「持続的な人―自然資源インベントリ―関係」の基礎となる太陽エネルギー取り込みの論理とその糸口
有限の化石エネルギー依存
産業革命以降人類は化石エネルギ―、即ち古代の太陽エネルギー由来のストックを使ってきた。これらはすべて有限の資源であり、長い目でみるといずれ消費しつくされてしまう。1972年に著名なローマクラブのレポート『成長の限界』が発刊された。この警告は広く世界中で受け入れられた。ところがその後数十年はそのようなことはないかのように経済の成長をみた。あたかも資源は有限ではないかのように。しかし、石油ショック以前の原油価格が1バレル2ドルだったものが現在は100ドル近くなっているように、石油価格の上昇や、折にふれての不況が地球の有限性をわれわれに思い出させてくれる。不況といえば、日本の平均株価が1998年ごろはまだ、2万円だったものが、いまは1万円にも満たない。一方、数年前にはヨーロッパの二酸化炭素排出権取引の市場でトンあたり6000円もしていたものが、現在ではほとんど取引もおこなわれず、10円以下となっている。試験的に開かれていた中国の天津市場は閉鎖したようだ。
ヨーロッパでは2004年、2007年にあいついでラトウーシュによる脱成長にかんするレポートが出版され、昨年はバンクーバーで脱成長の会議がもたれた。この前後には、バンクーバーの地方自治体では脱成長に基づく条例の制定などが行われていると聞く。日本でも、五木寛之『下山の思想』(2011)が刊行された。企業の内部留保は2010年段階で260兆円にも達している、これは新しい産業への投資先が日本の中では見つからない、そのような状態、つまり脱成長状態に達していることを示している。投資先のみつからない銀行はもっぱら国債の購入に走っている。100兆ドルにものぼるアメリカ国債の日本の購入総額は、最近中国が額において日本を追い越したが、これとても、成長を停止したかのように見えるアメリカ経済を思うと、あまり有効な投資先ではない。
脱成長論のはじまり
Giampietro, Mayumi and Sorman (2011)によると最近の脱成長にかんする議論はSerge Latouche らの誇大宣伝(とGiampietroらは言う)であり、その起源をたどると脱成長という用語はGeorgescu-Roegenにより導入されたものであるという。 現在の議論はこれを単に表面的に取り上げているだけで、すでになされてきていた近代の進歩にかかわる持続性の議論をなぞっているに過ぎないと述べている。彼らによるとこの脱成長の議論はすでに1970年代におこなわれていたという。この議論のなかで、将来を楽観的に見る人たちとしてRobert Solow やJulien Simonがあげられ、悲観的な預言者としてNicholas Georgescu-Roegen、 Paul Ehlrich、 Howard T. Odum.をあげている。
2012/5/28亀山ゼミ個人発表
発表者 浜田竜之介
産業革命以降人類は化石エネルギ―、即ち古代の太陽エネルギー由来のストックを使ってきた。これらはすべて有限の資源であり、長い目でみるといずれ消費しつくされてしまう。1972年に著名なローマクラブのレポート『成長の限界』が発刊された。この警告は広く世界中で受け入れられた。ところがその後数十年はそのようなことはないかのように経済の成長をみた。あたかも資源は有限ではないかのように。しかし、石油ショック以前の原油価格が1バレル2ドルだったものが現在は100ドル近くなっているように、石油価格の上昇や、折にふれての不況が地球の有限性をわれわれに思い出させてくれる。不況といえば、日本の平均株価が1998年ごろはまだ、2万円だったものが、いまは1万円にも満たない。一方、数年前にはヨーロッパの二酸化炭素排出権取引の市場でトンあたり6000円もしていたものが、現在ではほとんど取引もおこなわれず、10円以下となっている。試験的に開かれていた中国の天津市場は閉鎖したようだ。
ヨーロッパでは2004年、2007年にあいついでラトウーシュによる脱成長にかんするレポートが出版され、昨年はバンクーバーで脱成長の会議がもたれた。この前後には、バンクーバーの地方自治体では脱成長に基づく条例の制定などが行われていると聞く。日本でも、五木寛之『下山の思想』(2011)が刊行された。企業の内部留保は2010年段階で260兆円にも達している、これは新しい産業への投資先が日本の中では見つからない、そのような状態、つまり脱成長状態に達していることを示している。投資先のみつからない銀行はもっぱら国債の購入に走っている。100兆ドルにものぼるアメリカ国債の日本の購入総額は、最近中国が額において日本を追い越したが、これとても、成長を停止したかのように見えるアメリカ経済を思うと、あまり有効な投資先ではない。
脱成長論のはじまり
Giampietro, Mayumi and Sorman (2011)によると最近の脱成長にかんする議論はSerge Latouche らの誇大宣伝(とGiampietroらは言う)であり、その起源をたどると脱成長という用語はGeorgescu-Roegenにより導入されたものであるという。 現在の議論はこれを単に表面的に取り上げているだけで、すでになされてきていた近代の進歩にかかわる持続性の議論をなぞっているに過ぎないと述べている。彼らによるとこの脱成長の議論はすでに1970年代におこなわれていたという。この議論のなかで、将来を楽観的に見る人たちとしてRobert Solow やJulien Simonがあげられ、悲観的な預言者としてNicholas Georgescu-Roegen、 Paul Ehlrich、 Howard T. Odum.をあげている。
2012/5/28亀山ゼミ個人発表
発表者 浜田竜之介
Georgescu-Roegenはエントロピーの概念をエコロジー経済学のなかに取り込んだ著名
な人であり、Giampietroや Mayumi(真弓浩三、徳島大学総合科学部)はその衣鉢をつぐ人たちである。Mayumi (1991)によると、産業革命以降人類は土地からはなれてしまったということを述べている(彼の表現によるとemancipation from land―土地からの解放となる)。彼はここで、工業と農業をエントロピーの視点から比較していて、この視点にとても魅かれるものを当時この論文に触れた時に感じた。エントロピーとはエネルギーを消費したあとにのこる簡単にいえば滓(waste)みたいなもので、エネルギー消費量が多ければ、エントロピーも多くなるものである。彼はここでマルクスやリービッヒを引用して、収穫逓減の法則を紹介している。これは有限の地球の持つ一つの属性に目を向けていることになる。
農業と工業の比較
ここで注目したいことは前述の工業と農業の比較である。彼の論述によると、工業生産の過程では多くのエントロピーがでるが、農業生産の過程では少しのエントロピーしか出ない、ということである。通貨と言う視点からの比較ではなく全く別の視点から農業という産業、工業という産業の比較をしているところに非常に興味が持たれる。このような産業論というべきか、それを有限の地球でどのように位置づけて行くかが実は大きな課題であると考えられる。
ただし、彼の論述のなかに農業の持つ太陽エネルギ―とりこみの過程についての指摘がないのは残念である。農業、林業には工業に見られない特質として、有限の地球資源を使い尽くす方向にある工業とは異なり、現世の太陽エネルギー取り込み過程を持つことに着目する必要があるのではないだろうか。それは土地を媒体として、植物体、光合成機能を持つ生物によっておこなわれる。現代の社会では、金額的には農業の占める割合は少ない。したがって、この太陽エネルギー取り込み過程は大切な意味を持つことについての理解がどちらかと言えば見過ごされている。
多くの人間活動が有限の化石エネルギーに大部分を依存して居る現代では、その有限性の故に多くの矛盾を持つことがしばしばである。幸か不幸か、時代の経過の中で、新しく北海油田、最近では北米におけるシェールガスの存在が明らかになっている。また、原油価格の高騰はカナダにおけるシェールオイルの掘削の出費もさほど問題にならない程度になってくる。そのような新しい資源の開発が当面の資源の有限性への関心をそらしていることも事実である。その中で、ほとんど無限ともいえる、太陽エネルギ―や、広い意味での自然エネルギーの利用は新らしい展開を促すことになる。問題は多くの人々の関心が工業分野に偏りがちであることである。工業分野ではエントロピー増大の方向に進むことに
2012/5/28亀山ゼミ個人発表
発表者 浜田竜之介
な人であり、Giampietroや Mayumi(真弓浩三、徳島大学総合科学部)はその衣鉢をつぐ人たちである。Mayumi (1991)によると、産業革命以降人類は土地からはなれてしまったということを述べている(彼の表現によるとemancipation from land―土地からの解放となる)。彼はここで、工業と農業をエントロピーの視点から比較していて、この視点にとても魅かれるものを当時この論文に触れた時に感じた。エントロピーとはエネルギーを消費したあとにのこる簡単にいえば滓(waste)みたいなもので、エネルギー消費量が多ければ、エントロピーも多くなるものである。彼はここでマルクスやリービッヒを引用して、収穫逓減の法則を紹介している。これは有限の地球の持つ一つの属性に目を向けていることになる。
農業と工業の比較
ここで注目したいことは前述の工業と農業の比較である。彼の論述によると、工業生産の過程では多くのエントロピーがでるが、農業生産の過程では少しのエントロピーしか出ない、ということである。通貨と言う視点からの比較ではなく全く別の視点から農業という産業、工業という産業の比較をしているところに非常に興味が持たれる。このような産業論というべきか、それを有限の地球でどのように位置づけて行くかが実は大きな課題であると考えられる。
ただし、彼の論述のなかに農業の持つ太陽エネルギ―とりこみの過程についての指摘がないのは残念である。農業、林業には工業に見られない特質として、有限の地球資源を使い尽くす方向にある工業とは異なり、現世の太陽エネルギー取り込み過程を持つことに着目する必要があるのではないだろうか。それは土地を媒体として、植物体、光合成機能を持つ生物によっておこなわれる。現代の社会では、金額的には農業の占める割合は少ない。したがって、この太陽エネルギー取り込み過程は大切な意味を持つことについての理解がどちらかと言えば見過ごされている。
多くの人間活動が有限の化石エネルギーに大部分を依存して居る現代では、その有限性の故に多くの矛盾を持つことがしばしばである。幸か不幸か、時代の経過の中で、新しく北海油田、最近では北米におけるシェールガスの存在が明らかになっている。また、原油価格の高騰はカナダにおけるシェールオイルの掘削の出費もさほど問題にならない程度になってくる。そのような新しい資源の開発が当面の資源の有限性への関心をそらしていることも事実である。その中で、ほとんど無限ともいえる、太陽エネルギ―や、広い意味での自然エネルギーの利用は新らしい展開を促すことになる。問題は多くの人々の関心が工業分野に偏りがちであることである。工業分野ではエントロピー増大の方向に進むことに
2012/5/28亀山ゼミ個人発表
発表者 浜田竜之介
なり、これは循環系に乗りにくい面を持っている。原子力発電の使用ずみ燃料の処理が問題を抱えていることは、そのことを浮きぼりにしている。他方農業・林業分野での太陽エネルギー取り込み過程はその後の生産物の廃棄過程で物質の循環系にのりやすいことに特徴がある。ただ現代社会では土地からの離脱がすすみ、大多数の人が都市に住んでいる。そのことが多くのひとびとの関心を農業・林業から遠ざけ、その産業のもつ太陽エネルギーとりこみ過程や、生産物が循環系にのりやすい事実への関心をそいでいる。
土地から遠ざかる人間
人類が土地から離れて行くこと、そのことを東方(2012)は根こぎと言う。ここには事の本質があるように考えられる。言い換えれば現代人にとっては根こぎからの脱却が一つの課題とも言えよう。東方の根こぎという表現は話し言葉でなされているという点でも優れた表現である。現代のひとびとのおかれている現状の理解のある本質部分にふれるものであると考えられる。このような考え方の展開からは、多くのことを学べると思われる。ここでは、現世の太陽エネルギー取り込みの過程の意味や価値についての再認識も大切なことの一つである。
現在の人類が根こぎ状態にあることは、関口(2012)が晩年のハイデッガーの言うentwurzeln(根こぎにする)という叙述を引用しているところにも見られる。以下引用する。
「すべてが機能している。すべてが機能しているということ、そしてその機能がさらに広範な機能へとますます駆り立てられるということ、そして技術が人間を大地からもぎ離して無根にしてしまうということ、これこそまさに不気味なことである。貴方がびっくりしたかどうか分からないが、私は月から地球を撮影した写真をみてびっくりした。人間を無根にする
ために別に原子爆弾などはいらない。人間の無根化はすでに存在しているのだから。われわ
れはかろうじて、ただ全く技術的な諸関係だけをもっている。今日人間が生きているところ、それはもはや大地ではない。」
土地から遠ざかる人間
人類が土地から離れて行くこと、そのことを東方(2012)は根こぎと言う。ここには事の本質があるように考えられる。言い換えれば現代人にとっては根こぎからの脱却が一つの課題とも言えよう。東方の根こぎという表現は話し言葉でなされているという点でも優れた表現である。現代のひとびとのおかれている現状の理解のある本質部分にふれるものであると考えられる。このような考え方の展開からは、多くのことを学べると思われる。ここでは、現世の太陽エネルギー取り込みの過程の意味や価値についての再認識も大切なことの一つである。
現在の人類が根こぎ状態にあることは、関口(2012)が晩年のハイデッガーの言うentwurzeln(根こぎにする)という叙述を引用しているところにも見られる。以下引用する。
「すべてが機能している。すべてが機能しているということ、そしてその機能がさらに広範な機能へとますます駆り立てられるということ、そして技術が人間を大地からもぎ離して無根にしてしまうということ、これこそまさに不気味なことである。貴方がびっくりしたかどうか分からないが、私は月から地球を撮影した写真をみてびっくりした。人間を無根にする
ために別に原子爆弾などはいらない。人間の無根化はすでに存在しているのだから。われわ
れはかろうじて、ただ全く技術的な諸関係だけをもっている。今日人間が生きているところ、それはもはや大地ではない。」
これはハイデッガーが月からみた地球を撮影した写真から直感的に「我々は根こぎ状態にある」と大きな感動を表現するときにもちいた言葉であり、非常に直感的なものであるだけに、ひとつの思考の出発点としては、意味あるとしても、まだ直感にとどまっているという意味では、未だしの感をいなめない。ただ、脱成長を論じるにしろ、工業と農業の産業としての意味を求める議論をするにしろ、大切なきっかけを与えてくれるものである。イリイッチは同様に直感的に土地、いや土壌に着目し1995年に「土壌宣言」なるものを数人の仲間とともに公開した。当時の環境問題の論議ではどうしても、植物や野生動物への
2012/5/28亀山ゼミ個人発表
発表者 浜田竜之介
2012/5/28亀山ゼミ個人発表
発表者 浜田竜之介
関心が寄せられがちであった。このことへの懸念が彼をしてそのような行動をとらせたようである。当時、イリイッチは日本のエントロピー学界の研究者とも親交があり、その交流が彼に刺激を与えたもののようだ。
根こぎからの脱却――自然資源、土壌資源インベントリ―概念
ここで、根こぎからの脱却が求められる。ここで、自然資源インベントリ―ないし土壌資源インベントリ―と言う用語は、ただ単に自然資源や、土壌資源そのものを自然科学的に理解するということではなく、人間との関係として理解しようということで、用いた。ここでは当面土壌資源インベントリ―を人間との関係でとらえることの重商性を指摘したい。すでに述べてきたように有限資源の地球でこれから持続的な暮らしをするうえで、農業・林業の持つ特性を、土壌資源インベントリ―の地球上の分布をまずは的確に把握し、そのうえで、それぞれの地域の土壌インベントリ―の特性を活かすような方法で、土壌の利口な使い方を求めることが基本になる。論理的な思考がその際求められるがそのことの背景には対象である土壌インベントリ―に関する優れた認識とそれと人間との関係における意味づけ、もしくは価値づけをしなければならない。そこにはブルントランと・レポートに示されているような公共財概念、および、地域ごとの自立性をささえる地域ごとの完結性、そのなかには持続的社会の基本である、Daly(1991)の言う、ある系のなかの生産と消費のサイクルの循環の完結性が求められるだろう。その際、農業・林業の本来持つ循環可能な物質生産が活きてくる。これらのシステム構築の過程では以下の記述も参考になるであろう。
以下の京都竜安寺の碑文はわれわれの視点をうまく表していると真弓は述べている。
One who knows that enough is enough will always be happy. If we know how to be content, then our mind will always be rich. If we do not know how to be content, then our mind will never be rich even when possessing a large amount of money.---- Giampietro, Mayumi and Sorman (2011) p364
根こぎからの脱却――自然資源、土壌資源インベントリ―概念
ここで、根こぎからの脱却が求められる。ここで、自然資源インベントリ―ないし土壌資源インベントリ―と言う用語は、ただ単に自然資源や、土壌資源そのものを自然科学的に理解するということではなく、人間との関係として理解しようということで、用いた。ここでは当面土壌資源インベントリ―を人間との関係でとらえることの重商性を指摘したい。すでに述べてきたように有限資源の地球でこれから持続的な暮らしをするうえで、農業・林業の持つ特性を、土壌資源インベントリ―の地球上の分布をまずは的確に把握し、そのうえで、それぞれの地域の土壌インベントリ―の特性を活かすような方法で、土壌の利口な使い方を求めることが基本になる。論理的な思考がその際求められるがそのことの背景には対象である土壌インベントリ―に関する優れた認識とそれと人間との関係における意味づけ、もしくは価値づけをしなければならない。そこにはブルントランと・レポートに示されているような公共財概念、および、地域ごとの自立性をささえる地域ごとの完結性、そのなかには持続的社会の基本である、Daly(1991)の言う、ある系のなかの生産と消費のサイクルの循環の完結性が求められるだろう。その際、農業・林業の本来持つ循環可能な物質生産が活きてくる。これらのシステム構築の過程では以下の記述も参考になるであろう。
以下の京都竜安寺の碑文はわれわれの視点をうまく表していると真弓は述べている。
One who knows that enough is enough will always be happy. If we know how to be content, then our mind will always be rich. If we do not know how to be content, then our mind will never be rich even when possessing a large amount of money.---- Giampietro, Mayumi and Sorman (2011) p364
五木寛之 2011『下山の思想』 幻冬舎新書、関口浩 2012. 技術と芸術、2011年3月11日以降の哲学の可能性、日独哲学会議、Giampietro, M., Mayumi, K. and Sorman, A. H. 2011. Metabolic Pattern of Society, where economists fall short. Routledge, London, Daly, H.E. 1991. Steady-State Economics. Island Press, Washington, D.C., p181、東方沙由理 2012. 根こぎと共感の問題―資本主義的近代化によってもたらされた人存在の疎外の探究―. 東京農工大学大学院博士論文、 Mayumi,K.,1991.Temporary emancipation from land: from the industrial revolution to the present time. Ecological Economics 4, 35-36.、ドネラ・H.メドウズ/大来左武郎. 1972. 『成長の限界』 ダイヤモンド社