【疎外された実践】
- “実践としての宗教”観はフォイエルバッハの宗教=疎外された実践(宗教は疎外された形態における人間的実践)という基本視座を根幹にすえる。
- 宗教は疎外された実践であり、それゆえに人間の生にとって肯定的否定的な両義性をもつこと、それは社会的イデオロギーと密接に連関していること。
- 新しい“実践としての宗教”観はフォイエルバッハの人間学的唯物論をベースとしている。フォイエルバッハは宗教を疎外された実践ととらえるとともに、宗教の根拠は人間的生活における受苦と悲惨さにあるとした。そして宗教の人間的意義--彼の用語では宗教の肯定的本質一は、神(超越者)と関係または合一することによって、欠如する人間的本質(類的関係)を獲得し、諸個人が受苦と悲惨を克服し人間としての主体的振る舞いを確立(自己確証)する点にあることを展望した。さらにマルクスは,生活の受苦と悲惨は現実的関係(客観的関係)においては対自然・対社会関係において諸個人が抑圧されていることに由来するとした。
【疎外された形態】
- 宗教の人間的意義といっても、それは疎外された形態においてのみ存在しうる。宗教的世界においては人間は人間らしさと価値を剥奪された存在であり、超越的存在の力によってそれを回復するというのが宗教固有の本質的構造である。そのため宗教は、信仰者の主観的心理では人間性と価値の実現であっても、客観的には抑圧的ないし非人間的となる必然的傾向性をもつ。
【人間疎外】
≪太田所感≫
- 「かつては他者や自然との関係において調和の保たれた社会があったのに、それが近代資本主義によって疎外されてしまったから、再びかつての調和を高次元で回復しなければならない」というノスタルジックなまとめ方にはしたくないが、そのように読めてしまうのはいったい亀山=フォイエルバッハ疎外論のなにが背景となっているからなのだろうか。110815
- カントおよびヘーゲルら、ドイツ観念論の自然概念と疎外の親和性は異常。疎外はそれ以外の主要な自然観には、基本的には見られない。110815
