〈メモ〉
道元・親鸞や儒学者等の体系的思想・頂点的思想家のみが日本思想史として記述されがちだが、思想に対するこの見方は根本的に倒錯している(亀山2003)。なぜなら、思想とは生活過程の諸事象・諸問題の観念的表現として第一義的には生活思想であり(正確には、「生活思想からの制約を受けており」)、その抽象化・理論化が体系的思想(さらには哲学)である。確かに体系的思想は一旦確立するとその“普遍性”故に生活過程の意味づけを規定する面がある。だが、それも生活過程にリアリテイをもつ故に可能であり、体系的思想の“真理”性によって必然的に生じるものではない。それ故思想の発展は第一義的には、生活過程の問題解決を軸として生活思想の次元でなされ,そのような生活思想は民衆自身の主体性の自己表現でもあった。体系的思想の発展はその理論的表出ないし問題解決の鏡(参照点)として生じ、それ故に意義をもつのである。
→亀山
道元・親鸞や儒学者等の体系的思想・頂点的思想家のみが日本思想史として記述されがちだが、思想に対するこの見方は根本的に倒錯している(亀山2003)。なぜなら、思想とは生活過程の諸事象・諸問題の観念的表現として第一義的には生活思想であり(正確には、「生活思想からの制約を受けており」)、その抽象化・理論化が体系的思想(さらには哲学)である。確かに体系的思想は一旦確立するとその“普遍性”故に生活過程の意味づけを規定する面がある。だが、それも生活過程にリアリテイをもつ故に可能であり、体系的思想の“真理”性によって必然的に生じるものではない。それ故思想の発展は第一義的には、生活過程の問題解決を軸として生活思想の次元でなされ,そのような生活思想は民衆自身の主体性の自己表現でもあった。体系的思想の発展はその理論的表出ないし問題解決の鏡(参照点)として生じ、それ故に意義をもつのである。
→亀山
和辻は、処女作から『倫理学』まで、デカルト以降の西洋近代哲学が「我」の確立とその完全な中心化によって発展したことに対して、一貫して対蹠的な態度をとる。その一方で徹底的な緻密さと理論を求めていた彼が注目したのが、道元の『正法眼蔵』である。前節で扱った「感受」において現れる「存在するものの法(=範疇・形式)」の原型となる思想が、道元の禅の議論に基づいていることを指摘し、環境プラグマティズムと生活環境主義に残されていた課題の克服の方法として位置づける。
→太田修論
→太田修論
本覚思想の自然観が現代環境思想に示唆する点の一つが、人間とコミュニケーション関係の内にある自然を示唆する点である。そのことは、先の引用からうかがえるように個別の自然現象の内に法(真理)を観ずるという関係に典型的である。それは逆に、13世紀の道元が先鋭的に言うように、今目の前にある山水がそのまま(真の)自己そのものであるという関係でもある(木村清孝、日本仏教学会編『仏教における共生の思想』平楽寺書店、2000年)。このような関係は人間と自然が静的に対時するのでなく相互に響感しあうあり方であり、法ないし自己はこの響感の内に現出する。このようなコミュニケーション関係は和歌の技法としても展開するが、この面を言うだけでは、欧米の神秘主義的自然観と同様に、観照的-情緒的関係や宇宙・真理との抽象的一体関係に還元されやすい。
1.道元における自然の問題
- 現代のエコフィロソフィーや環境思想論において西洋近代思想批判と一体となって東洋思想に学び日本の伝統思想を再評価すべきことがなお強調される。だがこの強調は、ともすれば情緒的な伝統思想賛美論や文化ナショナリズム論に傾斜する危険性ももつ。この危険を回避して東洋思想や伝統思想がどう積極的に寄与しうるかを、人間自然関係論と仏教思想を例にあらためて考える。
- 伝統的自然観を現代に生かすことを検討する場合、あらかじめ留意が必要である。東洋的自然観や日本的自然観はしばしば、人間と自然を融和・合一させる思想として、現代の環境問題を招いた西洋や近代の、人間と自然を対立させる思想を克服する普遍的思想だと称揚される。老壮思想や儒教哲学、仏教哲学、あるいは空海の密教哲学、親鴬の自然法爾思想、道元の自然観など、東洋のいろんな頂点的思想の普遍的意義が取りざたされてきた。
- なぜ鎌倉仏教はフィーチャーされているのか? 末木文美士「日本仏教史」(新潮社、一九九二年)は、研究者や一般の関心が鎌倉新仏教のみに注目し、平安仏教の研究や理解が「遅れて」いる理由を二点に整理してこう言っている。「第一は実践面で、易行化、すなわち誰にでも可能な容易な実践法をたて、それによって初めて仏教が民衆のものになった。これに対し平安仏教の修行は一般庶民とは縁遠く、所詮、貴族の仏教であり、鎮護国家の仏教であったと考えられた。第二は理論的で、親驚や道元の思想を宗教哲学として今日でも第一線で問題にされるような高度な内容をもっており、またそこに日本の社会に適応した仏教の日本化がみられる。これに対して平安仏教は、所詮、祈祷仏教であって、思想内容に乏しいと考えられた。」(新潮文庫版、86-87頁)。
- 人間とコミュニケーション関係の内にある自然を示唆する点は、個別の自然現象の内に法(真理)を観ずるという関係に典型的である。それは逆に、一三世紀の道元が先鋭的に言うように、今目の前にある山水がそのまま(真の)自己そのものであるという関係でもある(木村、前掲書)。このような関係は人間と自然が静的に対時するのでなく相互に響感しあうあり方であり、法ないし自己はこの響感の内に現出する。このようなコミュニケーション関係は和歌の技法としても展開するが、この面を言うだけでは、欧米の神秘主義的自然観と同様に、観照的情緒的関係や宇宙(真理との抽象的一体関係に還元されやすい。
