◆第四章 修羅たちの対面
論考の終盤にさしかかったいま、賢治の言動をさらに冷静にふり返ると、彼自身は法華経の教説をさかんに説き、田中智学や室伏高信を通じて理論構築を行ったが、彼の心象スケッチ群、童話作品を通底する固有の持ち味は別の場にあったように思われる。例えば、〈まことのことば〉の概念も、その構成途上に現れる身体運動の出力の様相こそが本当は印象的であり、これは彼の思索-詩作のときにとる行動とほぼ重なる。(湿地を這い回る修羅の不快、あるいは慟哭しつつ旋回するよだかの不気味さを、あるいは「雨ニモマケズ」の強迫的な不穏さを読者が忘れられないように。)意識の完全な外部にある計測不能な過去まで遡って思考の全領域――世界の全存在を励起させるゴータマの教説とは異なり、賢治の記述は言語回路を経ずに(言語を完全には介在させずに)生ずる身体表層の異変についてこそ私たちの言語系に多くの心象を喚起させる。
言語によってあらかじめ組織された身体と意識にとって怪異なものとして出現する身体を賢治は観測する。そう、重要なのは「観測」に留まる思惟なのだ。心象スケッチ群においてなされる性的衝動の反復という苦痛の宛先は読者であり、たとえ賢治自身が火に焼かれ殺戮の命令に服することによって読者を自らの現実的体験に巻き込もうとしても、彼は書くときに書字する手だけが読者に捧げられていることを知っている。(そのため賢治は焼身自殺を図らなかったし、一人一殺のテロリズムから遠い場所にいた。)身体を絶対他者-真実の視線に捧げつつ、それを担保に賢治は私的言語を拡張する。その一瞬だけ解放された言葉において初めて人類最大の幸福/人類最大の不幸を巡る問いは縦横に動き出す。
人間が自らを粗暴に主張することへの忌避はすべてのエコロジー思想に通底する基本的前提である。だがその慎み深さと沈黙が、真実を仮のものとしてしか了解しないシニシズム的態度と峻別されなければまたたく間に群衆的迎合に流れ、無自覚な全体主義へと堕落する。常に同質性への抵抗であること(――というスローガンすら掲げないこと)。完了することがなく、全体性・一挙性を志向しない部分に盲目とならないこと。観測する自身を観測すること。知性とは眼前の事態がすでに、それを意味づける複雑かつ多様な意味体系を目の前に双子のように表す謂いであり、そこにおいては深刻さも喜ばしさも、衰退でさえも直接的には受け取られず、評価と演技の回路を経由する――その回路を暗黙のうちに形成する悲劇からもさらに外に立つこと。
ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille, 1897 - 1962)は「共同性を持たない者たちの共同性」を主体の外、消尽の欲望のレベルにおける「不可能な」関係への関係づけに見出した。ポトラッチとして知られる剰余の蕩尽(一年のうちの限定された祝祭的期間において、日常的期間において作られた食物などを一気に消費し尽くすシステム)は、その恐るべき陶酔と、陶酔を記憶の彼方によって日常的秩序を形成する。それはフリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844 - 1900)が『悲劇の誕生』(1872)で展開した、古代ギリシャ世界のアポロン神的な安定構造に侵入するディオニュソス神の興奮と忘却の乱舞、そしてそれらが芸術的な諸形式として保存され、幾度となく再演される臨界的混乱と日常的秩序のくり返しに由来する。自らの評価と演技の回路を、自らの恍惚において再構築すること。
相異なる舞台で各々の劇を上演する人間は、舞台の外側において、他の舞台で他の劇を演じる他者と瞬間、交錯する。絶対的に独自な感情のそれぞれは、相互の裏側に期待するものを持たない回答不能な問いの形式においてなされる。「銀河鉄道の夜」で灯台守やタイタニック号の沈没で溺死した青年、ジョバンニたちの問い、問い――「ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか。」「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。」「こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。」「あなたの神さまってどんな神さまですか。」「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」これらの問いは問いそのものに自らの現在の形象のすべてを賭け、まったく未知の回答に次の瞬間の自らの変貌を委ねる決断をもって初めて有効なものとなる。ジョバンニが銀河鉄道で経巡っているあいだに出会った死者たちは、これらの問いに答えない。恐らくは地上においても、隣人は思わせぶりな微笑でその問いを宙吊りにするだろう。然り。回答は不可能である。真実の、真実を与える恍惚体験の伝達は不可能である。だが、それでも言葉のみが言葉がもはや通用しなくなる眩しすぎる光の湧出、叫びの瞬間を明示する。誰にも聞こえないジョバンニの叫びは叫びそのものを肯定する力の運動として、叫ぶジョバンニの形象を支え、教える。
単線的な交通の最果てにすべての合一を予想させる時間からまったく乖離した非啓蒙的な「銀河鉄道の夜」を通過する時間は夢として私たちに光の痕跡を残す。言葉を語りだす者は必ず敗北するだろう。しかし、言葉をそれ自身に捧げ尽くすとき、それぞれの恐るべき恍惚から人間は個別の信仰を開始する。重質な孤独のなかでその転回の瞬間に不意にたち戻るとき、私たちは私たちの共有されない真実を聴き、そして語りだす。宮澤賢治の諸作品は読まれる時間においてその準備を遂行する。
言語によってあらかじめ組織された身体と意識にとって怪異なものとして出現する身体を賢治は観測する。そう、重要なのは「観測」に留まる思惟なのだ。心象スケッチ群においてなされる性的衝動の反復という苦痛の宛先は読者であり、たとえ賢治自身が火に焼かれ殺戮の命令に服することによって読者を自らの現実的体験に巻き込もうとしても、彼は書くときに書字する手だけが読者に捧げられていることを知っている。(そのため賢治は焼身自殺を図らなかったし、一人一殺のテロリズムから遠い場所にいた。)身体を絶対他者-真実の視線に捧げつつ、それを担保に賢治は私的言語を拡張する。その一瞬だけ解放された言葉において初めて人類最大の幸福/人類最大の不幸を巡る問いは縦横に動き出す。
人間が自らを粗暴に主張することへの忌避はすべてのエコロジー思想に通底する基本的前提である。だがその慎み深さと沈黙が、真実を仮のものとしてしか了解しないシニシズム的態度と峻別されなければまたたく間に群衆的迎合に流れ、無自覚な全体主義へと堕落する。常に同質性への抵抗であること(――というスローガンすら掲げないこと)。完了することがなく、全体性・一挙性を志向しない部分に盲目とならないこと。観測する自身を観測すること。知性とは眼前の事態がすでに、それを意味づける複雑かつ多様な意味体系を目の前に双子のように表す謂いであり、そこにおいては深刻さも喜ばしさも、衰退でさえも直接的には受け取られず、評価と演技の回路を経由する――その回路を暗黙のうちに形成する悲劇からもさらに外に立つこと。
ジョルジュ・バタイユ(Georges Bataille, 1897 - 1962)は「共同性を持たない者たちの共同性」を主体の外、消尽の欲望のレベルにおける「不可能な」関係への関係づけに見出した。ポトラッチとして知られる剰余の蕩尽(一年のうちの限定された祝祭的期間において、日常的期間において作られた食物などを一気に消費し尽くすシステム)は、その恐るべき陶酔と、陶酔を記憶の彼方によって日常的秩序を形成する。それはフリードリヒ・ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844 - 1900)が『悲劇の誕生』(1872)で展開した、古代ギリシャ世界のアポロン神的な安定構造に侵入するディオニュソス神の興奮と忘却の乱舞、そしてそれらが芸術的な諸形式として保存され、幾度となく再演される臨界的混乱と日常的秩序のくり返しに由来する。自らの評価と演技の回路を、自らの恍惚において再構築すること。
相異なる舞台で各々の劇を上演する人間は、舞台の外側において、他の舞台で他の劇を演じる他者と瞬間、交錯する。絶対的に独自な感情のそれぞれは、相互の裏側に期待するものを持たない回答不能な問いの形式においてなされる。「銀河鉄道の夜」で灯台守やタイタニック号の沈没で溺死した青年、ジョバンニたちの問い、問い――「ほんとうにあなたのほしいものは一体何ですか。」「あなた方はどちらからいらっしゃったのですか。どうなすったのですか。」「ああほんとうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか。」「こんなしずかないいとこで僕はどうしてもっと愉快になれないだろう。」「あなたの神さまってどんな神さまですか。」「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」これらの問いは問いそのものに自らの現在の形象のすべてを賭け、まったく未知の回答に次の瞬間の自らの変貌を委ねる決断をもって初めて有効なものとなる。ジョバンニが銀河鉄道で経巡っているあいだに出会った死者たちは、これらの問いに答えない。恐らくは地上においても、隣人は思わせぶりな微笑でその問いを宙吊りにするだろう。然り。回答は不可能である。真実の、真実を与える恍惚体験の伝達は不可能である。だが、それでも言葉のみが言葉がもはや通用しなくなる眩しすぎる光の湧出、叫びの瞬間を明示する。誰にも聞こえないジョバンニの叫びは叫びそのものを肯定する力の運動として、叫ぶジョバンニの形象を支え、教える。
単線的な交通の最果てにすべての合一を予想させる時間からまったく乖離した非啓蒙的な「銀河鉄道の夜」を通過する時間は夢として私たちに光の痕跡を残す。言葉を語りだす者は必ず敗北するだろう。しかし、言葉をそれ自身に捧げ尽くすとき、それぞれの恐るべき恍惚から人間は個別の信仰を開始する。重質な孤独のなかでその転回の瞬間に不意にたち戻るとき、私たちは私たちの共有されない真実を聴き、そして語りだす。宮澤賢治の諸作品は読まれる時間においてその準備を遂行する。
【了】
