atwiki-logo
  • 新規作成
    • 新規ページ作成
    • 新規ページ作成(その他)
      • このページをコピーして新規ページ作成
      • このウィキ内の別ページをコピーして新規ページ作成
      • このページの子ページを作成
    • 新規ウィキ作成
  • 編集
    • ページ編集
    • ページ編集(簡易版)
    • ページ名変更
    • メニュー非表示でページ編集
    • ページの閲覧/編集権限変更
    • ページの編集モード変更
    • このページにファイルをアップロード
    • メニューを編集
    • 右メニューを編集
  • バージョン管理
    • 最新版変更点(差分)
    • 編集履歴(バックアップ)
    • アップロードファイル履歴
    • ページ操作履歴
  • ページ一覧
    • ページ一覧
    • このウィキのタグ一覧
    • このウィキのタグ(更新順)
    • このページの全コメント一覧
    • このウィキの全コメント一覧
    • おまかせページ移動
  • RSS
    • このウィキの更新情報RSS
    • このウィキ新着ページRSS
  • ヘルプ
    • ご利用ガイド
    • Wiki初心者向けガイド(基本操作)
    • このウィキの管理者に連絡
    • 運営会社に連絡(不具合、障害など)
ページ検索 メニュー
亀山ゼミwiki(非公式)
  • ウィキ募集バナー
  • 目安箱バナー
  • 操作ガイド
  • 新規作成
  • 編集する
  • 全ページ一覧
  • 登録/ログイン
ページ一覧
亀山ゼミwiki(非公式)
  • ウィキ募集バナー
  • 目安箱バナー
  • 操作ガイド
  • 新規作成
  • 編集する
  • 全ページ一覧
  • 登録/ログイン
ページ一覧
亀山ゼミwiki(非公式)
ページ検索 メニュー
  • 新規作成
  • 編集する
  • 登録/ログイン
  • 管理メニュー
管理メニュー
  • 新規作成
    • 新規ページ作成
    • 新規ページ作成(その他)
      • このページをコピーして新規ページ作成
      • このウィキ内の別ページをコピーして新規ページ作成
      • このページの子ページを作成
    • 新規ウィキ作成
  • 編集
    • ページ編集
    • ページ編集(簡易版)
    • ページ名変更
    • メニュー非表示でページ編集
    • ページの閲覧/編集権限変更
    • ページの編集モード変更
    • このページにファイルをアップロード
    • メニューを編集
    • 右メニューを編集
  • バージョン管理
    • 最新版変更点(差分)
    • 編集履歴(バックアップ)
    • アップロードファイル履歴
    • ページ操作履歴
  • ページ一覧
    • このウィキの全ページ一覧
    • このウィキのタグ一覧
    • このウィキのタグ一覧(更新順)
    • このページの全コメント一覧
    • このウィキの全コメント一覧
    • おまかせページ移動
  • RSS
    • このwikiの更新情報RSS
    • このwikiの新着ページRSS
  • ヘルプ
    • ご利用ガイド
    • Wiki初心者向けガイド(基本操作)
    • このウィキの管理者に連絡
    • 運営会社に連絡する(不具合、障害など)
  • atwiki
  • 亀山ゼミwiki(非公式)
  • 第二章 『日本霊異記』の仏教思想と民衆の自然観

亀山ゼミwiki(非公式)

第二章 『日本霊異記』の仏教思想と民衆の自然観

最終更新:2012年03月30日 21:37

ogasawara

- view
だれでも歓迎! 編集
第一節 『日本霊異記』の先行研究の整理

第一項 『日本霊異記』での神と仏教
 古代における大陸文化の流入は、明治期よりも文化的な落差が大きかっただけに、巨大な衝撃を持つものであった。仏教は決して単なる宗教というだけではない。大陸の先進的な文化の総合的なセットとして入ってきたのである。仏教は、土木技術も、水田の灌漑技術も、海運技術も含む総合的な新文明として入ってきたのであり、そのような巨大な物質的な力として、伝統社会を打ち壊し、中央集権的な新たな社会秩序を作り出す中心的な力となった。そのような力を齎すイデオロギー的背景として、複雑巧緻に構成された教学が位置づけられることになる。このような文明の闘争と征服の過程が、宗教的なレベルに象徴的に表現される。
 そこでは、古来の神々は矮小化されて、嫌悪を催すものとされ、それ故に正義の力である仏教によって征服されることになる。『日本霊異記』にしばしば出てくる蛇の位置づけを見ると明白である。例として、『日本霊異記』中巻第8縁 のあらすじを以下に示す。
 置(おき)染(そめの)臣(おみ)鯛女(たいめ)は、蛙が蛇に呑まれようとしているところに出会い、蛙を助けるために、七日後に蛇の妻となることを約束した。七日後に蛇が彼女の家を訪れたが、戸締りが厳重で入ることができなかった。恐ろしく思った鯛女が行基大徳に相談すると、堅く戒律を守るように説き、五戒を授けた(受戒)。寺からの帰りに、鯛女は蟹を持った老人から蟹を買い取って、解放してあげた。八日目の夜、蛇がやってきて屋根の茅を抜いて入ってきた。恐ろしさに震えていると、寝床の前で大きな音がしていた。翌朝見ると、一匹の蟹が蛇をずたずたに切っていた。彼女が買い取った蟹が助けてくれたのであった。その老人は聖の化(仏や菩薩の化身)であった。
 蛇は、古くは神の使い、あるいは神そのものの現れとされてきた。蛇との結婚は神との結婚ということであり、きわめて宗教的で神聖な意味を持っていた 。ところが、『日本霊異記』では蛇はその神性を失い、まったくの悪役として嫌悪すべき対象になってしまっている。これまでの神話において見られた、蛇神と巫女との神婚伝承は零落する。それまで神の化身であった蛇は、「人に化すもの」へと変化した。その一方、聖や聖人、あるいはその化身は、『日本霊異記』で活躍する仏教者を代表するもので、常人が持たない不思議な力を持っている。彼らは古い神々に替わる新しい宗教的存在であり、神々を凌駕し、征服することになる。
 神仏習合といわれる現象は、このような仏法の優位の中で、両者の関係が構造化されるところに形成されたものである 。このように価値が転換されていく現象と『日本霊異記』は無関係であるとは言えない。

第二項 「現報善悪」が意味するもの
 『日本霊異記』の正式な名称は『日本国現報善悪霊異記』である。ここに含まれる「現報善悪」という語には、景戒の編纂意識が色濃く反映されていると考えられる。「現報善悪」とは、二つの限定を行うことである。一つは、物事の因果関係(善因善果、悪因悪果)を現世に限定することであり、もう一つは、「善悪」を「報」の善悪に限定することである。
 善悪が「報」の面において語られるとき、それは功利的な色彩を帯びる。すなわち、善とは、「報」を受ける者にとって都合の「よい」ことであり、悪とは、「報」を受ける者にとって都合の「わるい」ことであるということになる。
 景戒の最初の段階における説話集には「而現(空欄)得悪死報」という標題の説話がある。この「悪死報」という言葉は、「報を受ける者にとってつごうのわるい、むごたらしい死にざまで死ぬという報」を意味しており、「悪の行為に対しての、死という報」を意味してはいない 。『日本霊異記』の中に示される善悪は、「善」と「悪」というよりは、むしろ、「楽」と「苦」というべきものである。「報」という面から言えば、善悪の基準はどこまでも人間にあり、法や戒律にあるのではない。人間を害するもの、人間に害を及ぼすものが悪であるという善悪観がここからは見受けられる。そして、このような善悪が現世において成り立っているという主張が、「現報善悪」という言葉に込められている。
 例として、前節において取り上げた中巻第8縁での「現報善悪」がどのようになっているか考える。これは、蟹によるただの報恩譚ではない。鯛女は、蛙を救いたい一心で、蛇に対して「われ、汝が妻とならむ」と口に出してしまうのだが、この言葉はもちろん、本心からのものではない。それがどのような事態を招くかというと、五戒のうち、蛇の妻となれば不邪淫戒を犯すことになり、蛇の妻とならなければ不妄語戒を犯すことになるという、鯛女のジレンマである。このような、「戒」を犯すようなことを言って蛙を救っても、問題は何も解決しはしないのだということが、説話の展開によって示されている。中巻第8縁は、助けられた蛙は鯛女の危急を救いに来はしなかった、というところに十分に注意して読まれるべきなのである。そして、鯛女は行基大徳のもとに参じて受戒する。受戒の後は、鯛女が蟹の命を救い、蟹がその報恩として鯛女を救うというありきたりの報恩譚が展開される。一方、受戒の前に救った蛙は、決して報恩しない。この説話では、災厄は受戒によってのみ除去されることが明示されている。

第三項 『日本霊異記』の中の聖徳太子
『日本霊異記』では、聖徳太子(574年-622年)は凡人には見抜けない「隠身の聖」の聖性を見抜いた通眼の持ち主として描かれている。そして自ら「三宝の奴」と名乗った聖武天皇(701年-756年)の時代は、東大寺大仏建立を頂点として仏教が新しい興隆を見せた時期であり、一度は国から異端視された行基(668年-749年)が大僧正として抜擢されるに至った時代として、景戒はこれらを私度僧の立場から意味づけし直して提示しようとした。
『日本書紀』(養老4年、720年)では、律令、儒教、仏教、道教 といった当時の東アジアに普遍的な思想を踏まえつつ、日本の先進性を標榜する絶対的聖人として聖徳太子像が構築された。『日本霊異記』はそれを敷衍しつつも、その普遍性、その絶対性すら逆手にとって、独自の世界観の中に聖徳太子を取り込むことに成功している。
『日本霊異記』に見られる片岡山飢人説話 は、太子が巡看中に路傍に臥している飢者に出会って、慈悲をかけて歌を詠じたが、のちに飢者は死んで墓を開いてみたところ死体がなくなっていたという大陸に起源を持つ尸解仙譚を内容とするもので、日本においては『日本書紀』を初見とする。『日本霊異記』での変更点は、飢者ではなくカタヰ である点、太子は歌を詠じておらずカタヰが太子への歌を残している点、片岡山飢人説話の後に続けて、願覚という不死の不思議を現じた僧侶の説話を後半部として付加している点である 。しかし、両話共に死後に復活するという尸解仙思想の影響下にある霊異譚であり、特殊な能力を現じる「隠身の聖」の存在感が演出されている。『日本霊異記』上巻第4縁には、以下のような記述がある。
 「誠に知る、聖人(しょうにん) は聖(ひじり)を知り、凡夫(ただひと)は知らず。凡夫(ぼんぶ)の肉眼(にくげん)には賤しき人と見え、聖人の通眼(つうげん) には隠身(おんじん) と見ゆといふことを。斯れ、奇(めづら)しく異(あや)しき事なり。」
 このように、『日本霊異記』上巻第4縁において聖徳太子は、「隠身の聖」の聖性、すなわち、皮相の下に隠された真実の姿を通眼でもって見抜いた真の聖として讃じられている。
 「隠身の聖」というモチーフは、必ずしも菩薩行といった仏教的範疇で解釈できるものではなく、その他の大陸の宗教文化の影響の中でも、特に道教や神仙思想との関わりが指摘できる。この点について丸山顕徳は、「隠身」という語について、「その対象となった乞食僧の現実的な行為が、透視術であったり、呪禁術であったり、尸解仙であったりというように、道教的な傾向が色濃いものであることから判断して、用語そのものも道教、神仙思想による隠形や変身から思いついたものであろう」 と指摘している。つまり、景戒が『日本霊異記』において使用している「隠身」という語は、「隠形」と「変身」を合成したものではないかという指摘である。
 では景戒は、聖徳太子と「隠身の聖」を登場させることによって何を表現しようとしていたのだろうか。単純に仏教の普及を目指すなら、説話の中で聖徳太子の人となりを褒め称えれば済むはずである。しかし、景戒は『日本書紀』に示されるような絶対的聖人としての聖徳太子像を、『日本霊異記』へと巧妙に取り込み、そして新たな太子像を作り上げている。そして、このことは「隠身の聖」をわざわざ登場させていることと無関係ではない。 
 吉田靖雄はこの点について、『日本霊異記』における隠身の聖説話を含む賤形沙弥 迫害説話群には、私度僧 を擁護しようとする意図が込められていると述べる。吉田は、賤形沙弥迫害説話群は乞食僧・賤形沙弥を迫害・圧迫する風潮に強い憤懣の念を持ち続け、政府の仏教政策をどうしても許容することのできない景戒の意志のあらわれ、すなわち「仏教界の粛清を強引にすすめた政府・官人等に対する景戒の筆誅」 であるという見解を示している。
加えて、『日本霊異記』上巻第5縁には、「行基大徳は、文殊菩薩の反化 なり」と述べられている。
 『日本霊異記』上巻第4縁は、独自の立場に基づいて、『日本書紀』の聖徳太子像を巧みに改変している。「隠身の聖」という語に端的に象徴されているように、なにより太子はカタヰといった賤形の民間仏教者を含む、私度僧たちの存在価値を承認し保証する役割を担わされている。太子の貴人性、聖人性はみな、乞食行の私度僧を価値づけるために資されている。儒教的な王道観、仏教的な慈悲観、尸解仙という道教的な死生観に基づいて構築された『日本書紀』の太子像を逆手にとって 、すべて私度僧たちの擁護者としての役割に変え、そして第5縁にて、同じく「隠身の聖」と表現された行基を抜擢した聖武天皇の役割へと、それをスライドさせている。

第二節 『日本霊異記』の仏教説話としての役割
第一項 説話の展開
 『日本霊異記』での各説話本文の展開は、以下のようになる。まず、名前等の主人公の紹介があり、ここでその説話の年代・場所、主人公の職業・性行などが具体的に記される。そして、主人公がある行為をして、その結果、必然的に事態が展開していく。どの点が必然的なのかというと、悪因行為(盗み・貪欲・肉食・殺生など)を行うと悪果(病気・死)を招き、善因行為(放生、経の読誦など)を行うと善果を招くと言う点である。
 本節では『日本霊異記』の説話に登場する自然に注目し、『日本霊異記』の中で自然はどのように扱われているのかについて考える。
 『日本霊異記』に登場する動物は、馬・狐・犬・亀・鷲・牛・兎・サル・鹿・鳥・蟹・カエル・カキ・鷺・猪・蛇・魚・蟻などがある。また、人以外には雷や髑髏(ひとがしら)も特別な扱われ方をしていると見られるが、本節では先にあげた動物が関係する説話から、自然観について考えていく。
 これらの動物について、『日本霊異記』の中に繰り返し登場し、しかも説話内での役割がほぼ固定していると思われるものは、狐・牛・蛇である。
 狐が登場する説話には、人間に変身し、人間の妻となる話や、人間に復習する話(狐の報怨譚)がある。また、大陸からの文化としての陰陽道の考え方として、狐の鳴き声が、災い(人や牛馬の死)の前兆を示す話もある。
 牛が登場する説話には、盗用(寺から借りたものを返さずに死ぬなど)や貪欲などから、死後、牛に転生して苦役を果たす話などがある。このように、前世で悪事を犯した人が、牛身に生まれ変わって労役に服し、罪のつぐないをするという展開は、『日本霊異記』の上巻第21縁の記述と共に見ると、ありふれた六道輪廻の転生譚の一つに過ぎないかのように思われる。
 「現報甚だ近し。因果を信(う)くべし。畜生に見ゆといへども、わが過去の父母なり。六道四生はわが生れむ家なり。そゑに、慈悲なくはあるべからず。」
 これは、一言で表すと、「人間とは無縁の畜生と見えても、それは前世の自分の父母である。」という意味である。
 しかし、これはありふれた転生譚の中でも特殊なものであり、このような展開の原型は大陸に求めることが出来る。この点については、次項で述べる。
 蛇が登場する説話には、人間の女との婚合の話や、強い金銭欲の報いで、人間が蛇に生まれ変わる話がある。特に人間の女との婚合についての話は、既に存在していた蛇神と人間の女との神婚説話の残影と考えられる 。
 これらからいえることは、説話における動物は、登場場面に合わせて意図的に選ばれているということである。『日本霊異記』はいわゆる仏教説話集であるわけだが、説話の取材は仏教的なるものだけにとどまらず、中国における陰陽道や日本の神話など、広い範囲からの影響が見られる。そして、動物の種類別に説話内での役割がほぼ固定している。

第二項 中国の仏典との関係
 前項での牛に転生する話について、中国の仏典では、人間が死後に転じてある人が借金をして、それを返済しきらないうちに死亡する。冥罰を被り、今生で債主の家の牛・驢馬その他の家畜として転生、一定期間の労役に服し、それを労賃に換算して残額相当を償った後に家畜は死んで解脱する。この型の説話を沢田瑞穂は、かりに畜類償債譚と名づけている 。
人間が死後に転じて畜生になるという話は、普通ならば六道輪廻の転生譚だと解釈してよい。しかし、この畜類償債譚の特異性は、その転生の因がただの罪障ではなく、金額の貸借というきわめて現実的なものを業因としていることである。貸借は通常は金銭であるが、米穀その他の物資 でもよい。借りて返済しないのは、貧乏で返せない場合もあれば、強欲で故意に返さない場合もある。動機の善意と悪意とを問わず、債務不履行そのものが来生の負債となって継続する。転生するのは牛や驢馬というのが最も多いが、他には馬・騾馬・豚・羊・犬などがあり、さらに鶏や家鴨などの家禽となって、生んだ卵の価格で返済するという話もある。
 当の家畜が債務者の生まれ変わりであることがどうしてわかるのか。最も古い型では、その牛馬が突然に人語を発して直接に前生の負債の因縁を語る。しかし牛馬が人語を発するというのは不自然なので、次には債主の夢に現れて仔細を告げるというようにした。あるいは、債務者が借金の際に誓言をして、これを返済しない場合は死して牛馬になってもよいと誓う。または、生まれた牛馬には果たして額に白い毛があったり、毛の色で姓名が示されていたりする。不名誉を恥じた遺族が、借金相当の代価を払って贖い帰る。もともと虚構の因縁譬喩譚を現実化して、この牛馬が確かに債務者の生まれ変わりであったということを証明するための説話上の技巧である。
 畜類償債譚は六朝 の志怪小説書から少しずつ見え始めるが、唐代に入ってさかんに語られるようになり、以下、宋元明清の各時代を通じて小説雑書のこれを記すものには枚挙に暇がなく、最終的には地誌にさえもその地方の奇事異聞として記載されるに至る。その数の多さにも関わらず、用いられる動物は、頻度が高い順に牛・驢馬・馬・騾馬・豚・羊・犬・鶏・家鴨に限られており、ほぼ金銭貸借と畜類転生とを二大要素としていることから、全体を問題にしてもその組み合わせに多少の変化を見るに過ぎない。
 『日本霊異記』において牛に生まれ変わる話は、このような畜類償債譚の影響を色濃く受けていると考えられる。そして、日本でも実際に牛が農耕用に使われていたため、苦役を果たす動物として用いるのに最適だったと思われる。
 第1節第2項で、『日本霊異記』の説話の展開は「現報善悪」が基本であると述べたが、畜類償債譚は転生によって話が展開するため、厳密に「現報善悪」に従っているとは言えない。『日本霊異記』の中では、しばしば前の説話の善悪の基準を後の説話が裏切るということがあり、そのような部分は唐突に現れてくる。それは、景戒が内典、外典、民話などから取材し、それらを融合させる過程で残してしまった矛盾なのかもしれない。

第三項 殺生をめぐるストーリーの型
 ここまでは動物ごとに説話の展開を見てきたが、ここではストーリー展開に注目して分類する。『日本霊異記』において動物が登場する説話には、必ずと言っていいほど殺生と肉食の問題がからむ。
 殺生をめぐる説話は、大きく分けて4種類に分類できる 。
 一つ目は、殺生を働いたことで地獄に落ち酷苦の報いを受ける物語(殺生悪報譚)である。これらの説話では、魚を獲って食べる、兎の皮を剥ぐ、馬を酷使して死なせる、卵を茹でて食べる、牛を殺して祭るなどが悪因行為に当たる。これらの悪因行為から招かれる悪果は、病気や死である。しかし、放生をしたり、僧に経を読誦させたりすることによって助かる話もある。
 二つ目は、殺生とまではいかなくても、盗みや貪欲が原因で畜生道や地獄に堕ちる物語である。
 三つ目は、放生の功徳を説く善報譚である。放生という善行により善報を得る。放生とは、不殺生戒の実践であり、捕獲した動物を山野河海に放つ慈悲行為である。仏教儀礼としての放生会は720年が初めであり、8世紀半ばには殺生禁断令・放生令の頻発が見られる。『日本霊異記』における放生は、牛・蟹・カエル・カキ・亀などが対象となっている。
 三つ目に関連して、異類報恩譚が挙げられる。これは、前に挙げた放生の功徳を説く善報譚の一種で、放生という善因行為に対する善果として、特に動物などの「異類」が恩返しをしてくる話がこれに当たる。放生に対して恩返しをする「異類」の動物とは、『日本霊異記』の中では蟹や亀である。
 四つ目は、仏像が動物に変身する物語である。
 その他に、動物は登場するが肉食・殺生にはかかわらないものとして、人間から人間以外のものが生まれるという異常生誕に関する話や、前述の神婚譚のように人間と人間以外のものが結婚する異類婚姻譚がある。
 ここで注目しておきたいことは、この章の最初の部分で述べたように、善因行為には善果、そして悪因行為には悪果という展開が必然であるにもかかわらず、殺生をめぐる説話において、悪因行為が必ずしも悪果に繋がらない場合があることである。つまり、殺生などの悪因行為を行っても、放生をしたり経をあげたりすることによって悪果を免れるという説話が、『日本霊異記』には含まれている。悪果を免れる行為を、本章では「帳消し行為」と呼ぶことにする。
 では、放生をしたり経をあげたりすることによって悪果を逃れられる場合と、逃れられない場合の違いは何か。これは、悪因行為のうちで、どのような行為ならば許される余地があると見なされ、どのような行為ならば許される余地がないと見なされるのかという問題でもある。
 まず、悪果を逃れられない悪因行為、つまり帳消し行為がその後決して説話の中で導出されないような悪因行為は何かと言うと、「生命を殺すことを喜ぶ」こと、「常に鳥の卵を煮て食」うことなどである。ここで重要なのは、生業と関係なく殺生を楽しんでいることや、常に美食の楽しみとして肉食をするという点で、このような主人公の人柄からは帳消し行為が行われる可能性が低くなり、主人公はそのまま悪報を受ける。景戒自身も、許されない悪因行為として、このようなものを想定して『日本霊異記』を書いたと思われる。
 次に、悪果を逃れられる悪因行為は、前述のように殺生を楽しまずに生業として行う場合や、病気の治療として魚を食す場合などがこれに当たり、このような主人公が登場する説話は比較的に帳消し行為があらわれやすい。このような主人公は、亀を放生したり、僧に読経させたりなどという帳消し行為によって、殺生・肉食という悪因行為にもかかわらず悪果を逃れるという展開になっている。
 特に磯部は、『日本霊異記』の狩猟・漁撈の説話には、悪報を受けて死に至る場合と、死にまでは至らない場合とが混在しており、前者は殺生の行為者の人物評が施され、快意をもって殺生を行ったとされるのに対し、後者はそのような人物評は無く、むしろその後仏教に帰依していく端緒とされていると指摘している 。後者は殺生を必然的に伴う生業を持っていることが多く、例として下巻25の結末では、漁師が発心して俗世間をきらい、山に入って仏道を修行する。
 これらのことから、景戒の不殺生思想においては、生業を持っているひとが発心する展開、慈悲の心の表れとしての放生を行う展開、信心(仏教への信仰)の表れとしての読経をするという展開、これら3つの展開のいずれかに当てはまる主人公は死ぬことがない。中国の説話での善悪意識を色濃く残す牛への転生譚が、動機の善意と悪意とを問わず報いを受けることと比較すると、景戒の善悪の解釈は、「心のありよう」を重視しているといえる。仏教への信心を持つという心のありようそのものを、景戒は高く評価し、勧めるのである。

第三節 『日本霊異記』と国家
第一項 古代国家儀礼としての呪術と放生
 かつての教科書的な言い方にしたがえば、古代の日本仏教は鎮護国家のための仏教であり、そこでは種々の護国経典やそれに典拠を持つ数多くの行法が天皇家や蘇我氏らの有力豪族の政治的繁栄や私的な攘災招福のために駆使されていた。つまり、仏教はそのような世俗的目的に奉仕するための外来イデオロギーと呪術の体系として日本社会に持ち込まれたのであり、そのような当初の仏教受容のありかたが、そののちの日本仏教の基本的な性格をも強く規定する結果となった。そうしたことの具体例として、古くは玄昉や道鏡など験力に長けた仏僧が宮廷に深く関与し、その後も多くの密教系僧侶が護持僧として皇族貴族層のための加持祈祷に従事したこと、あるいは近くは、近世以降の葬送儀礼において僧侶が導師として死者に引導をわたし「成仏」させるなどの葬式仏教が日本社会における仏教の中心的な役割として固定化された、などのトピックが指摘されてきた。
 そのうえで、そうしたトピックはおおむね、日本に本来の仏教が根付く以前の試行錯誤的な現象であるか、それとも仏教の正道を踏み外した堕落形態である、というように否定的に評価されるのがつねであった。したがって、それらは公式の宗学や教団史では無視され、神仏習合史や説話文学・民俗宗教など周辺的な研究領域に封じ込められてきたといっていい。そうした中で、堀一郎の民間信仰史研究、五来重の修験道および仏教民俗研究などが展開され、また近年では佐々木宏幹が日本仏教における「呪力」信仰を宗教人類学の立場から精力的に論じている 。
 ここでは、そのような日本仏教の呪術・宗教的な側面についての通史的な検討ではなく、人と自然のかかわりをめぐって日本仏教がこれまでどのような対立や葛藤を経験しながら一定の了解を持つに至ったかを見定めるために、まず、放生儀礼の呪術的受容の特質について考えておく。
 日本で初めて公式に放生儀礼が行われたのは、『日本書紀』によれば天武5年(676年)8月のこととされ 、そのあと『続日本紀』などの正史にも断続的な記載が見られる。ただし一般的には、それより一世紀前の敏達7年(578年)に聖徳太子が六斎日を定め、これを喜んだ天皇が天下に勅して殺生を禁じたのが放生の最初だと理解された 。中国では南北朝ごろから僧侶によって行われたが、それとは違って日本では、宇佐八幡・石清水八幡の放生会が勅祭の神事とされた例からも想像されるように、当初から神仏習合的色彩の濃い行事として定着していくことになった。
 また『聖徳太子伝暦』の記事にも見られるように、放生は、六斎日に在家者が守るべき八斎戒のうちの不殺生と関連付けられており、その意味で『大宝令』(雑令)が六斎日には公私ともにすべての殺生を禁止している事実が参考になる。
 言うまでもなく放生とは仏教の不殺生の教えにもとづくもので、『日本霊異記』でもこれを持戒していることや慈悲の心の表れとしている。しかし、古代日本社会における勅祭での放生は、仏教教義や慈悲の精神に発するものとは言えず、むしろ律令体制下で新たに導入された政治色の濃い儀礼であって、その背景に存在するのは日本人の伝統的な「忌み(斎)」の感覚であったと見るのが妥当ではないかと思われる。
 そもそも天武5年(676年)の放生自体が仏寺の主宰する行事ではなく、中央政府が諸国の役人に命じて実行させたものであった。しかも『日本書紀』がこれを記すコンテクストをたどると、この年は極度のひでり(旱)で五穀が実らず、もろもろの神祇を祀り僧尼を請じて三宝に祈っても飢餓に瀕する人民を救うことが難しかったため、政府はさらにその対策強化をはからざるを得なかったことが分かる 。
 まずその対策として行われたのが7月の竜田・広瀬の祀り で、これは前年より恒例となった大和の風神・水神に対する国家主導の神祇祭祀であった。つまりこの時期、天武朝は稲作農耕の成否をみずからの政権の命運にかかわるものと見なし、これを風水神の国家祭祀によって安泰ならしめようと意図していたのであった。これに加えて翌月、さらに本格的な対策が講じられることになる。それがいわゆる「四方の大解除(大祓)」 で、8世紀以後は定例化されて6月・12月に行われるようになるが、この段階ではまだ特定の目的のために臨時に執行されるもので、正史に初めて記されるこの時の大解除が、甚大な国家的脅威となりつつあったひでり(旱)を呪術によって克服しようとするものであったことが推察できる。しかもひでり(旱)対策はこれで終わったわけではない。その翌日、今度は死刑以下の罪人を減刑する大赦令が出され、それに加えて前述の放生令が諸国に発せられたのであった。
 こうした一連の経過を見てみると、神祇祭祀、大解除、大赦、放生といった本来まるで関係のない儀礼や政策がことごとくひでり(旱)を絶ち、祈雨を実現させるという当面の目的のために総動員されていたことが明らかとなる。一般に呪術が、「何らかの目的のために超自然的・神秘的な存在(神、聖霊その他)あるいは霊力の助けを借りて、種々の現象を起こさせようとする行為およびそれに関連する信仰・観念の体系」 であるとすれば、この場合、神祇祭祀、大解除、大赦、放生によって「超自然的・神秘的な存在(神、聖霊その他)あるいは霊力」に働きかけ、雨を降らせることが企てられたことになる。
 ところで、これより時代を遡った皇極元年(642年)には、同様のひでり(旱)対策のために牛馬を犠牲とする神々の祭祀が行われたのをはじめ、大乗経典の転読と悔過、および天皇の四方拝が試みられている 。このうち前二者の方法ではかんばしい効果があらわれなかったのに、最後の天皇自らの祈りは嵐を呼び大雨を降らせるという好効果をもたらし、そのため万民が天皇の徳をたたえたと締めくくられている。ここで皇極女帝は、文字通りパワフルな呪術師として登場している。
 そして、皇極朝では祈雨のために牛馬を殺して神を祀っていたのが、天武朝になると放生が行われ、逆に動物を解放することで降雨が期待されている 。放生、殺生禁断、肉食禁止といった外形的には仏教的で慈悲心に満ちた行政措置が、実際はこうした古代的な呪術に他ならなかった。動物を解放し罪人の生命を助けるのは、国家の道徳性のゆえでも為政者の慈悲深さのゆえでもなく、「超自然的・神秘的な存在(神、聖霊その他)あるいは霊力」に働きかけて降雨や疫病退散などといった攘災招福を実現しようとする呪的行為そのものであった。

第二項 『日本霊異記』成立時代の国家と食
 『日本霊異記』には、殺生禁断・肉食禁止に関する仏教説話が、実に数多く収められている。そして、これらには明確な原則があり、ほとんどが動物の命を大切にした、という話になっている。すなわち動物を救う行為は善で、必ずよい報いがあり、逆に殺生や肉食は悪で、この罪を犯したものには必ず悪い報いがある、という筋立てになっている。
 こうした仏教説話の存在は、肉食の禁止を一つの社会的な理念として定着させようとする僧侶による布教活動が、平安時代には盛んであったことを示していると思われる。このような価値観は、おそらく社会上層にとっての価値基準であり、人々は教化されるべき対象であったと考えられる。これらの説話が各地で繰り返され、仏教が社会的に受容されるに伴って、肉食に対する罪の意識が社会的に定着していったものと思われる。
 もともと古代には、殺牛殺馬という儀礼が存在し、旱魃の時など牛馬を殺して神に捧げることがあった。しかしこのような儀礼が、『日本霊異記』の説話に用いられた場合は、殺生をしたことになり、死後に裁きを受ける。この例として、『日本霊異記』中巻第5縁 は、異教に迷って牛を殺した男が、悟って償いに放生をし、死後、閻羅王宮で、その男により殺生された牛と放生された生き物の多数決による裁判を受けて、蘇生し仏法を修し、その生を全うする話である。つまり、漢神を祭るために牛を犠牲にした人が、殺生の業により重い病を得たため改心し、死ぬまでに何度か放生を行ったため、病で死んだ後の裁きにおいて生前の殺生を許され、再び生き返るという話になっている。
 この説話は、動物を犠牲にする宗教を邪神のものとし、仏教の教義である殺生肉食の忌避を正当化する役割を果たした。古代において律令国家を形成するにあたり、その指導者たちは、殺生の忌避を意図的に進めた形跡がある。その点が表れているものの一つに、政策としての殺生禁断令がある。
 しかしその一方で同時に問題にしたいことは、同時代に、平城京や平安京の運河のほとりを発掘すると、牛、馬、犬、鹿、猪の骨が大量に出てくるという発掘調査の成果である 。このことから、国家自らが屠殺、解体、皮革製造を行っていた可能性は否定できない。
 以上の国家の殺生肉食の忌避と、残存する殺生肉食の形跡との両面から、当時の国家の状況として何が導き出されるのか考えてみたい。
 日本において初めて発布された殺生禁断令は、『日本書紀』天武天皇4年(675年)四月一七日条にある、肉食を禁じた法令 である。
 この詔勅の意味は、「今より以後、諸の漁猟者を制して、檻穽(落し穴)を造り、機槍の等き類を施くこと莫、亦四月の朔より以後、九月三十日以前に、比弥沙伎理・梁を置くこと莫、且、牛馬犬猿鶏の宍(しし)を食ふこと莫、以外は禁の例に在らず、若し犯すこと有らば罰せむ」である。
 この殺生禁断令が発布されて以来、日本では長い間、人々は肉食を遠ざけてきた、と考えられている 。確かに全体として、狩猟・漁撈一般を禁ずる内容となってはいるが、肉食が禁じられたのは、農耕用の牛馬と家畜である犬と鶏、それに人間に最も近い動物であると考えられていた猿の五畜であった。当時における最も重要な狩猟獣であった鹿と猪とが、ここから除外されたこと、さらに、禁止期間を4月から9月までの農繁期に限っていることが重要である。
 天武の詔勅は、日本人に菜食を強要した最初のものとして注目されるが、その後も、同様の殺生禁断令は繰り返し発布されている。山内昶の集成によれば、動物名が明記されたものに限っても、12世紀初頭までに11件の殺生令が出されているという(表1)。

表1 肉食禁止令一覧
年代 元号 天皇 禁止動物 禁止理由
675年 天武4年 天武天皇 牛・馬・犬・猿・鶏 仏教および実利
721年 養老5年 元正天皇 鷹狗・鵜・鶏・猪 仏教および仁愛
730年 天平2年 聖武天皇 猪・鹿 乱獲禁止
732年 天平4年 聖武天皇 猪40頭放生 旱魃
741年 天平13年 聖武天皇 馬・牛 実利
758年 宝宇2年 孝謙天皇 猪・鹿 皇太后平癒祈願
791年 延暦10年 桓武天皇 牛 漢神供犠の禁止
801年 延暦20年 桓武天皇 牛 漢神供犠の禁止
804年 延暦23年 桓武天皇 牛 実利
811年 弘仁元年 嵯峨天皇 牛・馬 実利
1126年 大治元年 崇徳天皇 鵜・鷹・犬 飢饉
山内(1994)を改変

 動物名が明記されているものに限らなければ、745年(聖武天皇)には、東大寺大仏造立を発願し、3年間の期限付きで肉食禁止令が出ている 。また、752年(孝謙天皇)には、大仏開眼直前であるため、1年間の期限付きで殺生禁断令が出ている 。
 山内は、殺生と肉食の禁じられた動物の一覧から読み取れることとして、のべ24件の動物名のうち18件までが家畜家禽が占め、とりわけ牛、馬が繰り返し殺生禁止の対象となっている点を指摘している 。天武の詔勅に始まるこれらの殺生禁断令には、このように日本の最も代表的な狩猟動物である鹿と猪が含まれておらず、殺生禁止の対象から猿を除く野生動物が抜け落ちているということは、肉食そのものを厳しく禁じる意図がなかったことを示唆している。そして、禁令自体が度々出されている点から言えることは、法令で禁じたにもかかわらず実際は、殺生、肉食が繰り返されていたのではないかということである。この点について松井は、弥生時代から犬食が行われており、奈良時代から平安時代にかけては活発な斃牛馬処理が行われていたことを、当時の発掘資料からうかがい知ることが出来るとしている 。
 古墳時代から大和朝廷の時代、さらには律令国家の時代というように、段階的に統一的な国家が形成されてくる中で、その指導者たちは、肉の禁忌を農業政策として完全に行うことができれば、稲作がうまくいくと考えるようになった。そして、これをかなり意図的かつ政策的に広めた形跡として残存するものが殺生禁断令である。一連の殺生禁断令は、農業の中でも特に、律令国家という体制のあり方から重要となる水田耕作の推進を主眼に置いたものと思われる 。これに、仏教の不殺生戒が深く関係している。
 国家からの殺生禁断令発布の真の目的は、仏教の不殺生戒に基づく「肉食の禁止」というよりも、農繁期に殺生をしないことによる農業、特に「水田耕作の推進」にあったと考えられる。では、何故農繁期に殺生を避けることで水田耕作が推進できると考えられていたのであろうか。
 『日本書紀』から、七世紀中葉の時点では、一般に動物の供犠が、雨乞いの呪術として大きな意味を有していた。しかし、九世紀初頭になると神話(『古語拾遺』)に、牛肉を食すると農耕に支障をきたすという内容が現れることから、そのような信仰が定着してきていたと考えられる。神道の「穢れ」の概念と呼応していたのかもしれない。つまり、動物の供犠が農耕の推進に繋がるという信仰が、ある時点で逆に農耕の支障になると考えられるようになった。691年の法令には、「農業のために、酒と肉とを断って、心を平静に保ち、仏教の力によって水害を防ぐように」とあることからも、農業のために殺生や肉食を避けるとい考え方が存在していたと思われる。これはつまり、殺生・肉食を避けることで、穢れを忌避し、それによって天災を逃れて農作物の収穫量を上げるのだという、ある意味信仰のようなものである。
 そして、もう一つの重要かつ実利的な理由は、農耕期の家畜類の屠畜制限により、農耕用の牛馬を生かしておき、農作業(深耕など)に使うことで農作物の収穫量を上げるためであると考えられる。
 食糧不足に悩む僧が魚を獲って食べるという話は、『日本霊異記』や『古今著聞集』(11世紀末に題材を採る)にも見られることから、必ずしも、殺生禁断を守って農業に勤しめば国家的には食料に困らないというわけではなかったと思われる。それでも、古代国家は不殺生と放生を奨励し、狩猟と漁撈を禁止していた。そして、そのような時代に『日本霊異記』は成立したのである。

第四節 『日本霊異記』と民衆の自然観
 『日本霊異記』が成立したのは、行基の没後73年で、私度僧の登場は平安時代からと言われているから、仏教の民間布教はまだまだこれからという時期である。現報、因果、輪廻転生を柱とする『日本霊異記』の説話群は、殺生をすると、現世においてただちに悪報(すなわち自らの死)を受けるという世界に生きているのだと、人々に強烈に印象づけたと考えられる。景戒はそれを狙って、説話内の人物の死の悲惨さを詳しく描写する。
 そして、そのような法則が働いているこの世界で生きていくために、どうすればよいかということも、説話にして語る。それが、三宝を敬い、因果を信じること、つまりそれまで殺生をしていた人が、因果の道理を実感し、改心して仏道に入ろうとする「心のありよう」とそれに基づく行動により、悪報を逃れるのである。「心のありよう」の重要視は、中国の説話にはない、景戒の仏教解釈が色濃く反映された部分である。景戒が中国の説話を自ら解釈し直したことは、中国の畜類償債譚には頻繁に登場するロバ、ヒツジ、アヒルが、『日本霊異記』の畜類償債譚には登場せず、牛のみになっていることからも窺い知ることができる。景戒は、日本の唱導教化の対象となる人々に合致しない要素を、慎重に取り除き、それまで布教の対象とされなかった民間の人々の感覚に訴えるように解釈し直した。それが、それまで殺生肉食して生きていた人々、殺生を伴う生業をしていた人々の感覚にも適う、「心のありよう」の重要視とその表現としての仏法への帰依である。「心のありよう」の重視という態度は、唱導教化の対象となった人々に伝えられたと考えられる。
 しかし一方で、放生が、豊作のための呪術的効果と農耕用牛馬確保のための実利を狙って、その他の様々な呪術とともに国家儀礼に用いられていたことは、中央と民衆の感覚が大きく隔たっているとはいえ、当時の民衆の仏教理解や自然観の一様態を示しているだろう。三輪山型説話、猿神退治、蟹の報恩譚は『日本霊異記』から『沙石集』まで変容を遂げつつも消えることはない。共同体の重要な財産である若い娘が、何に捧げられるのかという問題はすなわち、その共同体が何を基盤に精神世界を作り上げているのかという問題である。本論文で扱う3つの仏教説話集は、従来の共同体と関係を結んでいた神を貶め、慎重に共同体から引き離し、そのために新しく共同体は仏教的な精神世界と関係を築くのである。それが、『沙石集』の時代になっても取り組まれている布教者側の課題なのであるから、民間布教が始まったばかりの仏教は、現報、因果、輪廻転生を説き、仏道に入る動機づけをしながらも、まだ民衆の共同体の精神世界を揺るがすほどの影響力がなかったのではないかと考えられる。各仏教説話集が費やす労力の大きさが、そのまま民衆の精神世界の強固さを物語っている。では民衆の精神世界は従来どのようなものであったのかが当然疑問となるが、残念ながら本論文では述べることが出来ない。
 とにかく、現報、因果、輪廻転生が民衆世界に提示された。次章以降では、その展開を追っていく。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
タグの更新に失敗しました
エラーが発生しました。ページを更新してください。
ページを更新
「第二章 『日本霊異記』の仏教思想と民衆の自然観」をウィキ内検索
LINE
シェア
Tweet
亀山ゼミwiki(非公式)
記事メニュー

メニュー

  • トップページ
  • メニュー
  • ゼミ参加者
  • 本棚
  • 過去スケジュール
  • 関連年表
  • 風土研究会(自主ゼミ)

編集

個人ページ
  • ナリグラ
  • 井上1
  • 太田
  • 小松
  • 小笠原
  • 福嶋
  • 菊地
  • 鋤柄

依頼と提案

  • 執筆依頼
  • 加筆依頼
  • 修正依頼
  • 査読依頼



リンク

  • @wiki
  • @wikiご利用ガイド

他のサービス

  • 無料ホームページ作成
  • 無料ブログ作成
  • 2ch型掲示板レンタル
  • 無料掲示板レンタル
  • お絵かきレンタル
  • 無料ソーシャルプロフ




ここを編集
記事メニュー2

更新履歴

取得中です。


ここを編集
人気記事ランキング
  1. ハイデッガー『存在と時間』における道具的連関
  2. パックス・トクガワーナ説
  3. プラグイン/コメント
  4. Ⅱ 異人の説話学
もっと見る
最近更新されたページ
  • 4085日前

    トップページ
  • 4546日前

    社会を変えるには 7章後
  • 4548日前

    本棚
  • 4552日前

    東浩紀『一般意志2.0』
  • 4552日前

    テキスト総括
  • 4552日前

    風土研究会(自主ゼミ)
  • 4552日前

    『異人論』
  • 4552日前

    個人ページ/菊地/宮本常一の民俗学
  • 4552日前

    『中世民衆思想と法然浄土教』
  • 4552日前

    『歴史の中の米と肉―食物と天皇・差別』
もっと見る
人気記事ランキング
  1. ハイデッガー『存在と時間』における道具的連関
  2. パックス・トクガワーナ説
  3. プラグイン/コメント
  4. Ⅱ 異人の説話学
もっと見る
最近更新されたページ
  • 4085日前

    トップページ
  • 4546日前

    社会を変えるには 7章後
  • 4548日前

    本棚
  • 4552日前

    東浩紀『一般意志2.0』
  • 4552日前

    テキスト総括
  • 4552日前

    風土研究会(自主ゼミ)
  • 4552日前

    『異人論』
  • 4552日前

    個人ページ/菊地/宮本常一の民俗学
  • 4552日前

    『中世民衆思想と法然浄土教』
  • 4552日前

    『歴史の中の米と肉―食物と天皇・差別』
もっと見る
ウィキ募集バナー
新規Wikiランキング

最近作成されたWikiのアクセスランキングです。見るだけでなく加筆してみよう!

  1. 機動戦士ガンダム EXTREME VS.2 INFINITEBOOST wiki
  2. MadTown GTA (Beta) まとめウィキ
  3. R.E.P.O. 日本語解説Wiki
  4. シュガードール情報まとめウィキ
  5. ソードランページ @ 非公式wiki
  6. ヒカマーWiki
  7. AviUtl2のWiki
  8. シミュグラ2Wiki(Simulation Of Grand2)GTARP
  9. Dark War Survival攻略
  10. 星飼いの詩@ ウィキ
もっと見る
人気Wikiランキング

atwikiでよく見られているWikiのランキングです。新しい情報を発見してみよう!

  1. アニヲタWiki(仮)
  2. ストグラ まとめ @ウィキ
  3. ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~
  4. 検索してはいけない言葉 @ ウィキ
  5. 初音ミク Wiki
  6. 機動戦士ガンダム EXTREME VS.2 INFINITEBOOST wiki
  7. 機動戦士ガンダム バトルオペレーション2攻略Wiki 3rd Season
  8. 発車メロディーwiki
  9. オレカバトル アプリ版 @ ウィキ
  10. 英傑大戦wiki
もっと見る
全体ページランキング

最近アクセスの多かったページランキングです。話題のページを見に行こう!

  1. 参加者一覧 - ストグラ まとめ @ウィキ
  2. べりはぴ - ストグラ まとめ @ウィキ
  3. 魔獣トゲイラ - バトルロイヤルR+α ファンフィクション(二次創作など)総合wiki
  4. クロスボーン・ガンダムX1改 - 機動戦士ガンダム バトルオペレーション2攻略Wiki 3rd Season
  5. 鬼レンチャン(レベル順) - 鬼レンチャンWiki
  6. ヴォイドカンパニー - アニヲタWiki(仮)
  7. 機体一覧 - 機動戦士ガンダム EXTREME VS.2 INFINITEBOOST wiki
  8. ガンダム・エアリアル(改修型) - 機動戦士ガンダム EXTREME VS.2 INFINITEBOOST wiki
  9. コメント/雑談・質問 - マージマンション@wiki
  10. 危険度7 - 検索してはいけない言葉 @ ウィキ
もっと見る

  • このWikiのTOPへ
  • 全ページ一覧
  • アットウィキTOP
  • 利用規約
  • プライバシーポリシー

2019 AtWiki, Inc.