滞る深い闇に、満月からの淡い光が差し込み、幻想的な色彩を織り上げている。
舞台は、荒木飛呂彦が造り出した戦闘世界の辺端――高層ビルの一室。
光源無き空間には、一切の物音すら響かず。
月光に照らされた床上に佇み、対峙するのは、二人の男。
外の暗黒を切り取る窓の際で、涼しげな表情を崩さぬ色黒の青年。
唯一の部屋の出入口である扉の傍らで、鋭い光を瞳に宿す伊達男。
互いの距離は、十歩にも満たない。
だが、その小さな間隙に滾るのは、決定的なまでの不寛容の気配。
異能を持つ者として研ぎ澄まされた彼らの感覚が捉え、
不用意な動作を抑え込むのは同じもの――一触即発の、緊張。
静寂を破ったのは、鍔付き帽の側だった。
「『願ったり叶ったり』って奴だな――
殺人犯が名乗りを上げ、しかもそれが顔見知りだったとは」
マウンテン・ティム。
元、スティール・ボール・ラン・レース優勝候補。
現、合衆国連邦保安官。
並びに、スタンド使い。
「あの『スタンド使い』は、私が『始末』した――
それは確かな真実の世界だ」
マイク・O。
大統領身辺警備・機密調査担当。
並びに、スタンド使い。
二人が知るのは、互いの素性のみだった。
彼らは熟知している――
自らのスタンド能力を信頼できぬ他者に教えるのは、最も忌避すべき行いなのだと。
「しかし――結論から言っておく。
私は、この殺し合いの世界に参加するつもりはない」
述べながら、マイク・Oは相手の所持品を確認する。
マウンテン・ティムの左手に取られるのは、自分の支給品だった通信機。
右手に握られているのは、不可解だが――至極単純な造りのロープ。
「では、お前が殺したあの男は何者だ?」
眉根を寄せ、マウンテン・ティムが紡ぐのは当然の疑問。
部屋を乱反射する月光が、その整った面持ちを照らし出す。
「私は、襲い来る敵に最小限の対処をしただけだ――
先に攻撃を仕掛けてきたのは、奴だ」
「――どうとでも言えるだろうさ。目撃者は、既に仏だ」
紡がれる真実の弁解に、鼻で笑い返すマウンテン・ティム。
口調とは裏腹に、その眼光は厳しさを増す。
「分かってるんだろ、マイク・O?
『参加者』を一人殺害した――その事実だけで、
お前をこの場で『逮捕』する理由には十分足り得るんだよ」
具体的な単語に、マイク・Oの身体が、一歩だけ後じさる。
彼の視線は、ティムの握るロープへと注がれた。
――両の腕でも、束縛するつもりなのか。
「……私を、これからどうするつもりだ?」
「俺達と共に行動してもらう。
ただし、お前に『自由』は与えない」
掲げたロープを揺らしながら放たれた、マウンテン・ティムの宣言に、
マイク・Oは先の予測を確信のものとする。
「そちらから事を起こさなければ、
俺も荒っぽい真似をするつもりはない。
容疑が晴れれば、その場でお前を解放する」
保安官の表情を見据え、マイク・Oは内心を汲み取る。
それは、嘘偽りのない忠告。
「――どちらにせよ、答えを決めるのはお前だ。
俺を振り切って、逃げ果せる自信があるならやってみな。
……それとも、ここで殺し合うかい?
ハッキリ言わせてもらうが――"俺が負ける気は全くないな"」
首を僅かに傾げ、おどけたようにマウンテン・ティムは言う。
だが、やはり眼光は一切笑っていない。
マイク・Oは額に指を当て、思考を巡らせた末に――結論を下した。
「……分かった。
疑惑を晴らす為にも、共に行動する世界としよう」
驚嘆の表情を浮かべたのは、マウンテン・ティム。
相手の回答が、意外な程に早かったのである。
「私としても、お前との戦闘は避けたい。
そして、ありとあらゆる場所に危機が潜むこの世界だ――
安全の為にも、複数人での行動の世界が望ましいだろう」
ここまで語ると、口を閉ざし、マイク・Oは低く嘆息する。
両の手を挙げ、カウボーイハットの側へと向ける。
その行為が示すのは、相手への服従。
合意が形成されたと見なし、無言で頷きかけると、
マウンテン・ティムは一歩……また一歩、身を接近させていく。
「しかし、なんだな……」
慎重な歩調に浴びせられたのは、唐突な発言。
「……"我ながら、『スタンド使い』という人種は、
酷く厄介で、度し難い輩だとは思わないか?マウンテン・ティム……?"」
相手の口から零れ出した奇妙な言葉に、
歩を進めていたマウンテン・ティムは僅かにたじろぐ。
それに構わず、マイク・Oは淡々と言葉を連ねる。
「"例えば、能力の射程範囲内である事実も露知らず、
平然とそこに足を踏み入れてしまったりする"……」
「――――ッ!?」
――マウンテン・ティムは、見た。
眼前のスタンド使いの瞳に浮かぶ、鈍い輝きを。
既にそれは、合意と従属の意志ではない。
意図せずに溢れ出る、軽蔑の眼差し。
ほの昏い、微笑。
起こりつつある状況を理解したマウンテン・ティムが、
ロープを取る右手に意識を向けようとする。
だが、その行動はあまりにも遅過ぎた。
微小な風切音が、狭い室内に共鳴する。
それに続くのは、肉が裂き千切れ骨が粉砕する、鈍音。
噴き上がる血飛沫の一部をその顔面に受けながら、
マイク・Oの視覚が捉えたのは、上方から飛来し、
マウンテン・ティムの左肩に突き込まれた、四角形の金属塊。
本来の姿――建造物の外壁に取り付けられ、ガラス板を支える窓枠――を
取り戻し、質量に従い急降下した『バブル鳥』。
その剥き出しの断面が、骨肉を抉り、熱い鮮血を体外に散らせる。
激烈な衝撃は、瞬く間にカウボーイの鎖骨を両断し、左腕を肩口ごと吹き飛ばす。
接合から解き放たれた一本の肉塊は、宛ても無く空中を踊り、地を掻いた。
彼の左手に握られていた通信機――トランシーバーも、
からからと間の抜けるような音を鳴らして、部屋の隅の陰へと転がり、失せる。
「…………?」
苦痛の呻きすらも発せぬまま、仰向けに崩れ落ちるマウンテン・ティムの体躯。
鍔の下の表情は、何が起こったのかまるで判らない、といった様相。
ただただ、切断面からは血泡が止め処なく噴き上がり、
赤黒い液体が合成樹脂の床に侵食を始める。
「――この世界は、金属に恵まれた世界で助かった」
窓枠――マウンテン・ティムの血糊がこびり付いた凶器――が、
寸時の後に床に転倒する反響音を背に、
抑揚に欠けた声で、マイク・Oは呟いた。
「天井の闇に忍ばせていた『バブル鳥』――
その能力を解除し、貴様に『ギロチン処刑』の世界を処した」
左腕を欠いたマウンテン・ティムが、傍らで震えている。
激烈なショックに全身の神経系が対応できず、がたがたと。
「…………き……さ、ま…………ッ!」
首を巡らせるのが、精一杯の様相。
荒々しい呼吸の間で、紡がれる言葉が意図するものとは。
その視線は、自らの致命傷に気に掛ける風も無く、敵の顔面を突き刺して。
「しかし、驚いたな――」
対するマイク・Oも、仰向けの姿勢にあるマウンテン・ティムの双眸を見下している。
両者の視線は交わり、しかしそこに意思の疎通は一片すら存在しなかった。
「一瞬早く落下を察知し、頭蓋骨の破断を免れた世界か」
冷ややかな眼光に曝されるのは、
吹けば飛ぶほど弱々しく、しかし確固たる想いの炎が籠った瞳。
その熱い指先が、敵の靴先を捕えるべく、揺れる。
「その危険察知能力は、流石といった所だな」
マウンテン・ティムの蒼白の頬が、呻きと共に歪む。
マイク・Oの靴底が、彼の差し出した右手を足踏にしたのだ。
「――だが、これで終わりだと思ったか?」
囁くように発せられた問いは、非情なる宣告。
同時に降り来たる、慈悲なき追撃。
金属塊へと還ったもう一体の『バブル鳥』が、
動けぬティムの胴に衝突、その上腹部を垂直に両断した。
続けざまの衝撃に、びくり、と痙攣するティムの上半身。
瞳に滾っていた朧ろげな光は、致死の一撃に、今や完全に消失した。
二度目の攻撃を終えてから、マイク・Oは暫くの間動かなかった。
敵の思わぬ反撃を警戒していたのである。
その結果として、十数秒の静寂の時間が発生する。
脳を溶かすような鋭い血臭が、部屋を渦巻く。
あまりにも大き過ぎる傷口から溢れ出す二つの血溜まりが、
ゆるやかな速度で床上に散大する。
憮然とした表情で、敗者を見下し続けていたマイク・O。
その呼吸の静止を確認すると、
コートの背をひるがえし、部屋の隅のドアに指を掛け――。
しかし、そこで彼は立ち止った。
「――――すべては、」
ふいに、黒瞳を翳りが彩り、
その唇が、聞き手のおらぬ言葉を紡ぎ出す。
「大統領夫人の、為だ」
幽かな呟きは、背にした屍への、せめてもの餞なのか。
次の瞬間には、マイク・Oの双眸は本来の冷淡さを取り戻していた。
ドアと壁の間隙へと影のように滑り込み、部屋から立ち去る。
(マウンテン・ティムには仲間がいた。
網状の服を纏った、長髪の男)
視界に広がるのは、闇が遮り、奥の見通せぬ廊下。
マイク・Oの思考は、既にビルを脱出する手法の模索へと移っている。
(ティムの仲間である男と、彼に手を掛けた身である私。
出会えば、衝突する可能性は高い。
無用な戦いは、避けたい)
奥に待つ階段に向けて、速やかに駆け進む。
足音は限りなく小さく、誰かにそれが聞かれぬように。
(一秒でも早く、この建物から脱出しなければならない)
階段を目前にして、視線を走らせる。
傍らの壁面に記された表示――『十四階』。
その数値を確認すると、マイク・Oの身体は降下を始めた。
先の戦闘で負傷した左脚が痛むが、階段の昇降程度はできる。
二階を降った時点で、彼の靴先が、ふと静止する。
彼の聴覚は、下階から微かに響く一つの音を捉えていた。
(『足音』――この階段の真下、五階ほど降りた場所か)
長髪の男のもの――彼はそう推測する。
降り続けていた階段を数段戻り、
手近な階の廊下に移ると、再び疾走を始めた。
(奴は階段付近にいる。
ならば、『こちら』を使うまでだ)
廊下を隔てた先にある、『非常階段』。
上階を行く際、その出入口を彼は既に確認している。
思惑通りに見つかったそれに、小さく息を付く。
非常階段へのドアは、上階と同じ配置に存在していた。
ドアノブに手を掛け、鉄製の重い扉を開放する。
その奥へと足を踏み入れ、
マイク・Oの肌が外気を感受した、次の瞬間――。
――何が起きたのか、解らなかった。
最初に認識したのは、重力からの解放感。
次に、雲一つない漆黒の夜空。
その次に、全身を駆け巡る衝撃と苦痛の嵐。
マイク・Oは、狭い非常階段を踊り場まで転がり落ち、
訳も判らぬまま、手摺に頭の先を激突させ、
激痛に胴を捩り、狭い床の上で悶え苦しんだ。
肺から意図せず漏れ出す呼気が、
喉を震わせ低い呻きを発する。
両腕両脚は勝手に床を跳ね回り、
他人事のようにすら思える衝突音が鼓膜を揺らす。
目の端に捉えた下方への階段の認知とそれによる肉体の反射が、
更なる落下と転倒を寸で押し留める。
脳を分断するような、強烈な頭痛が込み上げていた。
そして臓腑の奥底から切迫する吐き気。
揺らぐ視界に覗く満月に覚える悪寒。
激烈な苦痛に溶解した聴覚が、上方からの声を捉えた。
発せられたのは、たった今まで、自分が立っていた場所。
非常階段の出入口。
「『ダイバー・ダウン』ッ!
既に扉に潜行し、通った人間をブッ飛ばす『トラップ』に変形させたッ!」
説明っぽい男の声を聞きながら、
駆け巡る苦痛が、時間と共に僅かに引いていくのをマイク・Oは感じた。
理性の刃が意識を裂き、自身の状況を再確認するべく伸び行く。
――マウンテン・ティムを殺した。ビルから逃げようとした。
非常階段の扉を開けた。階段を転がり落ちた。敵が上にいる。
「――『足音』が、聞こえただろ?
あれもドアを改造し、作り出した俺の『足音発生装置』。
お前をここまで追い込む為の、『罠』だ」
敵の解説に、耳を傾ける暇は無かった。
階段の転倒による全身の打撲傷は決して致命的ではないが、
頭部へ衝撃は平衡感覚に変調を来していた。
息も絶え絶えに床を這いずり、踊り場の手摺に寄り添うと、
禍々しい形状の『罠』と化した扉の前に屹立し、
こちらを見下ろす長髪の男――
ナルシソ・アナスイ――の姿を視界に収める。
「既にビル中に『罠』を張り巡らせているッ!
その一段下の階段も、扉も壁も何もかもだッ!」
(マウンテン・ティム……私が逃げた事をこの男に吹き込んだのか?
いつの間に、どうやって――信じられんッ……!)
湧き上がる疑問に、しかし今は対峙すべき時ではなかった。
朦朧とする視界の中で、いや増す頭部の鈍痛を振り切り、
マイク・Oは自らのポケットから一つの物体を掬い出す。
それは、基本支給品の一つ、『方位磁針』。
(方角は、空を見て知ればいい――時計を失うよりはマシ)
震える両手の指先に、添えるようにその小さな物体を乗せる。
背を軽く反らせ、口と喉を開き、両の肺に精一杯の外気を取り込む。
方位磁針の外部を覆う金属部分に唇を合わせ、
肺の中の全ての呼気――彼の異能の礎――を吹き込んでいく。
『チューブラー・ベルズ』のスタンド能力は、物理法則を歪曲させ、
本来のそれならば絶対に有り得ぬ形の『ふるまい』を金属に強制させる。
彼の呼気に反応し、ただ持ち主に方角を伝える存在だったはずのそれは、
ゴムのように歪曲、見る見るうちに膨張、巨大化して――。
マイク・Oの両手の中で、一つの『風船』が完成した。
「おい、お前……一体、何をしているッ!?」
ナルシソ・アナスイが階段の上から喚く。
眼前で巻き起こる異常な現象に困惑し、敵に接近できないでいた。
その間にも、マイク・Oの両手の指は、
驚嘆すべき速度で『風船』を捻り、曲げ、各所を結う。
(成功率は、決して高くない。
だが、もう他に手段を選べない世界だ――)
超絶的な技巧により、十秒足らずで完成したバルーンアートは、
まるで水をたゆたう『鴨』のような造形。
しかしそれは、単なる子供の玩具などではなく、
本来の鳥のごとく地を這い、飛翔する、『バブル鳥』。
「……妙な動きをしてるんじゃねぇ――――ッ!」
警告の絶叫を放ち、一段だけ、身を降ろすナルシソ・アナスイ。
その表情は、始まりつつある異状への緊迫に引き攣っていた。
(飛翔せよ――我が『バブル鳥』)
『チューブラー・ベルズ』の風船生物は、
本体であるマイク・Oの忠実な部下として機能する。
造り出した『バブル鳥』を、マイク・Oが差し向けたのは、しかし――
敵たるアナスイの元ではなかった。
風船使いが仰ぎ見たのは――漆黒に満ち満ちた、虚空。
二人のスタンド使いが対峙する、この非常階段の、『外部』。
「……な…………ッ……!?」
この時初めて、相手の心の裡を知り、
ナルシソ・アナスイは階段を下へと駆け出した。
両腕に異形の生命を抱く、敵の背を目指して。
アナスイの身体から放出された、スタンド『ダイバー・ダウン』のヴィジョン。
激烈な破壊のエネルギーを宿すその指先が、
敵を捕えるべく、暗闇の深淵へと伸び上り――――!
――――なにもない空を、掻いた。
アナスイの視界の中で、地上約三十八メートルからの『落下』を決行した敵の、
幻影のような一瞬に垣間見えた、その表情は。
……逃亡の成功による歓喜に、口元を釣り上がらせていた。
「――――野郎ッ!」
一瞬の後に、非常階段の踊り場は元の静寂さを取り戻す。
今の今まで巻き起こっていた対決など、最初から無かったかのように。
手摺に這うように掴まり、アナスイは遥か下界を見据える。
非常階段の直下はビル同士の間隙であり、
満月の光が照らす領域とは一線を違えていた。
それでも微かに覗く地の上に、既に男の姿は皆無。
穏やかな風が、首元から暗夜へと伸びる長髪を撫でる。
「…………ッ!」
ナルシソ・アナスイは、音が鳴る程に強く奥歯を噛み締めた。
敵を逃した屈辱が、彼の自尊心をじわじわと脅かす――。
★ ★ ★
間一髪、だった。
『バブル鳥』の浮力による落下速度の軽減と、
風船の弾力を用いた激突衝撃の緩和。
高度数十メートルからの肉体の落下という状況を前にして、
この二つの要素がどれ程の効力を与えるかは、全くの未知数だった。
しかし、うつ伏せに転倒した体勢で、
マイク・Oは、地を眼前に淡い笑みを形作っている。
「上出来の世界だな――」
立ち上がる際に、誰にともなく、ぽつりと呟く。
首を巡らせ、地との接触で弾け飛んだコートの袖を確認する。
右肘付近の皮膚に生々しい擦り傷が覗いているが、
逃亡の代価としては、あまりにも些細なものだった。
両の手でコートとズボンを叩き、付着した土埃を落とす。
そして、闇の中を浮遊する『バブル鳥』への能力を解除する。
大の男一人が抱えられる程のサイズだったそれは、
一瞬で直径数センチメートルの金属片に姿を戻し、マイク・Oの掌へと落ちた。
既に磁針などの余計な部分は剥がれ落ち、金属製のケースのみと化している。
持ち歩ける貴重な金属塊をポケットに忍ばせると、
ビル同士の間隙の空間から、マイク・Oは近場の道路へと駆け抜ける。
その瞳は、せわしなく辺りを見回す。
自らのスタンド能力の媒介となる、金属を求めて。
(奴らは、この建物から一歩たりとも逃がさない――
我が『チューブラー・ベルズ』の世界で)
★ ★ ★
「どうやら、逃げられたようだな」
仄かな月光が照らし出す、非常階段の踊り場。
聞き慣れた声を耳にして、ナルシソ・アナスイはそちらへと視線を巡らせた。
――それは、『頭上』の方向。
アナスイの佇む踊り場に、上階から一本のロープが垂れ下がっていた。
その持ち主であり、声を放った張本人でもある男――マウンテン・ティムが、
分断した肉体をロープと一体化させた状態で、滑り降りて来る。
「しかし、お前は十分にやってくれたよ」
下界へと自らの四肢を落しながら、
ティムは仲間を宥めようと声を掛ける。
「今回の責任は、俺にある。
俺の情報不足が、奴を逃してしまったんだ――」
「いや」
慰めの言葉は、しかし、アナスイの意外な言葉が遮った。
「まだ、やれる」
力強い響きが、夜の闇に染み渡った時には既に、
アナスイから現出した『ダイバーダウン』の両手が、
ティムと融合した物干しロープの端を握り締めていた。
「……行くぞ、『ダイバー・ダウン』」
「…………ッ!?」
カウボーイが疑問を差し挟む間も無く。
ナルシソ・アナスイの身体は非常階段の手摺を越え、
両の腕を開き、軽々と飛び込んだ――。
――暗黒の覆う、三十八メートル奥の、冷たき地平へと。
「ティムッ!お前を待っていたッ!」
下方から巻き上がり襲い来る、猛風――落下物への当然の空気抵抗。
全身を煽られながら、それに負けじと言わんばかりに放たれる絶叫。
自らの幻影と右腕同士を組み合わせ、
スタンドの左腕を、ビルの外壁に『潜行』させて、
ナルシソ・アナスイは『降下』する――敵の待つ地上へと!
「奴を叩くッ――今、ここでッ!」
その上で、物干しロープと融合した分裂状態のまま、
風に揺られ空中を踊るマウンテン・ティム。
彼と一体化するロープの端は、アナスイの左手が掴んで離さない。
二人の視界の中で、爆発的に拡大する冷たき地表面。
躊躇、容赦など欠片すら見せず、致死の激突を平然と待ち侘びている。
一呼吸付く間もなく、漆黒の顎は降下者達を包み込んで――。
――ヒールの靴底が、固い地を叩く。
非常階段からのダイヴは、数秒で終結した。
降り立ったのは、狭小な空き地。
四方を建築物に挟まれた、静寂と闇のみが支配する空間。
ナルシソ・アナスイの背後で、マウンテン・ティムの、
『オー・ロンサム・ミー!』の異空間を経て分裂した体躯が、
物干しロープを介して次々と結合していく。
暗闇を通して、二人の視線が重なり合い、頷き合う。
言葉が無くとも、互いの意志は通じている。
彼らの視線は周囲を巡り、外部より漏れる光を確認する。
出口は、左右。
共に、幅一メートルに満たない、路地とすら呼べない間隙。
その、両の道から――
獰猛な唸りを吐きながら、数体の影が、彼らに向けて接近する。
左方から、三体。
右方から、四体。
生きる風船細工――『バブル犬』達が、
獲物たる男達に向けて、獣の吐息を洩らす。
全てが、体長一メートルを優に超える、猛獣。
溢れる呻きは、狭い空間を反響し混じり合い、
闇を通じて、不気味なアンサンブルを共鳴させる。
二人の能力者は背を合せ、七体の異形と対峙する格好。
揺れる獣の影は、男達を円状に囲い込むと、一旦静止した。
そして、この一角を揺らしていた奇怪な合唱も、終わる。
造られた生命の無機質な瞳は、二人の人間に何を見たのか。
激突を後に控えた、静かなる間隙の時が、始まり――唐突に終わる。
七つの猛進と、マウンテン・ティムの右手が躍ったのは、完全に同時だった。
空を切り、神速で闇を巡る物干しロープが、
二人の周囲を『結界』のように囲い込む。
本能の忠実な僕である『バブル犬』達は、敵の行動などお構いなしに、
その肉に噛み付く為に実在しない口を開け、突っ込んで――。
――その動きを、止める。
……いや、厳密には止まっているのではない。
彼らの太い脚は忙しなく動き、獲物への肉食衝動に全身を蠢かせている。
それでも、前に進めない。移動できない。
マウンテン・ティムの取るロープが、
七体全ての『バブル犬』の胴と一体化し、構成するパーツを分断させ、
その一切の挙動を制御していたのだ。
視線で合図を送られ、アナスイは『ダイバー・ダウン』の右腕を振るう。
変形への意志を託された拳が、足元の地面へと突き刺さる。
瞬く間に、地から出現した無数の『槍』が、
身動きの取れぬ『バブル犬』達に、その鋭利な先端を埋没させる。
その構成物質は、空き地を覆い込む鼠色のアスファルト。
風船の割れる小気味良い音が、周囲の壁々を反射し、遥か夜空へと響き渡る。
二人のスタンド使いを取り囲み、喰い殺そうと襲来した『バブル犬』軍団が、
完全に無力化した証拠だった。
ガス管、水道管、道路標識、囲いの金網、
錆びたガラクタ、建造物の外壁を包む金属枠――。
元の姿へと還った『バブル犬』の死骸が地に散乱し、
重なり合い、秩序に欠ける濁音を打ち鳴らした。
「……逃げられた、な」
地上に降下してから初めて発せられた、
マウンテン・ティムの囁きに近い言葉。
「どうやら、そうらしい」
ナルシソ・アナスイが、仲間を仰ぎ見ながら答える。
その表情は、先程よりも険しさが見られない。
彼も、敵の追跡を諦めていた。
「……ティム、その傷は?」
アナスイは眼を見開き、仲間の胴体に指を向ける。
その左肩と腹部に、赤黒く染まった服の断裂を見たからだ。
この時点で初めて、彼はティムが手負いである事を知った。
「これか……?
ほんの少しだけ、奴に気を許してしまってな」
アナスイの心配を他所に、ワイオミングのカウボーイは微笑みすら浮かべ、
自らの顔面にある長い傷痕を指し示した。
「心配するな、どうということはないさ。
俺のスタンド能力は傷口の空間同士を『縫い』、治癒させる。
これは、爆弾で全身をバラバラにされた傷さ」
確かに、マウンテン・ティムの服を切り裂いた二つの傷の大きさの割に、
そこからの出血は既に見当たらない。
体躯を分裂させるという能力と、苦痛の声を一度も耳にしなかった事実が、
アナスイが彼のダメージに気付かなかった原因だった。
「むしろ、俺が心配したいのはあんたの方さ。
アナスイ、怪我はないか?」
「……別に」
そっけない答えに低く口笛を吹き、
マウンテン・ティムは左手に小型機械――トランシーバーを掲げる。
「奴に攻撃された後、お前から貰い受けたこの道具を使い、
『挟み撃ち』を画策したが――
どうやら、あちらが一枚上手だったようだな」
「ああ――ビル中に『罠』を仕掛けたが、無駄になっちまった」
アナスイは先の失態を思い出し、悔しげに眉を顰め、
空き地の出口へと目を移す。
「あの野郎は、まだこの近くにいる……。
他の『参加者』を殺し回る気なら、放ってはおけないぜ――?
今から、街中を捜索するか?ティム」
カウボーイは首を振り、否定の意を示す。
「いや……奴はもう我々に襲い掛かりはしないし、
他者に危害を加える気も無いだろう。
『屋上の死体の男』からも、先に攻撃されていたようだ」
「あんたの考えならば、俺もそう信じるが――何故、言い切れる?」
足元の残骸を見下ろしながら、吐き出されるアナスイの訝しげな言葉。
帽子の唾に指を当て、微妙に角度を整えながら、ティムは返答する。
「幾らか、言葉を交して感じたんだが……。
あの男――マイク・Oには、『別の目的』がある」
「それは『優勝』ではない、と?」
「ああ――」
マウンテン・ティムが次に発した、思いがけない言葉に、
突然アナスイは、胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
「――そうだな、あれはまるで、
"参加者の誰かを見つけ、護ろうとしているか"のような――」
★ ★ ★
深い闇に紛れ、一人の男が夜道を疾走している。
その服は所々が破れ、頭部には生々しい打撲傷が散見された。
それまで無表情を貫いていた彼――マイク・O――の顔面は、
今や、強い焦燥の念に歪められている。
スタンド能力による奇妙な直感が、彼の意識に渦巻いていた。
(『バブル犬』共が、たった今、同時に始末された)
駆けながら、背後に聳え立つ一つのビルに振り返る。
夜空の中心で、堂々と自らの姿を誇示するそこは、
つい先刻、彼が逃亡した場所。
(思っていたよりも、ずっと早い。
奴らを倒せる期待はしていなかったが――)
七体もの『バブル犬』を、余裕で撃破する敵の戦闘力に脅威を抱きつつ、
同時に、彼の内心には深い安堵の情も湧く。
逃亡という選択は、やはり正解だったのだ、と。
(『ダイバー・ダウン』――『罠』を作り出す能力。
あれは厄介な世界だ)
非常階段で対峙した、長髪の男のスタンド能力と、
自らの『チューブラー・ベルズ』との相性の悪さを、マイク・Oは痛感する。
(そしてマウンテン・ティムも、恐らくは生きている。
何故だ――奴の能力の正体はなんなのだ)
底深い疑念が、漆黒の瞳に滾る。
疲弊に零れる一筋の汗が、顎を伝い落ちた。
(とにかく、この場を離れなければ――)
マイク・Oは痛感する――今回は、相手が悪かった。
長髪の男、そしてマウンテン・ティム。
彼らとは、これからも極力接触を断ちたい。
(大統領夫人。
あなたは今、どこにおられるのですか――?)
夜風に吹かれ、マイク・Oは疾走する――敵のいない、何処へと。
【F-4南部の空き地/1日目/黎明】
【チーム・愛の求道者】
【マウンテン・ティム】
[時間軸]:SBR9巻、
ブラックモアに銃を突き付けられた瞬間
[状態]:左肩と腹部に巨大な裂傷痕(完治)。服に血の染み。やや貧血
[装備]:物干しロープ、トランシーバー(スイッチOFF)
[道具]:支給品一式×2、オレっちのコート、 ラング・ラングラーの不明支給品(0~3)
[思考・状況]
基本行動方針:ゲームに乗った参加者の無力化、荒木の打倒
1.アナスイの仲間を捜す
2.事情を察したのでマイク・Oは追わない
3.「ジョースター」、「ツェペリ」に興味
4.アラキを倒す
[備考]
※アナスイと情報交換しました。アナスイの仲間の能力、容姿を把握しました。
(
空条徐倫、
エルメェス・コステロ、F.F、ウェザー・リポート、
エンポリオ・アルニーニョ)
※マイク・Oのスタンド能力『チューブラー・ベルズ』の特徴を知りました。
※マイク・Oの目的(大統領夫人の護衛)を知りました。
【ナルシソ・アナスイ】
[時間軸]:「水族館」脱獄後
[状態]:健康
[装備]:トランシーバー(スイッチOFF)
[道具]:支給品一式、点滴、クマちゃん人形、双眼鏡
[思考・状況]
基本行動方針:ゲームに乗った参加者の無力化、荒木の打倒
1.仲間を捜す(徐倫は一番に優先)
2.殺し合いに乗った奴ら、襲ってくる奴らには容赦しない
3.アラキを殺す
[備考]
※マウンテン・ティムと情報交換しました。
ベンジャミン・ブンブーン、ブラックモア、
オエコモバの姿とスタンド能力を把握しました。
※マイク・Oのスタンド能力『チューブラー・ベルズ』の特徴を知りました。
※アラキのスタンドは死者を生き返らせる能力があると推測しています。
【市街地(F-4)/1日目/黎明】
【マイク・O】
[時間軸]:SBR13巻、大統領の寝室に向かう途中
[状態]:左足に銃撃による傷が複数。全身に打撲。右肘に擦り傷。疲労
[装備]:金属片(方位磁針の外殻)
[道具]:支給品一式(方位磁針を除く)
[思考・状況]
基本行動方針:大統領夫人(
スカーレット・ヴァレンタイン)を護る。
1.F-4南部のビルから離れる。
2.大統領夫人を命を賭けてでも護る。
3.自分の身は護るが自分から襲ったりはしない(下手な逆恨みで大統領夫人を危険に晒さない為)
4.襲ってきた相手には容赦なく反撃する。
5.大統領夫人を襲ったりしないのなら別に誰かに協力するのもやむを得ない。
6.できるだけ大統領夫人と共に脱出したいが無理そうなら大統領夫人を優勝させる為最後の二人になったら自決する覚悟。
7.マウンテン・ティムとナルシソ・アナスイの二人を警戒。
8.マウンテン・ティムをはじめ、どういうわけか死人ばかりだが気にしない。大統領夫人を襲うつもりなら元同僚でも容赦しない。
[備考]
※名簿はチェック済みです。一通り目を通しました。
※マウンテン・ティムが「裏切り者」(ルーシー・スティール)をかくまった謀反人であることは知っているようです。
※ナルシソ・アナスイのスタンド能力『ダイバー・ダウン』の一部(罠の作成)を知りました。
※マイク・Oが進んでいる方向は次の書き手さんにお任せします。
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最終更新:2009年06月12日 00:07