what「ほかいびと」とは何か?
乞食。コジキ、だけではなく、ホイト、とも呼ばれる。
コジキという日本語にくらべれば、ホイトという呼称ははるかに古い。ホイトはホギヒト
の短縮形といわれる。その、さらに祖型にあるのは、古代の“ほかいびと”である。ホグとは祝すること、ホカヒとは寿詞をのべることである。乞食とはいずれ、なにか縁起のよい文
句を唱えることを本来の職業とした人々である。乞食が禁厭の札を各家にくばって米や金銭を乞いうけたのも、趣旨はひとつである。
コジキという日本語にくらべれば、ホイトという呼称ははるかに古い。ホイトはホギヒト
の短縮形といわれる。その、さらに祖型にあるのは、古代の“ほかいびと”である。ホグとは祝すること、ホカヒとは寿詞をのべることである。乞食とはいずれ、なにか縁起のよい文
句を唱えることを本来の職業とした人々である。乞食が禁厭の札を各家にくばって米や金銭を乞いうけたのも、趣旨はひとつである。
「ホイト」ノ職業ハ一種仕来リノ交易ナリシナリ(柳田「所謂特殊部落ノ種類」『定本柳田国男集第二十七巻』)
鎌倉期の文献(『名語記』)からは、通常は卑賎視される散所の乞食法師が、正月には千秋万歳(せんずまんざい)と称し、祝言をとなえて門口にたった様子が知られる。おそらくは奈良時代の乞食者(ほかいびと)に系譜をひくとおもわれる千秋万歳の徒は(正月には、仙人の装束をまね、小松を手に捧げている)外なる世界から寿祝をもたらす来訪者として迎えられている。
what「ほかいびと」はなぜ歓待されるのか?
いやしめられる身分の者であったからこそ、逆に神聖なるものに変身しうる社会的な約束が成立していたのであるし、また神聖なものに変身しうるものとして物をもらうがゆえにいやしめられた、ともいえるであろう(戸井田道三『能神と乞食の芸術』)
乞食は反対給付なしに物をもらう。そのために、賎しめられつつ畏怖された。神の資格において祭りの庭にあらわれる神人の末喬として。
食べ物をもらうことができるのは、他人と食物を共通にすることで、その力を貸したり借りたりする、という日本各地にみられる呪術的な信仰が背景にある。(cf.柳田「モノモラヒの話」)
今日のモラフとはちょうど反対に、こちらから分けあたえても同じ効果が得られると信じられていたことに注意。必要なのは、「平生食事を共にしない人々といっしょになにかを食べる」ということ。同じく人の家の食物に参加する他人の中で、門口に来て分配を受けるのがホイト、家の座席に上って相食する者がマラウドであると、柳田は指摘している。乞食(ホイト)と客人(マロウド)はともに、共食し饗応することで、治病や家内安全などの効果がえられることを期待された存在だったのである。
例えば、七軒乞食とよばれる、七軒の家をめぐって米・麦飯・餅などをもらうというかたちが比較的多い。あるいは、小正月の前の宵に、家々の門をたたいて餅をもらいあるく行事が全国的にみられる。この時の特徴は、異装・杖・音響。
今日のモラフとはちょうど反対に、こちらから分けあたえても同じ効果が得られると信じられていたことに注意。必要なのは、「平生食事を共にしない人々といっしょになにかを食べる」ということ。同じく人の家の食物に参加する他人の中で、門口に来て分配を受けるのがホイト、家の座席に上って相食する者がマラウドであると、柳田は指摘している。乞食(ホイト)と客人(マロウド)はともに、共食し饗応することで、治病や家内安全などの効果がえられることを期待された存在だったのである。
例えば、七軒乞食とよばれる、七軒の家をめぐって米・麦飯・餅などをもらうというかたちが比較的多い。あるいは、小正月の前の宵に、家々の門をたたいて餅をもらいあるく行事が全国的にみられる。この時の特徴は、異装・杖・音響。
こうした前代の“乞食原理”はむろん、家や共同体のたんなる飢餓対策ではなかった。柳田によれば、「多くの人の身のうちに、食物によって不可分の連鎖を作るといふことが、人間の社交の最も原始的な方式であったと共に、人は是によりて互ひに心丈夫になり、孤立の生活に於ては免れ難い不安を、容易に除き得るといふ自信を得たのである」。