【環境教育のパラダイムとして】
- 20世紀の科学技術は、一元的な価値基準の下で対象を簡単なパーツに分解し、個々のパーツの最適解を繋ぎ合わせれば全体の問題が解決できる、という要素還元主義的世界観に立っていた。しかし、「合成の誤謬」や「生命の全一性の分断化」として説明されるように、このような楽観的な要素還元主義の成功の陰には多くの解決不能な問題群が積み残された。これが新しい教育パラダイムを求める時代的背景となっている。新しい環境人材教育においては、個と全体との相互依存関係を重視し、ホリスティック(全連関的)な視点から世界と自己を理解する人材の育成が志向されるべきだと考えている。つまり、自己と世界との多重的な相互依存関係および変容過程を重視した教育が目指されている。
【ダーウィニズム】
- 従来の通説的な理解では、ダーウィンの自然淘汰説はマルサスの影響を受けたものと見なし、自然淘汰を、外部からの圧力によって弱者を排除し最適者を残すスクリーニングのように解する。このスクリーニングを推進するのが生存闘争である、ということになる。ダーウィンの独創的な説であり、ダーウィニズムといえばこれを指す。しかし、この捉え方では、淘汰はたんに外部つまり環境からの圧力でしかなく、生物体の内部からの淘汰はまったく考えられない。
- ちなみにダーウィンの自然淘汰説を「最適者生存survival for the fittest)」という表現を用いて普及させたのは、社会ダーウィニズムの提唱者であるスペンサー。
- かりに適応度が現実の生存と繁殖によって定義されるとすれば、「最適者生存の説はトートロジーではないか」という疑問が生まれる。すなわち最適者とは生存した者であるが、生存した者とは最適者(であるがゆえに生存した者)である。こうして、最適者は最適者である(生存者は生存者である)というトートロジーが生じる。しかしこの場合、「自然淘汰」(以下「淘汰」と略記する場合がある)と「適応度」が互換性のある概念としてl理解(「誤解」)」されていることが、混乱のもとである.ソーバーは両者を明確に区別し、「淘汰」は進化の原因であるのに対して「適応度」は因果的効力をもたない概念であることを指摘している。
- ネスは、ダーウィン以後周知の「生存競争」「適者生存」の概念についてこういう。「いわゆる生存競争と最適者生存[の概念]は、殺し、搾取し、抑圧する能力という意味よりも、むしろ複雑な諸関係の中で共存し協力する能力の意味において解釈されるべきである」
【社会ダーウィニズム】
- 一般にはダーウィンの生物進化論、とくに生存闘争と自然淘汰の理論を人間社会に適用する理論やイデオロギーをさす。この思想によると、市場における競争原理によって不適格者が淘汰され、最適者が生存するという点に社会の進化も進歩もあるとして、完全な自由放任の経済社会が正当化される。この意味で社会ダーウィニズムは、社会進化論の一部であるともいえる。
- ドイツにいち早くダーウィンの進化論を導入し、普及させた動物学者ヘッケル。彼はまた、進化論の立場から、精神を非物質的存在とみなす観念論や,精神を物質から独立した実体と唱える二元論を批判し、一元論の哲学あるいは唯物論的な世界観を提唱した。さらに,間の心的能力の系統発生(進化)を認め、人間の認知能力を自然淘汰説によって解釈した。それゆえヘッケルは、進化論的認識論の先駆者と評価される。その一方で、ヘッケルは同時にそうした生物学理論を社会に適用し、ドイツにおける社会ダーウイニズムの先駆けともなった。とくに彼は、ドイツ国民を支配者民族として認め、最適者のみが生存するのは正当であり、自然であるとまで述べたため、のちのナチズムの優生思想との関連も指摘されている。
- 太田は社会ダーウィニズムにおける「最適」の文脈に批判的。→理由
【アニマルウェルフェア】
- 飼育動物の多くは野生由来、あるいは世代を遡れば野生由来という動物であり、本来は野生下において多様な刺激に絶えずさらされながら、環境との関わりの中で生存のために最適な行動を主体的に選択している、と見なされる。事実、野生下の動物の行動には、自発的に出現する時間配分があり、それらは、その動物種が生存を最大化するよう適応を遂げてきた進化的適応環境(EEA)と共に、当該の環境における他個体の存在や、食物や水の資源の量や密度といった要素を反映して決定される。一方で、人工的な飼育環境ではこれら生存に適切な行動パターンを表出するために必要な空間や刺激は希薄であり、その結果。本来の行動の表出は抑制されがちとなる。その様な環境下で飼育される実験動物,家畜動物,展示動物には,交尾や子育てができないといった繁殖障害,脳が正常に発達しないなどの発育障害, 前後の文脈に直接的に関連のない行動が表出するといった異常行動(Abnormal behavior)等の問題性が数多く報告されている。
- もちろん、ヒトの場合は数世代を遡れば野生由来になるわけではない。
【状況倫理】
- 「状況倫理」を「実践用の倫理学」として強調する小原信はこういっている。「状況倫理とは、原理や規約を機械的に適用することによってではなく、いまここで現に起こりつつあることとの関連で、何がふさわしい生き方かを考えようとする生き方である」。ある判断の善いか悪いかの決め手はふさわしさfittingnessである。状況倫理は、状況のなかの〈現在(いま)〉をもっとも大切にし、「現実の状況のなかでの事柄全体の生きた用法を重んじる」。たとえ原理や形式の観点からは矛盾し一貫していなくとも「それが現実の状況にかなっているならそれを新しく積極的に善だと見る」、それはたいていセカンドベストをベストとする生き方である。
- 状況倫理論は根本的弱点をもつ。まず第一に、「状況」とは何かがあいまいである。たとえば職場の状況というと一見自明のようだ。しかしそれは会社の好不調のことか、職場での役割関係なのか、職場の人間関係なのかなどと多様だ。日常的にはそれらの全体の雰囲気といったことですんでいる。だが、いったん問題が生じて判断に迷う事態が生じたとき、この状況とは何かが問題になる。もし嘘の善悪が状況のなかで問題になるとすればそういうときである。そこでは、状況が大切なのはいいとして、それが一体何なのかが問われるのだ。これに状況倫理は応えられない。
- 第二に、「ふさわしさ」もあいまいだ。職場関係の要素であれ全体的雰囲気であれ、なんらかの「状況」における「ふさわしさ」とは、それに自分をあわせることなのか、それとも自分にフィットする「状況」を選ぶことなのか。会社の状況を考えれば同僚関係がぎくしゃくしてもよい、とか、逆に会社の業績より職場の状況(人間関係)が大切だとか。「効果」「意味」といわれても、何にとっての効果・意味なのかが示されねば同じことだ。だがそういう意識的あるいは無意識的選択の基準は何か。結局、自分の気分あるいは居心地のよさ、なのだろうか。このような問題は、個人の人生全体にかかわる「状況」の「ふさわしさ」となるともっと拡大する。自分の「状況」において会社の「状況」と家庭の「状況」が対立する場合は、どうなるのだろうか。
- 小原信「状況倫理ノート」(講談社現代新書)
【ホッブズ】
ホッブスのいう自然権(Right of Nature)とは、次のとおりである。「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理性において、彼がそれにたいする最適の手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である」(『リヴァイアサン(一)』216)。
ホッブスのいう自然権(Right of Nature)とは、次のとおりである。「各人が、彼自身の自然すなわち彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志するとおりに、彼自身の力を使用することについて、各人がもっている自由であり、したがって、かれ自身の判断力と理性において、彼がそれにたいする最適の手段と考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である」(『リヴァイアサン(一)』216)。
【ペントンの「エコ規制的労働過程」】
- ベントンは、マルクスの労働過程概念に対して批判を展開している。ベントンによれば、マルクスの労働過程概念は、原材料に対して意図的な操作を加えて製品を作り出す「製造業的、変形的な労働過程productive,transformative labor processes」に偏っていて、それとは異なる多様な労働過程が考慮に入れられていないという。そこで、そうしたものの一つとして、ベントンは農業労働を含む「エコ規制的労働過程ecoregulatory labor processes」を特に取り上げ、その特徴を以下の四点に求めていく(Benton,1996:161)。すなわち、1)この労働の対象は、素材それ自体ではなく、素材が生育していく環境であり、労働は「変形のための条件"condition" for for transformation(強調はベントン。以下同じ)の最適化」に向けられている。2)この労働は、有機的成長のための条件を最適化した後は、変形するというよりもむしろ、維持し、規制し、再生産する労働になる。3)この労働の時空的な配置は、当該労働が置かれた環境条件や有機体の成長過程のリズムに主として規定される。4)自然によって与えられた条件(水の供給、気象条件など)は、労働の対象であると同時に労働過程の条件でもある。したがって、この自然の条件は、マルクスが言う労働過程の三要素(労働、労働手段、原材料)とは必ずしも簡単に同一視できるものではない。
- これらの「エコ規制的労働過程」論は、農業の特殊性からマルクスの労働過程論を再構成しようとするもので、明らかに新たな理論的貢献とみてよいであろう。特にここでの労働が、対象自体ではなく、その環境条件を最適化しようとする「配慮」に向けられた労働だとするところは重要である。次の「サブシステンス・パースペクティブ」とも関連するが、この労働過程論は、農業労働が、本来的に「ケアリング」労働であり、対象自体の健全な育成に成果を求めようとすることを指摘しているのである。
