とりわけ311以降、リスク論は脚光を浴びている。
リスク論で論じられているトピックが、他ならぬ、自身のふるまいについてであると私は感じている。
どのようなリスクが避けられうるものであり、どのようなデンジャーを甘受すべきなのか、それを推し量るには、まず私たちは、直面している“危機”を分析しなければならない。
これはよい。まったくその通り。
「現在は危機的状況である」という認識から議論を出発させることに異存はない。
そしてそれは、「“現在は危機的状況である”という認識の共有を求める」ことから議論を始めることとは、異なる。
にも関わらず、両者はよく混同されがちである。
これについて、メモ書き程度に書いておきたい。
リスク論で論じられているトピックが、他ならぬ、自身のふるまいについてであると私は感じている。
どのようなリスクが避けられうるものであり、どのようなデンジャーを甘受すべきなのか、それを推し量るには、まず私たちは、直面している“危機”を分析しなければならない。
これはよい。まったくその通り。
「現在は危機的状況である」という認識から議論を出発させることに異存はない。
そしてそれは、「“現在は危機的状況である”という認識の共有を求める」ことから議論を始めることとは、異なる。
にも関わらず、両者はよく混同されがちである。
これについて、メモ書き程度に書いておきたい。
■「“現在は危機的状況である”という認識の共有を求める」議論が陥りがちな論理的誤謬
「“現在は危機的状況である”という認識の共有を求める」議論は以下のように展開されがちである。
「“現在は危機的状況である”という認識の共有を求める」議論は以下のように展開されがちである。
現在は危機的状況である。
→「現在は危機的状況である」と認識できないのは、現状を維持することでなんらかの形の利益を得ているからだ。(命題A)
→「現在は危機的状況である」と認識する知性は、そうでない知性よりも高度かつ倫理的である。(命題B)
→変革のプランはラディカルであればあるほど正しく、微温的であればあるほど誤っている。(命題C)
→「現在は危機的状況である」と認識できないのは、現状を維持することでなんらかの形の利益を得ているからだ。(命題A)
→「現在は危機的状況である」と認識する知性は、そうでない知性よりも高度かつ倫理的である。(命題B)
→変革のプランはラディカルであればあるほど正しく、微温的であればあるほど誤っている。(命題C)
ここには論理の飛躍がある。矢印でつないであるが、論理的関係はない。
とりわけ「命題A」と「命題B」のあいだの飛躍は、深刻な確執を生み出す可能性がある。
どういうことか。
「現在は危機的状況である」という前提をどのように認識するかが、判断者の知性と倫理性の問題にすり替わってしまうからである。危機管理をめぐる議論にもかかわらず。
つまり、「危機派(もしくはドゥームセイヤー)」は、構造的に啓蒙的であり、「現状維持派」は、被啓蒙者として配置される。(「危機派」は議論の先手をとることができる、といえば良いか。とりいえず、「危機派」はトピックを創造する、選択する権限を持つ。「現状維持派」は、その解釈を行う立場に立つ)
とりわけ「命題A」と「命題B」のあいだの飛躍は、深刻な確執を生み出す可能性がある。
どういうことか。
「現在は危機的状況である」という前提をどのように認識するかが、判断者の知性と倫理性の問題にすり替わってしまうからである。危機管理をめぐる議論にもかかわらず。
つまり、「危機派(もしくはドゥームセイヤー)」は、構造的に啓蒙的であり、「現状維持派」は、被啓蒙者として配置される。(「危機派」は議論の先手をとることができる、といえば良いか。とりいえず、「危機派」はトピックを創造する、選択する権限を持つ。「現状維持派」は、その解釈を行う立場に立つ)
もちろん、これは図式的な整理にすぎない。
実際の議論では、純粋な「危機派」も、純粋な「現状維持派」もいない。
が、ラディカルな改革(それは2011年の日本でたしかに求められていることであるのだが)の根拠として、「いや、だって俺は優秀だから。なぜって? 俺は君らよりよく危機を認識しているからだよ」という言葉が、口に出すか否かは別として、抱かれがちであることをここに覚書とする。
実際の議論では、純粋な「危機派」も、純粋な「現状維持派」もいない。
が、ラディカルな改革(それは2011年の日本でたしかに求められていることであるのだが)の根拠として、「いや、だって俺は優秀だから。なぜって? 俺は君らよりよく危機を認識しているからだよ」という言葉が、口に出すか否かは別として、抱かれがちであることをここに覚書とする。
