『水俣病と日本人』
当時の科学的な見地によれば、水俣病に関して予見可能性はなかったとおもわれる。しかし、だからといってチッソの行為が許されるのかというとそうではないのはもちろんであり、チッソが、もしくは当時の世界が水俣病を防げなかったのかというとそうではないと考える。どこかに行き過ぎてはいけない点があったはずである。いつまでも後追いで、何らかの犠牲を生まなければいけない社会ではいけない。また、反省によってできた予防原則も不十分なものであると思われる。そこで、目を付けたのが石牟礼道子であり、彼女の文学の中に何らかの知が、事前に公害を防げた知があるのではないかと考える。よって、目標は、石牟礼道子の知を現代にも通じる知として、論理化すること。そしてそれは、この国おいて、わたしたちがうまく科学や広すぎる社会と付き合っていくための道筋を示してくれるのではないかと思う。
そのために、まずは現象学を用いていきたいと思っている。現象学を用いるのは、現象学関連の著書においての問題意識が、私の問題意識と似ているからである。特に、ハーバーマスが用いた生活世界や内的植民地化といった考え方は水俣とも深く関ってくると考えられるし、脱魔術化や再魔術化、といった言葉は以前より問題としていた神聖化の話とも絡んでくるので検討したい。そのためにも、現象学を知ることは必須であり、しばらく読み漁りたいと考えている。
また、同時に水俣という場も大切にしていかなければならない。これに関しては、当面は現代科学・科学技術とアニミズム・シャマニズムを融合させようと試みた鶴見和子の思想を1つの鏡としながら考えていこうと考えている。また、水俣を訪ねることも研究を進めていく上で必要だと考えられるが、もっと知識をつけてからいくべきだと思うので、これは6月以降にしたいと思う。
当時の科学的な見地によれば、水俣病に関して予見可能性はなかったとおもわれる。しかし、だからといってチッソの行為が許されるのかというとそうではないのはもちろんであり、チッソが、もしくは当時の世界が水俣病を防げなかったのかというとそうではないと考える。どこかに行き過ぎてはいけない点があったはずである。いつまでも後追いで、何らかの犠牲を生まなければいけない社会ではいけない。また、反省によってできた予防原則も不十分なものであると思われる。そこで、目を付けたのが石牟礼道子であり、彼女の文学の中に何らかの知が、事前に公害を防げた知があるのではないかと考える。よって、目標は、石牟礼道子の知を現代にも通じる知として、論理化すること。そしてそれは、この国おいて、わたしたちがうまく科学や広すぎる社会と付き合っていくための道筋を示してくれるのではないかと思う。
そのために、まずは現象学を用いていきたいと思っている。現象学を用いるのは、現象学関連の著書においての問題意識が、私の問題意識と似ているからである。特に、ハーバーマスが用いた生活世界や内的植民地化といった考え方は水俣とも深く関ってくると考えられるし、脱魔術化や再魔術化、といった言葉は以前より問題としていた神聖化の話とも絡んでくるので検討したい。そのためにも、現象学を知ることは必須であり、しばらく読み漁りたいと考えている。
また、同時に水俣という場も大切にしていかなければならない。これに関しては、当面は現代科学・科学技術とアニミズム・シャマニズムを融合させようと試みた鶴見和子の思想を1つの鏡としながら考えていこうと考えている。また、水俣を訪ねることも研究を進めていく上で必要だと考えられるが、もっと知識をつけてからいくべきだと思うので、これは6月以降にしたいと思う。