バタイユは、現代の社会は、有用なもの作りだす生産活動を原理するとみなす。
「社会的な同質性の基礎は、生産である。同質的な社会とは生産的な社会、つまり有用な社会のことである。無用な分子はすべて排除されるが、それは社会全体からではなく、その社会の同質的部分からである。社会的同質性とそれに依存する活動の根本となる公約数は、貨幣つまり集団的活動による多様な生産物の計算可能な等価物である」。(バタイユ「ファシズムの心理構造」)
社会は無用なもの、怠慢、放埓、狂気を排除する。この排除の方法で社会の構造が決定される。フーコー『狂気の歴史』がこの形式を詳述。
「社会的な同質性の基礎は、生産である。同質的な社会とは生産的な社会、つまり有用な社会のことである。無用な分子はすべて排除されるが、それは社会全体からではなく、その社会の同質的部分からである。社会的同質性とそれに依存する活動の根本となる公約数は、貨幣つまり集団的活動による多様な生産物の計算可能な等価物である」。(バタイユ「ファシズムの心理構造」)
社会は無用なもの、怠慢、放埓、狂気を排除する。この排除の方法で社会の構造が決定される。フーコー『狂気の歴史』がこの形式を詳述。
ところが社会は異質なものを「捨てた」つもりでも、捨てたはずのものが、異質なものとして、社会の内部にさまざまな仕方で回帰する。例えば、排除された異質で至高な王を頂くのが王政。排除された要素を下に掃き集めるのがファシズム。国家とは、こうした異質なものが取り戻される〈形式〉である。
バタイユは有用性を原理とする共同性とはあくまでも異なる原理で、共同性を作ろうとする。その試みが、秘密結社「アセファル(無頭)」。この結社は、共同的なものを超えたところで共同性を追求するという矛盾をもつ。それは彼の盟友ブランショが語るように、「明かしえぬ共同体」なのだ。
バタイユの特徴は、理性的な判断、科学的な考察など、人間の理性によって作られた共同性とは異なる共同性についての考察にある。理性の道だけでは到達できない共同性、例えばバナナの皮で転んだ人を見て、周りの人々が笑いだす。笑われた人も、照れくさそうにしながら笑いの波に加わる。これは笑いを媒介とした共同性であり、理性の共同性とは異なるだろう。この共同性と、共同性の経験で得られる認識が「交感的認識」。この経験において、「知性の営みは、ある不活性な場所を越えると、もはや笑いに対立するものではなく、狂ったように笑いと一致する」(『呪われた部分 有用性の限界』
【資本主義社会の有用性と理性の共同性からはずれた場所で、新しい共同性の経験から生みだされる、新しい認識方法がある】。この着想をナンシーは、「共同体とは他者たちの共同体である。このことは、複数の個人が自分たちの差異を超えて何らかの共通の本性をもっているということではなく、複数の個人が端的に自分の他性に立ち会っているということを意味している」と展開。
エスポジトの議論のこのナンシーの延長。
エスポジトの議論のこのナンシーの延長。
