アットウィキロゴ
kairakunoza @ ウィキ
掲示板 掲示板 ページ検索 ページ検索 メニュー メニュー

kairakunoza @ ウィキ

WISH

最終更新:

Bot(ページ名リンク)

- view
だれでも歓迎! 編集
Beautiful World 7章/そうじろうより続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

§17

 ――やばい。
 凄く眠い。
 頑張って背筋を伸ばそうとするけれど、気がつけば目蓋が落ちてくる。なんといっても式場はぽかぽかと暖かいし、周りの子はぴくりとも動かないし、ピョコピョコ動いて目を楽しませてくれるつかさのリボンも見あたらない。それに、さっきのお父さんとの話で張り詰めていた気持ちが緩んだことで、急に眠気が襲ってきた。
 ――こんなことなら、あんなに朝早く起きなければよかった。
 武道館に入った当初は色々なものが珍しくて、目もパッチリと冴えていた。天井から垂れ下がる日の丸とか、なんかゴテゴテした骨組みが組み合わさった巨大な照明とか、ステージを見下ろすように広がった一階二階のスタンド席だとか。普段行くアニメ系のイベントはこんなに大きい所じゃやらないから、しばらくは新鮮な気持ちでしゃちほこばって座っていた。
 でもそれも、来賓だか学長だかの挨拶が一人終わり、二人終わり、三人目が話し始めるまでのこと。
 代わり映えのしない長ったらしい式辞の波状攻撃に、気がつけばわたしはこっくりこくりと船を漕いでいた。
 夢と現実の間を浮き沈みするこの感覚は、たしかに小舟に乗っている感じに近いかもしれない。水上にリズムを刻むオール、ゆったりと揺れる身体、沈み込んでいくわたしたち。濁っていて見えない水面下は、夢の世界にも似ているとわたしは思う。
 ――カクン。
 首が落ちて、慌ててわたしは顔を上げる。よだれ、よだれなんて垂らしていたら台無しだ。そう思って口元に手を当ててみたけれど、濡れた感触は返ってこなくてほっとした。
「――大学とは、これまでのように勉強を教えてもらいに通う場所ではありません。学問とは、自ら学び、考え、社会のために――」
 誰だかわからない白髪のお爺さんが、壇上でぼそぼそと喋っている。一本調子で抑揚がなくて、内容もありきたりで退屈だ。まるで眠らせるために喋っているんじゃないかって思うくらい。せめてデブでメガネの大隊指揮官みたいな名演説でもしてくれれば、退屈だけはしないのに。
 ――カクン。
 そんなことを思っているうちに夢の中。
『諸君、私は学問が好きだ。諸君、私は学問が大好きだ』
 壇上のお爺さんがぼそぼそと変なことを云いだすと、ダークスーツを着て整然と座っていた周りの新入生達が、一斉に立ち上がって天にこぶしを突き上げる。
『――学問!! 学問!! 学問!!』
『――よろしい、ならば学問だ!! 学問を! 机にかじりついて一心不乱の大学問を!』
 お爺さんが狂気に冒された目を赤く輝かせた辺りで、わたしは再び顔を上げた。
 気がつけばさっきのお爺さんは壇上からいなくなっていて、今度はやっぱり誰だかわからない外国人が、怪しい日本語の発音で難しそうな話を続けていた。頭の中がふわふわしているせいか、云っていることがわからない。意味がわからないんじゃなくて、云っている単語がわからない。
 ――勘弁してよ。
 入学式なんて退屈だって覚悟はしていたけれど、流石にうらめしくなってきた。ぼんやりと視界が滲んできて、ふらふらと首が動き出す。なんとか視界をはっきりさせようとして、わたしはしぱしぱと何度もまばたきを繰り返した。
 けれどそのまばたきもだんだん間隔が遅くなってきて、気がつけばわたしはカクンと夢の中にいる。
『――白河夜船ですね』
 どこからか聞こえてくる優しい声。少しだけ困ったような、けれど嬉しそうなみゆきの声。
『――白河夜船ってなぁに、ゆきちゃん?』
 ぽわぽわとした、無邪気な声。自分にも未来にもなんの疑問も持ってない、この世界をそのまま受け入れているようなつかさの声。
『――またあんたは……。こいつみたいに眠りこけてて周りのこともわかってないやつのことよ。ったく、なんで教室でここまで熟睡できるんだか』
 頭のすぐ上から聞こえてくる、かがみの声。一生懸命呆れたような声を作っているけれど、そこに滲む優しい感情を全然隠しきれていなかった。
 ――本当は、半ば起きていた。
 トスンと隣の椅子に誰かが座った気配に目が覚めて、でもなんとなくそのまま眠った振りをした。起きたくなかったのは単純に寝足りないと思ったからだけど、そのまま寝たふりを続けていたのは、予想以上にかがみの身体が近くにあったから。わたしが気づいていないときにかがみがわたしに許してくれる距離感を、そのまま感じていたかった。
 ――あれは、いつぐらいのことだっただろう。
 思い出せない。
 陵桜ですごした三年間はいつだって穏やかで楽しくて毎日が喜びに満ちていて。無限に続くかに思われたあの優しい世界に、日々の区別なんてあんまりつけられない。でも、多分春くらいのことだった。今と同じようなぽかぽかとした陽気に、嬉しくなって眠ってしまったことを覚えている。
『――泉ぃっ! 起きんかーっ!!』
 ――ふおおっ!
 突然黒井先生の大声が耳元で聞こえた気がして、慌ててわたしは飛び起きる。目が覚めてみたら、もちろんそこは春の放課後でもなければ授業中の教室でもなく、入学式途中の武道館の中だった。
 きょろきょろと周りを見回してみるけれど、特にわたしに注目している様子はみられない。どうやら夢の声に返事をして飛び起きるという、赤っ恥行為は免れていたらしい。けれど隣の女の子がちらりとわたしの方を見て、そうしてクスクスと笑い出した。肩口まである髪は綺麗にカットしてあって、メイクもばっちり決まった大人のお姉さんだった。いや、お姉さんじゃない。わたしと同級生のはずなんだ。
 彼女に軽く会釈をして、わたしは恥ずかしさを隠すように慌てて前に向き直る。
 ――ステージでは、まだまだ来賓の式辞が続いている。
 どうやら各界で活躍している卒業生が大学生活を振り返るというパートに来たらしい。マスコミとかIT企業とか航空会社とかに就職した人たちが、代わる代わる“私と法正大学”という演説をぶちあげては去っていく。
 ――色々な人と友達になった。
 ――学問に励んだ。
 ――サークル活動に身を入れた。
 ――夢を持って過ごしていた。
 結局の所、語っているのはみんなそういうことだった。そんなことは云われなくてもわかってはいるけれど、でもやっぱり改めて云いたくなるほど大事なことなんだろう。
 ――友達、か。
 できるのかな、友達。
 かがみはわたしのことを人付き合いが器用だって云ってくれたけれど、本当はわたしだってそんなに器用な方じゃない。仲良くなった人には入れ込むけれど、あちこちに友達を沢山作れるって方じゃない。いつだったか、かがみに“春になって新しい人間関係を作るのが億劫だ”って云ったのは、わりと本気のことだった。
 ――今ここにいる人たちの中で、わたしと友達になってくれる人はいるんだろうか。
 親友が欲しいなんて贅沢なことは云わない。せめて顔を合わせたら笑いながら世間話をできるくらい、欲を云えば一緒に遊びにいけるくらいの関係を、この中の誰かと結べるんだろうか。そう思ってわたしは、きょろきょろと武道館を見回した。
 そこに、八千人の新入生が座っている。
 びっしりと埋まった一階スタンド、整然と並んだアリーナ席。頭上の二階スタンドも、半分くらいを新入生が占めている。
 ――でも。
 そのどこにも、かがみはいないんだ。
 かがみだけじゃない。みゆきもつかさもあやのんもみさきちも、誰一人ここにはいないんだ。わたしが何をやってもにこにこと笑って受け入れてくれて、でもたまにやりすぎたらしっかりと怒ってくれて。さっき見た懐かしい夢みたいに、わたしが眠り込んでも見守ってくれるような友達。そうして起きないといけなくなったら、ちゃんと頭をはたいて起こしてくれるような友達。
 そんな友達が、ここには一人もいないんだ。
 ――わたしは、この広い建物の中で見知った世界から切り離されて、たった一人で座っている。
 そう思ったら、途端に変な寒さが襲ってきた。わたしはアセクで同性愛者なんていう自分を抱えて、たった一人でこの広い世界に立ち向かわないといけない。そう思ったら、さっきまで感じていた眠気なんて全部吹き飛んでしまった。
 大学を出れば、そこにかがみがいてくれる。あの元住良のメゾン・ド・エルメームにいけば、きっといつだってかがみはギンガムチェックのエプロンを身につけて、一本に縛った髪で食材やレシピとにらめっこしながら慣れない料理を作っている。
 ――でも、それじゃ駄目なんだ。
 かがみに甘えて、かがみのことばかり見て、かがみのことだけ考えていても、きっとそれじゃ駄目なんだ。
 だって、かがみはわたしのことだけ見ているわけじゃないから。
 かがみはいつだってちゃんと前を向いているから。
 だからその隣にいるためには、わたしもかがみと一緒に歩いていかなければ駄目なんだ。
 ――この、二本の脚を動かして。
「――夢を持って過ごしていった日々でした。私はこの法正大学の学舎で、春も夏も秋も冬も、はち切れんばかりの夢を抱いて過ごしていきました。それは長く短く、辛くすばらしい日々でした――」
 壇上で、女の人が熱く語っていた。背が高くてショートカットで、いかにも仕事ができる女の人っていう装いだ。最初の紹介によると、角山書店の書籍事業部に入社した人らしい。角山書店の本社は一ヶ谷キャンパスのすぐ近くに建っているから、たまに間違えて大学に向かってしまうと云って、聴衆の笑いを誘っていた。
 でも、わたしはそれを笑えない。自分の夢がなんなのかすらよくわからないから、わたしにはそれを笑えない。壇上の編集者が熱く語っているような身を焦がすほどの夢なんて、わたしはまるで持ち合わせていないから。将来なりたい職業なんて、まるで決まっていないから。
 ――もしかして、そんなのってわたしくらいなのかな。
 背筋をピンと伸ばして座っている、周りの新入生を眺めながらわたしは思う。
 かがみもみゆきもつかさも、みんな自分の夢をしっかりと持っていた。そうしてその夢を叶えるために、みんなそれぞれ違う大学に進んでいった。
 弁護士になって、みんなが過ごしやすい社会を護りたいと思ったかがみ。料理人になって、みんながにこにこ笑いだすような美味しい物を作ってあげたいと思ったつかさ。お医者さんになって、少しでもこの世界にはびこる悲しいことを減らしたいと思ったみゆき。
 みんな、わたしみたいに曖昧でふわふわしていない。しっかりとこの世界の形をわかっていて、そうしてその中で自分に何ができるかってちゃんと考えて生きていた。同じ制服を着て同じように笑っていたときは気がつかなかったけれど、みんなそれぞれ違う未来を見ていたんだなって思うと、なんだか凄く不思議な気持ちがした。
「――本日先輩方にご指導いただいたように、未来を切り拓き、この社会の中で何事かをなしえるためにも、わたくしども新入生は自らの視野と見識を広げていき――」
 そんなわたしの思いを余所にして、入学式は進行していく。
 どこかかがみにも似て凛々しい女の子が、新入生総代として宣誓をしていた。壇上に設えられた大きな活花にも負けないくらい華やかな顔をしていて、しかも総代っていうことは頭もすごくいいはずだ。
 きっとこういう子なら、社会の中で何事かをなしえることができるだろう。それは勿論かがみやつかさやみゆき、みさきちやあやのんだってそうなんだ。あんなにお馬鹿だと思っていたみさきちだって、このシビアな現実の中で自分にできることを見据えていたんだから。
 ――でも、わたしは違う。
 いつからかわたしは、すっかりそういうことを諦めてしまっていた。わたしがアセクシュアルだっていう事実は、それが何なのかよくわかっていなかった子供のころからずっとわたしにつきまとってきて、そうして普通の子が持ってる当たり前の夢を一つずつ奪って行ったんだ。
 ――ちゃんと成長した大人の女の人になること。
 ――ももこみたいなふりふりのウェディングドレスを着て、バージンロードを歩くこと。
 ――可愛い子供を産んで、お父さんに孫の顔を見せて上げること。
 そうしてそんな夢を奪われていく度に、わたしはどんどん二次元の世界に引きよせられていったんだ。
 壇上ではようやく祝辞だか式辞だかが全て終わり、今は院や学部の紹介に入っている。いろんな学部の学部長が次々にステージに現れて、含蓄の深い言葉を二言三言話しては去っていく。
 名前が呼ばれる度に鳴り響く拍手の音。
 わたしも機械的に手を叩きながら、でも頭の中では全然違うことを考えている。
 ――漫画もアニメもゲームも、わたしの期待を裏切らなかった。
 それは別に、お話の主人公に自分を託して世界を救ったりモテモテになったりできるからじゃない。そんな風にわたしは、自分が特別な存在になりたかったってわけじゃない。
 そんなことじゃなくて、誰かが作ったお話の世界には、いつだって一本筋が通った誠実さがあったから。だからわたしは二次元の世界が好きだった。
 お話の世界では、誰かの努力が無駄になることはない。人知れずした親切は必ず報われるし、誰かを想って流した涙はいつか拭ってくれる人が現れる。辛い過去はその分大きな喜びになって返ってくるし、すり切れるほど悩んだことはいつだって素敵な終わり方に結びついてくれる。
 現実みたいに、何の意味もない悲劇なんて起こらない。
 恋人を抱きしめてみたら突き飛ばされて、救急車で病院に担ぎ込まれるなんてことはアニメの中じゃあり得ない。
 アセクシュアルなんていう誰も得しない設定のキャラなんて、ギャルゲーには絶対出てこない。
 恋人が子供だけを残して死んじゃう漫画はあるかもしれないけれど、その後何十年もたった一人でその子を育てていくところなんて、お話の中じゃ描かれない。
 ――だから。
 だからわたしは、こんな出来損ないのリアルなんて、馬鹿にしていたはずだった。好きな人たちと好きなものに囲まれて、そこから一歩だって出たくないって思っていたはずだった。陵桜を出た後どうしたいかなんて、本当にわたしはまるで考えていなかったんだ。
 ――去年の夏、かがみと喧嘩するまでは。
『――校歌、斉唱』
 そんなアナウンスが聞こえてきて、皆が次々と席を立つ。人で一杯の武道館をさざ波みたいな音が満たしていって、そうしてわたしはあの石川の海を思い出す。あの秋の海辺でわたしを抱きしめてくれた、かがみの体温を思い出す。
 ――なんだろうって思った。
 秋の海辺でかがみに抱かれながら、この気持ちは何だろうってわたしは思った。
 それは恋じゃないはずだった。アセクシュアルのわたしは人に恋なんてできないはずだから。だからわたしは、自分がかがみに恋しているなんて思いつきもしなかった。
 恋じゃないはずの、この気持ちはなんだろうって思った。
 それが恋じゃないなら、かがみに抱かれていると安心できるこの気持ちを何と呼べばいいんだろうってわたしは思った。
 どうしてかがみにだけこんな気持ちになるのか。それはつかさやみゆきに感じる気持ちとどう違うのか。ゆーちゃんやお父さん、ゆい姉さんやゆきおばさんに感じる親しみとは何が違うのか。
 知りたかった。
 せめてそれを知ることが、この優しくて誠実なかがみに報いることになるかもしれないってわたしは思った。
 だから、心理学科に入りたいって思ったんだ。
 ガサガサっていう音が聞こえてくる。周り中の新入生たちが、パンフレットの裏面を見て校歌の歌詞を確認する音だった。そもそもいきなり校歌を歌えなんて云われても、新入生なんだから知っているわけがない。それでも厳かな曲が淡々と流れてきて、わたしは頭の中でなんとかしてメロディに歌詞を当てはめる。
 きっと、こんなことがこれからもずっとあるんだろう。
 ちゃんとリアルに目を向けて、そうしてしっかりした大人になっていくためには。
 こんな風に、突然流れたメロディに乗せて知らない歌を唄うようなことが、これから先何度でも起きるだろう。
 ――その気持ちは、結局のところ恋だった。
 それでも、それがわかったところで不思議さは少しも変わらない。
 あやのんが云ったみたいに、恋と友情の違いなんてどうやら結構曖昧なものらしい。テレビをつけたら男なのか女なのかよくわからない“オネェ”なキャラが一杯いる。百合物に憧れる女の子は結構いるけど、ヤオイ物に憧れる男の子なんて見たことがない。かがみはわたしが知る限り特定の男の子に惹かれたことなんてないのに、自分ではバイセクシュアルだって自認しているみたいだ。
 わからない。
 いくら言葉で定義しても、何をどんな風に名づけても、その不思議さは少しも変わらない。
 ――人が、人を好きになれるということの不思議さは。
 武道館を、一度も聞いたことがない歌が流れていく。
 厳かなメロディ。全然好みの曲じゃない、それはゆったりとした合唱曲。やがて無事にその曲も歌い終え、閉会の辞が告げられると同時に盛大な拍手が鳴り響く。
 その頃になって、やっとわたしは気がついた。

 ――わたしは、ちゃんと夢を持っていた。

§18

 喫煙所にはもうもうと煙がたれ込めていて、廊下の端からそこを見た瞬間わたしは帰りたくなった。
 別にそこまで煙草の煙が苦手ってわけじゃないけれど、喫煙所に漂うなんか後ろめたい感じの雰囲気が嫌だった。
 これから先いくら大人になったとしても、わたしは煙草だけは絶対吸わないだろうと思う。臭いし煙いし灰は飛び散るしで、いいことなんてまるでない。もしかしたらそういうのは煙草を吸ってる人は気にならないのかなって思っていたら、やっぱり普通に他人の煙は嫌だなんて云っている。
 意味がわからない。
 意味がわからないと云えば、禁煙しているはずのお父さんから“喫煙所にいる”なんてメールが届いたこともわからない。
 でも、云われた場所に来てみたら、その理由は明白だった。
「ああ、悪かったなこなた。とりあえずこれ一本だけ吸わせてくれ」
 火のついた煙草を指に挟んだまま、お父さんがそう云った。
「――結局吸っちゃったんだ……」
「ははは。いや大丈夫だって。一、二本だけに留めておけばそんな簡単に中毒には戻らないんだぞ? 最初のニコチンが切れたときに補充するかどうかが禁煙のポイントなんだな」
「……陵桜の桜庭先生もそうだけど、禁煙の方法に詳しい人って、全然信用できないよね? 要するにそれだけ失敗しちゃってるってことじゃん」
「ぐはっ、す、鋭いなこなた……」
 鼻をつまみながら漂ってくる煙をパタパタと払い返すと、お父さんはますますショックを受けたような顔をした。
 見ると、どうやらわたしの言葉と態度にダメージを受けたのは、お父さんだけじゃないらしい。喫煙所にいた四、五人の小父さんたちが、皆一様に恥ずかしそうな顔をしてくるりとわたしに背中を向けた。単純に臭いから煙を払いのけただけで、別にわざとアピールしたわけじゃないのに。そんなにナイーブになるんだったら、最初から吸わなければいいのにって思った。
 廊下はまだまだ式場から外に出る人の波で賑わっていて、この喫煙所に吸い寄せられてくる人もちらほらといる。ほとんどは年の行った小父さんだったけど、たまに学生っぽい人も紛れていた。年は大丈夫なんだろうかなんて、余計な心配をするわたしだった。
「打ち合わせ、何時からだったっけ?」
「ん、一時半だから、一ヶ谷の方でメシ食っとこうかとな。これからお前も一ヶ谷キャンパスでガイダンスなんだろう?」
「うぇー、ってことは途中までついてくるつもりなの? いい加減過保護親きもいよ……」
「はっはっは、そこは子煩悩と云ってくれ」
 そんな風にうそぶいて、お父さんは長くなった煙草の灰をぽとりと灰皿に落とした。
 ――せっかく近くまで出てこられるなら、一度打ち合わせしておきましょう。
 角山書店で担当してくれている編集の人に、お父さんはそう云われていたらしい。掛かってきた電話についわたしが法正に合格したことを漏らしたら、いつの間にかそういうことになってたってことだった。
 どうやら以前から書きおろしを頼まれていたのを、なんだかんだで逃げ回っていたようだ。お父さんの仕事のことなんてよくわかってないけれど、原稿料が出ない単行本書きおろしは、雑誌掲載と比べると金銭的にはそんなに美味しくなかったりするらしい。
「そう云えば。さっき祝辞を云ってた角山の編集者って、もしかしてお父さん知ってる人?」
「いや、知らないな。直接編集部に入らない限り、担当の人以外はパーティーくらいでしか会わないしなぁ」
「そかそか。綺麗な人だったから、色々心配だったよ」
「うわー、俺って信用ねぇー……」
「そっかな? ちっちゃい子じゃなくて大人の女の人相手に心配してるだけ、結構マシな評価じゃん?」
「ちょっ、だからそういうこと外で――」
 ――そのとき。
 苦笑しながらつっこもうとしたお父さんが、わたしの後ろ辺りをちょっと見て動きを止めたんだ。
「……どったの?」
「ああ、いやなんでもないぞ」
 でもすぐに気を取り直して、お父さんは煙草をとんとん叩いて灰皿に灰を落とす。その様子からすると、本当に大したことじゃないらしい。
 けれどわたしは気になった。
 お父さんがわたしの後ろに何を見たのかが気になった。
 でもその原因は、わざわざ振り向くまでもなくわたしの隣に現れた。その子がすっとわたしの背後からやって来て、床に置かれた背の高い灰皿の前で立ち止まったんだ。
 ――女の子。
 多分今日入学式を迎えた、わたしと同年代の女の子。
 ハンドバッグをごそごそしているところを見ると、これから煙草を吸うつもりなんだろう。
 別にそれはそれで構わない。そもそもここは喫煙所なんだから、煙草が嫌いな人間の方がいちゃいけない場所なんだ。
 びっくりしたのはその子が煙草を吸おうとしたからじゃない。鮮やかな緑色をした細長いパッケージから、指先で煙草を抜き出したからじゃない。
 そうじゃなくて、その煙草を抜き出した指先そのものに、わたしは驚いた。その指先から続く全身の装いに、わたしも、そしてきっとお父さんもちょっとだけ驚いた。
 ――その指先は、真っ黒い手袋で覆われていた。
 なめらかそうな生地をした薄い手袋は、そのままレース飾りが施された袖の中に入り込んでいる。上着は多分ボレロなんだろう、胸元が大きく開いていて、肩口が少し膨らんだパフスリーブになっていた。大きく広がったスカートは多分ジャンパースカート。フリルが花みたいに咲き誇っている黒いブラウス。襟を止める大きなリボンがなんだか凄く可愛らしかった。
 入学式に来た子は、ほとんどがスーツだ。
 それは、一階のスタンド席からアリーナを見下ろしていてもよくわかる。ほとんどがスーツで、でもたまにドレスを着ている子もちらほらと見受けられていた。
 だから、この子もドレスを着てきたんだろう。
 それはちょっとだけクラシカルで、ちょっとだけフリルやレース飾りが多めで、ちょっとだけばっちりと決まりすぎているだけで、もしかしたら入学式のドレスとして“あり”な服装だったかもしれない。
 でも、頭に被ってる帽子はどうだろう。
 まん丸で縁がないちっちゃな帽子が、ちょこんと頭の上に乗っている。前面についたリボンは胸元と同じ素材みたいで、蛍光灯の光を浴びてテカテカと滑らかに光っている。
 そうしてその帽子から、外国映画のお葬式で見るような、黒いベールが垂れ下がっていたのだった。
 ――フランス人形みたいにふわふわとした、アッシュブロンドの髪の毛に。
 あんまりわたしがまじまじと見ていたせいだろう、上品にベールを上げて煙草を唇に挟み込んだ女の子が、不思議そうな顔でわたしのことを見つめ返していた。
「――あ、ごめん……」
 反射的に謝ったけれど、その言葉は語尾がもごもごして聞こえづらかったことだろう。少し熱い頬を無視して正面を向き直ったけれど、わたしはどきどきと弾む胸を押さえ込むことはできなかった。
 ――何この子、滅茶苦茶萌えじゃん。
 まるでローゼンの世界から抜け出てきたような女の子に、わたしの萌え要素レーダーがビンビンと警報を発していたのだった。
 ゴスロリ? 黒ロリ? クラロリ?
 これはやっぱり普通のドレスじゃなくて、ロリィタファッションに属する格好なんだろうと思う。でも、じゃあその中でどんな分類なのかって考えると、途端によくわからなくなってしまうんだ。
 ロリィタの世界にもなんだか色々と分類があって、性的マイノリティの世界と同じくらいにわかりづらい。あやのんは色々とカントリーとかヴィヴィアンとかロココとか教えてくれたけど、正直何がどう違うのか今ひとつピンとこなかった。でもやっぱり本人としては色々と違うところがあるんだろう。それは例えば、かがみがレズビアンではなくバイセクシュアルだと自認しているように。
 ――あれ?
 でもなんでだろう、何かが妙にひっかかる。
 わたしの頭の中で何かがピコンピコンと点滅していて、わたしにその記憶を思い出させようとしていた。
 ――あれは。
 ――確か。
 ――でも。
 そんな風に記憶の中をまさぐっていたとき。ふとメンソールのツンとした匂いが鼻先に漂ってきて、わたしはどうしたんだろうと隣に向き直る。
 そこに、その子の顔がドアップで映し出されていた。
 ――予想以上に、顔が近い。
 その子の方も、わたしの顔をまじまじと見つめていたところらしい。思いがけずに近い位置で、わたしたちはお互いの顔を見つめ合っていた。
 ふわふわしたアッシュブロンドの巻き毛に、陶器みたいな真っ白い肌。薄く切れこんだ唇は、あの日と違って艶めかしいワインレッドに光っていて――。
「「あーーーー!!」」
 わたしと彼女は、同時に声を上げながらお互いのことを指さした。
「こないだのアリスちゃんだっ!」
「いちじくのミルフィーユ頼んだロリっ子!」
 ――あの日。
 引越祝いにかがみの部屋まで行った日のことだ。
 みさきちたちと渋野で待ち合わせをして、プレゼントを買った後にスペイン坂の喫茶店に入っていった。名前は忘れたけれど、凄く雰囲気があるヴィクトリア朝風のお店で、そこにいた店員の女の子がアリスっぽいロリィタファッションをしていてなんだか凄く可愛くて。
 そのアリスちゃんが、今わたしの目の前に立っている。びっくりしたような顔でわたしを見ながら立っている。吸おうとしたまま咥えていたらしい細身の煙草が、上唇にくっついたまま揺れていた。
「……ロ、ロリっ子?」
「……ア、アリスちゃん?」
 しばらくの間、わたしたちは呆然と見つめ合っていた。お互いにお互いを指さしながら呆然と二人で見つめ合っていた。
 けれどそのとき。
 アリスちゃんの目が、にゅっと笑いの形に細まったんだ。
 ――あ。
 その目を見た瞬間、わたしは気がついた。根拠なんて何もないし、そう思った理由もわからない。
 でもそのときわたしは気がついた。
 ――わたしは、この子と友達になれるかもしれない。
「……えっと。もしかして、私のこと覚えててくれたの? だったら嬉しいなっ」
「あ、うん。っていうかそっちこそなんで? わたしなんて別に普通の格好してたし、ただのお客さんだし、記憶に残るような要素なかったと思うんだけど」
「……あ、うーんとね。ちょっと私の方で“あれ?”って思うことがあったの。後で確認したらやっぱり人違いだったみたいだけれど、それで印象に残っていたのね」
「……ふーん?」
 なんだろうって思ったけれど、あんまりそこに食いつくのも変な気がしてスルーした。アリスちゃんはそんなわたしに目で確認すると、煙草をくわえ直してライターで火を点けた。オレンジ色の火がジジジって煙草を浸食していって、やがて細い鼻から半透明の呼気がこぼれ落ちてくる。
「煙草、吸って大丈夫?」
「……ん、お嫌い?」
「や、そういうわけじゃなくて、その、年齢、とかさ……?」
 わたしがそう口にすると、アリスちゃんは驚いたように小さく目を見開いた。後ろの方にいた同年代の男の子もびくっと身体を震わせていたから、やっぱりこれは云わない方が良かったんだろうかとわたしは思った。
 でも、アリスちゃんは目をにゅっと細めて笑い出したんだ。
「誰もが現役で合格してるなんて思わないでよ、デリカシーがない人ねっ」
 ――うわ、そういう切り返しなんだ。
 きつい言葉に聞こえかねない内容を、茶目っ気たっぷりに話すその口調。口元を手の甲で覆う仕草。鈴が鳴るような澄んだ声。流石にこんな格好で入学式に出るだけのことはある。これは中々凄い萌えキャラなんじゃないかってわたしは思った。
「――あー、こなた? 知り合いか?」
 聞こえてきたその声に振り向くと、煙草を吸い終わったお父さんが苦笑いを浮かべながら頬を掻いていた。問いかけるようなお父さんの眼差しに、隣でアリスちゃんがぺこっと頭を下げた。
「あ、いや、そういう訳じゃないんだけど、こないだ微妙に接近遭遇したことがあってね?」
「そうかそうか。それでたまたま入学式で再会なんて、面白い偶然だよなぁ」
「だよねー」
 そう云ってちらりとアリスちゃんの方を眺めると、アリスちゃんも同時にわたしのことを見ていて、顔を見合わせたわたしたちはどちらともなく微笑んだ。
 そんなわたしたちに、お父さんは云った。
「ああ、それじゃお父さんはそろそろ行くな。はは、待ち合わせの時間も近いしな」
「――え? でも」
 さっき云ってたことと違うじゃん。
 けれどそう云おうとしたわたしの頭の上に、ぽふっとお父さんの手のひらが振ってくる。さっきは『勝手に頭に触らないで』って振り払った手だったけれど、不思議とそのときは振り払おうなんて考えもしなかった。それどころか、そのままずっとこうやって頭を撫でていて欲しかった。
「――がんばれよ」
 ――でも。
 最後にぽんぽんと軽く叩いて、お父さんはあっさりと手を離す。そうして似合わないウィンクなんかを残して、さっさとどこかにいってしまったんだ。
 その後ろ姿を見ながら、アリスちゃんが楽しそうに云った。
「――格好いいお父さんね」
「うぇっ、あれがっ!?」
「ふふふ、娘さんならそう思うのもわかるけれど、お若くてスマートで、客観的には凄く素敵に見えるわよ」
 そう云って、アリスちゃんはまた笑う。目をにゅっと細めてニヤリと笑う。灰皿でぎゅっと煙草の火を消すアリスちゃんだったけれど、その口元にはしばらく笑いの余韻が残っていた。
「えっと……」
 火が消えた煙草の吸い殻をそのまま灰皿に投げ入れて、アリスちゃんは云った。
「これは……この後ご一緒していいってことかしら?」
「……あ、うん。その、アリスちゃんが良かったらだけど……」
「結城」
「……え?」
「結城みゆです。よろしくね、こなたさん?」
 そう云って、結城さんは問いかけるように小首を傾げながら笑ってくれたから。

 ――彼女は、大学で初めてできたわたしの友達になった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
Beautiful World 9章/あたらしい人へ続く














コメントフォーム

名前:
コメント:

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
記事メニュー
最近更新されたスレッド
ウィキ募集バナー