Beautiful World 6章/こなたより続く
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§15
朝の陽射しが爽やかだった。
窓の外、目覚めたばかりの太陽は、未だ朝焼けの余韻を残して街を明るいオレンジ色に染め上げている。すこんと晴れ上がった雲一つない青空。でも地平線の辺りはまだほの白く輝いていて、それがいかにも春か秋の朝まだきらしい。でも、ちゅんちゅんと啼いている小鳥は、残念ながらヒバリじゃなくて普通のスズメだと思う。
入学式の、朝だった。
普段はぎりぎりまで用意をしないで慌ててでかけることが多いわたしだったけど、その日は珍しく準備万端整っていて、なんとなく手持ちぶさたになったまま窓から空を見上げていた。
――コンコン。
「ほーい」
外を眺めたままノックの音に答えると、がちゃりとドアを開けてゆーちゃんが部屋に入ってきた。振り向きはしなかったけど、一年も一緒に暮らしていればお父さんとゆーちゃんの区別くらいなんとなくわかるんだ。ドアの開け方、跫音、かすかに聞こえる息づかい。
「――わぁー!」
その驚いたような叫び声は、やっぱりゆーちゃんの物だった。でもそんな声を上げたきり後ろからは何も反応がなくなって、一体どうしたんだろうと思って振り向いた。
「はわわっ!」
途端に慌てた様子で飛び上がり、降参するように両手を頭の上に上げたゆーちゃんなのだった。
「……どったのゆーちゃん? なんでそんな面白リアクション?」
「……あ、ううん……。えへへ、お姉ちゃんが凄い格好良くてびっくりしちゃった……」
そんなことを云うゆーちゃんのほっぺはほんのりと赤く染まっていて、目はうるうると輝いていた。片手を口の前に持っていって、そこでぎゅっと握り込む。そんなポーズが、少女漫画でよくある恋する乙女みたいで可愛らしかった。
――そんな顔、みなみちゃんの前以外でしちゃだめだよ。
反射的に出そうになった言葉を飲み込んで、わたしはにへらと笑いながらゆーちゃんに云った。
「おー、あんがとゆーちゃん。結構頑張ったっしょ? ほら、社会人のコスプレ?」
「コ、コスプレなんだ!?」
「そそ、そうとでも思わないとやってらんないよね。わたしがこんなちゃんとした服着るなんてさー」
両袖を指でつまんで、ぱっと腕を左右に広げる。身体にぴったり合った二つボタンジャケット。胸元にフリルが入ったピンク色のブラウス。膝上あたりで揃ったタイトスカート。オタクにあるまじき、ごくごく当たり前のリクルートスーツだった。
「でも、格好いいよ?」
にっこりと笑って小首を傾げるゆーちゃんだったけれど、正直のところわたしは素直に喜んでいいのかよくわからない。テーブルミラーを眺めながらあんまり上手く決まらなかった前髪をちょんちょん直してみるけれど、どうにもそこに写っているのがわたしじゃないみたいに感じてしまうんだ。
――コスプレだとしか、思えなかった。
服って結局、自分が自分に対して持っているイメージに合わせて選ぶものなんだと思う。自分は自分のことをこういう人間だと思ってるって他人や自分に見せるために、みんな服を選んでるんじゃないかってわたしは思う。かがみはぱっと見では女の子らしい服を選ぶけど、いつだってどこかにスマートな男っぽさが入ってる。つかさはちょっと大きめなぶかっとした服が大好きで、みゆきはいつも上品でひかえめで女らしい。
――だから。
こんな普通のスーツを着て大人みたいな振りをしているわたしが、わたし自身だとはとても思えなかったんだ。
――そう云えば、あやのんが“コスプレとロリィタは違う”って力説してたっけ。
あの後みゆきにどう違うのか聞いてみようと思ったまま忘れていたけれど、今になって考えてみたらその違いは明確だった。ロリィタの人は自分がロリィタな人間だと思ってるからそういう服を着るんだろう。わたしは自分がこんな服を着ていいちゃんとした人間だとは思えないから、やっぱりわたしにとってこれはコスプレなんだ。
かがみにはああ云ったけれど、正直凄く自信がない。
やっぱりわたしは、私立の制服を着た小学生みたいに見えるかもしれない。
珍しく朝も早くから起きて、ネットとファッション雑誌を眺めながら頑張って髪も結い上げてみた。練習してきたベースメイクやらファンデーションやらと格闘して、なんとかナチュラルメイクっぽく仕上げてみた。
それでも、違和感はぬぐえない。
自分が自分じゃないんじゃないかって違和感を、わたしはどうしてもぬぐいぐさることはできなかったんだ。
――でも。
「お姉ちゃんはやっぱり大人だねぇ。こんな服着てもちゃんと似合っちゃうんだもん、凄いなー」
ゆーちゃんはふわふわとそう云った。自分の云っていることに少しの疑問も持っていない風で、にこにこ笑いながらそう云った。
心にもないお世辞なんて、わざわざ云うような子じゃない。
ましてやわたしがファッションとコスプレの違いについて考えていたことなんて、ゆーちゃんにだってわかるはずがない。
だから、結局、そういうことなんだろう。
いくらわたしが自分のことを駄目だ駄目だと思っていても、ゆーちゃんにとってのわたしはいつだって“自分より大人のお姉ちゃん”。そういうことなんだろう。
陵桜に入ってからの一年で、ゆーちゃんも随分大人になったはずなのに。背なんてもうほとんど同じくらいだし、オタク外国人のパティとか、ロケットで突き抜けがちのひよりんとか、そんなちょっと変な友達と仲良くなって、考え方も凄くしっかりしてきてると思うのに。
それでもゆーちゃんとわたしの関係は、きっとあの頃のままなんだ。普通の子供みたいに元気よく走ることもできないで、枯れ枝みたいな手足で懸命にわたしたちの後を追いかけていたあの頃。きっとゆーちゃんにとってのわたしは、今でもあの子供時代の“なんでもできるこなたお姉ちゃん”のままなんだ。
だから、結局、そういうことなのかなって思う。
もしかしたら、大人になるってことはそういうことなのかなって思う。
どれだけ自分では大人になった気になれなかったとしても。子供っぽい自分に嫌気がさしていたとしても。子供の頃に思い描いていた“大学生になった自分”との余りの違いにげんなりしていたとしても。
――結局いつのまにか大人になっている。
なんだかんだで似合わない服でも着られる。嫌々ながらも似合わない歩き方をして、似合わない笑顔も作ることができる。
もしかしたら、他の大人って呼ばれる人もみんなそんな感じなのかなってわたしは思った。
「ふふん、ま、こちとらコスプレのプロだしね!」
だからわたしはわざとらしくふんぞり返って、ない胸を握り拳でトンと叩いた。勿論ゆーちゃんがそんなことを褒めたかったんじゃないってことはわかっている。案の定、ゆーちゃんは少し不思議そうな顔で小首を傾げていた。
「あ、で、写真撮って貰っていいかな?」
「あ、うん、大丈夫だよ。ふふ、かがみ先輩に見せるんだよね? いーなー」
「んー? じゃお返しにそのセクシーなパジャマ姿撮ってみなみちゃんに送ってあげよか?」
多分みさきちみたいにわたしのことをからかおうとしたんだろうけれど、まだまだゆーちゃんには早かったようだ。わたしの何てことない切り返しに真っ赤になって、ちょっとずり落ちていたズボンを上げて見えていた下着を隠すゆーちゃんなのだった。
――冗談で云ったのに、それは本当に撮っておきたくなるくらい可愛らしかった。
「――あ」
バッグからデジカメを取り出そうと後ろを向いたとき、ふと気がついたようにゆーちゃんが云った。
「どったの?」
「お姉ちゃん、バレッタも一緒に買ったんだ? それ、凄く似合ってるね」
一瞬ぴくりと手が止まったけれど、買ったばかりのフォーマルなバッグの留め口に戸惑ったふりをしてごまかした。
「――そう? あんがと」
まとめ髪を束ねたバレッタにちょっと触れながら、わたしはなんでもないふりをしてそう云った。バレッタはクリーム色の板の周囲にラインストーンが散らされていて、派手すぎず地味すぎずでこんな格好にぴったりだった。
本当は、買ってきたものじゃない。
でもそのことはなんとなく云い出しづらかった。別にやましいことがあるわけじゃないし、どうしても秘密にしたいってわけでもない。ただそれは、わたしたちの間だけのことだから。
それにしても、ゆーちゃんも意外と鋭い。
窓の外、目覚めたばかりの太陽は、未だ朝焼けの余韻を残して街を明るいオレンジ色に染め上げている。すこんと晴れ上がった雲一つない青空。でも地平線の辺りはまだほの白く輝いていて、それがいかにも春か秋の朝まだきらしい。でも、ちゅんちゅんと啼いている小鳥は、残念ながらヒバリじゃなくて普通のスズメだと思う。
入学式の、朝だった。
普段はぎりぎりまで用意をしないで慌ててでかけることが多いわたしだったけど、その日は珍しく準備万端整っていて、なんとなく手持ちぶさたになったまま窓から空を見上げていた。
――コンコン。
「ほーい」
外を眺めたままノックの音に答えると、がちゃりとドアを開けてゆーちゃんが部屋に入ってきた。振り向きはしなかったけど、一年も一緒に暮らしていればお父さんとゆーちゃんの区別くらいなんとなくわかるんだ。ドアの開け方、跫音、かすかに聞こえる息づかい。
「――わぁー!」
その驚いたような叫び声は、やっぱりゆーちゃんの物だった。でもそんな声を上げたきり後ろからは何も反応がなくなって、一体どうしたんだろうと思って振り向いた。
「はわわっ!」
途端に慌てた様子で飛び上がり、降参するように両手を頭の上に上げたゆーちゃんなのだった。
「……どったのゆーちゃん? なんでそんな面白リアクション?」
「……あ、ううん……。えへへ、お姉ちゃんが凄い格好良くてびっくりしちゃった……」
そんなことを云うゆーちゃんのほっぺはほんのりと赤く染まっていて、目はうるうると輝いていた。片手を口の前に持っていって、そこでぎゅっと握り込む。そんなポーズが、少女漫画でよくある恋する乙女みたいで可愛らしかった。
――そんな顔、みなみちゃんの前以外でしちゃだめだよ。
反射的に出そうになった言葉を飲み込んで、わたしはにへらと笑いながらゆーちゃんに云った。
「おー、あんがとゆーちゃん。結構頑張ったっしょ? ほら、社会人のコスプレ?」
「コ、コスプレなんだ!?」
「そそ、そうとでも思わないとやってらんないよね。わたしがこんなちゃんとした服着るなんてさー」
両袖を指でつまんで、ぱっと腕を左右に広げる。身体にぴったり合った二つボタンジャケット。胸元にフリルが入ったピンク色のブラウス。膝上あたりで揃ったタイトスカート。オタクにあるまじき、ごくごく当たり前のリクルートスーツだった。
「でも、格好いいよ?」
にっこりと笑って小首を傾げるゆーちゃんだったけれど、正直のところわたしは素直に喜んでいいのかよくわからない。テーブルミラーを眺めながらあんまり上手く決まらなかった前髪をちょんちょん直してみるけれど、どうにもそこに写っているのがわたしじゃないみたいに感じてしまうんだ。
――コスプレだとしか、思えなかった。
服って結局、自分が自分に対して持っているイメージに合わせて選ぶものなんだと思う。自分は自分のことをこういう人間だと思ってるって他人や自分に見せるために、みんな服を選んでるんじゃないかってわたしは思う。かがみはぱっと見では女の子らしい服を選ぶけど、いつだってどこかにスマートな男っぽさが入ってる。つかさはちょっと大きめなぶかっとした服が大好きで、みゆきはいつも上品でひかえめで女らしい。
――だから。
こんな普通のスーツを着て大人みたいな振りをしているわたしが、わたし自身だとはとても思えなかったんだ。
――そう云えば、あやのんが“コスプレとロリィタは違う”って力説してたっけ。
あの後みゆきにどう違うのか聞いてみようと思ったまま忘れていたけれど、今になって考えてみたらその違いは明確だった。ロリィタの人は自分がロリィタな人間だと思ってるからそういう服を着るんだろう。わたしは自分がこんな服を着ていいちゃんとした人間だとは思えないから、やっぱりわたしにとってこれはコスプレなんだ。
かがみにはああ云ったけれど、正直凄く自信がない。
やっぱりわたしは、私立の制服を着た小学生みたいに見えるかもしれない。
珍しく朝も早くから起きて、ネットとファッション雑誌を眺めながら頑張って髪も結い上げてみた。練習してきたベースメイクやらファンデーションやらと格闘して、なんとかナチュラルメイクっぽく仕上げてみた。
それでも、違和感はぬぐえない。
自分が自分じゃないんじゃないかって違和感を、わたしはどうしてもぬぐいぐさることはできなかったんだ。
――でも。
「お姉ちゃんはやっぱり大人だねぇ。こんな服着てもちゃんと似合っちゃうんだもん、凄いなー」
ゆーちゃんはふわふわとそう云った。自分の云っていることに少しの疑問も持っていない風で、にこにこ笑いながらそう云った。
心にもないお世辞なんて、わざわざ云うような子じゃない。
ましてやわたしがファッションとコスプレの違いについて考えていたことなんて、ゆーちゃんにだってわかるはずがない。
だから、結局、そういうことなんだろう。
いくらわたしが自分のことを駄目だ駄目だと思っていても、ゆーちゃんにとってのわたしはいつだって“自分より大人のお姉ちゃん”。そういうことなんだろう。
陵桜に入ってからの一年で、ゆーちゃんも随分大人になったはずなのに。背なんてもうほとんど同じくらいだし、オタク外国人のパティとか、ロケットで突き抜けがちのひよりんとか、そんなちょっと変な友達と仲良くなって、考え方も凄くしっかりしてきてると思うのに。
それでもゆーちゃんとわたしの関係は、きっとあの頃のままなんだ。普通の子供みたいに元気よく走ることもできないで、枯れ枝みたいな手足で懸命にわたしたちの後を追いかけていたあの頃。きっとゆーちゃんにとってのわたしは、今でもあの子供時代の“なんでもできるこなたお姉ちゃん”のままなんだ。
だから、結局、そういうことなのかなって思う。
もしかしたら、大人になるってことはそういうことなのかなって思う。
どれだけ自分では大人になった気になれなかったとしても。子供っぽい自分に嫌気がさしていたとしても。子供の頃に思い描いていた“大学生になった自分”との余りの違いにげんなりしていたとしても。
――結局いつのまにか大人になっている。
なんだかんだで似合わない服でも着られる。嫌々ながらも似合わない歩き方をして、似合わない笑顔も作ることができる。
もしかしたら、他の大人って呼ばれる人もみんなそんな感じなのかなってわたしは思った。
「ふふん、ま、こちとらコスプレのプロだしね!」
だからわたしはわざとらしくふんぞり返って、ない胸を握り拳でトンと叩いた。勿論ゆーちゃんがそんなことを褒めたかったんじゃないってことはわかっている。案の定、ゆーちゃんは少し不思議そうな顔で小首を傾げていた。
「あ、で、写真撮って貰っていいかな?」
「あ、うん、大丈夫だよ。ふふ、かがみ先輩に見せるんだよね? いーなー」
「んー? じゃお返しにそのセクシーなパジャマ姿撮ってみなみちゃんに送ってあげよか?」
多分みさきちみたいにわたしのことをからかおうとしたんだろうけれど、まだまだゆーちゃんには早かったようだ。わたしの何てことない切り返しに真っ赤になって、ちょっとずり落ちていたズボンを上げて見えていた下着を隠すゆーちゃんなのだった。
――冗談で云ったのに、それは本当に撮っておきたくなるくらい可愛らしかった。
「――あ」
バッグからデジカメを取り出そうと後ろを向いたとき、ふと気がついたようにゆーちゃんが云った。
「どったの?」
「お姉ちゃん、バレッタも一緒に買ったんだ? それ、凄く似合ってるね」
一瞬ぴくりと手が止まったけれど、買ったばかりのフォーマルなバッグの留め口に戸惑ったふりをしてごまかした。
「――そう? あんがと」
まとめ髪を束ねたバレッタにちょっと触れながら、わたしはなんでもないふりをしてそう云った。バレッタはクリーム色の板の周囲にラインストーンが散らされていて、派手すぎず地味すぎずでこんな格好にぴったりだった。
本当は、買ってきたものじゃない。
でもそのことはなんとなく云い出しづらかった。別にやましいことがあるわけじゃないし、どうしても秘密にしたいってわけでもない。ただそれは、わたしたちの間だけのことだから。
それにしても、ゆーちゃんも意外と鋭い。
――確かに、そのバレッタはわたしの青い髪によく合った。
§16
「――近い! あと三歩下がって」
「……こなたぁ……。それじゃ他人みたいじゃないかよぉ……」
「当たり前じゃんそんなの。他人みたいに見せたいんだもん」
「……こなたぁ」
「きゃー、知らない変態の小父さんが声かけてくるー、タスケテー!」
「ちょっ、ちょっと待てって、そのセリフ本当にやばいから、な?」
近くを歩いていた新入生とおぼしき男の子が、ちらりとこっちを眺めてすぐに目をそらす。わざわざ云い訳なんてしなくても、結局わたしとお父さんの距離は普通に親子同士のそれだった。流石に着慣れているスーツに髭も綺麗に当てていて、お父さんも外見だけなら変態のようには見えなかったことだろう。
九段上の地下鉄から地上に出ると、桜並木の中だった。
もう随分緑色になった桜は、それでも入学式には絶対桜が舞い散らないといけないとでも云うように、その残り少ない花びらを通行人に大盤振る舞いしていた。
木立の向こうはお濠になっていて、都心のど真ん中に佇む贅沢な緑地帯をぐるりと取り囲んでいる。お濠の水はなんだか濁った緑色をしていて、あんまり綺麗じゃないなってわたしは思った。でも土手に植わった桜が水上に梢を伸ばしていて、水の上に花びらで絨毯を作っているところはちょっと素敵な光景だ。
「大体さ、大学の入学式とかわざわざ親が来るもの? 座って偉い人の話聞くだけじゃん」
「そんなこと云ったら元も子もないだろ。式典なんて全部そんなもんだしな」
「だよね? だから正直来ないと思ってたんだよね」
「なんでだよ、今までもずっとこういうのは来てただろう?」
「や、だってさ、もうわたしについてきてもセーラー服とか拝めないんだよ?」
「…………な、なーにを云うんだこなたぁ。そんなの関係ないだろぉ」
なんだか長い間があった。声は裏返ってるし、セリフは酷い棒読みだ。
「――近いから! あと五十七歩下がってよ!」
「なんでそんな増えてるんだよこなたぁ。お父さん数えるの大変だぞそれ」
ごちゃごちゃ云いだしたお父さんを無視してわたしは歩く。パンプスのヒールがアスファルトに触れる度、カツカツと音を立てて鳴るのが気持ちいい。
まだ時間には結構早かったはずだけれど、道行く人たちは同じ目的地だろう人が多かった。真面目な顔をして前を見つめる同世代の男の子や女の子。男の子はほとんどが紺か黒のスーツ姿で、さっきはああ云ったけれど、ほとんど制服と変わらないんじゃないかって思う。女の子の方も似たような感じだったけれど、こちらは中にはフォーマルなドレスを着た子もいて少しだけ華やかだ。親子連れもたまに見かけていたけれど、流石にお父さんが変態な親子なんて、きっとわたしたちくらいのものだろう。
そうしてしばらく歩いていくと、お濠に渡り道ができている。広い道沿いには桜が立ち並んでいて、その奥には築地塀に和風の門が設けられていた。
見上げると、モスクの天辺にあるタマネギみたいな変なオブジェが、木々の上にちょこんと顔を出していた。
――日ノ本武道館。
そこが、これからわたしが通うことになる大学、法正大学の入学式が行われる場所だった。
「……こなたぁ……。それじゃ他人みたいじゃないかよぉ……」
「当たり前じゃんそんなの。他人みたいに見せたいんだもん」
「……こなたぁ」
「きゃー、知らない変態の小父さんが声かけてくるー、タスケテー!」
「ちょっ、ちょっと待てって、そのセリフ本当にやばいから、な?」
近くを歩いていた新入生とおぼしき男の子が、ちらりとこっちを眺めてすぐに目をそらす。わざわざ云い訳なんてしなくても、結局わたしとお父さんの距離は普通に親子同士のそれだった。流石に着慣れているスーツに髭も綺麗に当てていて、お父さんも外見だけなら変態のようには見えなかったことだろう。
九段上の地下鉄から地上に出ると、桜並木の中だった。
もう随分緑色になった桜は、それでも入学式には絶対桜が舞い散らないといけないとでも云うように、その残り少ない花びらを通行人に大盤振る舞いしていた。
木立の向こうはお濠になっていて、都心のど真ん中に佇む贅沢な緑地帯をぐるりと取り囲んでいる。お濠の水はなんだか濁った緑色をしていて、あんまり綺麗じゃないなってわたしは思った。でも土手に植わった桜が水上に梢を伸ばしていて、水の上に花びらで絨毯を作っているところはちょっと素敵な光景だ。
「大体さ、大学の入学式とかわざわざ親が来るもの? 座って偉い人の話聞くだけじゃん」
「そんなこと云ったら元も子もないだろ。式典なんて全部そんなもんだしな」
「だよね? だから正直来ないと思ってたんだよね」
「なんでだよ、今までもずっとこういうのは来てただろう?」
「や、だってさ、もうわたしについてきてもセーラー服とか拝めないんだよ?」
「…………な、なーにを云うんだこなたぁ。そんなの関係ないだろぉ」
なんだか長い間があった。声は裏返ってるし、セリフは酷い棒読みだ。
「――近いから! あと五十七歩下がってよ!」
「なんでそんな増えてるんだよこなたぁ。お父さん数えるの大変だぞそれ」
ごちゃごちゃ云いだしたお父さんを無視してわたしは歩く。パンプスのヒールがアスファルトに触れる度、カツカツと音を立てて鳴るのが気持ちいい。
まだ時間には結構早かったはずだけれど、道行く人たちは同じ目的地だろう人が多かった。真面目な顔をして前を見つめる同世代の男の子や女の子。男の子はほとんどが紺か黒のスーツ姿で、さっきはああ云ったけれど、ほとんど制服と変わらないんじゃないかって思う。女の子の方も似たような感じだったけれど、こちらは中にはフォーマルなドレスを着た子もいて少しだけ華やかだ。親子連れもたまに見かけていたけれど、流石にお父さんが変態な親子なんて、きっとわたしたちくらいのものだろう。
そうしてしばらく歩いていくと、お濠に渡り道ができている。広い道沿いには桜が立ち並んでいて、その奥には築地塀に和風の門が設けられていた。
見上げると、モスクの天辺にあるタマネギみたいな変なオブジェが、木々の上にちょこんと顔を出していた。
――日ノ本武道館。
そこが、これからわたしが通うことになる大学、法正大学の入学式が行われる場所だった。
*
「――やっぱり随分早かったねぇ」
「そうだな。まあ遅れるよりはいいだろう。こなたはいっつもギリギリだからなぁ」
「うぐぅ! ってかいつも人生崖っぷちみたいなおと――知らない小父さんには云われたくないし」
「知らない小父さんって、おいおい……。まだそれ継続中なのかよ」
「そうだよ。“一ヶ月はべたべたさせない刑”だもん」
そんなことを云いながら、北の台公園の散策路をお父さんと一緒に歩いていく。公園とは云ってもその立ち並ぶ木々は森林と呼んでもいいほどで、中に入り込んでしまえばここが千代田区のどまんなかだとは思えないくらいだった。それでも梢を伸ばすクスノキやケヤキやスダジイは、どこか皇居に居るやんごとなき方にお伺いを立てるように整然と並んでいて、きちんとした計画に基づいて植栽されていることを思わせた。降り注ぐ穏やかな木漏れ陽もどこか上品で、こんなところを二人でスーツを着込んで歩いていることが、なんだか現実じゃないみたいに思えてくる。
――まるで、一枚の写真の中に紛れ込んでしまったような。
そんなことを考えて、そうしてわたしは思い出す。
三階の物置に置いてあったアルバムの、その写真のことを思い出す。
背景は、多分兼六園。ここと同じような森の中の散策路で、一組の男女が笑いながら肩を抱き合っていた。
お父さんと、青い髪の女の子。
――もう、今のわたしと余り変わらない年の女の子。
風が吹いて、さわさわと梢が鳴る。
いつもだったらなびいてくる髪を押えようと頬に手を当ててから、髪をまとめていることを思い出して苦笑した。
散策路の途中には池の周りに芝生が広がっているところがあって、そこで家族連れが遊んでいた。白くて丸い犬、男の子、男女の両親。それがなんとなく微笑ましくてふと足を止めると、踏みしめたヒールが予想以上に大きい音を立てて驚いた。まだまだヒールが高い靴には慣れていなかった。
芝生を区切った柵に両肘をついてもたれかかると、隣にお父さんがやってくる。苦笑の余韻が残る口元には小じわが刻まれているし、白髪をいちいち抜いていくのも随分前に諦めた。世間的には十九の娘がいるにしてはまだまだ若いお父さんなんだろうけれど、そこにいるのは写真に写っていた大学生とはまるで違う一人の大人だ。
――お父さんも、なのかな。
そんなお父さんを横目で眺めながら、わたしは思う。
やっぱりお父さんも今朝のわたしと同じように、自分がまるで大人だと思えないままいつの間にか大人になっていたのかな。
四十の坂もとっくに越えている。もう大学生の子供だっている。落ち着いた物腰をしていて、フォーマルなスーツだって身体によく馴染んでいる。それでも家の中でごろごろしているお父さんはわたしと精神年齢同じくらいに思えるし、だらしなくて後先のこと考えていないし、ロリコンでオタクで変態だしでおおよそ真っ当な人間だとは思えない。
でもそんなお父さんもちゃんと大人なんだって考えると、大人になるっていうことは今まで考えていたように“成長する”っていうことじゃないのかもしれないって思う。
――今朝、わたしが似合わない服を自分の物として受け入れたように。
それは単に色々なことに慣れていって、色々なことを受け入れていって、そうしてそんな自分を苦笑しながら眺めているような。もしかしたらそんな諦めみたいなものが、“大人になる”っていうことかもしれないってわたしは思う。
――だから、なのかな。
そう考えたらなんとなく納得がいくことがある。こないだかがみの家にいくときに電車の中でつかさが云った言葉。
『だってこなちゃんはわたしたち四人の中で一番大人だなって、わたしはずっと思ってたんだよ』
つかさにそう云われてわたしは嬉しかったけれど、反面“どこが?”っていう気持ちもぬぐい去ることはできなかった。でも多分、あれはそういうことなんだろう。
だって、子供の頃からわたしは色んなことを受け入れて生きてきたんだから。同世代の子よりは、多分少しだけ余計に。
お母さんがいないこと。
身体が全然成長してくれないこと。
――人を、愛することができないっていうこと。
今のかがみが凄く大人にみえるのって、もしかしたらそういう諦めに満ちた一年を過ごしてきたからかもしれないって思う。そういう一年を過ごしてきた上で、更にその先も同じように続いていく人生を受け入れているからかもしれない。
――好きな人と、結ばれることはないっていう人生を。
ぎしりと柵が軋む音がして、隣を見たらお父さんもわたしと同じように両肘をついている。優しそうな眼差しで子犬を眺めているお父さんは、流石にどこからどう見ても変態には思えない。普通に子供が大学の入学式を迎える日のお父さんみたいに見えていた。
「――かがみが、ね」
「んー?」
「かがみが云ってたよ。“そうじろうさんは私を信用してない”って。正直よくわかんなかったんだけど、そうなの?」
上目遣いでそう云うと、お父さんはきまりが悪そうな表情で頬を掻きだした。
「あー、そんなこと云ってたかー。やっぱり凄いなぁ、あの子は」
「かがみだもん。凄いに決まってるじゃん」
「おーおー、云うようになったなぁ」
そう云ってお父さんが頭に伸ばそうとした手を、わたしはぱしって振り払う。
「いて、なんだよこなた。まだ“ぺたぺたさせない刑”か? お父さんいい加減泣いちゃうぞ?」
「それもあるけど、頑張ってセットしてきた頭に触らないでくれる?」
「うおっ、こなたがまるで女の子みたいなことをっ!?」
「もしもーし、あなたの子供は産まれたときから女の子ですよー?」
――少し、人とは違う部分もあるけれど。
でもかがみといるといつだって思い知らされてしまうんだ、わたしがやっぱり骨の髄まで女の子なんだってこと。この間みたいに“女ごころ”がわからなくて呆れられたりもするけれど、やっぱりわたしは可愛い物とか好きだし、かがみの前では可愛い自分でいたいって思うんだ。
「――かがみは、凄く優しいよ?」
「……ああ、だろうなぁ。あの子は心底お前に惚れてるもんなぁ」
いつの間にか親子連れはいなくなっていて、人っ子一人いなくなった芝生をわたしたちは見つめている。顔を合わせないで、ただ正面だけを向いて、わたしたちはわたしたちの世界を見つめている。わたしとお父さん、それぞれの世界を。
「……知ってたなら、なんで何もしてくんなかったのさ」
「何もってなんだよ。俺に何かできることがあったのか?」
「わかんないけど……なんか大人っぽいことの一言でもさ……」
「娘の恋愛に親がしゃしゃり出てきて、何が云えるっていうんだ。かがみちゃんがあんまりいい子だったからつい干渉したこともあるけどさ、今でも俺は余計なことをしたなって思ってるよ。結局お前たちはお前たちで上手くやったんだろう?」
「全然上手くやれなかったよ……酷いこともいっぱいしたし……多分、今でも」
柵に手をかけたまま身体を後ろに倒すと、杭の根本の方からぎしって音が出た。流石に三十キロそこそこの体重で抜けることはないだろうけど、一応それ以上体重をかけるのは止めにした。お父さんが乾いた笑い声を上げて、それがなんだかお父さんの心の根本の方から聞こえてくるように感じていた。
「――それで?」
そんなお父さんにわたしは云う。
「ん?」
「最初の質問に答えてくれてないよ。信用してないってどういうことさ」
「……あー」
「誤魔化さないで、ちゃんと云って」
お腹に力を篭めてそう云うと、少し迷ったような沈黙の後にお父さんは口を開いた。
「別にかがみちゃんのことを信用してないわけじゃないさ。あの子は誠実だよ。どんな問題があっても真正面からぶつかって、ぼろぼろになりながら進んでいくだろう。あの子じゃなければ、俺は反対していたかもしれないな」
途端にかっと頬が熱くなって、なんだかキラキラしたもので胸が一杯になっていく。お父さんがかがみのことを認めてくれているのが嬉しかった。それが嬉しいと思える自分のことを、なんだか凄く誇らしく感じていた。
――でも。
「俺が信じていないのは、この世界まるごとの方さ」
そう、お父さんは云った。
その声に含まれていた感情に、思わずお父さんの方を振り向いた。
けれど、そこにいたのはお父さんじゃなかった。
そこにいたのは四十をとっくに越えた中年の男の人。晦渋な文体で鳴らすという、幻想文学界の巨匠の姿だった。
――少しだけ、疲れたような顔。
「どれだけ心の底から愛し合っている二人でも、別れが訪れることはあるんだよ、こなた。……俺はそれが怖いんだ」
「――お、父さん……?」
信じられない思いで、わたしは呆然と呟いた。
お父さんにだけはそんな顔をして欲しくなかった。
そんな顔をしたまま、お母さんとの別れを口にして欲しくなかった。
――そんな、色々なことを諦めたような大人の顔をして。
「どんなことだって起こりえるんだよ。お前が考えているようなことだけじゃない。お互い想い合っていてもどうしても譲れない物のために別れることもある。誠実なかがみちゃんは、もしお前から離れるのが最善だと思ったら、悩んだ末にそうするだろう。それが出来る子だからな、あの子は」
去年一年間は、かがみにとっても辛い時期だったはずなのに。結局かがみはしっかりと成績を伸ばしていって、志望通りの難関校に合格した。
わたしとつき合うことになった後も、かがみは一人暮らしをしたいっていう計画を取りやめにしたりしないで、そうして今も一人で自立への道を歩んでいる。
――かがみは、間違えない。
わたしのことを大事に想ってくれていることには毛先ほどの疑いもない。でもかがみは、どんなときでも自分自身を見失うことはしなかった。自分にとって何が一番大切なのかを見誤ることはなかった。
かがみはいつだってしっかりと自分っていうものを持っていて、どんな激流の中でもへこたれないで立ちつくすことができるんだ。そうしてあの釣り目でキッとお日様を睨みつけては、もっと伸びようもっと伸びようとその綺麗な両手を差し出していく。
――地上なんて、少しも見ていない。
そうだ、それがかがみだ。
前向きで誠実で誇り高く、そうして強い。
わたしの中のかがみは、そんなイメージだったから。
――わたしは、お父さんの言葉を否定できないでしゃがみこむ。
「……そのときお前が親友と恋人を同時になくすかもしれないと考えると、諸手を挙げて賛成ってわけにもいかなかった。恋愛だけが人生じゃない。お前が誰ともつき合わないで生きていくなら、それはそれでいいと思ってたんだな」
タイトスカートがお尻のあたりで突っ張ってきつかった。パンプスの高いヒールはやたらとバランスが悪くって、ふらつきながら柵に手を当てて身体を支えていた。
なんだか身体が酷く不自由だった。運動神経がいいのは結構自慢だったのに、大人の装いをしたわたしの身体は酷く不自由で、こんな服を着たまま走ることなんてできやしない。こんなことなら、やっぱり大人になんてなりたくなかった。短パンを穿いてTシャツをはだけさせ、誰の視線も気にしないで飛び回っていたかった。
ポケットからハンカチを取り出して、わたしは滲んでいた涙と鼻を拭いた。メイクが崩れたりしないように、ハンカチをそっと押し当てた。
そのハンカチに折り目がしっかり入っているところをみて、高校時代、いつも同じくしゃくしゃのハンカチを制服のポケットに入れたままだったことを思い出す。
『あんたって、不思議とちゃんとハンカチはもってるのよね』
かがみはそう云った。
『いやいや、だってずっと出さないで入れっぱだしね』
わたしはそう答えた。
あきれ顔で口にしたかがみの突っ込みは、どういうものだっただろうか。今となっては思い出すこともできない。年がら年中突っ込まれながら過ごしてきたんだから、流石に一つ一つの突っ込みまでは覚えていない。
でも、凄く嬉しかったことを覚えている。
ほんの最近のことなのに、なんだか随分昔のことのような気がした。記憶の中、陵桜の制服を着ていたわたしたちの光景は、いつのまにかセピア色に色づいて滲んでいた。
――もう二度と、あの頃には戻れない。
まっさらなスーツ。アイロンがかかったハンカチ。ヒールの高いパンプス。高く結い上げた髪の毛。
メイクをしているせいで、気軽に泣くことすらできやしない。
――でも、もう慣れないといけない。
大人であることに、もう、わたしも慣れないといけない。
「うわぁ……なんか無性に煙草が吸いたくなってきやがった」
ふと隣から聞こえてきた声に苦笑の色を読み取って、わたしはその人のことを仰ぎ見る。
――お父さんだった。
そこにいたのはお父さんだった。
もう、疲れたような顔はみられない。昇っていく太陽を背にして、どこかさばさばした表情で空中の辺りをみつめていた。
「……十年も前に辞めたはずなのに、煙草って本当に辞められないんだね……」
「白状すると、たまに吸ってたりするんだよな」
「お母さんの命日とかにだよね。知ってるよそんなの」
わたしがそう云うと、お父さんは声を立てて笑った。子供みたいに口を開けたあけすけな笑い方。その顔をみて、わたしはお母さんがこの人のことを好きになった理由がわかった気がした。
「――それでも、な」
「……うん」
「愛する人に先立たれても、人は幸せになれるんだよ」
「……そんなの……想像したくないもん。かがみがいない人生なんて、もう想像できないよ……」
「そうだな。それが正しい」
それきり、沈黙。
風が吹いてきてまとめ髪を揺らすけれど、もう髪がなびくことはないってわかってる。いい加減ヒールの高さもわかってる。タイトスカートがどのくらい脚を拘束するか、スーツがどのくらい肩の動きを制限するかもわかってる。
だから大丈夫。
きっとわたしは大丈夫。
――だって、わたしは運動神経が高いから。
いきなりすっくと立ち上がると、隣のお父さんが少しだけ驚いた顔をした。そんなお父さんに背を向けて、空を見上げながらこう云った。
「――わたし、絶対かがみと幸せになるからね。幸せになって、お父さんを見返してやる!」
「はは、まあ頑張ってみろ――っと、そろそろ時間だぞ、こなた」
「うん」
お父さんに背を向けたまま、わたしは武道館に向けて歩きだす。足下でヒールがカツカツと音を立てていくけれど、もう以前みたいに思わぬところで大きく鳴らしたりはしなかった。
後ろからも、お父さんの跫音。
こんな風に別の方を向いてるわたしのことを、お父さんはいつだって背中から見守ってくれている。例え五十七歩離れたところにいたとしても。
そんなお父さんのために、子供を産んであげたいって思ったこともあった。
それは“大きくなったらパパのお嫁さんになる”なんていう無邪気な夢じゃなく、お母さんの代わりに産まれてきたことへの贖罪の気持ちだった。でも、そんな願いは無邪気な夢と同じくらいあっさりとわたしの中から奪われていったんだ。
お父さんと、お母さんと、子供。
さっきの親子連れが作っていたような当たり前の光景を、わたしは未来永劫作りだすことはできない。
だから、この散策路に響く二つの跫音だけが泉家だ。わたしかお父さん、どっちかが死ぬまでわたしたちは二人だけの泉家だ。
――そこは、かがみだってゆーちゃんだって入れない、わたしたちだけの家なんだ。
武道館が見えてきたところで、ふとお父さんが云った。
「――そのバレッタ、どこにあったんだ?」
「ん。三階のダンボール。アルバムと一緒に入ってたよ」
「……そうか」
「勘違いしないでよ、別にお父さんのためとかじゃないから」
「……わかってるさ、そのくらい」
森が投げかける木陰の下から抜け出ると、そこはもう新入生たちでいっぱいだった。大学のアメフト部なんだろう、来るときにはいなかったプロテクター装備のラガーメンたちが、田安門のあたりに整列して門を潜る人たちに拍手を浴びせていた。
弾けるような笑顔。活気の溢れる歓声。未来が無限に続いていくことを疑いもしないような、希望に満ちた眼差し。
そんな新入生でいっぱいの武道館前広場は、湿っぽい雰囲気なんて吹き飛ばしてしまうから。
だからわたしはくるりと振り返って、お父さんに向けてにんまりと笑った。一瞬びくっとしたお父さんの近くまでつかつかと歩いていって、その長くて太い腕に自分の腕を絡ませた。
「いこっ、お父さん」
「おお、“一ヶ月はべたべたさせない刑”はどうしたんだ。もしかして刑期開けか?」
「まだ保護観察中だけどねー」
そう云って歩きだした先では、桜が咲いている。お母さんの花が咲いている。
いつだって、桜はお母さんの花だった。小学校のときも中学校のときも、陵桜に入ってかがみと出会った最初の春も、わたしの頭に乗った花びらをかがみが摘んだ去年の春も、そうしてその下でかがみに捕まえられた、今年の春も。
いつだって、そこに桜が舞っていた。
『――あの子は桜みたいに散っていったな』
伯父さんが云ったその言葉を、わたしは思い出していた。
――でも。
桜は、散ってしまえば終わりってわけじゃない。今も梢の先で陽光を捕まえようと緑の葉が茂っているし、例え枯れきってしまっても、その幹の中に水や血潮や願いや夢が息づいている限り、桜は桜として死ぬことはない。
――今、わたしがここにいるように。
脳裏に浮かぶのは一枚の写真。あのアルバムの最後の方に入っていた、一枚の写真。
白くて大きくて厳めしい建物の前で、赤ちゃんを抱いた大学生くらいの女の子が、車いすに乗って笑っている。わたしともうあんまり年が変わらない青い髪の女の子が、おもちゃみたいに小さなわたしを抱いて、誇りに眼を輝かせながら幸せそうに笑っている。
――昔はわからなかったその笑顔の意味が、今は不思議とよくわかる。
だからわたしは、もういないその子に心の中で呟いた。
「そうだな。まあ遅れるよりはいいだろう。こなたはいっつもギリギリだからなぁ」
「うぐぅ! ってかいつも人生崖っぷちみたいなおと――知らない小父さんには云われたくないし」
「知らない小父さんって、おいおい……。まだそれ継続中なのかよ」
「そうだよ。“一ヶ月はべたべたさせない刑”だもん」
そんなことを云いながら、北の台公園の散策路をお父さんと一緒に歩いていく。公園とは云ってもその立ち並ぶ木々は森林と呼んでもいいほどで、中に入り込んでしまえばここが千代田区のどまんなかだとは思えないくらいだった。それでも梢を伸ばすクスノキやケヤキやスダジイは、どこか皇居に居るやんごとなき方にお伺いを立てるように整然と並んでいて、きちんとした計画に基づいて植栽されていることを思わせた。降り注ぐ穏やかな木漏れ陽もどこか上品で、こんなところを二人でスーツを着込んで歩いていることが、なんだか現実じゃないみたいに思えてくる。
――まるで、一枚の写真の中に紛れ込んでしまったような。
そんなことを考えて、そうしてわたしは思い出す。
三階の物置に置いてあったアルバムの、その写真のことを思い出す。
背景は、多分兼六園。ここと同じような森の中の散策路で、一組の男女が笑いながら肩を抱き合っていた。
お父さんと、青い髪の女の子。
――もう、今のわたしと余り変わらない年の女の子。
風が吹いて、さわさわと梢が鳴る。
いつもだったらなびいてくる髪を押えようと頬に手を当ててから、髪をまとめていることを思い出して苦笑した。
散策路の途中には池の周りに芝生が広がっているところがあって、そこで家族連れが遊んでいた。白くて丸い犬、男の子、男女の両親。それがなんとなく微笑ましくてふと足を止めると、踏みしめたヒールが予想以上に大きい音を立てて驚いた。まだまだヒールが高い靴には慣れていなかった。
芝生を区切った柵に両肘をついてもたれかかると、隣にお父さんがやってくる。苦笑の余韻が残る口元には小じわが刻まれているし、白髪をいちいち抜いていくのも随分前に諦めた。世間的には十九の娘がいるにしてはまだまだ若いお父さんなんだろうけれど、そこにいるのは写真に写っていた大学生とはまるで違う一人の大人だ。
――お父さんも、なのかな。
そんなお父さんを横目で眺めながら、わたしは思う。
やっぱりお父さんも今朝のわたしと同じように、自分がまるで大人だと思えないままいつの間にか大人になっていたのかな。
四十の坂もとっくに越えている。もう大学生の子供だっている。落ち着いた物腰をしていて、フォーマルなスーツだって身体によく馴染んでいる。それでも家の中でごろごろしているお父さんはわたしと精神年齢同じくらいに思えるし、だらしなくて後先のこと考えていないし、ロリコンでオタクで変態だしでおおよそ真っ当な人間だとは思えない。
でもそんなお父さんもちゃんと大人なんだって考えると、大人になるっていうことは今まで考えていたように“成長する”っていうことじゃないのかもしれないって思う。
――今朝、わたしが似合わない服を自分の物として受け入れたように。
それは単に色々なことに慣れていって、色々なことを受け入れていって、そうしてそんな自分を苦笑しながら眺めているような。もしかしたらそんな諦めみたいなものが、“大人になる”っていうことかもしれないってわたしは思う。
――だから、なのかな。
そう考えたらなんとなく納得がいくことがある。こないだかがみの家にいくときに電車の中でつかさが云った言葉。
『だってこなちゃんはわたしたち四人の中で一番大人だなって、わたしはずっと思ってたんだよ』
つかさにそう云われてわたしは嬉しかったけれど、反面“どこが?”っていう気持ちもぬぐい去ることはできなかった。でも多分、あれはそういうことなんだろう。
だって、子供の頃からわたしは色んなことを受け入れて生きてきたんだから。同世代の子よりは、多分少しだけ余計に。
お母さんがいないこと。
身体が全然成長してくれないこと。
――人を、愛することができないっていうこと。
今のかがみが凄く大人にみえるのって、もしかしたらそういう諦めに満ちた一年を過ごしてきたからかもしれないって思う。そういう一年を過ごしてきた上で、更にその先も同じように続いていく人生を受け入れているからかもしれない。
――好きな人と、結ばれることはないっていう人生を。
ぎしりと柵が軋む音がして、隣を見たらお父さんもわたしと同じように両肘をついている。優しそうな眼差しで子犬を眺めているお父さんは、流石にどこからどう見ても変態には思えない。普通に子供が大学の入学式を迎える日のお父さんみたいに見えていた。
「――かがみが、ね」
「んー?」
「かがみが云ってたよ。“そうじろうさんは私を信用してない”って。正直よくわかんなかったんだけど、そうなの?」
上目遣いでそう云うと、お父さんはきまりが悪そうな表情で頬を掻きだした。
「あー、そんなこと云ってたかー。やっぱり凄いなぁ、あの子は」
「かがみだもん。凄いに決まってるじゃん」
「おーおー、云うようになったなぁ」
そう云ってお父さんが頭に伸ばそうとした手を、わたしはぱしって振り払う。
「いて、なんだよこなた。まだ“ぺたぺたさせない刑”か? お父さんいい加減泣いちゃうぞ?」
「それもあるけど、頑張ってセットしてきた頭に触らないでくれる?」
「うおっ、こなたがまるで女の子みたいなことをっ!?」
「もしもーし、あなたの子供は産まれたときから女の子ですよー?」
――少し、人とは違う部分もあるけれど。
でもかがみといるといつだって思い知らされてしまうんだ、わたしがやっぱり骨の髄まで女の子なんだってこと。この間みたいに“女ごころ”がわからなくて呆れられたりもするけれど、やっぱりわたしは可愛い物とか好きだし、かがみの前では可愛い自分でいたいって思うんだ。
「――かがみは、凄く優しいよ?」
「……ああ、だろうなぁ。あの子は心底お前に惚れてるもんなぁ」
いつの間にか親子連れはいなくなっていて、人っ子一人いなくなった芝生をわたしたちは見つめている。顔を合わせないで、ただ正面だけを向いて、わたしたちはわたしたちの世界を見つめている。わたしとお父さん、それぞれの世界を。
「……知ってたなら、なんで何もしてくんなかったのさ」
「何もってなんだよ。俺に何かできることがあったのか?」
「わかんないけど……なんか大人っぽいことの一言でもさ……」
「娘の恋愛に親がしゃしゃり出てきて、何が云えるっていうんだ。かがみちゃんがあんまりいい子だったからつい干渉したこともあるけどさ、今でも俺は余計なことをしたなって思ってるよ。結局お前たちはお前たちで上手くやったんだろう?」
「全然上手くやれなかったよ……酷いこともいっぱいしたし……多分、今でも」
柵に手をかけたまま身体を後ろに倒すと、杭の根本の方からぎしって音が出た。流石に三十キロそこそこの体重で抜けることはないだろうけど、一応それ以上体重をかけるのは止めにした。お父さんが乾いた笑い声を上げて、それがなんだかお父さんの心の根本の方から聞こえてくるように感じていた。
「――それで?」
そんなお父さんにわたしは云う。
「ん?」
「最初の質問に答えてくれてないよ。信用してないってどういうことさ」
「……あー」
「誤魔化さないで、ちゃんと云って」
お腹に力を篭めてそう云うと、少し迷ったような沈黙の後にお父さんは口を開いた。
「別にかがみちゃんのことを信用してないわけじゃないさ。あの子は誠実だよ。どんな問題があっても真正面からぶつかって、ぼろぼろになりながら進んでいくだろう。あの子じゃなければ、俺は反対していたかもしれないな」
途端にかっと頬が熱くなって、なんだかキラキラしたもので胸が一杯になっていく。お父さんがかがみのことを認めてくれているのが嬉しかった。それが嬉しいと思える自分のことを、なんだか凄く誇らしく感じていた。
――でも。
「俺が信じていないのは、この世界まるごとの方さ」
そう、お父さんは云った。
その声に含まれていた感情に、思わずお父さんの方を振り向いた。
けれど、そこにいたのはお父さんじゃなかった。
そこにいたのは四十をとっくに越えた中年の男の人。晦渋な文体で鳴らすという、幻想文学界の巨匠の姿だった。
――少しだけ、疲れたような顔。
「どれだけ心の底から愛し合っている二人でも、別れが訪れることはあるんだよ、こなた。……俺はそれが怖いんだ」
「――お、父さん……?」
信じられない思いで、わたしは呆然と呟いた。
お父さんにだけはそんな顔をして欲しくなかった。
そんな顔をしたまま、お母さんとの別れを口にして欲しくなかった。
――そんな、色々なことを諦めたような大人の顔をして。
「どんなことだって起こりえるんだよ。お前が考えているようなことだけじゃない。お互い想い合っていてもどうしても譲れない物のために別れることもある。誠実なかがみちゃんは、もしお前から離れるのが最善だと思ったら、悩んだ末にそうするだろう。それが出来る子だからな、あの子は」
去年一年間は、かがみにとっても辛い時期だったはずなのに。結局かがみはしっかりと成績を伸ばしていって、志望通りの難関校に合格した。
わたしとつき合うことになった後も、かがみは一人暮らしをしたいっていう計画を取りやめにしたりしないで、そうして今も一人で自立への道を歩んでいる。
――かがみは、間違えない。
わたしのことを大事に想ってくれていることには毛先ほどの疑いもない。でもかがみは、どんなときでも自分自身を見失うことはしなかった。自分にとって何が一番大切なのかを見誤ることはなかった。
かがみはいつだってしっかりと自分っていうものを持っていて、どんな激流の中でもへこたれないで立ちつくすことができるんだ。そうしてあの釣り目でキッとお日様を睨みつけては、もっと伸びようもっと伸びようとその綺麗な両手を差し出していく。
――地上なんて、少しも見ていない。
そうだ、それがかがみだ。
前向きで誠実で誇り高く、そうして強い。
わたしの中のかがみは、そんなイメージだったから。
――わたしは、お父さんの言葉を否定できないでしゃがみこむ。
「……そのときお前が親友と恋人を同時になくすかもしれないと考えると、諸手を挙げて賛成ってわけにもいかなかった。恋愛だけが人生じゃない。お前が誰ともつき合わないで生きていくなら、それはそれでいいと思ってたんだな」
タイトスカートがお尻のあたりで突っ張ってきつかった。パンプスの高いヒールはやたらとバランスが悪くって、ふらつきながら柵に手を当てて身体を支えていた。
なんだか身体が酷く不自由だった。運動神経がいいのは結構自慢だったのに、大人の装いをしたわたしの身体は酷く不自由で、こんな服を着たまま走ることなんてできやしない。こんなことなら、やっぱり大人になんてなりたくなかった。短パンを穿いてTシャツをはだけさせ、誰の視線も気にしないで飛び回っていたかった。
ポケットからハンカチを取り出して、わたしは滲んでいた涙と鼻を拭いた。メイクが崩れたりしないように、ハンカチをそっと押し当てた。
そのハンカチに折り目がしっかり入っているところをみて、高校時代、いつも同じくしゃくしゃのハンカチを制服のポケットに入れたままだったことを思い出す。
『あんたって、不思議とちゃんとハンカチはもってるのよね』
かがみはそう云った。
『いやいや、だってずっと出さないで入れっぱだしね』
わたしはそう答えた。
あきれ顔で口にしたかがみの突っ込みは、どういうものだっただろうか。今となっては思い出すこともできない。年がら年中突っ込まれながら過ごしてきたんだから、流石に一つ一つの突っ込みまでは覚えていない。
でも、凄く嬉しかったことを覚えている。
ほんの最近のことなのに、なんだか随分昔のことのような気がした。記憶の中、陵桜の制服を着ていたわたしたちの光景は、いつのまにかセピア色に色づいて滲んでいた。
――もう二度と、あの頃には戻れない。
まっさらなスーツ。アイロンがかかったハンカチ。ヒールの高いパンプス。高く結い上げた髪の毛。
メイクをしているせいで、気軽に泣くことすらできやしない。
――でも、もう慣れないといけない。
大人であることに、もう、わたしも慣れないといけない。
「うわぁ……なんか無性に煙草が吸いたくなってきやがった」
ふと隣から聞こえてきた声に苦笑の色を読み取って、わたしはその人のことを仰ぎ見る。
――お父さんだった。
そこにいたのはお父さんだった。
もう、疲れたような顔はみられない。昇っていく太陽を背にして、どこかさばさばした表情で空中の辺りをみつめていた。
「……十年も前に辞めたはずなのに、煙草って本当に辞められないんだね……」
「白状すると、たまに吸ってたりするんだよな」
「お母さんの命日とかにだよね。知ってるよそんなの」
わたしがそう云うと、お父さんは声を立てて笑った。子供みたいに口を開けたあけすけな笑い方。その顔をみて、わたしはお母さんがこの人のことを好きになった理由がわかった気がした。
「――それでも、な」
「……うん」
「愛する人に先立たれても、人は幸せになれるんだよ」
「……そんなの……想像したくないもん。かがみがいない人生なんて、もう想像できないよ……」
「そうだな。それが正しい」
それきり、沈黙。
風が吹いてきてまとめ髪を揺らすけれど、もう髪がなびくことはないってわかってる。いい加減ヒールの高さもわかってる。タイトスカートがどのくらい脚を拘束するか、スーツがどのくらい肩の動きを制限するかもわかってる。
だから大丈夫。
きっとわたしは大丈夫。
――だって、わたしは運動神経が高いから。
いきなりすっくと立ち上がると、隣のお父さんが少しだけ驚いた顔をした。そんなお父さんに背を向けて、空を見上げながらこう云った。
「――わたし、絶対かがみと幸せになるからね。幸せになって、お父さんを見返してやる!」
「はは、まあ頑張ってみろ――っと、そろそろ時間だぞ、こなた」
「うん」
お父さんに背を向けたまま、わたしは武道館に向けて歩きだす。足下でヒールがカツカツと音を立てていくけれど、もう以前みたいに思わぬところで大きく鳴らしたりはしなかった。
後ろからも、お父さんの跫音。
こんな風に別の方を向いてるわたしのことを、お父さんはいつだって背中から見守ってくれている。例え五十七歩離れたところにいたとしても。
そんなお父さんのために、子供を産んであげたいって思ったこともあった。
それは“大きくなったらパパのお嫁さんになる”なんていう無邪気な夢じゃなく、お母さんの代わりに産まれてきたことへの贖罪の気持ちだった。でも、そんな願いは無邪気な夢と同じくらいあっさりとわたしの中から奪われていったんだ。
お父さんと、お母さんと、子供。
さっきの親子連れが作っていたような当たり前の光景を、わたしは未来永劫作りだすことはできない。
だから、この散策路に響く二つの跫音だけが泉家だ。わたしかお父さん、どっちかが死ぬまでわたしたちは二人だけの泉家だ。
――そこは、かがみだってゆーちゃんだって入れない、わたしたちだけの家なんだ。
武道館が見えてきたところで、ふとお父さんが云った。
「――そのバレッタ、どこにあったんだ?」
「ん。三階のダンボール。アルバムと一緒に入ってたよ」
「……そうか」
「勘違いしないでよ、別にお父さんのためとかじゃないから」
「……わかってるさ、そのくらい」
森が投げかける木陰の下から抜け出ると、そこはもう新入生たちでいっぱいだった。大学のアメフト部なんだろう、来るときにはいなかったプロテクター装備のラガーメンたちが、田安門のあたりに整列して門を潜る人たちに拍手を浴びせていた。
弾けるような笑顔。活気の溢れる歓声。未来が無限に続いていくことを疑いもしないような、希望に満ちた眼差し。
そんな新入生でいっぱいの武道館前広場は、湿っぽい雰囲気なんて吹き飛ばしてしまうから。
だからわたしはくるりと振り返って、お父さんに向けてにんまりと笑った。一瞬びくっとしたお父さんの近くまでつかつかと歩いていって、その長くて太い腕に自分の腕を絡ませた。
「いこっ、お父さん」
「おお、“一ヶ月はべたべたさせない刑”はどうしたんだ。もしかして刑期開けか?」
「まだ保護観察中だけどねー」
そう云って歩きだした先では、桜が咲いている。お母さんの花が咲いている。
いつだって、桜はお母さんの花だった。小学校のときも中学校のときも、陵桜に入ってかがみと出会った最初の春も、わたしの頭に乗った花びらをかがみが摘んだ去年の春も、そうしてその下でかがみに捕まえられた、今年の春も。
いつだって、そこに桜が舞っていた。
『――あの子は桜みたいに散っていったな』
伯父さんが云ったその言葉を、わたしは思い出していた。
――でも。
桜は、散ってしまえば終わりってわけじゃない。今も梢の先で陽光を捕まえようと緑の葉が茂っているし、例え枯れきってしまっても、その幹の中に水や血潮や願いや夢が息づいている限り、桜は桜として死ぬことはない。
――今、わたしがここにいるように。
脳裏に浮かぶのは一枚の写真。あのアルバムの最後の方に入っていた、一枚の写真。
白くて大きくて厳めしい建物の前で、赤ちゃんを抱いた大学生くらいの女の子が、車いすに乗って笑っている。わたしともうあんまり年が変わらない青い髪の女の子が、おもちゃみたいに小さなわたしを抱いて、誇りに眼を輝かせながら幸せそうに笑っている。
――昔はわからなかったその笑顔の意味が、今は不思議とよくわかる。
だからわたしは、もういないその子に心の中で呟いた。
――ありがとう。
風に吹かれてざわついた梢が、返事を返したような気がしていた。
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Beautiful World 8章/WISHへ続く
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