パキスタン戦争


パキスタン戦争
目次
1.概要
2.名称
2.戦争の背景
3.開戦
4.開戦後の推移
5.終戦
6.影響

概要
imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (NO_IMAGE.png)
交戦勢力
ペルシア共和国側 ルークリア共和国側
ペルシア共和国 ルークリア国家百合主義連合
ソビエト共産主義共和国連邦(新ソ連) レグルス国家再生政府
イットリカン民主主義国
パキスタン戦争(173年3月10日~174年6月18日)はペルシア国によるルークリア国家百合主義連合に対する軍事侵攻に端を発する一連の戦争、戦闘行動を指す。一般的な侵略戦争であったこの戦争は地域列強としての自信を取り戻しつつあった新ソ連の介入を受けるなどしてエスカレートし、最終的に両陣営が核兵器を使用するなど最も凄惨な戦争のひとつになった。
173年3月にペルシア軍はルークリア国に侵入した。当初ペルシア軍は首都アジュメールを包囲するなど大きな戦果を挙げたが、戦力を使い果たしたことで反撃を受けた。同年6月にはペルシア軍が旧国境まで押し戻されたことで新ソ連が介入し戦線がパキスタンの山岳地帯で膠着した。8月に起きたジンメルマン事件によってルークリア国が新ソ連に宣戦布告するとイットリカン国が蘇伊安全保障条約に基づき参戦し大国同士の直接戦争に変化した。

名称
一般にこの戦争はパキスタン戦争、または大パキスタン戦争と呼ばれる。後者は主にこの戦争を陣営同士の戦争である大戦とみなす立場、あるいはパキスタンの民族主義者によって呼ばれる。また新ソ連では正式に戦争状態に突入する173年8月のジンメルマン事件までは「パキスタンにおける戦闘行動」、「パキスタン事変」と呼称した。ジンメルマン事件以降は新ソ連はパキスタン戦争の呼称を採用している。
また近年では地理的にパキスタン戦争の呼び名はふさわしくないとして新たな呼称を求める声も上がっている。

戦争の背景
imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (NO_IMAGE.png)
ペルシア国はペルシア侵攻以降、各国からの支援によって増強された軍隊の維持に苦労していた。ルークリア国からの侵略に対抗するための軍備は平時のものとしては明らかにペルシア国の国力に対して過大であった。しかし軍拡によって台頭した軍部は軍縮を拒絶したため、ペルシア国は戦時体制を平時に至っても維持せざるを得なかった。当然これは民衆からの反発を受け、特に分離傾向の強かったパキスタンの反発は強かった。進退窮まった当時の労働党政権はルークリア国に侵入し、同国のイスラム圏を回収することでパキスタンの反発をやわらげ、軍事的消耗で軍部の勢いをそぐ計画を立てた。増長する軍部は政府のルークリア侵攻に賛同し、政府の予想以上のスピードで戦時体制を整えた。これ以後軍部はペルシア国政府の手を離れ、ジンメルマン事件までには軍部が政府を完全にコントロールするようになった。
173年3月10日、ペルシア国はルークリア国に宣戦布告し国境を越えた。
写真の説明です。

開戦
imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (NO_IMAGE.png)
ペルシア軍は北から順にA,B,C軍団を設置してルークリア本土に侵入した。インド北西部は広い砂漠や平原でペルシア軍を邪魔する地形的障害は存在しなかった。加えてルークリア軍は政変に伴う軍制改革の真っ最中であり、攻撃に脆弱だった。ペルシア軍は自走砲やロケット砲の強力な火力で歩兵主体のルークリア軍の防衛線を破壊し前進した。ルークリア軍の対応は後手に回り、帝都アジュメールが包囲される事態となった。ペルシア軍の進撃は続き、デリー・ムンバイ線目前に至りようやく攻勢は停止した。
開戦の写真の説明です。

開戦後の推移
ルークリア軍の反撃
imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (NO_IMAGE.png)
ムンバイ・デリー線まで到達したペルシア国はルークリア政府に対し交渉のテーブルに着くよう求めた。ラホールで行われたこの戦争最初の休戦交渉はペルシア国側の尊大な態度と過大な要求によって決裂した。
交渉中断を決定したルークリアは反撃準備に移った。一方でペルシア軍の状況は芳しくなかった。砲弾や弾薬が不足し、輸入交渉を持ったものの失敗したことで補給の試みは失敗した。またインドの多すぎる人口がペルシア軍に負荷をかけたばかりでなく、砲弾が農民の畑を焼いた事でレジスタンスが活発化した。結果ペルシア軍の戦闘能力は大きく損なわれ、ルークリア軍の反撃によって瓦解した。

これとほぼ同時期、ペルシア軍の苦境を見た新ソ連が事態に介入した。新ソ連にとってペルシア国は友好国であるばかりでなく、ルークリア国との緩衝国であったためその崩壊を阻止したかったためである。新ソ連はルークリアに対し原状回復での講和を提案したが、ルークリアはこれを拒否した。提案の直後に行われたルークリア国の発表で、ルークリア国がペルシア国の破壊を示唆したため新ソ連は軍事介入を決定した。
○○の戦いの写真の説明です。
カイバル峠の戦い
旧国境を越えたルークリア軍はパキスタンに侵入した。ラホール、カラチ、イスラマバードなどペルシア侵攻では多くの出血を伴い攻略した都市をルークリア軍は次々と奪取した。しかしそれより奥地への進出には多くの険しい山岳を越える必要があった。そしてこれらの山岳では投入できる戦力は限定され、量による圧倒を基本とするルークリア軍には厳しい戦いが想定された。しかしルークリア軍はペルシア軍の防衛体制が整うよりも先に攻撃を仕掛けるべきとして進撃を継続した。一方で新ソ連軍はパキスタン派遣軍の先鋒として機甲師団が到達していた。新ソ連軍はこれらを峠などのチョークポイントに投入しルークリア軍の阻止を図った。こうしてパキスタンの要衝各地で戦闘が発生したが、その中でも最たるものがカイバル峠の戦いだった。

カイバル峠はインドと中央アジア・中東世界を繋ぐ数少ない出入り口のひとつであり、古くはアレクサンドロス大王も東方遠征で通過した要衝だった。戦いの緒戦で交戦したのはルークリア軍第77武装擲弾兵師団第一連隊とペルシア共和国軍第三騎兵連隊だった。戦いは峠に侵入するルークリア軍の側面をペルシア軍がたびたび襲撃する形で推移した。第一次襲撃ではペルシア軍が三倍の敵を死傷させる戦果を挙げたものの、回を重ねるにつれペルシア側の損害が大きくなっていった。3日目に行われた最後の突撃で第三騎兵連隊の損耗率は7割を記録した。さらに同時にルークリア軍の砲兵部隊が後方に到達したことでペルシア軍は劣勢を強いられた。

戦況が変化したのは5日目の午後からだった。新ソ連軍の空爆部隊がアフガニスタンに展開を完了したことでルークリア軍は大きな被害を負った。特に砲兵部隊の損耗が激しく、これ以後ルークリア軍砲兵隊は沈黙を余儀なくされた。6日目には新ソ連第二装甲師団がカラバル峠地区の周辺の全域に展開した。これを受けルークリア軍は撤退を開始したが、第二師団第5戦車大隊による追撃が行われた。この追撃によって第一連隊は軍事的に全滅した。

この戦いの勝利はペルシア側で大きく報道された。ペルシアでは撤退戦の中での大きな勝利であり、新ソ連では介入早々の勝利であったため国民の士気高揚に大きく寄与した。
バトルオブインディア
新ソ連軍の到着によって戦線は膠着状態に入った。ルークリア軍は物量で圧倒的なアドバンテージを得ていた一方で、「インド人殺し」を意味するヒンドゥークシュ山脈を代表とする峻険な山地に築かれた防衛線はルークリア軍に多大な出血を強いた。加えてルークリア軍の兵員の多さは却って補給線を圧迫し攻勢を困難にした。また一方のペルシア・新ソ連側には反撃に出るだけの能力も準備もなかった。結果として、戦争は山岳地帯でのにらみ合いとなる。

戦線の小康化を見て真っ先に動いたのは新ソ連だった。新ソ連はまずペルシア国との共同司令部を設置し、空軍部隊をさらに増派した。この時展開された部隊は第9特務航空艦隊として新編成されたていた。第9航空艦隊は新ソ連の保有する戦略爆撃機と護衛戦闘機のうち投入可能なほぼすべてで構成されており、この部隊は戦争終結まで活動を行った。

第9航空艦隊は航空阻止任務を行った。攻撃目標は主にルークリア北西部地域一帯の橋梁・鉄道などの主要インフラと兵站集結地だった。この攻撃は近接航空支援機による前線のルークリア軍に対する兵站爆撃と同時に行われた。この攻撃によってルークリア軍の補給物資の多くが失われるか、工場から出荷できない状態に陥った。特に輸送中の装甲車両が数多く失われたことは後の作戦で深い影を落とした。
ジンメルマン事件
新ソ連による空爆が続く中で、ペルシア軍部では陰謀が企てられていた。極右民族主義者であるジンメルマン大佐の主導したこの陰謀は新ソ連に奪われつつある主導権をペルシア国側に引き戻すことを目指していた。陰謀は9月2日に開始された。ジンメルマン大佐は共同司令部を乗っ取り、再編のため後方待機していたペルシア軍に攻勢を命じたほか、直属の部下に命じて第九航空艦隊の航空機を乗っ取り諸都市の爆撃を実行した。この一連の行動によって戦果を挙げればペルシア国の戦争主導権奪還を既成事実化できると考えたためであった。しかしこの陰謀は一連の攻撃がことごとく失敗したため失敗に終わった。

しかしこの陰謀は戦争に大きな影響を及ぼした。都市を爆撃されたルークリア国は攻撃が新ソ連によるものだと誤解し、国家最長姉エレオノーラは激怒し新ソ連に対し宣戦を布告した。対して新ソ連は事件を隠蔽し、爆撃もなかったことにしたうえでルークリア国による主張を捏造と断定し国家総力戦を宣言した。

また新ソ連はこの事件を受けペルシア国に対する大規模な内政干渉を行った。ペルシア政権の総入れ替えを行ったほか、共同司令部から最低限の連絡要員以外のペルシア人を追放した。これ以降戦争は完全に新ソ連主導で行われるようになった。
ブリッジ作戦
戦争の主導権を握った新ソ連は全国的な動員令を発動し戦線に次々と部隊を送り込んだ。最終的に陸空合わせて100万の戦力がパキスタンに集結した。これはルークリアの歩兵部隊の5分の1にも満たなかったが、長きにわたる戦闘で消耗していたルークリア軍に比べ、入念に準備されていた新ソ連の部隊は練度、装備、士気の全てで圧倒していた。新ソ連の正式参戦から5か月後、ジェルジンスキー大統領は十分な戦力が揃ったと判断し限定的な攻勢作戦を立案するよう命令した。

作戦は今後の反撃作戦に向けたルークリア軍の戦力評価と、攻撃地域におけるルークリア軍の包囲殲滅という二つの目的が設定された。作戦地域は当時突出部を形成していたシンド州に設定され、機甲師団を先鋒とした攻勢を実施、インダス川以西で両翼包囲を完成させる物とされた。作戦期間は2週間に設定され、174年の到来とともに実施されることとされた。
作戦は予定通り174年の元旦に開始された。近接航空支援機と自走砲の支援の下で第一・第二装甲師団が南北から突破を開始した。前線のルークリア軍は対戦車兵装をほとんど装備しておらず、簡単に突破を許した。現地にはルークリアの最新鋭戦車であるVMT-30が配備されていたが数が不足しており数倍の新ソ連軍戦車に包囲され各個撃破された。両装甲師団は当初の予定を上回るペースで進撃し、作戦開始から10日後にラルカナで合流、翌日にはインダス川西岸でルークリア軍の橋頭保となっていたサッカルを攻略し橋梁を破壊した。

全く順調に包囲を完成させた新ソ連軍だったが、困難はむしろそれからだった。新ソ連軍はルークリア軍を突破し後方連絡線を遮断したが、包囲を維持する兵力の展開は遅れた。機甲師団の急速すぎる突破が逆に後続の機械化師団を置き去りにしてしまったために起きたことであった。また包囲されたルークリア軍は20万以上に上ったが、それに対し包囲する新ソ連軍は僅か5万にも満たず、ルークリア兵の過半数の脱出を許した。またルークリアは新ソ連軍攻勢初期の時点で突破阻止が困難であると判断すると更なる動員を実行、訓練もそこそこに大量の部隊を戦線に展開し新ソ連軍の押し返しを図った。これらの部隊のほとんどは十分な火力支援もないまま自殺的突撃を命じられ大きな損害を出したが、人の弾幕とも呼べる戦術に新ソ連軍の弾薬は払底し、士気の急速な低下を招いた。新ソ連軍は包囲網に取り残されたルークリア軍を殲滅すると作戦開始前のラインへ後退し、ブリッジ作戦は終了した。

作戦終了後、新ソ連はルークリア政府に対し降伏を要求したが、ルークリア政府は応じなかった。その後ジェルジンスキー大統領は現ルークリア政府を否定し、新政府と交渉する旨の「連合政府を相手とせず」との声明を発表した。
プラネット作戦
ブリッジ作戦を終了した新ソ連軍と政府はルークリア軍の戦力評価を極めて高く見積もった。評価は主にルークリア軍の尋常ではない人的資源に注目しており、ブリッジ作戦のように一度山岳から出た場合、砲火力の乏しい新ソ連軍はルークリア軍の突撃に対し相当な被害を被ると推定された。これを受け新ソ連統合参謀本部は大量破壊兵器の使用以外にこの戦争を勝利に導く手段はないと結論づけた文書(Q文書)を大統領府に提出した。ジェルジンスキー大統領は始めこれを拒否したが、ブリッジ作戦での損害を提示されると軍事目標に対する使用に限定するという条件つきでこれを認めた。

作戦計画・準備は一か月かけて行われた。前線の全部隊に防毒マスクが配布され、放射線影響下の戦闘と化学戦についての再教育が実施された。作戦は機密であったが、兵士たちの間ではそれらの使用が近いのではという噂が広く拡散された。一方ルークリアは諜報部隊が侵入していたペルシア軍が戦争遂行から排除されていたためにこれらの情報を手に入れることができなかった。

作戦は2月10日に開始された。攻撃はルークリア軍の戦力集結ポイントと補給拠点に対する3発の核攻撃で始まった。それから数時間遅れて新ソ連軍は全戦線で攻勢を開始した。新ソ連軍は全部隊が化学戦能力が与えられ、ルークリア軍に対し躊躇なく攻撃を行った。相次ぐ核攻撃とガスによってこれに抵抗する能力のない前線のルークリア軍は3日で事実上戦闘能力を失った。作戦開始から1週間でルークリア軍は精鋭の機甲師団を含む戦力の8割に当たる280万の将兵が戦死・行方不明になる軍事史上空前絶後の被害を出し前線は崩壊した。

作戦開始から1か月の間新ソ連軍は無停止攻撃を行い前線を数百キロ前進させた。ルークリア軍が壊滅したにも関わらず進撃が遅い原因はルークリア軍による戦争遂行のための搾取によってパキスタン・インド市民の困窮を解消するために軍需物資を用いたためであった。軍はこれに反対していたが、政治的要請によって行われた。しかしこの期間にルークリア軍は再び根こそぎ動員を実行し再建に成功した。ルークリア軍は再び戦線を形成し、戦線はインド北西部で膠着状態に陥った。
国家再生政府の介入
新ソ連軍はルークリア軍を作戦開始直後に撃破しインドに侵入してからは政治的配慮によってNC兵器の使用を自粛していた。しかし戦線が再び膠着すると使用の再開を検討する。しかしここでバングラディシュのレグルス国家再生政府が介入した。国家再生政府は新ソ連に対し即時の進撃停止を要求、受け入れられない場合は核攻撃も辞さないとする極めて強硬なものであった。国家再生政府が突如としてこのような行動に及んだ理由は同国の安全保障に原因があった。国家再生政府は極めて厳重かつ特異な国家体制をしており、政府は国民、特に軍を全く信用していなかった。そのため国家の安全保障は専ら同盟国、特にルークリア国に依存しており、ル-クリアが崩壊すれば自国も崩壊すると国家再生政府、ひいては指導者であるアンドレイア・レヴィツェンスクは危惧していた。

この国家再生政府の警告に対し、新ソ連は国家再生政府を国家承認していなかったため表向きは無視の姿勢を取った。しかし政府内部では停戦派と継戦派が生じ政治闘争が始まった。停戦派は総力戦による経済への影響を懸念する文民派、継戦派はヴィクトル・エマヌエール外務相と軍部、革命省によって構成されていた。この政治闘争は明確な指導者がいなかった停戦派の不利で推移した。
セイロンの戦い
政府内部で優勢を保つ継戦派だったが、しかしパキスタン方面での攻撃再開は国家再生政府を刺激すると危惧された。継戦派とは言え(一部の強硬派を除いて)自国が核攻撃されるリスクは可能な限り減少すべきだった。よって強硬派の主導によってセイロン島の攻略作戦が立案される。セイロン島はインド南部に位置し、この島が攻略されるとインド洋上のパワーバランスが大きく新ソ連側に傾くことが予期された。

セイロン島侵攻作戦はルークリアに対してのみならず、停戦派に対しても秘密裏に行われた。目論見としては奇襲的にセイロン島に侵攻、制圧し戦争継続を既成事実化してしまうことだった。新ソ連軍は高速船舶を用いて全く奇襲的にセイロン島に侵攻を開始した。
新ソ連軍は沿岸を急速に席捲、飛行場を制圧したが、ルークリアの現地領邦であるティアラント家の部隊がゲリラ戦で激しく抵抗、強硬派の企図した計画は失敗に終わった。新ソ連は枯葉剤を投入し、更なる増援を送り込もうと試みたが続くセイロン沖海戦でルークリア・レグルス連合艦隊に敗北し手詰まりに陥った。

終戦
imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (NO_IMAGE.png)
セイロン沖海戦で敗北した新ソ連だったが、いまだ強力な地中海艦隊は健在でこれを移動させれば戦争継続は可能であると考えた。しかしその直後、遂にレグルス国家再生政府は弾道弾による核攻撃を決行した。攻撃目標とされたペルシア国首都テヘランは壊滅し、ペルシア国政府とエマヌエール外務相は消滅した。ここに至って新ソ連政府内のパワーバランスは逆転し、停戦派が主導権を握った。新ソ連はルークリア政府に対し絶滅戦争を回避するためとして交渉のテーブルに着くよう要求、国家としての体力が限界を迎えつつあった同国はこれを受け入れた。

エスファハーンで開かれた会議は新ソ連主導で進められた。最後こそ核攻撃を受けたが、新ソ連の継戦能力は失われておらず、一方のルークリア側は女帝と国家最長姉間での対立が激化し、根こそぎ動員によって国家の維持そのものが危機的状況にあった。ペルシア国は政府を失い無政府状態だったため会議ではほぼ無視された。
協定の内容は殆ど現状確認と変わらないものだった。グジャラート・ラージスターン・パンジャーブ・ハリアナの四州が新ソ連影響下に組み込まれることとなり、それ以外は白紙講和といって差し支えないものだった。新ソ連はこれらの州をそれぞれ社会主義共和国として独立させる予定だったが、これにルークリア人民共和国亡命政府が介入した。ルークリア人民共和国はインド洋戦争によって崩壊し、一部の政府要人がスィヴェールヌイ共和国に亡命し亡命政権を設置した。仏連=celto戦争によってスィヴェールヌイが崩壊すると今度はスティーブ・クラフアリア同盟連邦に亡命し活動を継続した。亡命政府は新ソ連に対し自身の本土復帰を求めた。インド解体を要求する革命省の反対があったが、前身であるレグルスが破壊した国家の復活を新ソ連が助けるというストーリーはプロパガンダとして好ましいと判断され新ソ連はこれを認めた。しかしこの際新ソ連は人民共和国側に対し行政能力の不足を理由にグジャラートの信託統治やインフラ・産業の支配を認めさせた。
終戦の写真の説明です。

影響
imageプラグインエラー : ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (NO_IMAGE.png)
新ソ連の勝利とルークリアの敗北は両国に影響を与えた。
新ソ連は国家総力戦に勝利したことで第三次東地中海戦争での勝利と合わせて列強に復帰したと考えるようになり、以後国際的な影響力の拡大に努めるようになった。新ソ連軍も戦後にかけて大幅に強化され、より攻撃的で外征向きの軍へと変化していった。
ルークリア国はアジュメールの陥落によって軟禁された女帝が脱出し国家最長姉と女帝間の対立が激化した。また戦争による死者や国家財政への負担、敗戦によるショックは国民の反感を買いルークリア内戦に発展していくことになる。
影響の写真の説明です。



コメント

名前:
コメント:

最終更新:2024年07月16日 15:39