概要
シンポジウムの内容
■菅原潤
- 日本人は無信仰なのではなく、土地、風景に定位する「土地教」である。風景論と環境倫理がにほんにおいて連関を持つのは必然的。さらに「信仰の対象」としての風景にも言及すべき。
→レオポルド「土地倫理」と、日本のそれはどれほど異なるのか?
→→レオポルドにとって、「土地」とは一義的に林地であった。
→→レオポルドにとって、「土地」とは一義的に林地であった。
- レストレーション・エコロジーについて
→チェルノブイリは石棺、水俣湾は埋め立て。そうなるとレストレーションもなにもあったものではない。
- 福島原発の避難地域で、多くの老人が、身体的理由で避難かるすることができなかったり、「どうせ老い先短いのだから、ここで死ぬよ」と避難勧告を受け入れようとしなかった。
→原発が建つようなところなんだから、当然、高齢過疎地であり、こういうことになることはわかっていたはず。
■丸山徳次
- 持続可能社会は、進歩とは異なる。
→将来世代だけではなく、私たちの世代の生存の問題である。世代間倫理と、世代内倫理。
- サステイナビリティのなかで、環境倫理学が寄与できることはなにか??
- 18世紀初期のドイツの森林管理と育成の問題が、サステイナビリティの最初期ではないか。
→ナッハハルティヒカイト(Nachhaltigkeit=sustainability);持続可能林業(nachhaltige Forstwirtschaft=sustained yield forestry)
自分が死んだ後にも林を伝えていく。フリードリヒ・シラーの持つ、森林官への賛意。
自分が死んだ後にも林を伝えていく。フリードリヒ・シラーの持つ、森林官への賛意。
- アルフレッド・メラー
- 自然資本について
「自然資本」という語は、新古典派に対する、一種の対抗概念だと思う。
「資本」である以上は、投資の対象である。
林業と農業の決定的な違いは、後者は毎年、収穫があるにもかかわらず、前者は「手をつけないで待っている」ということが投資の意味を持つ。
経済学の議論と生態学の議論を重ねるとすれば、「自然資本」の概念を素通りすることはできない。
cf.)こつなぎ山事件
「資本」である以上は、投資の対象である。
林業と農業の決定的な違いは、後者は毎年、収穫があるにもかかわらず、前者は「手をつけないで待っている」ということが投資の意味を持つ。
経済学の議論と生態学の議論を重ねるとすれば、「自然資本」の概念を素通りすることはできない。
cf.)こつなぎ山事件
- 環境哲学と環境倫理学は、この二つを区別するべきか?
→とくにどうでもよい。
→制度論に踏み込むか、踏み込まないか、の違いを論ずるのなら話はわかる。
→井上哲次郎がethicsを哲学とは異なるものとしての倫理学として翻訳したのは間違っているのではないかと思う。
環境倫理学と環境哲学にそもそも大きな違いはない。
(環境倫理学は生命倫理と必ずセットで論じられる、という見立てはおかしいのではないか???)
→制度論に踏み込むか、踏み込まないか、の違いを論ずるのなら話はわかる。
→井上哲次郎がethicsを哲学とは異なるものとしての倫理学として翻訳したのは間違っているのではないかと思う。
環境倫理学と環境哲学にそもそも大きな違いはない。
(環境倫理学は生命倫理と必ずセットで論じられる、という見立てはおかしいのではないか???)
memo
※「生き残るための環境倫理学」を論じるということは、「生き残るためではない環境倫理学」がいままであったということだろうか。
→YES 初期キャリコットは自然の価値の位置づけに邁進した。エコ・テロリズム。「人間非中心主義」。
※「生き残るための環境倫理学」を論じるということは、「生き残るためではない環境倫理学」がいままであったということだろうか。
→YES 初期キャリコットは自然の価値の位置づけに邁進した。エコ・テロリズム。「人間非中心主義」。