リンド王国海軍フリゲートのエリルファゼイ号がリンド王国の港を出航して1週間。
太陽が天高く昇る快晴で、風も波も穏やかな日であった。
「船が見える! 帆船ではありません!」
マストの上で見張りをしていた水兵が、望遠鏡越しに水平線を指差す。
その声に艦長をはじめ主だった士官達が指差す方向を見定め始めた。
「あれは皇国艦ではないか?」
煙を吐いて航行する帆の無い船といえば、皇国艦以外にありえない。
望遠鏡を覗きこんだ艦長には、すぐにそれが皇国の軍艦であるとわかった。
「そのようです。迂回しますか?」
砲術科の若い海尉が艦長に確認した。『皇国艦があれば、すぐに戻って本部に知らせる』のが任務だったからだ。
だが、海尉の進言は即座に却下された。
「いいや、仕掛ける」
「しかし元帥のご命令では、皇国の軍艦との戦闘は避けるようにと」
リンド王国の哨戒艦艇に与えられた任務は海域の監視と皇国商船の拿捕であって、軍艦との対決は禁じられていた。
「向こうの大砲は何門だ」
「艦長!」
「答えたまえ。皇国軍艦の大砲は何門だ?」
海尉は望遠鏡を覗き込むと、敵艦の大砲を数え始めた。
しかし、それもすぐに終わる。
「……見る限りでは、砲窓がありませんので、艦上にある旋回式と思われる砲が5門です。
他に据付けの小銃が数丁。以上です」
「ではこちらの大砲は何門だ?」
「36門です。片舷では16門ですが……」
「36門と5門、勝つのはどちらだ? そうそう、こちらは優秀な狙撃術を持った海兵も乗っているな」
「艦長、皇国軍艦の大砲の性能は、我が艦の大砲と比べ物にならないという……」
「そのような、腰抜け共がでっち上げた信憑性に欠ける情報を鵜呑みにすることはできん」
「しかし……あの艦の砲の大きさはここからでもハッキリと見えます」
「こけおどしに決まっている。あのように大きすぎる大砲は実戦では使い物にならんのだ。よく覚えておきたまえ」
「艦長……」
「元帥は慎重すぎるのだ。常勝提督という渾名は、単に危ない橋を渡らなかった結果に過ぎない。
ノーリスクノーリターンの戦法だ。だが私は、ローリスクハイリターンを心がけている。
第一、こちらが発見したという事は敵に発見されている可能性も高い訳だが?」
「ですから、逃げるなら早くすべきです。そうすれば悪天候に紛れて姿を眩ます算段も付きます」
「逃げるだと? 誇り高きリンドの艦長が、そのような命令を下す筈が無かろう」
エリルファゼイ号が遭遇した皇国艦――駆逐艦江風――は4000mの距離から砲撃を開始した。
発射された5発の12.7cm砲弾のうち3発は目標を外れたが、2発がエリルファゼイ号の至近に弾着、同艦を大きく揺さぶった。
「たった5門で、しかもこの距離で初弾から至近弾か!」
「やはりあの大砲はこけおどしではありませんでした」
「そのようだな。敵ながら天晴れ、面白くなってきたではないか」
そもそも、命中精度を問わずとも20シウスという距離を砲弾が飛ぶというのが驚きであった。
だが、そのような驚きを内心に留めたのが艦長なりの配慮であったのだろう。指揮官はどんな時でも動じてはならないのだ。
しかし艦長の強気に水を指すように、第2斉射のうち1発が命中、エリルファゼイ号の前部砲列を薙ぎ払った。
「被害は!」
「大砲3門大破、13人死亡、他二十数人が重傷!」
「一撃でこれか」
「敵は炸裂弾を使っています。このままでは!」
「まぐれだ! いいか、大砲というものは、そうそう当たるものではない。
特にこんな距離ではな。だが、接近して舷側から斉射を行えばどうだ!」
「……敵を打ち倒す武器になります」
「そうだ。だから敵艦に突撃するのだ。半シウスの距離まで詰めてからが本番だ。
半シウスの距離まで接近し、舷側の大砲で蹴りを付ける! 海兵の活躍の場も増えるだろうな」
「敵との距離は20シウスです。船体の一部を破壊されて、あと19シウス半も距離を詰めるのは不可能です。
接近すれば敵の砲撃精度も増すでしょうから、その前にこちらが沈没します。こうなったら降伏すべきです、艦長」
海尉の必死の説得が、艦長の感情を逆撫でさせた。
「うるさい、艦長は私だ! 決断は私がする! 君は自分の立場を弁えていないようだな!」
「私は、立場を弁えた上で艦長に提案をしています。このままでは危機的な状況に陥りかねないと……」
「それがいかんと言うのだ。まだ経験も浅い海尉の判断と、経験豊富な艦長の判断はどちらが正しいか解かっておらん。
敵は既に十数発撃ってきているが、まだ命中は一発だ。恐るるに足らん。
そんな敵を恐れることよりも、攻撃精神だ。攻撃こそ、将兵の士気を鼓舞し、規律と秩序と忠誠を生み出す。
陛下のご命令は、そのような“もののふ”の立場からのものからではないからな。致し方無い。
損害を恐れては敵に立ち向かうことはできない。この程度の損害は織り込み済みだ」
「では、陛下のご命令に背くのですか!」
「そうではない。陛下は損害を嫌っておられるが、それ以上に勝利を望んでもおられる。
我々は陛下に勝利を献上するだけだ。解かったか? 解かったら持ち場に戻れ」
「……はい、艦長」
(確かに敵の命中はまぐれかもしれないが、そのまぐれを引き出した砲術は本物だ。
狙いが不味ければ、どんな幸運が重なったって当たりはしない。それは艦長も解かっているはずだ!)
エリルファゼイ号の艦長の突撃命令から数刻。
江風の砲撃は数回の夾叉とさらに2発の命中を得ていた。
対するエリルファゼイ号はまだ何の戦果も得ていない。
何となれば、4000mの距離からそれ以上接近できないからだ。
「艦長、敵は9マーシュに増速しました。これでは追いつくのは不可能です」
「うむ……」(馬鹿な、距離は20シウス以上ある。それでこの砲撃精度は……)
「艦長、降伏致しましょう。これではなぶり殺しです」
「いや、降伏はまかりならん」
「何故ですか!」
「陛下からお預かりしたこの艦を、みすみす敵に明け渡せというのか?
降伏して拿捕されるくらいならば、自沈もやむをえまい」
「それでは、艦長や他の乗組員はどうなるのです」
「…………」
「艦長!」
「文明国ならいざ知らず、あのような野蛮な敵の捕虜になるくらいならば
死を選ぶのがリンドの騎士だ。それは皆も同じだろう」
艦長と海尉が議論している間にもさらに数発の命中があり、エリルファゼイ号は
船体が破壊され浸水が止まらず、マストも破壊され航行もままならず、
ただ船の形を保つだけで精一杯の浮かべる墓場と化していた。
「艦長もご存知でしょうが、皇国軍は降伏の際には軍旗を降ろし、白い旗なり布切れなりをかざして振れと」
「知らん。そんな方法で降伏を示すなど、聞いた事も無い」
「将校であれば、当然ご存知のはずでは? 皇国軍からの宣戦布告の文書に……」
「降伏を示すときには、軍旗と一緒に軍服をかざすのが流儀であろう。
しかも軍旗を降ろせだと? 旗を降ろすのは降伏を受け入れた敵に渡す時だけだ。
敵に渡すより前に軍旗を降ろせば、秩序だった降伏が行えないではないか!
そんな訳の解からぬ方法で降伏したとなれば、恥の上塗りだ」
「確かに、我々の常識ではそうでしたが……
今、圧倒的に優勢な皇国の流儀では軍旗を降ろして白い布をかざすものなのでしょう。
幸い、我々の手元にはハンモックや白い帆の切れ端があります。これを振れば、皇国は……」
「そんなに振りたいのならば、貴官が自分の軍服を竿に付けて振れば良かろう。ただし、その前に私は自沈を命じるがね」
「艦長!」
「もうこの艦は終わりだ。だから私と諸君等はここで散る。これは騎士としての名誉の――」
言いかけた艦長が、その続きを発することは永遠に無かった。
後甲板に響いた銃声は、勿論皇国軍のものではない。
「か、海尉……!?」
甲板上は騒然となる。
至近距離から引き金を引いた海尉の軍服は返り血に染まっていた。
自らの職務をこなしながらも、事の顛末を聞いていた副長はすぐさま命令を出す。
「艦長は名誉の戦死を遂げられた……海尉は士官室で謹慎の事。その後の処置は追って命ずる。
海兵隊長、海尉を拘束し、士官室へ閉じ込めておけ」
「艦長、敵艦の甲板が慌ただしいです」
「それはそうだろう。これだけ撃ちまくられて慌ただしくない訳が無い」
「いえ、そういうものとは違うようで、様子が変です」
「様子が変?」
水雷長の言葉に、艦長を始め艦橋に詰めていた士官達はリンド製の数倍の性能を誇る双眼鏡を覗き込む。
「おい、奴ら服を脱いで振ってるぞ。軍艦旗の旗竿にも軍服を!」
「何だって? 軍服を振ってるということは……」
「艦長! 服を脱いで振るのは、この世界での降伏の意思表示です。砲撃を止めましょう」
誰もが直感したことだが、先に声を出したのは航海長だった。
もう決着は付いているも同然で、これ以上の戦闘は弾と油の無駄だと誰もが思い始めていた矢先である。
「そうだな。確かにそのとおりだ」
「では、砲撃中止を?」
「まあ待て、リンド王国には、降伏の際は軍旗を降ろし、白旗を振れという文書が渡っているはずだな?」
「はい。宣戦布告文書を交わす際に、確かに渡っているはずです」
「何故、勝っている我々が負けているリンド王国のやり方で降伏を受け入れねばならんのだ?
少なくとも我々は、負け戦の時は敵の流儀に従って軍旗と共に士官の軍服を振れと教わったが」
「しかし、そのような理屈で戦闘を長引かせても、得るものは何も……」
「もし、お互いのそのようなやり方を知らないのであれば、それは士官、国王の怠惰だ。
リンド王国はお互いに交わした約束も守れない、統制の取れていない軍隊ということになる」
「……仰るとおりです」
「敵が軍旗を降ろして白旗を振るまでは、砲撃は続ける」
「どういうことだ! 敵は俺達を全員殺すまで戦を止めないのか!」
「これだけ多くの軍服を振って、気付かないわけがない。やはり野蛮人だった!」
水兵達の悲痛な叫びがエリルファゼイ号の甲板を覆っている。
皇国軍は、既に投了した相手の全ての駒を盤上から取り除くまで将棋を止めない棋士の如きだ。
そんな野蛮なこと、人間ならばするはずが無いのだ。相手が投了したら、そこで将棋は終わるように。
しかし、現実は違った。
「駄目なのか。皇国は、降伏すら受け入れないというのか!」
「副長、皇国流の方法でやりましょう。ここまで来たら何の躊躇うことがありますか」
「全ての帆を畳んで艦を停止。全ての旗を降ろし、白いものを何でも……
そうだな、あそこに落ちている大きな帆の切れ端を振るように命じろ」
「艦長、敵艦が停止し、軍旗を降ろして白旗を!」
「砲撃中止」
「了解。撃ち方止めー!」
「収まった……」
副長は生き残り全員を甲板に集めると、檄を飛ばす。
「さて、私と諸君等は皇国の捕虜となるわけだが、その際は文明国を
相手にしたリンド王国の将兵としての振る舞いを期待する」
甲板上には何故だ、野蛮人は野蛮人だ、皇国クソ食らえ、などと怒号が響く。
拿捕するために近づいてきたところを不意打ちしてやれという声さえあった。
「無線は通じんし、信号旗も手旗もモールスも通じないとなると、文字にするしかあるまい。
こんな時の為に文字表と単語帳も持っておくものだな。情報部はこの短期間によく調べてくれた」
「何と書きましょうか」
「これと、これと、これと……これだ。順番は今示したとおりだ。簡単な文だが、解かるだろう」
艦長がリンド語辞書を片手に指差した単語は、『全員』『抵抗』『許す』『ない』。『全員の抵抗を許さない』。
少しぎこちないが、短い文章で威圧感も出るかもしれない。
リンド語の辞書を手渡されて1週間の艦長に、流暢な文章など無理な話だった。
「水雷長。陸戦隊を組織して敵艦に移乗、降伏を確認し、合わせて武器類、艦長の軍刀と軍旗の没収を行え」
「了解しました」
「もうあの船は沈没寸前で航海はできんだろう。捕虜は江風で飛鳥丸に運ぶからそのようにな、水雷長」
「はい。捕虜は江風に移送させます」
「拡声器で敵に知らせろ。
これからこちらの将校が乗艦して降伏を確認するから、くれぐれもおかしな真似はするなと。
機銃は敵の乗員を、砲は敵艦の喫水線を狙っておけ。この距離なら外すまい」
水雷長の木村大尉を含めた25人の陸戦隊が乗り込んだエリルファゼイ号の最上甲板は、死体か呆然とした将兵しかなかった。
他の下士官や水兵が何の行動も起さない中、木村大尉の前に一人の将校が歩み出てきた。
「エリルファゼイ号副長の、リッドン准海佐です」
「私は木村大尉です。艦長は?」
「艦長は……戦死なされました」
言いながら、後甲板の艦橋を見る。
「そうですか。では貴方がこの艦の指揮官という事ですね?」
「はい。副長の私が、臨時の艦長です」
「では軍刀をお渡し願います」
指揮官(今回の場合は副長)が軍刀を敵に渡すという光景を見せ付けられた下士官兵達は、
やっと自分達が負けたのだという事を理解したようで、先程まで不意打ちしてやれ
などと言っていたのが嘘のように、その場にへたり込んでしまう水兵もいた。
「これでこの艦は我々が名実共に制圧しました。艦の乗組員が変な真似を起さぬよう、徹底させて下さい」
「了解しています」
「宜しく頼みます。それで、この艦は航行可能ですか? 見た所、船体にかなり損傷があるようですが」
「貴艦が曳航して下さるのであれば……」
「自力では?」
「ほぼ無理です。艦搭載の全カッターでもって曳航する事は
不可能ではありませんが、速度が出ません。それでも宜しければ」
「あまり宜しくありませんね。我が国の軍艦は航海の速度を重視していますから。
では、乗組員で生きている将兵全ては、我々の艦に移乗して貰います。
死者は、この場で水葬して貰います」
「解りました。部下への通達と戦死者の水葬に少々時間がかかりますが、ご容赦を」
死者を水葬し、助かる見込みが無い程の重傷者に止めを刺し終えると、
エリルファゼイ号の将兵は江風へと乗り込んだ。
駆逐艦江風は平均16kt(≒7.4マーシュ)という速度でユラ沖に停泊する飛鳥丸へと急いだ。
飛鳥丸は臨時の捕虜収容所となっている客船で、詰め込めば最大で2500人以上の捕虜を収容可能な中型船である。
ユラ神国は、自国の領内に皇国軍の捕虜収容所を建設することを拒んだため、
皇国は仮の捕虜収容所として客船、貨客船を派遣しているのだ。
リンド王国の将兵は駆逐艦よりもさらに巨大な客船に目を回していたが、ユラの住民はもう見慣れたようで、
ユラ神国各地からの見物客は未だに現れるが、ユラ住民は平穏を取り戻しつつあった。
そのための客船の数は、週に4隻の割合で増えている。
現在、ユラ沖に投錨している貨客船は全部で12隻。
何れも国内、国際航路で使われていた5000総トン以上の優良船であるが、
皇国が持つ客船、貨客船、貨物船の総トン数から見れば、
合計7万総トン程度の客船の派遣など本来であればどうという事は無い。
だが、今は燃料事情が逼迫している最中である。
石炭専焼船だから石油の負担は無いとはいえ、石炭は石炭で国内の発電や製鉄、
船舶や鉄道の運行等に不可欠な燃料であって、無駄にして良いものではない。
問題はどの客船を派遣するかではなく、いつ捕虜が返還出来るかだ。
通常は、捕虜交換というものでお互いの捕虜を戻すわけだが、
皇国軍将兵は誰一人リンド王国に捕虜を出していないので、“交換”が出来ない。
リンド王国が金銀と交換に捕虜返還を要求してくる事もなかった。
皇国は大量の捕虜の“在庫”を抱えながら、東大陸でも四苦八苦していた。
西大陸では、最近やっとライランス王国の全ての捕虜の返還が終わり、身代金の500万リルスが支払われたばかりだ。
ライランス王国軍の捕虜の数は将兵合わせて約7万人。平均すると1人あたりの身代金は71.5リルス。
1人あたりの1日平均では24シアルという数字だが、皇国が捕虜収容所を運営するのに要した金額が、
1日あたり約1リルスであった。つまり1日で1人あたり4シアルの“儲け”が出た。
1人あたり平均2ヶ月の運営で最終的な“黒字”は84万リルスに上った。
84万リルス。
小麦なら1kgが約4ルーブなので約42万トン分の価値、ライ麦ならその倍近い約80万トン分の価値だ。
世界最大の農業国であるユラ神国の年間小麦生産量が約800万トンだから、42万トンならその5%強である。
1人が1日あたり小麦のパンを300g消費すると考えれば、8000万人でも約半月分の食糧になる。
ユラ神国から40万トン、その他に東大陸の5ヶ国から20万トンずつ輸入して合計140万トンの目途が付けば、
西大陸の3ヶ国から輸入された60万トンと合わせて200万トンになり、約2~3ヶ月分のパンが確保出来る。
それに今年生産された米900万トンを合わせれば、何とか今年を乗り切れる計算になる。
ただし、必要カロリーを満たすには米やパン以外に多くの肉や魚を食べる必要があり、
さらに米を原料とする日本酒の生産が大幅に圧縮される事になるが。
皮算用ではあるが、とにかく計算上は皇国民は餓えずに済むのである。
しかも、ユラ神国からの小麦の購入金額は実質タダでだ。
リンド王国の捕虜からこの半分の40万リルスの“黒字”が出るとすれば、
さらに西大陸のイルフェス王国からの購入分がチャラになる。
だが、戦争に敗北しない限り、リンド王国は捕虜の身代金は払わないつもりだろう。
とにかく、今はリンド王国を降伏させ、ユラ神国との結束を固める事だ。
捕虜の身代金は、言わばおまけのようなものと考えても良いだろう。
ライランス王国からの賠償金2億5000万リルスと1億デュカのうち、今年度分の1250万リルスと
500万デュカが手に入れば、東西両大陸から輸入される食糧分の購入資金を補ってまだ余りあるのだ。
それでも戦費が嵩んだので今年度分の収支は実質マイナスになるが、20年間滞りなく
賠償金が払われると仮定すれば、毎年各国から500万トンの食糧を輸入しても十分に黒字の計算になる。
その頃には、神賜島での農業生産が軌道に乗って、毎年500万トン以上の米を
生産しているはずだから、主食としての穀物の輸入は必要なくなる。
皇国は、このような計画で東西大陸と貿易を行おうとしていたが、現状では今年度で輸入したい
食糧のうち2万トン程しか輸入されていないし、ライランス王国からの賠償金も入ってきていない。
特に食糧の輸入が滞っているのは、相手国の港の荷役能力の限界のためであった。
皇国が1万総トンの貨物船で乗り付けても、イルフェス王国最大の港で捌ける量は1日で500トン程度なのだ。
勿論、皇国船以外の船を含む全ての船の合計が500トンであるから、皇国船だけに
限って見れば、1日で全体の半分にあたる250トンも積めれば良い方である。
港の浚渫も、喫水の深い皇国船にとっては不十分なので、
母船は沖合いに待機し、短艇でえっちらおっちら物資を搬入せねばならない。
気の遠くなるような作業で、皇国の首脳も全く考えもしていなかった重大な穴である。
元世界でアメリカやイギリスと貿易していた時には、2万総トンの商船でさえ
不足を感じる事があったのに、この世界では大きすぎて小回りが利かない。
皇国の首脳陣は、イルフェス王国等この世界“列強”の港に、皇国の一般的な貿易港と同等の能力を期待していた。
“列強”という言葉に惑わされたとも言えよう。
“列強”とは言っても、元世界の18世紀程度の“列強”なのである。決して20世紀のそれではない。
何故、こんな単純な事に誰も気が付かなかったのかを問うても今更仕方が無い。
皇国は、帳簿の上ではイルフェス王国から40万トンの食糧を輸入している。
実際、イルフェス王国の玄関口であるシュテーフ港には、各地から集められた皇国向けの食糧が山と積まれている。
その量は、およそ5万トン。
イルフェス各港、その他2国の貿易港8ヶ所合わせれば、30万トン近い食糧が既に港に到着していた。
だが、その8ヶ所の荷役作業では、合計しても1日1500トン程度しか物資を積み込めていない。
1日平均1500トンでは、購入した60万トンの食糧を積み込むだけで1年以上かかってしまう。
食糧は今必要なのに、この分だと今年度分の輸入が完了するのが来年度以降になってしまう!
皇国は大慌てで、多数の港湾作業船をシュテーフ港他4港に派遣して港を工事して母船を接岸させ、
そのクレーンで直接荷物を積み込めるように港を“改造”したいとイルフェス王国に問い合わせた。
返答は『作業期間中、港の使用料を規定量の倍払うならば可』である。
曰く、『改造工事は他国の船舶の邪魔になるから、その分港の使用料を多く払って貰わねば困る』と。
「この際、カレーン島を拠点にイルフェスも叩くか?」
そんな意見も出たほどである。
だが、当然ながらイルフェス王国と一戦交えるより、規定量の倍額の使用料を払う方が安上がりだった。
しかし、いつもいつも言いなりになっていては足元を見られるばかりである。
実際、初期の交渉では完全に足元を見られていたのだから。
『皇国が自費で行うシュテーフ港他の改良工事により得られる貴国の利益は、
港の使用料の倍以上であるから、改良工事に関して港の使用料を求めるのは、
四重にも五重にも使用料を負担せよと言うのと同じであって、遺憾である』
下手な頓知のような言い訳であるが、皇国はこのような強引な理論で
改造工事中、作業船の港の使用料をタダにしろと突っ撥ねた。
また何か言ってくるかと考えていた皇国だが、意外にもイルフェス王国は引き下がった。
『改良工事に関して、王国に金銭の負担を求めない皇国に感謝する』とまで言ってきたのだ。
かくして、イルフェス王国の主要貿易港4港の“改造”が、皇国によって“無償”で行われる事になる。
また他2国の4港についても、同様に皇国の“無償協力”という形で港の“改造”が行われる事になった。
そして東大陸では、ユラ神国に対して同様の“無償協力”をするという約束を取り付けていた。
太陽が天高く昇る快晴で、風も波も穏やかな日であった。
「船が見える! 帆船ではありません!」
マストの上で見張りをしていた水兵が、望遠鏡越しに水平線を指差す。
その声に艦長をはじめ主だった士官達が指差す方向を見定め始めた。
「あれは皇国艦ではないか?」
煙を吐いて航行する帆の無い船といえば、皇国艦以外にありえない。
望遠鏡を覗きこんだ艦長には、すぐにそれが皇国の軍艦であるとわかった。
「そのようです。迂回しますか?」
砲術科の若い海尉が艦長に確認した。『皇国艦があれば、すぐに戻って本部に知らせる』のが任務だったからだ。
だが、海尉の進言は即座に却下された。
「いいや、仕掛ける」
「しかし元帥のご命令では、皇国の軍艦との戦闘は避けるようにと」
リンド王国の哨戒艦艇に与えられた任務は海域の監視と皇国商船の拿捕であって、軍艦との対決は禁じられていた。
「向こうの大砲は何門だ」
「艦長!」
「答えたまえ。皇国軍艦の大砲は何門だ?」
海尉は望遠鏡を覗き込むと、敵艦の大砲を数え始めた。
しかし、それもすぐに終わる。
「……見る限りでは、砲窓がありませんので、艦上にある旋回式と思われる砲が5門です。
他に据付けの小銃が数丁。以上です」
「ではこちらの大砲は何門だ?」
「36門です。片舷では16門ですが……」
「36門と5門、勝つのはどちらだ? そうそう、こちらは優秀な狙撃術を持った海兵も乗っているな」
「艦長、皇国軍艦の大砲の性能は、我が艦の大砲と比べ物にならないという……」
「そのような、腰抜け共がでっち上げた信憑性に欠ける情報を鵜呑みにすることはできん」
「しかし……あの艦の砲の大きさはここからでもハッキリと見えます」
「こけおどしに決まっている。あのように大きすぎる大砲は実戦では使い物にならんのだ。よく覚えておきたまえ」
「艦長……」
「元帥は慎重すぎるのだ。常勝提督という渾名は、単に危ない橋を渡らなかった結果に過ぎない。
ノーリスクノーリターンの戦法だ。だが私は、ローリスクハイリターンを心がけている。
第一、こちらが発見したという事は敵に発見されている可能性も高い訳だが?」
「ですから、逃げるなら早くすべきです。そうすれば悪天候に紛れて姿を眩ます算段も付きます」
「逃げるだと? 誇り高きリンドの艦長が、そのような命令を下す筈が無かろう」
エリルファゼイ号が遭遇した皇国艦――駆逐艦江風――は4000mの距離から砲撃を開始した。
発射された5発の12.7cm砲弾のうち3発は目標を外れたが、2発がエリルファゼイ号の至近に弾着、同艦を大きく揺さぶった。
「たった5門で、しかもこの距離で初弾から至近弾か!」
「やはりあの大砲はこけおどしではありませんでした」
「そのようだな。敵ながら天晴れ、面白くなってきたではないか」
そもそも、命中精度を問わずとも20シウスという距離を砲弾が飛ぶというのが驚きであった。
だが、そのような驚きを内心に留めたのが艦長なりの配慮であったのだろう。指揮官はどんな時でも動じてはならないのだ。
しかし艦長の強気に水を指すように、第2斉射のうち1発が命中、エリルファゼイ号の前部砲列を薙ぎ払った。
「被害は!」
「大砲3門大破、13人死亡、他二十数人が重傷!」
「一撃でこれか」
「敵は炸裂弾を使っています。このままでは!」
「まぐれだ! いいか、大砲というものは、そうそう当たるものではない。
特にこんな距離ではな。だが、接近して舷側から斉射を行えばどうだ!」
「……敵を打ち倒す武器になります」
「そうだ。だから敵艦に突撃するのだ。半シウスの距離まで詰めてからが本番だ。
半シウスの距離まで接近し、舷側の大砲で蹴りを付ける! 海兵の活躍の場も増えるだろうな」
「敵との距離は20シウスです。船体の一部を破壊されて、あと19シウス半も距離を詰めるのは不可能です。
接近すれば敵の砲撃精度も増すでしょうから、その前にこちらが沈没します。こうなったら降伏すべきです、艦長」
海尉の必死の説得が、艦長の感情を逆撫でさせた。
「うるさい、艦長は私だ! 決断は私がする! 君は自分の立場を弁えていないようだな!」
「私は、立場を弁えた上で艦長に提案をしています。このままでは危機的な状況に陥りかねないと……」
「それがいかんと言うのだ。まだ経験も浅い海尉の判断と、経験豊富な艦長の判断はどちらが正しいか解かっておらん。
敵は既に十数発撃ってきているが、まだ命中は一発だ。恐るるに足らん。
そんな敵を恐れることよりも、攻撃精神だ。攻撃こそ、将兵の士気を鼓舞し、規律と秩序と忠誠を生み出す。
陛下のご命令は、そのような“もののふ”の立場からのものからではないからな。致し方無い。
損害を恐れては敵に立ち向かうことはできない。この程度の損害は織り込み済みだ」
「では、陛下のご命令に背くのですか!」
「そうではない。陛下は損害を嫌っておられるが、それ以上に勝利を望んでもおられる。
我々は陛下に勝利を献上するだけだ。解かったか? 解かったら持ち場に戻れ」
「……はい、艦長」
(確かに敵の命中はまぐれかもしれないが、そのまぐれを引き出した砲術は本物だ。
狙いが不味ければ、どんな幸運が重なったって当たりはしない。それは艦長も解かっているはずだ!)
エリルファゼイ号の艦長の突撃命令から数刻。
江風の砲撃は数回の夾叉とさらに2発の命中を得ていた。
対するエリルファゼイ号はまだ何の戦果も得ていない。
何となれば、4000mの距離からそれ以上接近できないからだ。
「艦長、敵は9マーシュに増速しました。これでは追いつくのは不可能です」
「うむ……」(馬鹿な、距離は20シウス以上ある。それでこの砲撃精度は……)
「艦長、降伏致しましょう。これではなぶり殺しです」
「いや、降伏はまかりならん」
「何故ですか!」
「陛下からお預かりしたこの艦を、みすみす敵に明け渡せというのか?
降伏して拿捕されるくらいならば、自沈もやむをえまい」
「それでは、艦長や他の乗組員はどうなるのです」
「…………」
「艦長!」
「文明国ならいざ知らず、あのような野蛮な敵の捕虜になるくらいならば
死を選ぶのがリンドの騎士だ。それは皆も同じだろう」
艦長と海尉が議論している間にもさらに数発の命中があり、エリルファゼイ号は
船体が破壊され浸水が止まらず、マストも破壊され航行もままならず、
ただ船の形を保つだけで精一杯の浮かべる墓場と化していた。
「艦長もご存知でしょうが、皇国軍は降伏の際には軍旗を降ろし、白い旗なり布切れなりをかざして振れと」
「知らん。そんな方法で降伏を示すなど、聞いた事も無い」
「将校であれば、当然ご存知のはずでは? 皇国軍からの宣戦布告の文書に……」
「降伏を示すときには、軍旗と一緒に軍服をかざすのが流儀であろう。
しかも軍旗を降ろせだと? 旗を降ろすのは降伏を受け入れた敵に渡す時だけだ。
敵に渡すより前に軍旗を降ろせば、秩序だった降伏が行えないではないか!
そんな訳の解からぬ方法で降伏したとなれば、恥の上塗りだ」
「確かに、我々の常識ではそうでしたが……
今、圧倒的に優勢な皇国の流儀では軍旗を降ろして白い布をかざすものなのでしょう。
幸い、我々の手元にはハンモックや白い帆の切れ端があります。これを振れば、皇国は……」
「そんなに振りたいのならば、貴官が自分の軍服を竿に付けて振れば良かろう。ただし、その前に私は自沈を命じるがね」
「艦長!」
「もうこの艦は終わりだ。だから私と諸君等はここで散る。これは騎士としての名誉の――」
言いかけた艦長が、その続きを発することは永遠に無かった。
後甲板に響いた銃声は、勿論皇国軍のものではない。
「か、海尉……!?」
甲板上は騒然となる。
至近距離から引き金を引いた海尉の軍服は返り血に染まっていた。
自らの職務をこなしながらも、事の顛末を聞いていた副長はすぐさま命令を出す。
「艦長は名誉の戦死を遂げられた……海尉は士官室で謹慎の事。その後の処置は追って命ずる。
海兵隊長、海尉を拘束し、士官室へ閉じ込めておけ」
「艦長、敵艦の甲板が慌ただしいです」
「それはそうだろう。これだけ撃ちまくられて慌ただしくない訳が無い」
「いえ、そういうものとは違うようで、様子が変です」
「様子が変?」
水雷長の言葉に、艦長を始め艦橋に詰めていた士官達はリンド製の数倍の性能を誇る双眼鏡を覗き込む。
「おい、奴ら服を脱いで振ってるぞ。軍艦旗の旗竿にも軍服を!」
「何だって? 軍服を振ってるということは……」
「艦長! 服を脱いで振るのは、この世界での降伏の意思表示です。砲撃を止めましょう」
誰もが直感したことだが、先に声を出したのは航海長だった。
もう決着は付いているも同然で、これ以上の戦闘は弾と油の無駄だと誰もが思い始めていた矢先である。
「そうだな。確かにそのとおりだ」
「では、砲撃中止を?」
「まあ待て、リンド王国には、降伏の際は軍旗を降ろし、白旗を振れという文書が渡っているはずだな?」
「はい。宣戦布告文書を交わす際に、確かに渡っているはずです」
「何故、勝っている我々が負けているリンド王国のやり方で降伏を受け入れねばならんのだ?
少なくとも我々は、負け戦の時は敵の流儀に従って軍旗と共に士官の軍服を振れと教わったが」
「しかし、そのような理屈で戦闘を長引かせても、得るものは何も……」
「もし、お互いのそのようなやり方を知らないのであれば、それは士官、国王の怠惰だ。
リンド王国はお互いに交わした約束も守れない、統制の取れていない軍隊ということになる」
「……仰るとおりです」
「敵が軍旗を降ろして白旗を振るまでは、砲撃は続ける」
「どういうことだ! 敵は俺達を全員殺すまで戦を止めないのか!」
「これだけ多くの軍服を振って、気付かないわけがない。やはり野蛮人だった!」
水兵達の悲痛な叫びがエリルファゼイ号の甲板を覆っている。
皇国軍は、既に投了した相手の全ての駒を盤上から取り除くまで将棋を止めない棋士の如きだ。
そんな野蛮なこと、人間ならばするはずが無いのだ。相手が投了したら、そこで将棋は終わるように。
しかし、現実は違った。
「駄目なのか。皇国は、降伏すら受け入れないというのか!」
「副長、皇国流の方法でやりましょう。ここまで来たら何の躊躇うことがありますか」
「全ての帆を畳んで艦を停止。全ての旗を降ろし、白いものを何でも……
そうだな、あそこに落ちている大きな帆の切れ端を振るように命じろ」
「艦長、敵艦が停止し、軍旗を降ろして白旗を!」
「砲撃中止」
「了解。撃ち方止めー!」
「収まった……」
副長は生き残り全員を甲板に集めると、檄を飛ばす。
「さて、私と諸君等は皇国の捕虜となるわけだが、その際は文明国を
相手にしたリンド王国の将兵としての振る舞いを期待する」
甲板上には何故だ、野蛮人は野蛮人だ、皇国クソ食らえ、などと怒号が響く。
拿捕するために近づいてきたところを不意打ちしてやれという声さえあった。
「無線は通じんし、信号旗も手旗もモールスも通じないとなると、文字にするしかあるまい。
こんな時の為に文字表と単語帳も持っておくものだな。情報部はこの短期間によく調べてくれた」
「何と書きましょうか」
「これと、これと、これと……これだ。順番は今示したとおりだ。簡単な文だが、解かるだろう」
艦長がリンド語辞書を片手に指差した単語は、『全員』『抵抗』『許す』『ない』。『全員の抵抗を許さない』。
少しぎこちないが、短い文章で威圧感も出るかもしれない。
リンド語の辞書を手渡されて1週間の艦長に、流暢な文章など無理な話だった。
「水雷長。陸戦隊を組織して敵艦に移乗、降伏を確認し、合わせて武器類、艦長の軍刀と軍旗の没収を行え」
「了解しました」
「もうあの船は沈没寸前で航海はできんだろう。捕虜は江風で飛鳥丸に運ぶからそのようにな、水雷長」
「はい。捕虜は江風に移送させます」
「拡声器で敵に知らせろ。
これからこちらの将校が乗艦して降伏を確認するから、くれぐれもおかしな真似はするなと。
機銃は敵の乗員を、砲は敵艦の喫水線を狙っておけ。この距離なら外すまい」
水雷長の木村大尉を含めた25人の陸戦隊が乗り込んだエリルファゼイ号の最上甲板は、死体か呆然とした将兵しかなかった。
他の下士官や水兵が何の行動も起さない中、木村大尉の前に一人の将校が歩み出てきた。
「エリルファゼイ号副長の、リッドン准海佐です」
「私は木村大尉です。艦長は?」
「艦長は……戦死なされました」
言いながら、後甲板の艦橋を見る。
「そうですか。では貴方がこの艦の指揮官という事ですね?」
「はい。副長の私が、臨時の艦長です」
「では軍刀をお渡し願います」
指揮官(今回の場合は副長)が軍刀を敵に渡すという光景を見せ付けられた下士官兵達は、
やっと自分達が負けたのだという事を理解したようで、先程まで不意打ちしてやれ
などと言っていたのが嘘のように、その場にへたり込んでしまう水兵もいた。
「これでこの艦は我々が名実共に制圧しました。艦の乗組員が変な真似を起さぬよう、徹底させて下さい」
「了解しています」
「宜しく頼みます。それで、この艦は航行可能ですか? 見た所、船体にかなり損傷があるようですが」
「貴艦が曳航して下さるのであれば……」
「自力では?」
「ほぼ無理です。艦搭載の全カッターでもって曳航する事は
不可能ではありませんが、速度が出ません。それでも宜しければ」
「あまり宜しくありませんね。我が国の軍艦は航海の速度を重視していますから。
では、乗組員で生きている将兵全ては、我々の艦に移乗して貰います。
死者は、この場で水葬して貰います」
「解りました。部下への通達と戦死者の水葬に少々時間がかかりますが、ご容赦を」
死者を水葬し、助かる見込みが無い程の重傷者に止めを刺し終えると、
エリルファゼイ号の将兵は江風へと乗り込んだ。
駆逐艦江風は平均16kt(≒7.4マーシュ)という速度でユラ沖に停泊する飛鳥丸へと急いだ。
飛鳥丸は臨時の捕虜収容所となっている客船で、詰め込めば最大で2500人以上の捕虜を収容可能な中型船である。
ユラ神国は、自国の領内に皇国軍の捕虜収容所を建設することを拒んだため、
皇国は仮の捕虜収容所として客船、貨客船を派遣しているのだ。
リンド王国の将兵は駆逐艦よりもさらに巨大な客船に目を回していたが、ユラの住民はもう見慣れたようで、
ユラ神国各地からの見物客は未だに現れるが、ユラ住民は平穏を取り戻しつつあった。
そのための客船の数は、週に4隻の割合で増えている。
現在、ユラ沖に投錨している貨客船は全部で12隻。
何れも国内、国際航路で使われていた5000総トン以上の優良船であるが、
皇国が持つ客船、貨客船、貨物船の総トン数から見れば、
合計7万総トン程度の客船の派遣など本来であればどうという事は無い。
だが、今は燃料事情が逼迫している最中である。
石炭専焼船だから石油の負担は無いとはいえ、石炭は石炭で国内の発電や製鉄、
船舶や鉄道の運行等に不可欠な燃料であって、無駄にして良いものではない。
問題はどの客船を派遣するかではなく、いつ捕虜が返還出来るかだ。
通常は、捕虜交換というものでお互いの捕虜を戻すわけだが、
皇国軍将兵は誰一人リンド王国に捕虜を出していないので、“交換”が出来ない。
リンド王国が金銀と交換に捕虜返還を要求してくる事もなかった。
皇国は大量の捕虜の“在庫”を抱えながら、東大陸でも四苦八苦していた。
西大陸では、最近やっとライランス王国の全ての捕虜の返還が終わり、身代金の500万リルスが支払われたばかりだ。
ライランス王国軍の捕虜の数は将兵合わせて約7万人。平均すると1人あたりの身代金は71.5リルス。
1人あたりの1日平均では24シアルという数字だが、皇国が捕虜収容所を運営するのに要した金額が、
1日あたり約1リルスであった。つまり1日で1人あたり4シアルの“儲け”が出た。
1人あたり平均2ヶ月の運営で最終的な“黒字”は84万リルスに上った。
84万リルス。
小麦なら1kgが約4ルーブなので約42万トン分の価値、ライ麦ならその倍近い約80万トン分の価値だ。
世界最大の農業国であるユラ神国の年間小麦生産量が約800万トンだから、42万トンならその5%強である。
1人が1日あたり小麦のパンを300g消費すると考えれば、8000万人でも約半月分の食糧になる。
ユラ神国から40万トン、その他に東大陸の5ヶ国から20万トンずつ輸入して合計140万トンの目途が付けば、
西大陸の3ヶ国から輸入された60万トンと合わせて200万トンになり、約2~3ヶ月分のパンが確保出来る。
それに今年生産された米900万トンを合わせれば、何とか今年を乗り切れる計算になる。
ただし、必要カロリーを満たすには米やパン以外に多くの肉や魚を食べる必要があり、
さらに米を原料とする日本酒の生産が大幅に圧縮される事になるが。
皮算用ではあるが、とにかく計算上は皇国民は餓えずに済むのである。
しかも、ユラ神国からの小麦の購入金額は実質タダでだ。
リンド王国の捕虜からこの半分の40万リルスの“黒字”が出るとすれば、
さらに西大陸のイルフェス王国からの購入分がチャラになる。
だが、戦争に敗北しない限り、リンド王国は捕虜の身代金は払わないつもりだろう。
とにかく、今はリンド王国を降伏させ、ユラ神国との結束を固める事だ。
捕虜の身代金は、言わばおまけのようなものと考えても良いだろう。
ライランス王国からの賠償金2億5000万リルスと1億デュカのうち、今年度分の1250万リルスと
500万デュカが手に入れば、東西両大陸から輸入される食糧分の購入資金を補ってまだ余りあるのだ。
それでも戦費が嵩んだので今年度分の収支は実質マイナスになるが、20年間滞りなく
賠償金が払われると仮定すれば、毎年各国から500万トンの食糧を輸入しても十分に黒字の計算になる。
その頃には、神賜島での農業生産が軌道に乗って、毎年500万トン以上の米を
生産しているはずだから、主食としての穀物の輸入は必要なくなる。
皇国は、このような計画で東西大陸と貿易を行おうとしていたが、現状では今年度で輸入したい
食糧のうち2万トン程しか輸入されていないし、ライランス王国からの賠償金も入ってきていない。
特に食糧の輸入が滞っているのは、相手国の港の荷役能力の限界のためであった。
皇国が1万総トンの貨物船で乗り付けても、イルフェス王国最大の港で捌ける量は1日で500トン程度なのだ。
勿論、皇国船以外の船を含む全ての船の合計が500トンであるから、皇国船だけに
限って見れば、1日で全体の半分にあたる250トンも積めれば良い方である。
港の浚渫も、喫水の深い皇国船にとっては不十分なので、
母船は沖合いに待機し、短艇でえっちらおっちら物資を搬入せねばならない。
気の遠くなるような作業で、皇国の首脳も全く考えもしていなかった重大な穴である。
元世界でアメリカやイギリスと貿易していた時には、2万総トンの商船でさえ
不足を感じる事があったのに、この世界では大きすぎて小回りが利かない。
皇国の首脳陣は、イルフェス王国等この世界“列強”の港に、皇国の一般的な貿易港と同等の能力を期待していた。
“列強”という言葉に惑わされたとも言えよう。
“列強”とは言っても、元世界の18世紀程度の“列強”なのである。決して20世紀のそれではない。
何故、こんな単純な事に誰も気が付かなかったのかを問うても今更仕方が無い。
皇国は、帳簿の上ではイルフェス王国から40万トンの食糧を輸入している。
実際、イルフェス王国の玄関口であるシュテーフ港には、各地から集められた皇国向けの食糧が山と積まれている。
その量は、およそ5万トン。
イルフェス各港、その他2国の貿易港8ヶ所合わせれば、30万トン近い食糧が既に港に到着していた。
だが、その8ヶ所の荷役作業では、合計しても1日1500トン程度しか物資を積み込めていない。
1日平均1500トンでは、購入した60万トンの食糧を積み込むだけで1年以上かかってしまう。
食糧は今必要なのに、この分だと今年度分の輸入が完了するのが来年度以降になってしまう!
皇国は大慌てで、多数の港湾作業船をシュテーフ港他4港に派遣して港を工事して母船を接岸させ、
そのクレーンで直接荷物を積み込めるように港を“改造”したいとイルフェス王国に問い合わせた。
返答は『作業期間中、港の使用料を規定量の倍払うならば可』である。
曰く、『改造工事は他国の船舶の邪魔になるから、その分港の使用料を多く払って貰わねば困る』と。
「この際、カレーン島を拠点にイルフェスも叩くか?」
そんな意見も出たほどである。
だが、当然ながらイルフェス王国と一戦交えるより、規定量の倍額の使用料を払う方が安上がりだった。
しかし、いつもいつも言いなりになっていては足元を見られるばかりである。
実際、初期の交渉では完全に足元を見られていたのだから。
『皇国が自費で行うシュテーフ港他の改良工事により得られる貴国の利益は、
港の使用料の倍以上であるから、改良工事に関して港の使用料を求めるのは、
四重にも五重にも使用料を負担せよと言うのと同じであって、遺憾である』
下手な頓知のような言い訳であるが、皇国はこのような強引な理論で
改造工事中、作業船の港の使用料をタダにしろと突っ撥ねた。
また何か言ってくるかと考えていた皇国だが、意外にもイルフェス王国は引き下がった。
『改良工事に関して、王国に金銭の負担を求めない皇国に感謝する』とまで言ってきたのだ。
かくして、イルフェス王国の主要貿易港4港の“改造”が、皇国によって“無償”で行われる事になる。
また他2国の4港についても、同様に皇国の“無償協力”という形で港の“改造”が行われる事になった。
そして東大陸では、ユラ神国に対して同様の“無償協力”をするという約束を取り付けていた。