ユラ神国に滞在中の全権大使に“それ”が届いたのは、国王がセグーニュへと“保養”に出かけた2週間後であった。
「リンド貴族からの手紙?」
「はい。ポゼイユ侯爵と申す者からです。早馬にて前線の師団長を経由し、宛先は閣下へとなっておりました」
「ポゼイユ侯爵?」
全権大使は手紙の封を開けながら訊ねた。
「リンド王国東部の、元は辺境伯の家柄だそうで」
「つまり、武家という事かな?」
「現代では、軍事的には何の権限も無いようです。精々、領地から将兵を国王に
供出するくらいでしょう。むしろ、今は学者のパトロンとして有名なようです。
それより重要なのは、侯爵は宮中にも顔の利く東部貴族の中心的存在という事です」
「そうか……」
全権大使は、宮中貴族や南部貴族を中心に交流をしていたため、
東部貴族については殆ど手が回っていなかったのだ。
視線を落とし、リンド語辞書を片手に、全権大使は手紙を読み始めた。
ユラ神国の文字や文法とリンド王国の文字や文法はかなり似通っているので、
文字はもう見慣れて文法も殆ど頭に入っていたが、全権大使は今でも辞書を手放さない。
辞書といっても、現代の英和辞書のように完成度の高いものではない。
情報部が今でも毎日のように更新しては新しい単語情報等を印刷して持ってくる。
一般名詞やよく使う動詞等は殆ど訳し終えているが、少し難しい単語や専門用語、
あまり使われない単語等はまだまだ訳し切れていないので、辞書は手放せない。
「ほう……確かに、本人も学者のようだ。直接見聞きした訳でも無い
我が国に対して、かなり鋭い考察を行っている」
「と、仰りますと?」
「我が国の軍艦は動力機関で駆動するものだと書いてある。
飛行機が時速400km以上で飛ぶ事についても、飛竜と対比しながら数式まで書いて、
リンド王国では少なくとも10年以内には不可能だが、理論的にはあり得ると。
我が国の工業力の水準まで書いてある。相当大規模な製鉄所や兵器工房があるのだろうと」
「それはまた……」
「王国軍が既に壊滅し、王都が砲火に晒されている事も冷静に受け止めている。
王都から距離的にも精神的にも遠いからだろうな」
「精神的にはどうか解りませんが、距離的には確かに」
全権大使は、こいつは面白いというような顔で読み進める。
「リアにて、リンド王国の今後を話し合いたいそうだ」
「リンド貴族が、敵地で自国の今後をですか!」
「敗戦後処理をどうするかと書いてある。侯爵には、リンドの負けは確定事項らしいな」
「……危険ですね」
「危険だが、ユラと違って敵国リンドにはコネクションが無い。
ここらでリンド貴族と場を設けるのは、悪い話ではない」
皇国は、つい数ヶ月前に突然この世界に現れた“新参者”だ。
最初に接触したリロ王国の大商人を手始めに、東西大陸の商人や有力者、王侯貴族等と接触してきたが、
上手く話が進んだのは10発中の2発か3発程度だ。勿論、その2、3発の中にイルフェス王国やユラ神国
といった有力な列強国があったのだが、残りの7発か8発にも列強国や大国、大商人がある。
リンド王国に限れば、これは交渉失敗というか、ユラ神国との関係を
まず構築する必要性から、あえて敵対という道を選ばざるを得なかった。
両国と良好な関係を保ちつつ局外中立が通用するほど、この世界は甘くない。
本国と全権大使は、今までベルグのリンド国王宛に親書を送り続けていたが、
国王が事実上逃亡し、また降伏勧告も無視され続けている現在、
皇国はリンド王国との外交の窓口が無いに等しい。
元世界のローマ教皇やスイスのように、中立で、多くの国に顔が利く国は残念ながら無いのだ。
現状は、既に詰んでいるのに投了を宣言しない相手と将棋を指しているかのようなもの。
侯爵と言えば、上級貴族である。
リンド王国の上級貴族と関係が結べれば、それを窓口に何かしらの突破口が見えてくるかもしれない。
「会おうじゃないか、侯爵閣下と」
皇国の全権大使とポゼイユ侯爵との間に会談の場が設けられたのは、
ポゼイユ侯爵に全権大使からの返答の手紙が届いてからさらに2週間後の事だった。
「リアン=シャニィ・セレシア・ラグナ・ニュールモンと申します」
「木下正徳と申します。本日は――」
全権大使は黒のモーニングで、対するポゼイユ侯爵はこの世界の女性の服装としては
動きやすそうな群青色を基調としたドレスに、髪飾りや首飾りなどで装飾している。
自己紹介と簡単な社交辞令が終わると、2人は早速“本題”へと話を進める。
「皇国軍、ご活躍されているようですね」
そう、笑顔で言ってのけたポゼイユ侯爵は危機感が有るのか無いのか、全権大使は一瞬掴みかねた。
「我が軍は、我が国の誇りの一つです。リンド王国軍も、誇り高く戦っていると聞き及んでいます」
「軍が誇り高くとも、王がそうでなければ、国は道を誤ります。皇国の国王陛下は、誇り高くあられますか?」
侯爵は、リンド王が誇り高くないと言い放った。
「我が国で国王に相当する御方は“天皇”と申しますが、陛下は徳の高い、心の広い御方です」
だが、激怒すると手が付けられないほどの威圧感も同時にある。
「徳が高く心の広い事は、君主にとって必要な事です。皇国は恵まれていますね。
それで閣下は、天皇陛下の代理人としてこの地にいらっしゃるのですね?」
「はい。リンド王国との交渉に対しても、全権を委任されています」
「では閣下は、今まで私以外のリンド貴族との交渉の場を持たれましたか?」
もう二度と手に入らないかもしれないインド産の紅茶を一口、
口に付けながら、侯爵は美味しいお茶ですね。と微笑みかけた。
「手紙であれば幾人かと遣り取りしましたが、侯爵閣下のように直接会談するのは、初めてです」
「手紙とは、具体的にはどなたと?」
侯爵は直球、直球で攻めてくるタイプなのだな、と全権大使は思った。
「秘密の遣り取りもありましたので、具体的に名前を申せない方も居りますが……
そうですね、名前を明かしても大丈夫な方であれば、例えばルキィ伯爵とか」
「伯爵とは、どのような遣り取りを?」
「リンド王国の降伏に関する件を打診しましたが、『国王陛下に直接掛け合うべき事項で、
自分には何らの力も無い』と。それ以来、こちらからの手紙に返事がありません」
困ったものです。と苦笑する全権大使に、侯爵は一切表情を変えずに返した。
「端的に申しますと、我が国の大多数の貴族は、王国の滅亡に巻き込まれたくないのです」
「滅亡!? 我が国は、リンド王国を滅ぼすために戦ってはいません!」
「ですが事実上、我が国の威信は無いも同然になります」
侯爵はさらりと言ってのけたが、重大な事である。
皇国は、武威により条約を結ばせて、リンド王国と通商を行う予定だったのだから。
「何故です?」
「歴史的大敗を喫し、威信が保てるとお思いで? 軍が壊滅した今、
仮に威信は保てても、国の防衛が成り立たなくなります」
「それは、確かにそのとおりかも知れませんが、
滅亡というのは少し行き過ぎではありませんか」
侯爵は、紅茶を飲みながら少し考え込み、全権大使に向き直る。
「皇国は、“異世界”から来たそうですね。
そちらの世界ではどうかわかりませんが、こちらの世界では、
軍事力の無くなった大国には、ハゲタカが死肉に群がるが如しです」
「つまり、リンド王国は他の列強国、大国に好き放題される可能性があると?」
「そうです。現国王が退位なされるとすれば、国王は妾腹の王女。
しかも軍備は無い。これでは威厳も何もあったものではありません」
確かに、元世界でも欧米列強国を中心に“弱肉強食”という言葉がぴったりの外交が行われていた。
少しでも隙を見せれば、他の列強国がハゲタカの如く群がり、富を掻っ攫う。
「時に、皇国の天皇陛下の御子息に、王太子殿下はいらっしゃいますか?」
「その地位には、皇太子殿下がいらっしゃいますが……」
まだ10歳にならないが、皇太子と第二皇子は順調に成長している。
「では、皇国の皇太子殿下と我がリンドの第一王女殿下が婚姻する事は可能でしょうか?」
『皇国の皇太子殿下と我がリンドの第一王女殿下が婚姻する事は可能でしょうか?』
全権大使は、数刻、言葉を失った。
まさか、ここで皇太子との婚姻にまで持って行こうとするとは!
「不可能と、申さざるを得ません……」
そう答えるのが精一杯だった。
「では、皇族に連なる御方か、皇国貴族の方とは?」
「華族――皇国貴族――との婚姻であれば、不可能ではない
かもしれませんが……宮内省に問い合わせてみましょう」
会談は侯爵の土俵になっている。
侯爵は、この機会をリンド王国の国際的な地位の維持に使おうとしている。
異世界の王家のために、皇国の皇族や華族をダシに使われてはたまらない。
だが、これは千載一遇の機会かもしれないとも、全権大使は思った。
皇族か、有力華族との婚姻が成れば、リンド王国と強力なコネが出来る。
リンド王国は列強国で、東大陸で最も製鉄が盛んな地。
勿論、食糧生産も平均以上の規模で行われている。
その国との関係は、今後東大陸で活動するにあたっても重要になろう。
そうでなくても、経済力等で“列強国”であったのだ。
王家の蓄財は、数億リルスになる。
国家の富を合計すれば、数十億リルスになるだろう。
皇国も“ハゲタカ”としてリンド王国を見なければならない。
そして他の列強国に、リンド王国を渡してはならない。
リンド王国の富は、皇国のみが有効利用せねばならない……。
「もし宜しければ、私の方から内密に王家や家臣の方々に働きかける事も出来ます」
「こちらは本国に確認せねばなりませんので、少々お待ちいただけますか?」
「具体的にどれ程?」
「宮内省と連絡し、陛下へ上奏せねばなりませんので、少なくとも数日はかかります」
まあ、1週間はかかるでしょうと念を押す。
「……たった数日で、海を越えて手紙の遣り取りができるのですか?」
「詳しい事は申せませんが、我が国では可能です」
「そうですか……では閣下、良い返事をお待ちしております」
「はい。お互いの国にとって、より良き未来が待っていると、信じています」
『リンド国王急死』
その第一報が届いたのは、全権大使とポゼイユ侯爵の会談の数日後であった。
死因については不明であったが、一部では毒殺という情報も飛び交っていた。
ポゼイユ侯爵は、“国王暗殺”に一枚噛んでいたのではないかと全権大使は考えた。
でなければ、このタイミングで次代国王の婚姻についての話など出て来ないだろう。
証拠が無いので、憶測の域を出ない事であったが。
セグーニュでは、第一王女が女王として即位するためにベルグへの帰り支度を始めたところであった。
戴冠式に必要な王冠等の宝物はベルグの宮殿にあるし、式を執り行うユラの神官もベルグに居るのだ。
何にせよ、リンド王国の状況が大きく変わった事は事実。
全権大使は本国と連絡を取り、天皇と宮内省に“婚姻”の
件の許可を取ると、早速ベルグの第一王女宛に親書を出した。
第一王女と歳の近い、皇国のとある宮家の男子との婚姻である。
この宮家は天皇とも近く、“家族”とは言えないが“他人”ではなくなる。
婚約が成立すれば、皇国皇室がリンド王家の親戚になるのだ。
ベルグの王宮では、大臣達が第一王女と共に緊急会議を開いていた。
「皇国は、これが狙いだったのか」
「リア公国の件、完全に利用されましたな」
「ですが、何と言おうと、現在の我が国には庇護者が必要です」
大臣達が頭を抱える中で、王女は毅然と言い放った。
「殿下……ですが、それを皇国に頼るというのは……」
「そうです。そもそも我が国がこのような境遇に陥ったのは――」
「皇国のせいだとでも?」
王女の発言に、大臣達は皆一様に驚く。
「皇国軍こそ、我が国土を侵略し、我が軍を壊滅させた張本人です!」
「では、この王宮をも大砲の射程に収めている皇国軍を擁する皇国の提案を、蹴りますか?」
「…………」
そう、皇国軍は、相変わらずベルグ市外に居座っている。
「出自も不明な、異世界の王との婚姻など、リンド王家の御先祖方に顔向けが出来ません」
「皇国は、新興国かもしれませんが強国です。それは、我が軍を簡単に蹴散らして見せた事でも解るでしょう」
「殿下、強国であれば何でも良いという訳ではありません」
「そうです。リンド王国の王女たるもの、正統なる王や貴族との婚姻こそが――」
王族や貴族は、同じく王族や貴族と結婚する。
特に王族となれば、上級貴族以上の家柄が求められる。当たり前の事だ。
「歴史もあるそうですね。建国から2600年の歴史が。歴史ある貴族の家もあるようですよ?」
「2600年前というのは“大破壊”以前ではありませんか。そんな大昔から続く王家など、存在し得ません」
「異世界には、大破壊は無かったのでしょう」
「という事は、皇国は悪魔の力を宿している可能性があります。尚更婚姻など――」
大破壊以前の人類は、“魔力”即ち悪魔の力を宿していたとされる。
その悪魔の力故に、神の怒りを買い、大文明が滅んだのだ。
もし、皇国が“魔力”を持っていたら、大破壊の再来だ。
実際、皇国軍の力は魔法を使っているとしか考えられないものだ。
「私は、父王の暴走の責任を取る立場です。そもそも、先に仕掛けたのは父です。
リアがユラの保護国であるという現状は確かに悔しい事ですが、それを
安易に武力で解決しようとした父は、大きな間違いを犯したのです。
私は、王の長女という立場にありながら、その暴走を止められませんでした。
命を投げ出すつもりはありませんが、異界の王くらい、この身を捧げても構いません」
「で、殿下……」
王女は、先王の寵愛など全く受けずに育っていた。
同じ王宮に住んではいるものの、顔を合わせる事は無かった。
公式の行事などで一緒に列席する事はあっても、会話は殆ど無い。
手紙の遣り取りも無かった。
妾腹の王女など、王の眼中に無かったのだ。
王女がしたためた“開戦に反対する手紙”も、先王に届く事はなかった。
『小娘に何が判る!』と言って手紙を破り捨てた事を、侍従長は忘れていない。
「殿下、殿下の御覚悟は十分解りました。ですが今一度、お考え直し頂けませんか?」
「皇国軍は、このベルグの物品を略奪するでなく、正貨を払っていますね。
乱暴狼藉も無い。そのような軍は信頼に値するものだと考えますが?」
「しかし、それだけでは……」
「略奪をせずにも軍を養えるという事は、国が豊かな証拠です。
皇国の金貨を見ましたが、非常に繊細な意匠で、芸術も理解しているようです」
王女が見たのは、皇国の20円金貨である。市内では、1リルス金貨と同等のものとして通用していた。
国王の肖像画等が刻印される事の多い高額貨幣だが、皇国貨幣は
傍から見れば簡素な、しかしよく描き込まれた植物が刻印されていた。
そして、皇国文字で“二十圓”と書かれている。
「目下の大問題には、数に勝る我が王国軍を瞬く間に打ち倒した精強なる皇国軍による庇護と、
たった1週間で飛竜基地を造営してしまう、皇国の技術力が是非とも必要です。
昨日の敵は今日の友と申します。もう、戦は終わらせましょう。
今後、皇国に唾を吐くような者がいれば、私が許しません」
「解りました。殿下の御心のままに……」
「殿下の御決心に、我々も気持ちが固まりました」
王女の強い意志に根負けした大臣達は、皇国とユラ神国への降伏を行うべく、早速作業を始めた。
といっても、実は事前から先王に内緒で準備していた草案があるのだが。
「戴冠式後すぐにリアへ出発し、降伏調印を行います。準備をよしなに」
夏が近づき、皇国ではそろそろ梅雨が明けて来る頃。
リア公国の首都ヴュカースにて、リンド王国の降伏調印式が行われた。
内容はリンド王国の皇国とユラ神国への降伏確認、リア公国の独立と
ユラ神国の保護にある事の追認、両戦勝国への賠償金の支払い等である。
同時に、皇国とリンド王国の“通商条約”と“軍事同盟”が締結された。
それから1週間。
皇国の某宮家の男子と、リンド王国女王の婚約が成され、同日一般に発表された。
これで宮家の君は“リンド王配殿下”となり、皇国の天皇家とリンド王家が親戚関係になるのだ。
これには東大陸諸国のみならず、西大陸諸国も驚きをもって迎えた。
どこの馬の骨とも解らぬ異界の王家との婚姻である。
リンド王国の先王はうつけという話は事実として広まっていたが、
現女王も何を考えているのかというのが社交界での専らの話題だ。
この世界では、王族、貴族同士の血縁関係は、皇国が考えるより重い。
王や貴族は、“血”の正統性でもって国や地域を統治するのであるから、
リンド王家に“異国の王家”として認められた形になる皇国の皇室は、
間接的にではあるが、この世界に“正統なる王家”として認められた事になる。
皇国はこの世界で“ただの強国”ではなく、“正統な強国”としての第一歩を踏み出したのだ。
逆に、皇国国内においてもこの異世界の異国――元の世界の異国・アメリカや中国等
よりも精神的にさらに遠い――に対し、“同じ人間”であるという認識が生まれるきっかけになる。
そして、女王と主要大臣、ポゼイユ侯爵しか知らぬ事だが、
皇国はリンド王国を防衛し、先進科学技術を提供する
見返りとして、リンド王国の食糧他の戦略資源を
優先的に安価で購入出来るという密約が存在した。
皇国が、リンド王国に対して復興事業の為に“円”の融資を行うという事も。
つまり、リンド王国は皇国から円を借りて、その円で皇国の物品や技術を買う。
例えば、リンド王国では東大陸で初の鉄道路線の建設計画が進められている。
これも、融資を受けた円でもって、皇国製の線路や車両を購入する訳だ。
このリンド鉄道は皇国も使用する。
このように、皇国とリンド王国は急速に緊密な関係を築き始めていた。
「リンド貴族からの手紙?」
「はい。ポゼイユ侯爵と申す者からです。早馬にて前線の師団長を経由し、宛先は閣下へとなっておりました」
「ポゼイユ侯爵?」
全権大使は手紙の封を開けながら訊ねた。
「リンド王国東部の、元は辺境伯の家柄だそうで」
「つまり、武家という事かな?」
「現代では、軍事的には何の権限も無いようです。精々、領地から将兵を国王に
供出するくらいでしょう。むしろ、今は学者のパトロンとして有名なようです。
それより重要なのは、侯爵は宮中にも顔の利く東部貴族の中心的存在という事です」
「そうか……」
全権大使は、宮中貴族や南部貴族を中心に交流をしていたため、
東部貴族については殆ど手が回っていなかったのだ。
視線を落とし、リンド語辞書を片手に、全権大使は手紙を読み始めた。
ユラ神国の文字や文法とリンド王国の文字や文法はかなり似通っているので、
文字はもう見慣れて文法も殆ど頭に入っていたが、全権大使は今でも辞書を手放さない。
辞書といっても、現代の英和辞書のように完成度の高いものではない。
情報部が今でも毎日のように更新しては新しい単語情報等を印刷して持ってくる。
一般名詞やよく使う動詞等は殆ど訳し終えているが、少し難しい単語や専門用語、
あまり使われない単語等はまだまだ訳し切れていないので、辞書は手放せない。
「ほう……確かに、本人も学者のようだ。直接見聞きした訳でも無い
我が国に対して、かなり鋭い考察を行っている」
「と、仰りますと?」
「我が国の軍艦は動力機関で駆動するものだと書いてある。
飛行機が時速400km以上で飛ぶ事についても、飛竜と対比しながら数式まで書いて、
リンド王国では少なくとも10年以内には不可能だが、理論的にはあり得ると。
我が国の工業力の水準まで書いてある。相当大規模な製鉄所や兵器工房があるのだろうと」
「それはまた……」
「王国軍が既に壊滅し、王都が砲火に晒されている事も冷静に受け止めている。
王都から距離的にも精神的にも遠いからだろうな」
「精神的にはどうか解りませんが、距離的には確かに」
全権大使は、こいつは面白いというような顔で読み進める。
「リアにて、リンド王国の今後を話し合いたいそうだ」
「リンド貴族が、敵地で自国の今後をですか!」
「敗戦後処理をどうするかと書いてある。侯爵には、リンドの負けは確定事項らしいな」
「……危険ですね」
「危険だが、ユラと違って敵国リンドにはコネクションが無い。
ここらでリンド貴族と場を設けるのは、悪い話ではない」
皇国は、つい数ヶ月前に突然この世界に現れた“新参者”だ。
最初に接触したリロ王国の大商人を手始めに、東西大陸の商人や有力者、王侯貴族等と接触してきたが、
上手く話が進んだのは10発中の2発か3発程度だ。勿論、その2、3発の中にイルフェス王国やユラ神国
といった有力な列強国があったのだが、残りの7発か8発にも列強国や大国、大商人がある。
リンド王国に限れば、これは交渉失敗というか、ユラ神国との関係を
まず構築する必要性から、あえて敵対という道を選ばざるを得なかった。
両国と良好な関係を保ちつつ局外中立が通用するほど、この世界は甘くない。
本国と全権大使は、今までベルグのリンド国王宛に親書を送り続けていたが、
国王が事実上逃亡し、また降伏勧告も無視され続けている現在、
皇国はリンド王国との外交の窓口が無いに等しい。
元世界のローマ教皇やスイスのように、中立で、多くの国に顔が利く国は残念ながら無いのだ。
現状は、既に詰んでいるのに投了を宣言しない相手と将棋を指しているかのようなもの。
侯爵と言えば、上級貴族である。
リンド王国の上級貴族と関係が結べれば、それを窓口に何かしらの突破口が見えてくるかもしれない。
「会おうじゃないか、侯爵閣下と」
皇国の全権大使とポゼイユ侯爵との間に会談の場が設けられたのは、
ポゼイユ侯爵に全権大使からの返答の手紙が届いてからさらに2週間後の事だった。
「リアン=シャニィ・セレシア・ラグナ・ニュールモンと申します」
「木下正徳と申します。本日は――」
全権大使は黒のモーニングで、対するポゼイユ侯爵はこの世界の女性の服装としては
動きやすそうな群青色を基調としたドレスに、髪飾りや首飾りなどで装飾している。
自己紹介と簡単な社交辞令が終わると、2人は早速“本題”へと話を進める。
「皇国軍、ご活躍されているようですね」
そう、笑顔で言ってのけたポゼイユ侯爵は危機感が有るのか無いのか、全権大使は一瞬掴みかねた。
「我が軍は、我が国の誇りの一つです。リンド王国軍も、誇り高く戦っていると聞き及んでいます」
「軍が誇り高くとも、王がそうでなければ、国は道を誤ります。皇国の国王陛下は、誇り高くあられますか?」
侯爵は、リンド王が誇り高くないと言い放った。
「我が国で国王に相当する御方は“天皇”と申しますが、陛下は徳の高い、心の広い御方です」
だが、激怒すると手が付けられないほどの威圧感も同時にある。
「徳が高く心の広い事は、君主にとって必要な事です。皇国は恵まれていますね。
それで閣下は、天皇陛下の代理人としてこの地にいらっしゃるのですね?」
「はい。リンド王国との交渉に対しても、全権を委任されています」
「では閣下は、今まで私以外のリンド貴族との交渉の場を持たれましたか?」
もう二度と手に入らないかもしれないインド産の紅茶を一口、
口に付けながら、侯爵は美味しいお茶ですね。と微笑みかけた。
「手紙であれば幾人かと遣り取りしましたが、侯爵閣下のように直接会談するのは、初めてです」
「手紙とは、具体的にはどなたと?」
侯爵は直球、直球で攻めてくるタイプなのだな、と全権大使は思った。
「秘密の遣り取りもありましたので、具体的に名前を申せない方も居りますが……
そうですね、名前を明かしても大丈夫な方であれば、例えばルキィ伯爵とか」
「伯爵とは、どのような遣り取りを?」
「リンド王国の降伏に関する件を打診しましたが、『国王陛下に直接掛け合うべき事項で、
自分には何らの力も無い』と。それ以来、こちらからの手紙に返事がありません」
困ったものです。と苦笑する全権大使に、侯爵は一切表情を変えずに返した。
「端的に申しますと、我が国の大多数の貴族は、王国の滅亡に巻き込まれたくないのです」
「滅亡!? 我が国は、リンド王国を滅ぼすために戦ってはいません!」
「ですが事実上、我が国の威信は無いも同然になります」
侯爵はさらりと言ってのけたが、重大な事である。
皇国は、武威により条約を結ばせて、リンド王国と通商を行う予定だったのだから。
「何故です?」
「歴史的大敗を喫し、威信が保てるとお思いで? 軍が壊滅した今、
仮に威信は保てても、国の防衛が成り立たなくなります」
「それは、確かにそのとおりかも知れませんが、
滅亡というのは少し行き過ぎではありませんか」
侯爵は、紅茶を飲みながら少し考え込み、全権大使に向き直る。
「皇国は、“異世界”から来たそうですね。
そちらの世界ではどうかわかりませんが、こちらの世界では、
軍事力の無くなった大国には、ハゲタカが死肉に群がるが如しです」
「つまり、リンド王国は他の列強国、大国に好き放題される可能性があると?」
「そうです。現国王が退位なされるとすれば、国王は妾腹の王女。
しかも軍備は無い。これでは威厳も何もあったものではありません」
確かに、元世界でも欧米列強国を中心に“弱肉強食”という言葉がぴったりの外交が行われていた。
少しでも隙を見せれば、他の列強国がハゲタカの如く群がり、富を掻っ攫う。
「時に、皇国の天皇陛下の御子息に、王太子殿下はいらっしゃいますか?」
「その地位には、皇太子殿下がいらっしゃいますが……」
まだ10歳にならないが、皇太子と第二皇子は順調に成長している。
「では、皇国の皇太子殿下と我がリンドの第一王女殿下が婚姻する事は可能でしょうか?」
『皇国の皇太子殿下と我がリンドの第一王女殿下が婚姻する事は可能でしょうか?』
全権大使は、数刻、言葉を失った。
まさか、ここで皇太子との婚姻にまで持って行こうとするとは!
「不可能と、申さざるを得ません……」
そう答えるのが精一杯だった。
「では、皇族に連なる御方か、皇国貴族の方とは?」
「華族――皇国貴族――との婚姻であれば、不可能ではない
かもしれませんが……宮内省に問い合わせてみましょう」
会談は侯爵の土俵になっている。
侯爵は、この機会をリンド王国の国際的な地位の維持に使おうとしている。
異世界の王家のために、皇国の皇族や華族をダシに使われてはたまらない。
だが、これは千載一遇の機会かもしれないとも、全権大使は思った。
皇族か、有力華族との婚姻が成れば、リンド王国と強力なコネが出来る。
リンド王国は列強国で、東大陸で最も製鉄が盛んな地。
勿論、食糧生産も平均以上の規模で行われている。
その国との関係は、今後東大陸で活動するにあたっても重要になろう。
そうでなくても、経済力等で“列強国”であったのだ。
王家の蓄財は、数億リルスになる。
国家の富を合計すれば、数十億リルスになるだろう。
皇国も“ハゲタカ”としてリンド王国を見なければならない。
そして他の列強国に、リンド王国を渡してはならない。
リンド王国の富は、皇国のみが有効利用せねばならない……。
「もし宜しければ、私の方から内密に王家や家臣の方々に働きかける事も出来ます」
「こちらは本国に確認せねばなりませんので、少々お待ちいただけますか?」
「具体的にどれ程?」
「宮内省と連絡し、陛下へ上奏せねばなりませんので、少なくとも数日はかかります」
まあ、1週間はかかるでしょうと念を押す。
「……たった数日で、海を越えて手紙の遣り取りができるのですか?」
「詳しい事は申せませんが、我が国では可能です」
「そうですか……では閣下、良い返事をお待ちしております」
「はい。お互いの国にとって、より良き未来が待っていると、信じています」
『リンド国王急死』
その第一報が届いたのは、全権大使とポゼイユ侯爵の会談の数日後であった。
死因については不明であったが、一部では毒殺という情報も飛び交っていた。
ポゼイユ侯爵は、“国王暗殺”に一枚噛んでいたのではないかと全権大使は考えた。
でなければ、このタイミングで次代国王の婚姻についての話など出て来ないだろう。
証拠が無いので、憶測の域を出ない事であったが。
セグーニュでは、第一王女が女王として即位するためにベルグへの帰り支度を始めたところであった。
戴冠式に必要な王冠等の宝物はベルグの宮殿にあるし、式を執り行うユラの神官もベルグに居るのだ。
何にせよ、リンド王国の状況が大きく変わった事は事実。
全権大使は本国と連絡を取り、天皇と宮内省に“婚姻”の
件の許可を取ると、早速ベルグの第一王女宛に親書を出した。
第一王女と歳の近い、皇国のとある宮家の男子との婚姻である。
この宮家は天皇とも近く、“家族”とは言えないが“他人”ではなくなる。
婚約が成立すれば、皇国皇室がリンド王家の親戚になるのだ。
ベルグの王宮では、大臣達が第一王女と共に緊急会議を開いていた。
「皇国は、これが狙いだったのか」
「リア公国の件、完全に利用されましたな」
「ですが、何と言おうと、現在の我が国には庇護者が必要です」
大臣達が頭を抱える中で、王女は毅然と言い放った。
「殿下……ですが、それを皇国に頼るというのは……」
「そうです。そもそも我が国がこのような境遇に陥ったのは――」
「皇国のせいだとでも?」
王女の発言に、大臣達は皆一様に驚く。
「皇国軍こそ、我が国土を侵略し、我が軍を壊滅させた張本人です!」
「では、この王宮をも大砲の射程に収めている皇国軍を擁する皇国の提案を、蹴りますか?」
「…………」
そう、皇国軍は、相変わらずベルグ市外に居座っている。
「出自も不明な、異世界の王との婚姻など、リンド王家の御先祖方に顔向けが出来ません」
「皇国は、新興国かもしれませんが強国です。それは、我が軍を簡単に蹴散らして見せた事でも解るでしょう」
「殿下、強国であれば何でも良いという訳ではありません」
「そうです。リンド王国の王女たるもの、正統なる王や貴族との婚姻こそが――」
王族や貴族は、同じく王族や貴族と結婚する。
特に王族となれば、上級貴族以上の家柄が求められる。当たり前の事だ。
「歴史もあるそうですね。建国から2600年の歴史が。歴史ある貴族の家もあるようですよ?」
「2600年前というのは“大破壊”以前ではありませんか。そんな大昔から続く王家など、存在し得ません」
「異世界には、大破壊は無かったのでしょう」
「という事は、皇国は悪魔の力を宿している可能性があります。尚更婚姻など――」
大破壊以前の人類は、“魔力”即ち悪魔の力を宿していたとされる。
その悪魔の力故に、神の怒りを買い、大文明が滅んだのだ。
もし、皇国が“魔力”を持っていたら、大破壊の再来だ。
実際、皇国軍の力は魔法を使っているとしか考えられないものだ。
「私は、父王の暴走の責任を取る立場です。そもそも、先に仕掛けたのは父です。
リアがユラの保護国であるという現状は確かに悔しい事ですが、それを
安易に武力で解決しようとした父は、大きな間違いを犯したのです。
私は、王の長女という立場にありながら、その暴走を止められませんでした。
命を投げ出すつもりはありませんが、異界の王くらい、この身を捧げても構いません」
「で、殿下……」
王女は、先王の寵愛など全く受けずに育っていた。
同じ王宮に住んではいるものの、顔を合わせる事は無かった。
公式の行事などで一緒に列席する事はあっても、会話は殆ど無い。
手紙の遣り取りも無かった。
妾腹の王女など、王の眼中に無かったのだ。
王女がしたためた“開戦に反対する手紙”も、先王に届く事はなかった。
『小娘に何が判る!』と言って手紙を破り捨てた事を、侍従長は忘れていない。
「殿下、殿下の御覚悟は十分解りました。ですが今一度、お考え直し頂けませんか?」
「皇国軍は、このベルグの物品を略奪するでなく、正貨を払っていますね。
乱暴狼藉も無い。そのような軍は信頼に値するものだと考えますが?」
「しかし、それだけでは……」
「略奪をせずにも軍を養えるという事は、国が豊かな証拠です。
皇国の金貨を見ましたが、非常に繊細な意匠で、芸術も理解しているようです」
王女が見たのは、皇国の20円金貨である。市内では、1リルス金貨と同等のものとして通用していた。
国王の肖像画等が刻印される事の多い高額貨幣だが、皇国貨幣は
傍から見れば簡素な、しかしよく描き込まれた植物が刻印されていた。
そして、皇国文字で“二十圓”と書かれている。
「目下の大問題には、数に勝る我が王国軍を瞬く間に打ち倒した精強なる皇国軍による庇護と、
たった1週間で飛竜基地を造営してしまう、皇国の技術力が是非とも必要です。
昨日の敵は今日の友と申します。もう、戦は終わらせましょう。
今後、皇国に唾を吐くような者がいれば、私が許しません」
「解りました。殿下の御心のままに……」
「殿下の御決心に、我々も気持ちが固まりました」
王女の強い意志に根負けした大臣達は、皇国とユラ神国への降伏を行うべく、早速作業を始めた。
といっても、実は事前から先王に内緒で準備していた草案があるのだが。
「戴冠式後すぐにリアへ出発し、降伏調印を行います。準備をよしなに」
夏が近づき、皇国ではそろそろ梅雨が明けて来る頃。
リア公国の首都ヴュカースにて、リンド王国の降伏調印式が行われた。
内容はリンド王国の皇国とユラ神国への降伏確認、リア公国の独立と
ユラ神国の保護にある事の追認、両戦勝国への賠償金の支払い等である。
同時に、皇国とリンド王国の“通商条約”と“軍事同盟”が締結された。
それから1週間。
皇国の某宮家の男子と、リンド王国女王の婚約が成され、同日一般に発表された。
これで宮家の君は“リンド王配殿下”となり、皇国の天皇家とリンド王家が親戚関係になるのだ。
これには東大陸諸国のみならず、西大陸諸国も驚きをもって迎えた。
どこの馬の骨とも解らぬ異界の王家との婚姻である。
リンド王国の先王はうつけという話は事実として広まっていたが、
現女王も何を考えているのかというのが社交界での専らの話題だ。
この世界では、王族、貴族同士の血縁関係は、皇国が考えるより重い。
王や貴族は、“血”の正統性でもって国や地域を統治するのであるから、
リンド王家に“異国の王家”として認められた形になる皇国の皇室は、
間接的にではあるが、この世界に“正統なる王家”として認められた事になる。
皇国はこの世界で“ただの強国”ではなく、“正統な強国”としての第一歩を踏み出したのだ。
逆に、皇国国内においてもこの異世界の異国――元の世界の異国・アメリカや中国等
よりも精神的にさらに遠い――に対し、“同じ人間”であるという認識が生まれるきっかけになる。
そして、女王と主要大臣、ポゼイユ侯爵しか知らぬ事だが、
皇国はリンド王国を防衛し、先進科学技術を提供する
見返りとして、リンド王国の食糧他の戦略資源を
優先的に安価で購入出来るという密約が存在した。
皇国が、リンド王国に対して復興事業の為に“円”の融資を行うという事も。
つまり、リンド王国は皇国から円を借りて、その円で皇国の物品や技術を買う。
例えば、リンド王国では東大陸で初の鉄道路線の建設計画が進められている。
これも、融資を受けた円でもって、皇国製の線路や車両を購入する訳だ。
このリンド鉄道は皇国も使用する。
このように、皇国とリンド王国は急速に緊密な関係を築き始めていた。