多くの人がサステイナビリティを知ることになった直接のきっかけは、1987年、G.H.ブルントラントを委員長とする「環境と開発に関する世界委員会」の最終報告書“Our Common Future”に求めることができる。中心的理念として提唱された「持続可能な発展(Sustainable Development)」は、環境のみならず、社会の持続性を保障するためにも重要な思想として広く認知され、九二年にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開かれた国連地球サミットでは、「環境と開発に関するリオ宣言」や「アジェンダ21」と呼ばれる具体的な実践目標が合意されることとなった。翌九三年に制定された日本の環境基本法でも、循環型社会の考え方の基礎となり、現在もその有効性を維持している。
とはいえ、上柿(2010)が指摘する通り、「サステイナビリティ(=持続可能性)」という概念は諸開発計画の包括という機能のみが前面化され、学問的な枠組みとしての脆弱性をいまだ払拭しきれていない。つまり“Our Common Future”において「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような発展」と説明されている「持続可能な開発」は、それがどのような発展を指すのかについての同床異夢に対して批判的視座を持つことができていない。中川(2010)もまた、サステイナビリティを意識することになったきっかけとして、一九七二年にローマ・クラブが編集・刊行した『成長の限界』をあげており、サステイナビリティという概念が化石燃料をはじめとするさまざまな資源に対して「回復不能な影響を与えない範囲で最大の生産高を得るにはどうしたらいいか」という問題意識から出てきたものであることを述べている。石油の採掘法や有効利用法、あるいは農林水産業における天然資源の保全のガイドラインの作成などは大きな成果をあげているが、しかし、人文科学における展開は決して充分とはいえない。木村(2010)は、サステイナビリティ学が「対処としてのエコロジー」から、危機意識、システム的思考、「現象解明と問題解決の同時追究」を継承している一方で、「文明論としてのエコロジー」、つまり人間こそがサステイナビリティの「担い手」であり「受益者」であるというフレームから脱却できていないことを指摘している。
とはいえ、上柿(2010)が指摘する通り、「サステイナビリティ(=持続可能性)」という概念は諸開発計画の包括という機能のみが前面化され、学問的な枠組みとしての脆弱性をいまだ払拭しきれていない。つまり“Our Common Future”において「将来の世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たすような発展」と説明されている「持続可能な開発」は、それがどのような発展を指すのかについての同床異夢に対して批判的視座を持つことができていない。中川(2010)もまた、サステイナビリティを意識することになったきっかけとして、一九七二年にローマ・クラブが編集・刊行した『成長の限界』をあげており、サステイナビリティという概念が化石燃料をはじめとするさまざまな資源に対して「回復不能な影響を与えない範囲で最大の生産高を得るにはどうしたらいいか」という問題意識から出てきたものであることを述べている。石油の採掘法や有効利用法、あるいは農林水産業における天然資源の保全のガイドラインの作成などは大きな成果をあげているが、しかし、人文科学における展開は決して充分とはいえない。木村(2010)は、サステイナビリティ学が「対処としてのエコロジー」から、危機意識、システム的思考、「現象解明と問題解決の同時追究」を継承している一方で、「文明論としてのエコロジー」、つまり人間こそがサステイナビリティの「担い手」であり「受益者」であるというフレームから脱却できていないことを指摘している。
参考文献
『サステイナビリティとエコ・フィロソフィ』竹村牧夫・中川光弘(編)、ノンブル社、2010