私たちの自己責任
ー水俣病を場としてー
ー水俣病を場としてー
環境倫理学・比較価値論研究室
学籍番号 08154009
井上浩朗
水俣病とは
学籍番号 08154009
井上浩朗
水俣病とは
- 「工場廃液に由来するメチル水銀によって汚染された魚介類を、多量に摂取することによっておこった、中毒性脳症(Encephalopathia toxica)」(水俣病研究会 2007)
- 主な症状は視野が狭くなる、感覚障害、運動失調、言語障害、聴力障害など
- 初めて患者が公式に確認されたのは1956年
水俣病は終わっていない
- 水俣病は治らない
- 3万人以上が救済申請している
⇔10万人以上はいる
- 特措法の問題点、認定基準の厳しさ
- 今も続くチッソ、政府などへの責任追及、原因解明
- 水銀ヘドロの埋まった埋立地の寿命
→果たして、これだけなのか
水俣病の3つの責任(原田1989、2006)
水俣病の3つの責任(原田1989、2006)
- 「水俣病を発生させた責任」
- 「その被害を最小限にくいとめる責任、被害拡大防止責任」
- 「救済の責任」、賠償責任
→これ以外に責任はないのか?
チッソと政府、県以外に責任はないのか?
チッソと政府、県以外に責任はないのか?
責任概念(瀧川 2003)
- 負担責任
負担や不利益を意味し、損害賠償なども含まれる。例:責任を負う
- 責務責任
「人がある立場・地位・役割を占めることによって発生する何らかの責務」 例:責任感
- 関与責任
「過去の出来事に対する何らかの作用・生成・連関・関与」 例:事故を起こした責任がある
従来の責任追及
目的:負担責任の分配を決めること
→それを決める過程で責務責任、関与責任が明らかに
従来の責任追及
目的:負担責任の分配を決めること
→それを決める過程で責務責任、関与責任が明らかに
例外
戦後世代の戦争責任:関与責任なし、負担責任あり
年少者の犯罪責任:関与責任あり、負担責任なし
戦後世代の戦争責任:関与責任なし、負担責任あり
年少者の犯罪責任:関与責任あり、負担責任なし
従来の責任追及の問題点
負担責任の分配のために責任追及
→負担責任がない=責任がない
⇒責任=分配するもの、という固定観念
負担責任の分配のために責任追及
→負担責任がない=責任がない
⇒責任=分配するもの、という固定観念
例:就職できない若者
社会に責任があるVS自己責任、努力不足
→なぜ両立しないのか
→関与責任についての検討が必要
社会に責任があるVS自己責任、努力不足
→なぜ両立しないのか
→関与責任についての検討が必要
責任がある、とは(大庭2005)
私が行為Aを遂行し、引き続いてEが起こるとき
1 私は、Aではなく、他のようにもできたし、
2 もし、私がAしなかったら、Eは生じなかっただろうし、
3 私がAしたにもかかわらずEが生じない、という事態は考えられない
私が行為Aを遂行し、引き続いてEが起こるとき
1 私は、Aではなく、他のようにもできたし、
2 もし、私がAしなかったら、Eは生じなかっただろうし、
3 私がAしたにもかかわらずEが生じない、という事態は考えられない
→私にはEについて関与責任がある
責任がある、とは
前提P→条件C1→行為A→E
↓ ↓
条件C2 行為B
責任がある、とは
前提P→条件C1→行為A→E
↓ ↓
条件C2 行為B
行為Aに関与責任がある
=条件C1に原因はない?
=条件C1に原因はない?
P希釈原理(水に流せば大丈夫)
↓→C2支持しない
C1希釈原理の支持(企業、家庭)
↓→Bメチル水銀を含まない廃液の放流
Aメチル水銀を含む廃液の放流
↓
E水俣病の発生
⇒生活排水が問題になったのは1970年代から
※これは一例
↓→C2支持しない
C1希釈原理の支持(企業、家庭)
↓→Bメチル水銀を含まない廃液の放流
Aメチル水銀を含む廃液の放流
↓
E水俣病の発生
⇒生活排水が問題になったのは1970年代から
※これは一例
社会の責任追及の悪循環
「さしあたり」の関与責任追及に奔走
=社会の「外部」として処理
→「私たち」の社会構造がどのように関わるのかを無視
→問題が起こるたびに、まるで「初めて遭遇した」かのように振舞う、この繰り返し
→「私たち」がつくるC1の関与責任を見落とし
⇒原発問題もこのサイクルの一環では?
責任追及に必要な視点
「さしあたり」の関与責任追及に奔走
=社会の「外部」として処理
→「私たち」の社会構造がどのように関わるのかを無視
→問題が起こるたびに、まるで「初めて遭遇した」かのように振舞う、この繰り返し
→「私たち」がつくるC1の関与責任を見落とし
⇒原発問題もこのサイクルの一環では?
責任追及に必要な視点
- 負担責任が関わらない責任のあり方
=賠償責任がなくても関与責任はある
- 「外部」の部分だけではなく、「内部」を問う
=「私たち」のつくる「社会」が順調に「外部」として排除を生み出していることを自覚
⇒「私たち」の社会が生み出したこと、
それは誰のせいにもできない自己責任
→関与責任から責務責任は導ける
=どのような責任を果たしていくべきか
水俣における「第三者」の関与責任
⇒「私たち」の社会が生み出したこと、
それは誰のせいにもできない自己責任
→関与責任から責務責任は導ける
=どのような責任を果たしていくべきか
水俣における「第三者」の関与責任
- 偏見→名乗り出ることができない患者たち
- ビニールに頼った生活、チッソの経営を支える
- 希釈原理の支持
- 政府の行動に無関心=政府の行動を支援
- 無責任な批難、発言
=リスクがリスクを生むということを無視
※「中立」を装う専門家、科学者
→「公害に第三者はいない」(宇井 2006)
果たしていくべき責務責任
※「中立」を装う専門家、科学者
→「公害に第三者はいない」(宇井 2006)
果たしていくべき責務責任
- 「無関係」な人が「無関心」に支える
=権力の維持
- 不可避的に「関係ない」ことに関わっている
- すべての問題や人に向き合えるわけない
→「無関係」な人たちが「共同体」をつくること、「無関係」な人が無責任に過ごすために構築されたシステム自体が破綻しているのでは?
ありがとうございました
今回引用した文献
宇井純『新装版 合本 公害原論』亜紀書房、2006
大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005
瀧川裕英『責任の意味と制度 負担から応答へ』勁草書房、2003
原田正純「水俣の未来へ~水俣学研究5年のあゆみ~」水俣学研究編集委員会 編『水俣学研究 第2号』熊本学園大学水俣学研究センター、2010
原田正純『水俣が映す世界』日本評論者、1989
水俣病研究会『水俣学研究資料選書1 水俣病にたいする企業の責任―チッソの不法行為』熊本学園大学水俣学研究センター、2007
今回引用した文献
宇井純『新装版 合本 公害原論』亜紀書房、2006
大庭健『「責任」ってなに?』講談社現代新書、2005
瀧川裕英『責任の意味と制度 負担から応答へ』勁草書房、2003
原田正純「水俣の未来へ~水俣学研究5年のあゆみ~」水俣学研究編集委員会 編『水俣学研究 第2号』熊本学園大学水俣学研究センター、2010
原田正純『水俣が映す世界』日本評論者、1989
水俣病研究会『水俣学研究資料選書1 水俣病にたいする企業の責任―チッソの不法行為』熊本学園大学水俣学研究センター、2007
頂いたコメント、質問
- 福島の例では、PやC1には何が当てはまるのか
原発が安全だと信じていたこと
- このシステムがかつて上手くいっていたことはあるのか
ないんじゃないんですか
- 社会的階層の問題は?
丸山真男が「無責任の体系」と表したり、ホロコーストの分析で指摘されるようなことだと思うが、現代では上から下というよりも、ひとりひとりの責任が小さくていいような分業体制が問題では
- 国は助けてくれないと思って自己責任で生きていかなくてはと思いました。
そういう発表ではありません
- システム自体が破綻しているのであれば、現在の状況はどのようなシステムで成り立っているのか
システムの終わりとは何か、という問題。「ありそうになさ」の中でなぜシステムが成り立っているのか。見かたの問題だと思う。順調に人を殺していっているということをしょうがないものだとみるのか、そうではなく悲観的に見るのか。普段生きている中では、その「ありそうになさ」は隠されている
- 本来追求すべき責任をあいまいにするのでは
まず「本来追求すべき」とは何か。東電などの責任を追求することと僕たちの責任は両立する。どっちかの責任が増えれば、もう片方が減るような、そういう単純な話ではない。それは所詮、責任を分配できるものとみなし、賠償責任と混同しているにすぎない
