第三次東地中海戦争

第三次東地中海戦争


この項目では ソビエト共産主義共和国連邦 によるパレスチナ侵攻について説明しています。そのほかの企画については過去企画を参照してください。                            



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System=話し合い


第三次東地中海戦争(英: Third Eastern Mediterranean War (172年)は、中東に位置するソビエト共産主義共和国連邦(新ソ連)によるパレスチナ/イスラエルへの軍事侵攻である。
Third Eastern Mediterranean War
第 三 次 東 地 中 海 戦 争

        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
 3. 開戦
 4. 開戦後の推移
  4-1. 新ソ連の奇襲
  4-2. テルアビブの戦い
  4-3. 外交攻勢
  4-4. フランス軍の増援とルブリョフ号事件
  4-5. スカーレットカーペット作戦
  4-6. アシュケロンの戦い
  4-7. ダミエッタ沖海戦
  4-7. 停戦まで
 5. 終戦へ
  5-1. ベイルート講和会議
  5-2. P"事件
  5-3. ベイルート条約追加議定書
 6. 影響
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戦争:第三次東地中海戦争
年月日:統一歴172年1月30日〜
場所:東地中海中心に地中海全域
結果:0015

 概要

推移
フランス国(帝政シェラルド)が占領するパレスチナに対し新ソ連が侵攻したのが戦争の直接のきっかけである。新ソ連軍は奇襲的に攻撃を行ったが、フランス軍の防戦を突破できず、テルアビブの戦いの敗北によって第一次攻勢は失敗した。その後新ソ連は反フランス諸国に協力を求め、再準備して再び攻撃を実施した。フランスは増援が到達するまでの死守を試みたが失敗、パレスチナ沿岸全域が新ソ連の手にわたり増援は限りなく困難になった。フランス軍は増援を送り届けるため上陸作戦を展開したが、護衛の艦隊が海戦に敗れたことで増援もまた壊滅した。

 背景
パレスチナ地域は第十一次十字軍の結果、新ソ連から分離されエルサレム王国が成立した。エルサレム王国は建前上独立国だったが、実際は十字軍に参加したヨーロッパ各国の代表による合議制で運営されていた。しあし次第に各国はイスラエルに関する熱意を失い、イスラエルから撤退して行った。最後まで残ったのはローマ帝国の継承国家・キリスト教の守護者を自負する帝政シェラルドのみだった。
一方新ソ連は第十一次十字軍から16年経過し、指導部は国力の回復が完了したと判断した。新ソ連政府は171年12月4日の閣僚会議で対シェラルド宣戦布告を決定した。

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 開戦

新ソ連は極秘に軍隊を動員した。新ソ連政府はパレスチナを半ば奇襲的に奪取しその占領を既成事実化するプランを立てていた。またシェラルドによって占領されていた北キプロスに対しても南キプロスで同様の動員が秘密裡に行われた。
しかしこの動きはフランス諜報部によって早々に露見した。フランス政府は新ソ連の動員を新ソ連が定期的に行なっていた軍事演習と同様のものであると判断し、新ソ連の動きを外交的に非難した。
しかしこれに対し新ソ連政府はフランスに侵攻計画が露見したものと考えスケジュールを前倒しにして侵攻を開始することを決定した。171年1月29日に新ソ連政府は全シェラルド関係者のパレスチナからの撤退を要求する文書をシェラルド国に送付、回答期限は1日以内だった。シェラルド政府は当然これを承認せず、30日新ソ連はシェラルド国に宣戦布告し作戦行動を開始した。

 開戦後の経緯

新ソ連の奇襲
新ソ連軍は宣戦布告に前後してパレスチナ・北キプロスで攻撃を開始した。精神的奇襲となったため、新ソ連軍は弱体な国境警備隊を粉砕し後方へ浸透した。
紅海側から侵入した部隊はパレスチナ南部の砂漠地帯を占領し、北方から攻撃をかけた部隊も相応に進撃した。しかし奇襲効果は長く続かなかった。後方の山地に山岳道制圧のため降下した新ソ連の空挺部隊が機動防御のため通行中のフランス軍と接触し全滅したことで新ソ連の攻勢は早々に躓いた。その他の前線でもフランス軍の主力が前線に展開し、またフランス軍が聖地防衛のために決死の戦闘を行ったことで新ソ連の攻勢は殆ど停滞した。これには開戦を急いだ新ソ連自身の準備不足にも影響されている。そのような中でも地中海沿岸では機甲師団が前線を強行突破し進撃し、テルアビブに到達しテルアビブ攻防戦が生起した。

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テルアビブの戦い

新ソ連軍にとってテルアビブは重要な都市だった。フランス軍の大規模増援を受け入れられるパレスチナ有数の港湾を持ち、更なる南進を行う上での策源地にもなり得た。新ソ連機甲師団はテルアビブを陸上から包囲し、後続の歩兵部隊が攻撃を行った。3500人のフランス防衛部隊に対し新ソ連軍は攻撃三倍の原則を満たす第五機械化擲弾兵師団12000人で攻囲戦を仕掛けたが、フランス軍の士気は高く市街地の地形を利用して頑強に対抵抗した。新ソ連軍を特に苦しめたのが狙撃兵で、多くの士官や工兵、補給部隊が犠牲になった。これに対し新ソ連は戦いの後半から機甲師団から引き抜いた自走砲を展開し狙撃兵が潜む建物を一つずつ粉砕する戦法を取った。
しかし戦いが始まって18日後にテルアビブ南方でフランス本土から到達した増援の先遣隊が新ソ連機甲先鋒を粉砕すると、疲弊した新ソ連軍はテルアビブからの撤退を決断した。しかし新ソ連軍はただで撤退する事はなく、投入できる爆撃機を展開して港湾施設を破壊し、更に自走砲部隊もこれに加わった事でテルアビブの市街地機能の7割、港湾機能に至ってはほぼ完全に失われた。
3日後フランス軍はテルアビブを解囲した。
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外交攻勢

新ソ連の攻勢が停滞すると両国は外交的に動いた。停戦するためでなく、味方を増やすためにである。
新ソ連は伝統的に反仏的で友好関係にあった国家に要請を送った。スティーブ・クラフタリア同盟連邦は同じく伝統的に反仏的で、当時急速に新ソ連との関係を深めていたため、これに応じ武器や物資の供給に応じた。イットリカン民主主義国は駐ソイットリカン軍を動員し即座に戦線に配置するとともにフランス国に宣戦布告した。また大中華は反欧州の観点から新ソ連に航空義勇軍を派遣した。この部隊は空中給油を繰り返すことで要請から半日で新ソ連に到達し、新ソ連を驚かせたという記録が残っている。ただし新ソ連のこれらの動きは新ソ連外務省の独断であり、当面は不問とされたものの戦後の外務省の地位低下を招いている。
一方のフランスはキリスト教国の連帯を欧州諸国に訴えた。しかし十字軍の熱はとうに冷めており、また普段からフランスが欧州諸国と対立していたこともありこれらの試みは失敗に終わった。またこの時期のフランスは本来なら潜在的味方になりえたであろうギリシアの友好国や、アナトリアの植民地を喪失するなどの地政学的不運が重なっていた。
imageプラグインエラー : 画像を取得できませんでした。しばらく時間を置いてから再度お試しください。中華の航空義勇軍
 

フランス軍の増援とルブリョフ号事件

新ソ連の第一次攻勢直後、フランス軍は大規模な機械化兵力、騎兵戦力を含む主力20万を乗せた大船団をマルセイユから発進させた。この規模の増援は当然新ソ連も把握しており、参謀本部ではГ船団と呼ばれた。この船団を撃破するために新ソ連は航空機と潜水艦による阻止を試みた。しかし付随する護衛艦隊と根本的な船団規模の大きさから致命的と呼べる打撃を加えることができなかった。統合参謀本部はこれを受け主力艦隊による要撃を命令したが、海軍は艦隊保全主義を連呼し出撃を拒否した。
艦隊出撃を拒否された統合参謀本部は少数機による雷撃から大部隊による空爆での撃破に方針を転換するが、戦略爆撃機による水平爆撃の成果は期待することができず、実際不首尾に終わった。しかしそのころSan-Serriffe連合の軍艦ルブリョフ号が地中海を通過していた。同艦は大西洋でのミサイル試射のため単艦航行していたが、新ソ連のRn-1405哨戒機がこれをフランスの哨戒艦と誤認した。当時のRn-1405パイロットは連続出撃と味方の消耗によって強い精神的負荷を受けていたことが戦後明らかになっている。誤認されたルブリョフは爆撃を受け、自衛のため対空射撃を行うがかえって誤解を加速させた。戦果を求めるRn-1405の執拗な爆撃によって不幸にも命中弾を出したルブリョフは期間停止に陥った。
その後ルブリョフ号は航行機能を回復するが、フランス艦隊と鉢合わせる。このタイミングで不幸にもルブリョフ号に晩報等が電気的トラブルで爆発を起こす。その結果フランス艦隊はこれを砲撃と誤認、ルブリョフを新ソ連艦と断定し射撃を行った。これによりルブリョフ号は撃沈された。
SAn-Seriffe連合は新ソ連・フランス両国に謝罪と賠償を迫った。新ソ連は公式に謝罪し、フランスに責任を押し付けつつも賠償を約束した。一方フランスはSan-seriffe国の存在を否定し謝罪も賠償も行わなかった。
この事件はSan-Seriffeのこの戦争に対する意識を高め、両国に対する武器輸出を加速させるきっかけになった。
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スカーレットカーペット作戦

体制を整えた新ソ連軍は第二次攻勢を開始した。機甲戦力を北部に集結しエルサレムを含む内陸部を包囲し、増援を断つために一気に南下し港湾都市をすべて占拠する作戦だった。折しもこの時エルサレム王ジャンが自らの身を守るためにエルサレムに部隊を引き抜いていたことで、攻勢は順調に進んだ。新ソ連軍とイットリカン軍の連合軍はフランスの脆弱な防衛線を突破し後方へ浸透していった。政治的理由から最先鋒は新ソ連の機甲部隊だったが、港湾都市の包囲はもっぱらイットリカン軍によって行われた。包囲された都市はテルアビブほどの抵抗を示すことはなく、次々と陥落した。またこの作戦中は大中華軍の航空機がフランス軍の対空陣地を破壊し、新ソ連の爆撃を容易にした。
新ソ連軍は南下を続けフランスが支配するパレスチナ最後の港湾都市アシュケロンに到達した。
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アシュケロンの戦い

アシュケロンの戦いはテルアビブの戦い同様に壮絶な市街地戦となった。新ソ連は同都市の迅速な攻略を目指して包囲不十分な状態で機甲師団を市街に突入させた。これはフランス軍のアシュケロンへの増援を許しただけでなく、機甲戦力の無駄な損耗を招いた。
機甲戦力を一時的に撤退させ包囲を完成させた新ソ連軍は再び攻撃を行った。爆撃と砲撃で入念にフランス軍の存在しそうな箇所に攻撃を行い、民間人の多くの犠牲を代償に一定の戦果を得た。しかしその後フランス軍は瓦礫の下や地下道に逃げ込んだことでこれらは無意味となった。しかし爆撃はアシュケロン陥落のその時まで続けられた。
アシュケロンを防衛するフランス軍は細い路地と地下道による奇襲で新ソ連軍を苦しめた。何度か廃墟にされたとはいえ、改造された近代的都市であったテルアビブと異なりアシュケロンは古い迷路型の都市構造を持っており、このような市街戦は新ソ連軍にとっては初めてだった。新ソ連軍はナパームで避難民もろともフランス軍を焼き払った。
また戦場伝説だが、この戦いで毒ガスが使われたとのうわさが存在する。かつてレグルス帝国がパレスチナ地域で行った毒ガスによるレジスタンス浄化作戦の毒ガスの余りを発見し、新ソ連軍が使用したという内容である。当然このような記録は新ソ連軍には残っていない。
いずれにせよアシュケロンは二週間で廃墟となり陥落した。これによりフランス国の増援は海上で立ち往生を余儀なくされた。
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ダミエッタ沖海戦

海上で立往生するフランス軍の増援に対し、イスラエル防衛司令官ジデンローヴ元帥は海岸に強襲上陸を仕掛け増援を到達させることを主張した。増援部隊の司令官はは増援部隊には上陸用機材は殆どなく困難であると主張した。しかしジデンローヴは新ソ連陸軍は疲弊し、海軍は艦隊保全のため出撃しないため阻止はできないと主張し押し通した。
こうして開始された上陸作戦は開始直後から躓いた。中華義勇航空部隊によって上陸司令艦が爆撃されたためである。これによってその規模のためにただでさえ遅々としている上陸はさらなる遅延を余儀なくされた。
新ソ連統合参謀本部ではこのにわかには信じがたい行動によって大混乱状態にあった。阻止するためにあらゆる案が検討され、最終的に艦隊による粉砕か原子爆弾の投下しかないと結論付けられた。そして新ソ連海軍はこの期に及んでようやく出撃を決断した。新ソ連艦隊はラッタキアを抜錨し南下、パレスチナ沖に展開するフランス艦隊に対しては西方から攻撃を仕掛けた。ダミエッタ沖海戦の始まりである。
海戦では当初フランス軍が優位に立った。どちらも予算不足お人員不足で訓練もままならず練度の差は小さかったが、主力艦の数でフランスは勝っていた。「レーニン(新ソ連の最新鋭戦艦)が戦場に到達していれば」と新ソ連の艦隊司令は嘆いたとされる。当のレーニンは機関の原子炉の不調で出撃できなかった。2時間の戦闘で新ソ連は損害を負い、撤退を決断した。この時航行に支障が出ていた戦艦チェ・ゲバラがしんがりとなったことでほかの艦への被害は軽減されたが、ゲバラは撃沈された。
新ソ連海軍は夜間に再度の攻撃を実施した。この攻撃では比較的防御に優れるトロツキー級戦艦に探照灯を多数搭載しおとりにする戦法がとられた。狙い通りフランス軍はこれらの艦を狙い、接近する水雷艦隊に気が付くことができなかった。水雷艦隊が放った2度の統制雷撃によってフランス艦隊は壊滅的損害を受けた。この夜戦で新ソ連海軍はトロツキー級戦艦のカーメネフが大破しあわや沈没かとなり、護衛艦にいくらかの損害が出た他は大きな損害がないワンサイドゲームだった。
フランス艦隊を撃破した新ソ連海軍は今まさに上陸中のフランス軍を殲滅した。戦艦の主砲によって大型舟艇は木っ端みじんに破壊され、すでに上陸していた部隊も同様に粉砕された。小型舟艇は護衛艦の12㎝砲や対空機銃で粉々にされた。非武装の船団にとっては駆逐艦でさえ脅威そのものだった。この時の新ソ連海軍はフランス兵を一兵たりとも生かして返さないという志だったとされ、海上に逃げだしたフランス兵には爆雷が投射され水圧で粉砕されたとの証言が残されている。また内陸へ進出し海軍から逃れようとした部隊は新ソ連の機甲部隊によって殲滅された。
この一連の戦いでフランス軍の増援部隊20万とフランス地中海艦隊、指揮官のフィッツカラルド元帥が失われた。
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停戦まで

増援部隊が消滅した後もエルサレムで包囲されたフランス軍は頑強に抵抗をつづけた。無駄な戦死者を出したくない新ソ連軍は航空爆撃と砲撃、兵糧攻めで制圧する端的に言って気の長い戦略をとった。フランス軍とジデンローヴ元帥はこれに耐えまた本国が増援を送るまで耐久する腹積もりだったが、事態はそのようにはならなかった。
まずエルサレム王ジャンがエルサレムの応急から姿を消した。新ソ連による誘拐も疑われたが、ジャンはわずかな近衛兵を連れてエルサレムから逃走した。この時ジャンは女装して海岸からフランス本国まで逃げるつもりだったとされているが、詳細な計画が詰めtられた様子がないのでただの突発的な闘争ではないかとされる。エルサレムからフランス軍にバレずに逃走したジャンだったが、新ソ連軍に捕縛された。新ソ連占領地域では夜間外出禁止だったが、焦って夜間にも行動したためである。当初新ソ連兵はジャンのことを不良市民としかみなしていなかったが、捕らえられた際に「私はエルサレム王だぞ!何をするか!」と叫んだことで正体が判明し収容所へ連行されることになった。新ソ連はジャンを裁判にかけて死刑にするつもりだったが、ジャンは新ソ連兵をいらだたせる言動を繰り返したためリンチに会い死亡した。死体は燃やされ砂漠に捨てられたとされる。新ソ連はジャンはフランスの砲撃によって誘爆した弾薬庫もろとも後形もなく吹き飛んだとしているが、当時フランス軍には砲弾が残っていなかったのでこれはあり得ない。
増援失敗とジャン王の失踪によってフランス政府は完全に継戦の意思を失った。当時のフランス皇帝アレクサンドルⅠ世は講和を支持し、翌日に愛人とともに失踪した。フランスは新ソ連に講和を申し入れ、新ソ連が受諾したことでベイルートでの終戦交渉が開始された。
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終戦

ベイルート講和会議

フランス国と新ソ連はベイルートで終戦交渉に臨んだ。会議では戦闘を優位に進めた新ソ連が始終有利だった。新ソ連はかつてレグルス帝国時代に仕掛けられたフランスの外交的罠を異常に警戒しほとんどのフランス側の要求に取り合わなかった。フランスは皇帝を失っていたことで条約は新ソ連の要求をほぼ全面的に呑む形で成立した。主な内容は以下の通り。
・フランス国は新ソ連を旧レグルス帝国の本土とキプロス島を統治する主権国家として国家承認する。
・フランス国は新ソ連の正当な領土から撤退する。武装は全て新ソ連側に引き渡す。
・フランス国は新ソ連にパレスチナ復興、およびこれまでにフランス国が与えた新ソ連への損害を補填するための賠償金を支払う。
・フランス国は新ソ連に対するすべての請求権主張を放棄する。
この条約の締結によって新ソ連では宿敵フランスへの完全勝利に沸き立った。しかしエルサレムの現地軍はこの条約に批判的だった。またフランスによって徴兵された現地兵は新ソ連によって処刑されることを恐れ一部が地下に潜った。これは後述の事件を引き起こす原因になった。
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P”事件

条約締結によってフランス軍の多くはパレスチナ・北キプロスからの帰路に就いた。しかし彼らの多くはまだ戦えるはずなのに本国が折れたために敗北したという意識が強かった。またフランス軍に協力し従軍したパレスチナ人は進駐する新ソ連軍による処刑を恐れ地下に潜った。これらのメンバーによって結成されたのが『P"』である。P”は反新ソ連的な住民、特に白人系によって支援された。
P”は結成して数日後に最初の事件を引き起こした。P”の戦闘員、元対仏協力者のイスハーク・アザムらによって主導された計画は新ソ連パレスチナ軍政長官暗殺だった。イスハークらはアシュケロンで新ソ連が毒ガスを使ったと信じており毒ガスによる殺害を企てた。イスハークらは軍政庁舎に忍び込み軍政長官レオン・テドール大佐をシャワー室で毒殺した。イスハークら犯行グループは全員拘束または殺害された。
死体から発見されたフランス軍の徽章は新ソ連世論を激高させた。条約違反したフランスに対する報復論の高まりと政府内からの圧力を受け新ソ連艦隊は報復を実行した。新ソ連艦隊はマルセイユを砲撃し大部分を破壊した。これには戦艦レーニンも参加した。P”をフランス当局は認知しておらず新ソ連からの報復宣言に混乱している間に攻撃を受けた形となった。フランスは急遽新ソ連に再交渉を申し込んだ。
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ベイルート条約追加議定書

再交渉では新ソ連側代表は本交渉と比べて穏健な態度で臨んだ。報復によって満足したという説やP"事件に本当にフランスが関与していないことを察して罪悪感を感じていたなどの説があるが記録がないので定かではない。
再交渉では以下の事項が追加議定として決定された。
・新ソ連フランス間の貿易再開
・賠償金を一部取り下げる代償としてマルセイユ港の一部を新ソ連に貸し出す。
・キプロス島ケリネイアを新ソ連はフランスに貸し出す。
・貸港地には最低限の戦力しか配置してはならない。
この条文は相互の意図が絡み合ったものだった。フランス側の意図はいくつかあった。マルセイユを新ソ連に貸し出すことで賠償金を抑えマルセイユ復興も肩代わりさせること。また北キプロスで最後まで抵抗したフランス軍の拠点を借りることで軍の反発を抑えること。そして新ソ連に嗜好品を中心に輸出し賠償金返済の資金源にしようとする意図があった。
かえって新ソ連は国内の嗜好品需要を低く見積もりこれを容認した。また新ソ連は石油や肥料の輸入を認めさせた。ただし肥料は一定の成功を収めたものの、フランスの石油需要は当初の予想より小さく石油輸出は予想に比べて振るわなかった。また新ソ連ではフランスワインブームに代表される嗜好品の大流行が起き新ソ連は国内代替品の開発に迫られた。
以上を持って追加議定書はフランスの外交的勝利と言われることが多い。
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 影響

レグルス帝国の崩壊以降中小国家として扱われてきたレグルス地域国家のフランスに対する勝利は大きなインパクトをもたらした。新ソ連国内では領土奪還とペルシア侵攻の勝利と合わせてジェルジンスキー大統領の名声は確固たるものとなり、戦後行われた選挙ではジェルジンスキーは有権者の80%の圧倒的支持を得て再選された。一方でパレスチナ地域には新ソ連の秘密警察国家秩序本部による支配体制が確立されるなど必ずしも「新ソ連人」全員にとって良い結果にはならなかった。
フランスでは皇帝が蒸発したことで空位となりソフィア2世が新たに擁立された。ソフィア2世は戴冠当時弱冠14歳で国家運営が側近による主導となることは避けられないのではという観測もある。
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戦争統計

参戦国 被害
新ソ連側
ソビエト共産主義共和国連邦 2万5000人
大中華(航空義勇軍) 14機、15人
イットリカン民主主義国 1万8000人
イスラエル側
エルサレム王国 4万人
帝政シェラルド 17万人
最終更新:2023年10月29日 21:08