ポゼイユ城の、庭と言う名の草原で、領主であるリアンが車輪の付いた箱に乗っている。
馬車の室内ではない、ガソリンで動く自動車の運転席。
今、この車の御者はポゼイユ侯爵なのだ。
しかし、この車は鞭や手綱では動かないから、皇国の運転手が教官として横に座っている。
リアンは無免許だが、ここは私有地だし、何より皇国の交通法規に縛られないリンド王国である。
あらゆる意味で、運転の練習し放題の場所なのだ。
だから、あれを操ってみたいと駄々を捏ね……要望して
きた侯爵に、皇国の外交官がこうして教習所を開いている。
ちなみに教官への謝礼金は、リンド王国に駐在する外務省の活動費として計上される。
教習に使うガソリン代や何やらを差し引くと殆ど残らないが、友好関係は金銭に換えられない。
科学技術に理解力のある貴人に相応の待遇をする事で、皇国としての利益を考えれば、断る理由は無かった。
「では、ハンドブレーキを緩めて頂いて……」
「……動かないわ」
スロットルレバーを下げているのに、エンジンが唸る音は聞こえるのに、自動車は動かない。
「左足のペダルの踏み込みが浅いので、クラッチが繋がっていないだけです」
「えぇと、ハンドブレーキを緩めながら一番左のペダルを踏み込んで、右手でスロットルを入れて、
加速したら一番左のペダルを放して、減速や止まる時はスロットルを放して一番右足のブレーキね……」
「はい。中央のペダルは後進用ですので、今は無視して結構です。
あと曲る時は、減速して下さい。高速で曲ると危険ですので」
もう一度、動作を確認して再挑戦。
「動いた! 動いたわ!」
人が歩く程度の速度で走り出した自動車は、すぐに走っても追いつけない程になった。
「おめでとうございます。もう少し速くなりましたら、左足のペダルを放しましょう」
ローギアからハイギアに入ると、自動車は更に加速して行く。
最初は気分良さそうにしていたリアンも、加速が止まらない事に蒼褪めている。
リアンがスロットルレバーを下に入れっ放しだから、速度は50km/h近く出ているのだ。
乗馬より速いだろうし。リアンが普段乗る馬車に比べれば、倍以上の速さの筈だ。
「閣下、速度を緩めましょう……閣下?」
「…………」
リアンの表情は強張り、体は固まっている。
「閣下! お気を確かに!」
「は、速い速い! 止まってー!」
叫んだところで、右手がしっかりスロットルを入れているのだから、急勾配でもなければ止まらない。
殆ど平坦な草原で、先には林が広がっている。このままだと、あと30秒程で木に衝突する。
「落ち着いて、右手のレバーを上げて下さい」
「上げたわ……」
「では、そのまま左足のペダルを一杯に踏み込み、右足のペダルもゆっくり踏み込んで下さい」
ブレーキがかかり、自動車は林に突っ込む前に停止した。
「止まったわね……」
呆然としていたリアンだが、少し落ち着いたようだ。
その間に、教官が助手席から手を伸ばしてハンドブレーキを掛けていた。
「思っていたより、危険な乗り物ね……」
「確かに危険な側面はありますが、馬車であっても人を轢き殺す事はあります。要は御者の技量。
慣れれば大丈夫です。偉そうに指示している私も、初日から上手く運転は出来ませんでしたよ」
「慣れるまで、どれくらいかかるかしら?」
「覚えの早い人なら、数日で。そうでなくても、まあ一月もじっくり練習すれば」
「一月ねぇ……」
「リンド王国の中を走るのであれば、左足のペダルを放した後は
右手のスロットルを緩めて、限度まで加速しないように注意する事と、
右足はいつでもブレーキペダルを踏み込めるように準備を怠らない事です」
そうでないと、人馬を轢き殺し、家屋に衝突する破目になる。
無茶なブレーキ操作で自動車が故障しても、事故を起すよりはマシだ。
故障した自動車は修理すれば良いが、撥ねられた方はそうもいかない。
「皇国の道路を走る為には、皇国で制定されている交通法規を覚えて頂き、
試験に合格しないとなりませんが、閣下にそちらの方の心配は無用でしょう。
来訪して頂ければ、皇国での乙種運転免許の取得は直ぐですね」
「そうね……。皇国の道をこの自動車で走ってみたいものだわ」
「まあ、大通りでは他にも自動車が走っているので、それと
ぶつからないようには走って頂かないと困りますが」
「…………」
この皇国人教官が運転した時の手際の良さから、リアンは自動車の運転は乗馬より簡単だと思っていた。
しっかりと調教された馬であれば、数日と言わず数分で乗りこなせるから、その程度の難度だろうと。
「自動車でこれだと、飛行機は更に難しそうね」
「ああ、あれは……比較対象として適切ではないでしょう。
飛行機の場合、一月で修得は無理です。最低でも半年から一年。
あれで戦闘を行えるようになるには、さらにそこから一年以上です」
「凄いわね……」
「しかし、飛竜騎士の方々こそ、それこそまだ10歳かそこらで訓練を始めて、
人と竜が文字通り一つになるように訓練されるでしょう。その努力には敵いません」
「この場合、結果が問題なの。努力は、結果を得るために行うものでしょう?
皇国の兵士が行った数年の努力で、竜騎士の10年以上の努力を無にされたらね……。
だから凄いと言ったのも、たった数年で飛竜を易々と射落とす兵を育成する事に対してよ」
リアンの関心は、結局は機械の可能性に向けられていた。
操作の修得が難しくても、結果が伴うならば努力する意味は十分にある。
それに、この皇国の自動車だって、リアンが見せて貰った事のある蒸気自動車に比べたら簡単だ。
左足のペダルで操作する変速機という機構があるから、発進から高速での巡航までスムーズに行く。
デュヴィの蒸気自動車の場合、多段変速機が無くてエンジンと動輪が直接繋がって
いるから、前進1段、後進1段と停止の為のニュートラルという事になるだろう。
まず走り始めるのが大仕事で、速度の微調整もこんなに簡単には行かない。
これはつまり、科学技術の進展によっても操作の難度は克服可能という事を意味する。
複雑な機械であれば操作も複雑になるのが普通だが、操作を簡単にする為の技術もある訳だ。
タッチホール式の銃からマッチロック式の銃が開発され、フリントロック式に発展したように。
「乗馬を育成して調教するのは手間がかかる。仔馬を一人前の騎馬にするにはね。
自動車を造るのだって、生半可な技術力では不可能なのは痛いほど解るけれど……。
手間に見合う結果として見た場合、騎馬が自動車より安いとは、必ずしも言えないと感じるわ」
自動車なら、必ずしも毎日の手入れは必要ない。
毎日乗り回すなら別だが、数日に一度の利用ならばその都度の点検で足りる。
だが、馬や竜は生き物だから、一年間全く利用しなくても、毎日の世話は欠かせない。
それも自動車と違って、一日に何度も餌をやって厩舎を掃除して……という重労働だ。
自動車は機械だから、故障してもその間使えなくなるだけで、数日間放っておいても良いが、
馬が病気になった時に数日間放っておいたら、死んでしまって永遠に使えなくなるだろう。
馬車と自動車。飛竜と飛行機。
どちらも、複雑な機械を無理してまで造る意味を否定する人は多い。
しかし、風車小屋や水車小屋は良くて、蒸気小屋は駄目だという合理的な理由があるのだろうか?
答えはリアン自身が証明してみせた。
その後、数時間の運転教習で前進から後進まで、一通り自力で運転可能なまで上達したのだ。
まだ少しぎこちない部分はあるものの、皇国の自動車教習所でも合格レベルだろう。
ステアリングを握るリアンは、したり顔である。
「今日はありがとう。私の我侭を叶えてくれた事に感謝を」
「閣下に御仕え出来て、こちらも光栄です。私からも感謝を」
お互い握手すると、帰り道に運転を代わる為、自動車から降りる。
「ふふっ。こんな小娘でも駿馬を操るように乗り回せたって、宣伝しておくわ」
「では、閣下が暴れ馬に振り回されていたというのは、国家機密という事で……」
馬車の室内ではない、ガソリンで動く自動車の運転席。
今、この車の御者はポゼイユ侯爵なのだ。
しかし、この車は鞭や手綱では動かないから、皇国の運転手が教官として横に座っている。
リアンは無免許だが、ここは私有地だし、何より皇国の交通法規に縛られないリンド王国である。
あらゆる意味で、運転の練習し放題の場所なのだ。
だから、あれを操ってみたいと駄々を捏ね……要望して
きた侯爵に、皇国の外交官がこうして教習所を開いている。
ちなみに教官への謝礼金は、リンド王国に駐在する外務省の活動費として計上される。
教習に使うガソリン代や何やらを差し引くと殆ど残らないが、友好関係は金銭に換えられない。
科学技術に理解力のある貴人に相応の待遇をする事で、皇国としての利益を考えれば、断る理由は無かった。
「では、ハンドブレーキを緩めて頂いて……」
「……動かないわ」
スロットルレバーを下げているのに、エンジンが唸る音は聞こえるのに、自動車は動かない。
「左足のペダルの踏み込みが浅いので、クラッチが繋がっていないだけです」
「えぇと、ハンドブレーキを緩めながら一番左のペダルを踏み込んで、右手でスロットルを入れて、
加速したら一番左のペダルを放して、減速や止まる時はスロットルを放して一番右足のブレーキね……」
「はい。中央のペダルは後進用ですので、今は無視して結構です。
あと曲る時は、減速して下さい。高速で曲ると危険ですので」
もう一度、動作を確認して再挑戦。
「動いた! 動いたわ!」
人が歩く程度の速度で走り出した自動車は、すぐに走っても追いつけない程になった。
「おめでとうございます。もう少し速くなりましたら、左足のペダルを放しましょう」
ローギアからハイギアに入ると、自動車は更に加速して行く。
最初は気分良さそうにしていたリアンも、加速が止まらない事に蒼褪めている。
リアンがスロットルレバーを下に入れっ放しだから、速度は50km/h近く出ているのだ。
乗馬より速いだろうし。リアンが普段乗る馬車に比べれば、倍以上の速さの筈だ。
「閣下、速度を緩めましょう……閣下?」
「…………」
リアンの表情は強張り、体は固まっている。
「閣下! お気を確かに!」
「は、速い速い! 止まってー!」
叫んだところで、右手がしっかりスロットルを入れているのだから、急勾配でもなければ止まらない。
殆ど平坦な草原で、先には林が広がっている。このままだと、あと30秒程で木に衝突する。
「落ち着いて、右手のレバーを上げて下さい」
「上げたわ……」
「では、そのまま左足のペダルを一杯に踏み込み、右足のペダルもゆっくり踏み込んで下さい」
ブレーキがかかり、自動車は林に突っ込む前に停止した。
「止まったわね……」
呆然としていたリアンだが、少し落ち着いたようだ。
その間に、教官が助手席から手を伸ばしてハンドブレーキを掛けていた。
「思っていたより、危険な乗り物ね……」
「確かに危険な側面はありますが、馬車であっても人を轢き殺す事はあります。要は御者の技量。
慣れれば大丈夫です。偉そうに指示している私も、初日から上手く運転は出来ませんでしたよ」
「慣れるまで、どれくらいかかるかしら?」
「覚えの早い人なら、数日で。そうでなくても、まあ一月もじっくり練習すれば」
「一月ねぇ……」
「リンド王国の中を走るのであれば、左足のペダルを放した後は
右手のスロットルを緩めて、限度まで加速しないように注意する事と、
右足はいつでもブレーキペダルを踏み込めるように準備を怠らない事です」
そうでないと、人馬を轢き殺し、家屋に衝突する破目になる。
無茶なブレーキ操作で自動車が故障しても、事故を起すよりはマシだ。
故障した自動車は修理すれば良いが、撥ねられた方はそうもいかない。
「皇国の道路を走る為には、皇国で制定されている交通法規を覚えて頂き、
試験に合格しないとなりませんが、閣下にそちらの方の心配は無用でしょう。
来訪して頂ければ、皇国での乙種運転免許の取得は直ぐですね」
「そうね……。皇国の道をこの自動車で走ってみたいものだわ」
「まあ、大通りでは他にも自動車が走っているので、それと
ぶつからないようには走って頂かないと困りますが」
「…………」
この皇国人教官が運転した時の手際の良さから、リアンは自動車の運転は乗馬より簡単だと思っていた。
しっかりと調教された馬であれば、数日と言わず数分で乗りこなせるから、その程度の難度だろうと。
「自動車でこれだと、飛行機は更に難しそうね」
「ああ、あれは……比較対象として適切ではないでしょう。
飛行機の場合、一月で修得は無理です。最低でも半年から一年。
あれで戦闘を行えるようになるには、さらにそこから一年以上です」
「凄いわね……」
「しかし、飛竜騎士の方々こそ、それこそまだ10歳かそこらで訓練を始めて、
人と竜が文字通り一つになるように訓練されるでしょう。その努力には敵いません」
「この場合、結果が問題なの。努力は、結果を得るために行うものでしょう?
皇国の兵士が行った数年の努力で、竜騎士の10年以上の努力を無にされたらね……。
だから凄いと言ったのも、たった数年で飛竜を易々と射落とす兵を育成する事に対してよ」
リアンの関心は、結局は機械の可能性に向けられていた。
操作の修得が難しくても、結果が伴うならば努力する意味は十分にある。
それに、この皇国の自動車だって、リアンが見せて貰った事のある蒸気自動車に比べたら簡単だ。
左足のペダルで操作する変速機という機構があるから、発進から高速での巡航までスムーズに行く。
デュヴィの蒸気自動車の場合、多段変速機が無くてエンジンと動輪が直接繋がって
いるから、前進1段、後進1段と停止の為のニュートラルという事になるだろう。
まず走り始めるのが大仕事で、速度の微調整もこんなに簡単には行かない。
これはつまり、科学技術の進展によっても操作の難度は克服可能という事を意味する。
複雑な機械であれば操作も複雑になるのが普通だが、操作を簡単にする為の技術もある訳だ。
タッチホール式の銃からマッチロック式の銃が開発され、フリントロック式に発展したように。
「乗馬を育成して調教するのは手間がかかる。仔馬を一人前の騎馬にするにはね。
自動車を造るのだって、生半可な技術力では不可能なのは痛いほど解るけれど……。
手間に見合う結果として見た場合、騎馬が自動車より安いとは、必ずしも言えないと感じるわ」
自動車なら、必ずしも毎日の手入れは必要ない。
毎日乗り回すなら別だが、数日に一度の利用ならばその都度の点検で足りる。
だが、馬や竜は生き物だから、一年間全く利用しなくても、毎日の世話は欠かせない。
それも自動車と違って、一日に何度も餌をやって厩舎を掃除して……という重労働だ。
自動車は機械だから、故障してもその間使えなくなるだけで、数日間放っておいても良いが、
馬が病気になった時に数日間放っておいたら、死んでしまって永遠に使えなくなるだろう。
馬車と自動車。飛竜と飛行機。
どちらも、複雑な機械を無理してまで造る意味を否定する人は多い。
しかし、風車小屋や水車小屋は良くて、蒸気小屋は駄目だという合理的な理由があるのだろうか?
答えはリアン自身が証明してみせた。
その後、数時間の運転教習で前進から後進まで、一通り自力で運転可能なまで上達したのだ。
まだ少しぎこちない部分はあるものの、皇国の自動車教習所でも合格レベルだろう。
ステアリングを握るリアンは、したり顔である。
「今日はありがとう。私の我侭を叶えてくれた事に感謝を」
「閣下に御仕え出来て、こちらも光栄です。私からも感謝を」
お互い握手すると、帰り道に運転を代わる為、自動車から降りる。
「ふふっ。こんな小娘でも駿馬を操るように乗り回せたって、宣伝しておくわ」
「では、閣下が暴れ馬に振り回されていたというのは、国家機密という事で……」