Organizations by Prisoners)が結成され、彼らは南大陸のあちこちにある収容所を『巡業』して回ることになったのである。
レンク公国レクマルト
公国東部、かつてこの国がシホールアンル帝国の占領下にあった頃に海軍の一大拠点としてその名を知られたガルクレルフ、そこから内陸に二十マイルほど離れたところにあるこの山奥の廃村にアメリカ軍が捕虜収容所を開設したのは、アメリカ軍と南大陸連合軍が北大陸にその一歩を標してからおよそ半年後のことである。最初は十棟足らずの防水布をかぶせた丸太小屋だけだったこの収容所は、北大陸でアメリカ軍や南大陸連合軍が勝利をおさめるたびに拡張され、それに従って収容される捕虜の数もまた増えていった。そして収容所建設から一年がたったこの日、ここの住人であるおよそ五千人の捕虜たちのために『捕虜慰問団』の一つがここを訪れていたのである。
こうして南大陸各地に数多ある収容所の幾つかで『捕虜慰問団』(Service Organizations by Prisoners)が結成され、彼らは南大陸のあちこちにある収容所を『巡業』して回ることになったのである。
レンク公国レクマルト
公国東部、かつてこの国がシホールアンル帝国の占領下にあった頃に海軍の一大拠点としてその名を知られたガルクレルフ、そこから内陸に二十マイルほど離れたところにあるこの山奥の廃村にアメリカ軍が捕虜収容所を開設したのは、アメリカ軍と南大陸連合軍が北大陸にその一歩を標してからおよそ半年後のことである。最初は十棟足らずの防水布をかぶせた丸太小屋だけだったこの収容所は、北大陸でアメリカ軍や南大陸連合軍が勝利をおさめるたびに拡張され、それに従って収容される捕虜の数もまた増えていった。そして収容所建設から一年がたったこの日、ここの住人であるおよそ五千人の捕虜たちのために『捕虜慰問団』の一つがここを訪れていたのである。
そのカマボコ型の建物の中からは陽気な音楽が流れてきていた。収容所の敷地内にある建物の中でも抜きん出て大きいそれは、元々は大型機のために設計された組み立て式格納庫であった。しかしこの収容所では講堂として普段は雨天時の運動場や様々な集会、そして定期的に行われる映画の上映会に使われている。この日、この巨大な建物の中に臨時に設けられたステージの上で二日前にこの収容所を訪れた『捕虜慰問団』の団員たちが演奏を行っていた。
その身なりはこの収容所にいる捕虜たちとさして変わりがない。唯一の違いは慰問団の団員であることを示す左腕に巻かれ、黒いインクで『SOP』の文字が印刷された白い腕章だけだった。そして彼らの手にある様々な楽器、あるものはシホールアンル帝国軍の軍楽隊が使っていた中古品であり、またあるものはかつて楽器職人だった捕虜たちがあり合わせの材料でこしらえた代物だ。
それを操る団員たちも軍で、あるいは娑婆で音楽に関わっていた者達だ。軍楽隊のラッパ手と鼓手、場末の酒場の雇われ楽士、中には貴族もいる。そして今、その年齢も経歴も様々な人間たちは『捕虜慰問団』の一員として団長の指揮のもと、明日行われる演奏会に向けて最後の練習を行っていた。
やがて演奏が終わり建物の中に静寂が戻ると、演奏中彼らの前にある指揮台の上で指揮杖を振りながら拍子をとっていた壮年の男が声をあげる。
その身なりはこの収容所にいる捕虜たちとさして変わりがない。唯一の違いは慰問団の団員であることを示す左腕に巻かれ、黒いインクで『SOP』の文字が印刷された白い腕章だけだった。そして彼らの手にある様々な楽器、あるものはシホールアンル帝国軍の軍楽隊が使っていた中古品であり、またあるものはかつて楽器職人だった捕虜たちがあり合わせの材料でこしらえた代物だ。
それを操る団員たちも軍で、あるいは娑婆で音楽に関わっていた者達だ。軍楽隊のラッパ手と鼓手、場末の酒場の雇われ楽士、中には貴族もいる。そして今、その年齢も経歴も様々な人間たちは『捕虜慰問団』の一員として団長の指揮のもと、明日行われる演奏会に向けて最後の練習を行っていた。
やがて演奏が終わり建物の中に静寂が戻ると、演奏中彼らの前にある指揮台の上で指揮杖を振りながら拍子をとっていた壮年の男が声をあげる。
「よーし今日はここまでだ。後片付けにかかってくれ」
その声を聞いた団員たちが演奏後の後始末を始める。
練習後のいつもの光景、ロイルズ・ロッセルト中尉はそれを指揮台の上から眺めていた。少年時代に一兵卒としてシホールアンル帝国軍の一員となり、若かりし頃は歩兵部隊でラッパ手を務め、その後たぐいまれな音楽の才能を上官に見出されて軍楽隊に転じた彼はこの中で二番目に年かさの人物であり、かつて軍で行われた軍楽隊同士の競技会で賞を貰ったほどの人物でもある。現在はこの『捕虜慰問団』、通称『ロッセルト楽団』の団長を務める彼の手にあるのは使い慣れた軍隊ラッパではなく、軍楽隊で用いられる指揮杖だった。
練習後のいつもの光景、ロイルズ・ロッセルト中尉はそれを指揮台の上から眺めていた。少年時代に一兵卒としてシホールアンル帝国軍の一員となり、若かりし頃は歩兵部隊でラッパ手を務め、その後たぐいまれな音楽の才能を上官に見出されて軍楽隊に転じた彼はこの中で二番目に年かさの人物であり、かつて軍で行われた軍楽隊同士の競技会で賞を貰ったほどの人物でもある。現在はこの『捕虜慰問団』、通称『ロッセルト楽団』の団長を務める彼の手にあるのは使い慣れた軍隊ラッパではなく、軍楽隊で用いられる指揮杖だった。
「団長」
指揮台の上から団員の様子を眺める彼に声がかけられる。ロッセルトがそちらを見やると心配するような表情を浮かべた団員が数名こちらを見ていた。
「アメリカ兵たちが話しているのを小耳に挟んだんですが、今回の演奏会はうちと『交流団』から来た連中が共演する形になるって本当ですか?」
「ああ、そうだ」
「ああ、そうだ」
その一声にステージの上がざわついた。ざわめきはやがてアメリカ側に対する不平不満という形で言葉となってゆく。
「アメリカ野郎ども、自分たちの凄さを見せつけるためにあたしらをダシに使う気だね」
「みすぼらしい俺達ときらびやかなアメリカ人ども、さぞかし見ものだろうな…くそっ!」
「みすぼらしい俺達ときらびやかなアメリカ人ども、さぞかし見ものだろうな…くそっ!」
そんな団員たちに向けてロッセルトはことさら陽気な表情を作って呼びかける。
「アメリカ人が何を企もうと俺達のやることは決まっている。戦友たちのために最高の演奏をする、それ以外のことはおまけでしかない。そうだろう?」
その一声で舞台上の空気は落ち着きを取り戻す。
アメリカ側の手により衣食住全て不自由していない捕虜たちではあるが、それ故自分たちが囚われの身であるということを強く意識していた。腹は満たされ、暖かな衣服をまとい、雨風をしのぐ住処もある、しかし自由はない。何より自分たちは敗者である。故郷を遠く離れた異郷の地で異世界からやってきた国の軍隊に敗北を喫し、その虜となっているという現実は捕虜収容所で暮らす全てのシホールアンル軍人にとって癒えない傷のもたらす痛みのような存在だった。
その痛みに苦しむ戦友たちの心を自分たちの音楽で癒す、それが我らの役目。この慰問団が結成された時ロッセルトは団員たちの前でそう宣言し、団員たちもまた誓いを立てた。
久方ぶりにそのことを思い出した団員たち。彼らは互いに顔を見合わせて明日の演奏会で自分たちの最高の演奏を行うことを誓い合うと、再び後始末にかかった。やがて楽器がケースに収められ、ステージの上が綺麗に片付いた頃、彼らの耳に建物の入口の扉が開かれる重々しい音と複数の足音が響く。捕虜収容所を運営するアメリカ兵たちだ。その先頭に立つ指揮官と思しき顔に切り傷のある男が怒鳴る。
その痛みに苦しむ戦友たちの心を自分たちの音楽で癒す、それが我らの役目。この慰問団が結成された時ロッセルトは団員たちの前でそう宣言し、団員たちもまた誓いを立てた。
久方ぶりにそのことを思い出した団員たち。彼らは互いに顔を見合わせて明日の演奏会で自分たちの最高の演奏を行うことを誓い合うと、再び後始末にかかった。やがて楽器がケースに収められ、ステージの上が綺麗に片付いた頃、彼らの耳に建物の入口の扉が開かれる重々しい音と複数の足音が響く。捕虜収容所を運営するアメリカ兵たちだ。その先頭に立つ指揮官と思しき顔に切り傷のある男が怒鳴る。
「おいシホット共、そろそろ時間だ。道具を持ってさっさと並べ!」
その声に立ち上がり、楽器を持ってステージを降りる団員たち。アメリカ兵たちが見る前で横一列に並び、点呼を取られた後それぞれの持つ楽器を調べられ、身体検査を受ける。それが終わるとアメリカ兵たちの監視のもと、かさばる楽器を載せた手押し車を先頭に列をつくって宿舎まで移動する。ここでも、そしてこれまで慰問のために訪れてきた他の収容所でも何度も受けてきた『儀式』だ。一日に何度も行われる点呼、事あるごとに行われる身体検査と所持品検査、監視付きでの移動。どれも気は滅入るが自分たちが捕虜である以上受け入れるしかない仕打ちである。
そんな彼らには他の捕虜との不必要な接触を避けるため、それほど大きくない建物がまるごと宿舎として当てがわれていた。本来は風邪などの軽い病気にかかった者や軽い罰を受けた者を隔離するための建物である。その建物の前に一列に並び、再び点呼を取られる彼ら、それが終わると皆で建物の中に楽器を運び込み、手押し車を建物のそばにある物置にしまい込む。最後に全員が建物の中に入ると彼らを護送してきた兵士が入り口を閉め、鍵をかけた。
これから明日の朝、演奏会に参加するためにこの建物を出るその時まで彼らはここから出ることは出来ない。また楽器を調べられた時に楽器を収めた袋やケースには封印が施され、取り出して演奏することが出来ないようにされている。そんな屈辱的な仕打ちを受けながらも彼らは皆、耐えていた。
自分たちの演奏をアメリカ人たちに見せつけるため、そして何より戦友たちの傷ついた心を癒やすために。
自分たちの演奏をアメリカ人たちに見せつけるため、そして何より戦友たちの傷ついた心を癒やすために。
そして演奏会当日、捕虜たちで一杯になった講堂、その一角に設けられた舞台の上では『交流団』に所属する楽団が演奏を行っていた。ピカピカに磨き上げられた楽器を持ち、揃いの衣装を身につけた彼らが演奏するのは陽気でリズミカルなジャズである。演目がひとつ終わるごとに観客である捕虜たちは拍手をし、賞賛の言葉を投げかけた。中にはどこで習い覚えたものなのか指笛を吹く者すらいる。
そしてそれを舞台の袖から眺める『ロッセルト楽団』のメンバー、彼らの顔には複雑な表情が浮かんでいた。きらびやかな衣装と立派な楽器に対する羨望、異世界の未知の音楽に対する興味、そして何より同胞たちが舞台上にいる敵国の楽団を賞賛しているという事実。どれも彼らには認め難く、そして受け入れざるをえない現実だった。
そんな眼前の光景に圧倒され、本番を前に萎縮しかけている団員たちを見回したロッセルトは声を張る。
そしてそれを舞台の袖から眺める『ロッセルト楽団』のメンバー、彼らの顔には複雑な表情が浮かんでいた。きらびやかな衣装と立派な楽器に対する羨望、異世界の未知の音楽に対する興味、そして何より同胞たちが舞台上にいる敵国の楽団を賞賛しているという事実。どれも彼らには認め難く、そして受け入れざるをえない現実だった。
そんな眼前の光景に圧倒され、本番を前に萎縮しかけている団員たちを見回したロッセルトは声を張る。
「どうしたお前ら、戦う前から尻尾を巻いて逃げる気か?あの時の誓いは口先だけか?戦友たちが待っているんだぞ」
彼の叱咤に強ばっていた団員たちの顔に輝きが戻る。それを確かめたロッセルトは再び舞台上の楽団、その中でもとりわけ目立つ一人の男に視線を戻した。秀でた額に尖り気味の顎、年齢は三十代半ばといったところか、大きなレンズの眼鏡が目を引く。だが何より注目すべきはその演奏技術だった。銀色の金具が目立つ黒い縦笛――クラリネット――を手に、時に拍子を取り、またある時は巧みな演奏を見せるその人物を彼はただひたすら見つめていた。
(敵国の人間だが、素晴らしい音楽家だと言うしかないな)
自分たちの祖国と仲間たちの演奏技術に対してなみなみならぬ誇りを持っているロッセルトではあったが、そんな彼でさえ眼前の人物の演奏技術には文句のつけようがなかった。
やがて演奏が終わり、幕が下りる。演奏していたアメリカ人たちが楽器を手に舞台を降りていくのを見届けると、ロッセルトは団員たちを振り返り、声をかけた。
やがて演奏が終わり、幕が下りる。演奏していたアメリカ人たちが楽器を手に舞台を降りていくのを見届けると、ロッセルトは団員たちを振り返り、声をかけた。
「さあ出番だ。戦友たちのためにもみっともない演奏はするなよ」
「はい、団長!」
「はい、団長!」
張りのある声で一斉に返答する団員たち。その声を聞き届けるとロッセルトは団員たちの先頭に立ち、舞台の上へと足を踏み出した。
アメリカ人どもが何を考えていようがどうでもいい、俺達の最高の演奏を見せてやる。
そして彼らは舞台上に立ち、その時を待った。幕が上がり、講堂いっぱいに詰め込まれた観客たちの姿が目に入る。
アメリカ人どもが何を考えていようがどうでもいい、俺達の最高の演奏を見せてやる。
そして彼らは舞台上に立ち、その時を待った。幕が上がり、講堂いっぱいに詰め込まれた観客たちの姿が目に入る。
「只今の演目は『ワイバーン乗りの唄』でした。皆様、我らが『ロッセルト楽団』にどうか惜しみない拍手を!」
司会者の口上、響き渡る拍手、だが団員の誰もそんなことは存在しないかのように冷静に振る舞い、次なる演目に向けて準備をしていた。その姿をロッセルトは指揮台の上から眺める。彼もまた大舞台に立った者特有の静かな興奮状態にあり、雑念や肉体的な疲労といったものから『解放』された状態にあった。
幕が上がってから一時間近く演奏を続けてきた団員たちは疲れた様子も見せずに楽器を点検し、目の前の楽譜をチェックしていた。ロッセルトもまた目の前の譜面台に載せられた楽譜をめくり、次に演奏する曲のページを開き、曲のタイトルを確かめる。
幕が上がってから一時間近く演奏を続けてきた団員たちは疲れた様子も見せずに楽器を点検し、目の前の楽譜をチェックしていた。ロッセルトもまた目の前の譜面台に載せられた楽譜をめくり、次に演奏する曲のページを開き、曲のタイトルを確かめる。
『あの樹の下で』、今回の演奏会で最後に演奏する曲だ。曲の内容は出征する兵士が恋人に再会を約束するというもので、シホールアンル帝国軍の将兵ならば誰でも知っているものである。この曲が世に出た当時はそのセンチメンタルな歌詞と悲しげな曲調ゆえに酷評されたが、このいつ終わるかもわからぬ戦争、その過酷な最前線において戦い続けてきた兵士たちにとっては無くてはならない曲だった。
司会者が曲名を告げる、その声を背中で聞きながら団員たちの様子を一人ひとり確かめるロッセルト。皆リラックスしており、この演奏会最後の演目を前にしても疲れも焦りも見せていない。やがて司会者の口上が終わると、講堂の中は静まりかえった。
そしてロッセルトは右手の指揮杖をおもむろに振り上げ、振り下ろす。
演奏が始まった。
司会者が曲名を告げる、その声を背中で聞きながら団員たちの様子を一人ひとり確かめるロッセルト。皆リラックスしており、この演奏会最後の演目を前にしても疲れも焦りも見せていない。やがて司会者の口上が終わると、講堂の中は静まりかえった。
そしてロッセルトは右手の指揮杖をおもむろに振り上げ、振り下ろす。
演奏が始まった。
”この美しい日に僕は旅立つ、兵士となってここから旅立つ、愛しい君よ泣かないでくれ、笑って僕を見送ってくれ”
ゆるやかな旋律に乗って歌が流れる、楽団の中でも歌が上手い者が楽器を置き、歌っているのだ。しかしそれだけではない、観客たちの中にも歌うものがいた。たいていの収容所ならばこのようなことをする者は監視しているアメリカ兵たちに問答無用で連行された上、何らかの懲罰を与えられるのだが、この収容所の監視体制はそれほど厳しくないようだ。
”営門の前のあの樹の下、いつも待ち合わせたあの樹の下、帰ってきたらまた会おう、あの樹の下でまた会おう”
順調な演奏、これがこの演奏会で最後の演目となるだけに皆真剣だ。だがその時、ブツン、と鈍い音が聞こえた。
廃材を削った胴に細い針金と撚り合わせた糸で作られた弦を張った竪琴、その弦が酷使に耐え切れず数本まとめて切れたのだ。この曲にとって欠かせない楽器である竪琴が使えなくなったことにより、それまで落ち着いていた演奏が、そして歌声が乱れる。とっさに指揮杖を振って混乱を収集しようとしたロッセルトだが、一度乱れた演奏を元通りにすることは出来なかった。
廃材を削った胴に細い針金と撚り合わせた糸で作られた弦を張った竪琴、その弦が酷使に耐え切れず数本まとめて切れたのだ。この曲にとって欠かせない楽器である竪琴が使えなくなったことにより、それまで落ち着いていた演奏が、そして歌声が乱れる。とっさに指揮杖を振って混乱を収集しようとしたロッセルトだが、一度乱れた演奏を元通りにすることは出来なかった。
(なんてこった、最後の最後でこんなことになるとは……!)
あまりにも残酷な展開にロッセルトの顔が悲しみにゆがむ、団員たちもまた同様だ。だがその時、彼らの耳にやわらかな調べが聞こえてきた。アメリカ人たちが使うクラリネットの音色だ。目だけを動かして音色が聞こえてくる方を見やるロッセルト、そこにはあのクラリネット奏者のアメリカ人の姿があった。
思ってもいない出来事に目を見開くロッセルト。そんな彼に心配するな、と目で合図したクラリネット奏者の背後からアメリカ人たちが次から次へと現れ、団員たちと入り混じる形で舞台上に並んでゆく。思ってもみない展開に驚く団員たちの肩を軽く叩き、心配するなとでも言うかのように笑いかけるアメリカ人たち。そして彼らは団員たちとともに演奏し、歌い始めた。
思ってもいない出来事に目を見開くロッセルト。そんな彼に心配するな、と目で合図したクラリネット奏者の背後からアメリカ人たちが次から次へと現れ、団員たちと入り混じる形で舞台上に並んでゆく。思ってもみない展開に驚く団員たちの肩を軽く叩き、心配するなとでも言うかのように笑いかけるアメリカ人たち。そして彼らは団員たちとともに演奏し、歌い始めた。
”凱旋の日まで待っていてくれ、僕の帰りを待ってておくれ、そして再び会えたなら、永遠(とわ)に愛そう、君のこと”
最後のフレーズが終わる、だがロッセルトは指揮杖を振るうことを止めない。
(もう一度だ、もう一度やるぞ!)
右手の指揮杖を振りながら空いている左手でそう指示を出すロッセルト。団員たちが、そしてアメリカ人たちが頷く。
再び繰り返される同じフレーズ、しかしその内容ははるかに豊かなものだった。それぞれ違う世界で生まれた人間たち、本来は敵味方である人間たちが一つの曲を力を合わせて演奏し、声を合わせて歌う。奇跡としか言いようのない眺めだった。そしてそれを観る捕虜たちも、彼らを監視する兵士たちも、いつしか声を合わせて歌っていた。敵味方という違いはあれど、皆故郷に恋人や家族を残してきていたのだ。
やがて演奏が終わり、講堂に静けさが戻る。次の瞬間、割れんばかりの拍手の音が講堂を満たした。舞台上では団員たちとアメリカ人たちが抱きあったり、あるいは握手を交わしたりしている。そこには敵も味方もなく、ただ音楽を愛する人々のみがいた。そんな光景が繰り広げられている舞台上を横切って指揮台に近づくクラリネット奏者、ロッセルトもまた指揮台を降りて彼を出迎える。やがて二人は対面し、どちらからともなく手を差し出し、固い握手を交わした。
クラリネット奏者が口を開く。
再び繰り返される同じフレーズ、しかしその内容ははるかに豊かなものだった。それぞれ違う世界で生まれた人間たち、本来は敵味方である人間たちが一つの曲を力を合わせて演奏し、声を合わせて歌う。奇跡としか言いようのない眺めだった。そしてそれを観る捕虜たちも、彼らを監視する兵士たちも、いつしか声を合わせて歌っていた。敵味方という違いはあれど、皆故郷に恋人や家族を残してきていたのだ。
やがて演奏が終わり、講堂に静けさが戻る。次の瞬間、割れんばかりの拍手の音が講堂を満たした。舞台上では団員たちとアメリカ人たちが抱きあったり、あるいは握手を交わしたりしている。そこには敵も味方もなく、ただ音楽を愛する人々のみがいた。そんな光景が繰り広げられている舞台上を横切って指揮台に近づくクラリネット奏者、ロッセルトもまた指揮台を降りて彼を出迎える。やがて二人は対面し、どちらからともなく手を差し出し、固い握手を交わした。
クラリネット奏者が口を開く。
「素晴らしい指揮でした、よろしければお名前をお聞かせ願いたいのですが?」
「ロイルズ・ロッセルトといいます。あなたは?」
「ベニィ・グッドマンといいます」
「ロイルズ・ロッセルトといいます。あなたは?」
「ベニィ・グッドマンといいます」
しばしの間沈黙する二人。その沈黙を破って言葉を発したのはグッドマンだった。
「この戦争が終わったら、またお会いしたいのですが…」
「どんなことがあっても会いに行きますよ、必ずね」
「どんなことがあっても会いに行きますよ、必ずね」
そう言って観客の方を向き、グッドマンの肩を抱いて指揮杖を高々と掲げるロッセルト、グッドマンもまたクラリネットを掲げた。若干弱まりかけていた拍手の音が再び大きくなる。
講堂の片隅で席を立ち、拍手をしていた捕虜の一人がそばのアメリカ兵に話しかけた。
講堂の片隅で席を立ち、拍手をしていた捕虜の一人がそばのアメリカ兵に話しかけた。
「敵国の楽団の手助けをするなんて…あれほどの善人は初めて見るよ」
「あの人はまさしく『善き人』(グッドマン)だからな。生まれや育ち、見かけで相手のことを差別したりはしないのさ。ましてや同じ音楽家なんだ、困っているのなら敵国の人間であろうと助けるのがあたりまえだよ」
「あの人はまさしく『善き人』(グッドマン)だからな。生まれや育ち、見かけで相手のことを差別したりはしないのさ。ましてや同じ音楽家なんだ、困っているのなら敵国の人間であろうと助けるのがあたりまえだよ」
そう答える黒い肌のアメリカ兵、二人の男は肩を並べて壇上の光景を長い間見つめていた。
奇跡を起こした舞台上の二人の音楽家、戦後彼らはこの世界においてかつて敵同士だった国々の交流と音楽の発展に大きな役割を果たすことになるのだが、それはまた、別の物語である。
外伝『彼の名は「善き人」』 完