インド洋戦争

インド洋戦争(:Indian Ocean War)は、ルークリア人民共和国によるレグルス第二帝国への宣戦布告を発端とする、レグルス第二帝国とルークリア人民共和国及びその同盟国間の戦争である。
目次[非表示]

1 背景
1.1 アル=バクル事件
1.2 レグルス帝国のインド洋政策
1.3 モルディブ占領
1.4 双方の誤算

2 経過
2.1 モルディブの戦い
2.2 アラビア上陸作戦
2.3 第一次ルブアルハリ会戦
2.4 反仏クーデター 
2.5 アラブの砂嵐作戦 
2.5 第二次ルブアルハリ会戦
2.6 セイロン島の陥落とルークリアの混乱

3 結末
3.1 終戦
3.2 レグルス領ルクレフ大公国の設立

4 影響
4.1 レグルスの国家戦略への影響
4.2 ナショナリズムへの影響
アラビア戦線
戦争:ニューイングランド事変
年月日:129年2月1日 - 131年4月9日
場所:中東、インド洋、インド亜大陸
結果: レグルス帝国 の勝利、 レグルス領ルークリア の成立
交戦勢力
レグルス第二帝国
ルークリア・レチアル人民共和国
大三本帝国
スィヴェールヌィ諸島共和国
ハルコマ帝国
指導者・指揮官
フロンド・エーデルシュタイン†
タンセディア・A・レクサンドロ・レチア
ギース・V・クロムウェル
参戦兵力
100万人以上
220万人?



 背景
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アル=バクル事件
127年、レグルス帝国で共産主義革命が起きていた。革命は数か月で鎮圧されたが、革命派にレグルス東部を占拠され対応に失敗したとみなされたクロムウェル政権は退陣し、それまで抑圧されていた貴族層が力を取り戻した。貴族はまず第一に留保されていた革命派の処分に手を付けた。しかし革命派に対する大裁判が続く中で、革命派の要人であるレオニード・アル=バクルが脱獄する事件が起こった。アル=バクルは何者かの手を借りて国外に脱出し、ルークリアへ亡命した。レグルスはアル=バクルの返還を求めたが、ルークリア政府は「同志を売り渡すことはない」としてこれを拒んだ。この事件そのものはこれ以上発展することはなかったが、両国間に不信感を植え付け後の戦争勃発につながった。

レグルス帝国のインド洋政策
120年代にかけてレグルス帝国は一等国となることを目指し急速な植民地拡大を行った。この拡大は当時列強の不文律であったアフリカ以外の植民化自粛を踏み越えアジア全域に及んだ。これによってレグルス帝国の影響圏はインドシナ半島にまで及び、レグルスはインド洋を横断する長大なシーレーンを防衛する必要性が生じた。またこの拡大以前からもインド洋の防衛はオーストラリアの強大な同盟国ヒトラント帝国と連絡するために必要とされていた。しかしレグルス帝国は地中海で モレラ との対立を抱えており、インド洋への展開は先送りされていた。
しかし129年にレグルス革命への対処に失敗した第一次クロムウェル政権が退陣し貴族派が政権を握ると状況が変わった。外国勢力(フランス)との関係が深い彼らは、国民意識に目覚めつつあった国民の支持を得るために対外拡張によって不満をそらし、その成功によってレグルス国家主義に貢献する必要があった。
レグルス海軍相エーテル・ゼイダン伯爵は従来の消極的なインド洋戦略から積極的なインド洋勢力圏化への転換を提言した。この提言は前年に起こった貴族派の復権の中で、新体制への国民の支持へ集めるという目的とも合致したことで首相フロンド・エーデルシュタインに受け入れられ、インド洋の中央に位置する ルークリア・レチアル人民共和国 との対立路線が明確化された。
開戦当初のインド洋周辺の情勢。濃緑:レグルス本国 緑:レグルス植民地 青:ヒトラント 赤:ルークリア

モルディブ諸島占領
レグルス帝国はインド洋における制海権を確固たるものとするため、当時「無主地」とされていたモルディブ諸島を占領した。モルディブ諸島はインド洋の中心に位置しており地政学上の要地であり、ここを占領することはレグルスがインド洋支配に乗り出したということを明確に示していた。そしてこの行動はインド洋を自らの生命線と捉えるルークリア共和国との関係を急激に悪化させた。
ルークリア共和国は以前からモルディブ諸島の領有権を主張しており、レグルス帝国による占領に対して即座に強い抗議を表明した。ルークリア側はモルディブ諸島を自国の歴史的領域とみなし占領を重大な挑発行為と捉えた。しかし、このような反発はレグルス帝国の想定内であり、帝国政府は占領の既成事実化を進めるとともにモルディブ諸島を軍事拠点化を推し進めた。各諸島には速やかに陣地を建設し、港湾設備を強化するなどしてルークリア政府の介入に備えて整備が進んだ。
これに対しルークリア共和国は外交交渉では状況を打開できないと判断し、ついに実力行使を決断するに至った。ルークリア政府は、モルディブ諸島からの即時撤退を求める最後通牒をレグルス帝国に送付した。しかし、レグルス帝国はこれを完全に無視し譲歩の姿勢を一切見せなかった。最後通牒の送付から72時間、回答期限を過ぎてもレグルス側の反応がなかったことを理由としてルークリア共和国はレグルス帝国に宣戦を布告した。

双方の誤算
このように両国は交戦状態に入ったが、実際には双方ともに大きな誤算があった。
レグルス帝国にとってはそもそもルークリアのここまでの激烈な反応が想定外であった。レグルス帝国指導部はこの段階ではまだルークリアは外交的威嚇を行うにとどまり、武力行使があっても局地紛争に留まるであろうというのが指導部の予想であった。そのためルークリアが自国安全保障の危機として段階を飛ばして戦争に打って出たことは全くの想定外だった。
一方のルークリアにとっても戦争行為は望むところとは言えなかった。レグルスのモルディブ進出がルークリア国家安全保障の危機であることは疑いがなかったが、レグルスを屈服させることが可能かといわれると疑問符が残った。ルークリア軍は莫大な人的資源で額面上の戦力ではレグルス軍に圧倒的優位に立っていたが近代化が遅れており、海空軍力、陸軍の機械化といった部分ではレグルス軍に後れを取っていた。このような意識は特に軍では膾炙していたが、政府ではむしろ楽観論が強かった。この意識の差がレグルス軍に対する宣戦布告や、後のレグルス本土侵攻作戦のような無謀な軍事作戦につながった。
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経過
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モルディブの戦い
開戦直後、ルークリア軍は手始めに戦争の原因となったモルディブ諸島を攻撃した。この攻撃はルークリア主力艦隊を伴う10万の上陸部隊によって行われた大規模なもので、対するレグルス軍は諸島全体で僅か6000人しか守備隊は存在していなかった。彼らは対ルークリア関係の悪化を受け島の要塞化を進めていたが、期間があまりにも不十分で、殆どはサンゴ礁に穴をあけヤシの木でカモフラージュしただけの簡易トーチカや砲台程度のものだった。これらの脆弱な陣地は戦艦を含む艦隊の艦砲射撃によって多くが上陸前に破壊され、生き残った陣地も大部隊の上陸を前にしてほとんど抵抗できずに破壊・占領された。

アラビア半島上陸作戦
殆ど無傷でモルディブ諸島を占領したルークリアだったが、それだけで戦争を終えることは当然不可能であり、さらに大きな戦果が必要であった。
この時点でルークリア軍にはレグルス植民地のソマリアに侵攻するローカスト1とアラビア半島に侵攻するローカスト2の二つの計画があった。どちらの作戦もマンデブ海峡の一方を抑えレグルス海軍の地中海からインド洋への進出を阻止するという点では共通していたが、その後の戦争計画が大きく異なった。ローカスト1は長期戦戦略で、レグルス本国から見て遠方のアフリカの角に戦線を形成することで遠隔地での戦闘をレグルスに強要し戦争目標を達成する計画だった。この作戦を支持したのは主にルークリア軍の渡洋戦闘能力を疑問視する軍部だった。一方のローカスト2はより大胆な短期戦略で、アラビア半島へ上陸した後、前線を大胆に前進させ敵の防御が整う前にレグルス本国を蹂躙する作戦だった。
軍部はローカスト2を無謀で投機的な作戦と評したが、ルークリア政府はこの作戦を強く支持した。その背景にはモルディブにおける勝利があり、この勝利が彼らに自信を持たせ短期決戦が可能であると信じるに至っていた。最終的にこの二案の検討は政治に押し切られる形でローカスト2が採用された。この決断は後世批判されることが多いが、近年の研究ではルークリアの当時の政治的不安定性を考えた時、長期戦略を取っていればどのみちルークリア政府は戦時体制に耐えられず崩壊していたとする見解もあり、再評価が行われている。

129年4月5日、ルークリア軍はアラビア半島南部の都市ドゥクム、サララ、ムカッラー、アデンの四都市に総勢30万の戦力で上陸を行った。対してレグルス軍の防備は依然として薄く、空爆による阻止攻撃を加え少なからぬ戦果を上げはしたものの、上陸そのものを阻止するには至らなかった。だがアラビア半島最大の港湾機能を有するアデンの港湾は占領前にレグルス軍によって破壊工作を受けその能力を大きく損なった。アデンの破壊の影響は絶大であり、アラビア戦線の戦いの間ルークリア軍は常に補給問題に悩まされることになった。
そのため、上陸直後のルークリア軍の戦略目標は速やかな補給拠点の確保となった。アデンの港湾を無傷で確保することに失敗した時点でルークリ軍の戦闘計画には齟齬が生じ始めており、無傷の大港湾の奪取は必須で、これを満たす港湾はアラビア半島ではドバイのみであった。ルークリア軍は上陸部隊に加え増援として5個軍80万人を受け取り北進を開始した。対してレグルス軍は動員を完了した部隊を五月雨式に前線に投入し阻止を図った。
この補給拠点確保と目標と大規模な増援は矛盾しているように見えるが、これは当初の戦争計画に則って増援を行ったためであった。本来はアデン港の確保に失敗した時点で増援を削減すべきであり、軍部もそのように動いたが、ルークリア共産党は短期決戦のために計画通り増援を送ることを命じた。共産党によれば増援によって速やかにレグルス軍を破り港湾を確保すれば補給問題は解決するから、ごく短期間だけ耐えればよいという論法であった。
しかし実際には軍部の懸念通り110万の兵員を養うための補給物資はすぐに不足した。特に水の確保が深刻な問題で、自動車化されていないルークリア軍は砂漠を水の十分な補給もなく徒歩行軍する必要があった。攻撃時期が丁度夏季だったことは問題より悪化させた。この過酷な行軍によってルークリア軍の戦力の実に1/3以上が戦う前に戦闘能力を喪失したと言われている。

第一次ルブアルハリ会戦
第一次ルブアルハリ会戦はドバイ=ドゥクム間を繋ぐ鉄道沿いを北進しドバイを目指すルークリア軍第9軍とこれを阻止せんとする第26軍の間で起こった戦いである。第9軍は総兵力18万を有し、対する第26軍は僅か4万弱と大きな数的差があった(同じ軍であるのにもかかわらずこれほどの差があるのは両軍の軍編成の違いによる)。しかし第26軍は高度に機械化されており、司令官のゲルト・フォン・グナイゼナウ中将もこの点に勝機があると考えていた。またレグルス軍は航空優勢を全面的に獲得しており、近接支援には期待が持てた。
ルークリア軍による第26軍に対する攻撃は4月20日に始まった。数で勝る第9軍は正面からこれを叩き潰せると確信し正面攻撃を選択したが、これは失敗した。第26軍は脆弱な箇所を地雷原で塞ぎ正面に火力を集中することで局所優位を保った。3日続いた第一次総攻撃は第26軍の損失率3%に対しルークリア兵2万2200という大損害を負い頓挫した。更に4月26日の夜、第26軍はルークリア陣地に夜襲を仕掛け大きな損害を与えた。
しかし戦局は次第に第26軍不利に傾いていった。第26軍の側面が東西ともに徐々にルークリア軍の圧力によって後退しつつあり、第9軍の攻撃も激しさを増していた。6月までに第26軍は4回の総攻撃を受け止めたが、地雷原が全てルークリア軍の犠牲をいとわない攻撃によって突破され、装甲車両も肉薄攻撃による喪失が無視できなくなった。グナイゼナウは本国に後退を打診したが、本国の回答は死守命令であった。
6月4日、ルークリア軍による第五次攻勢が始まった。これと前後して第26軍の側面に展開していたレグルス軍が突破され第26軍は三方からの攻撃にさらされた。グナイゼナウは死守命令に基づいて自殺的戦闘を行い、6月6日に戦死した。残余の部隊は残りわずかな撤退路から後退した。
一連の戦闘で第26軍は壊滅的な損害を負い戦力の7割を喪失した。しかし第9軍はそれ以上に莫大な損失を出し、貴重な防衛体制を築く時間を稼ぎ出した。特に第26軍の活躍によってハサブ要塞の防衛が間に合ったことは特筆に値する。ホルムズ海峡の一方を睨むこの要塞はルブアルハリ会戦の間に武装され、戦争を通じてレグルス軍の支配を受け続けた。ルークリア軍の戦略目標であったドバイは7月21日に陥落したが、ハサブ要塞の存在によってルークリアの艦船はホルムズ海峡を通過できずドバイの港湾機能を発揮することができず、補給問題を解決できなかった。

反仏クーデター
第一次ルブアルハリ会戦に辛うじて勝利しドバイを占領したルークリア軍は補給不足に悩まされながらも北進を続け、最も進出した部隊はレグルス本国まで残り160kmの地点まで前進した。しかしレグルス空軍の爆撃、塹壕陣地、そして補給線が伸び切ったことで遂にルークリア軍の進撃は完全に停止した。
しかしながら、ルークリア軍の脅威は確実にレグルス世論に影響を与えた。社会主義者の軍が目前まで迫っているという事実は貴族を恐怖させ国民を動員に駆り立てるとともに、盟主であるフランスへの援助要請を行おうとした。しかしながらこれに対してレグルス軍部が危機感を抱いた。既にルークリア軍の進撃は不可能になってるにもかかわらず、ここでフランスの援助を受ければ無為にレグルスの主権を損なうだけだと考えたのである。それ以前より、軍部では反貴族主義が顕著であった。これは兵営においては全ての兵士が平等であるという一種の社会主義的な気風のためで、権威を傘に着てあれこれ指示する旧態依然とした貴族への反感が強まった。また祖国を守るため軍に入隊した兵士にとって、貴族がフランスと通じていることは裏切りのようなものであった。
このような軍の反貴族主義は129年8月15日の反仏クーデターで頂点に達した。陸軍上級大将エーリッヒ・ランズベルクを総司令官とするクーデター軍が一斉に国内で放棄、僅かなフランス軍や体制派の軍・警察部隊を排除し政府を構成した貴族・フランス人を捕縛した。彼らの多くは避暑地に出かけており、クーデターに対応することができなかった。クーデター軍はパレスチナを除く地域で成功し、ランズベルクは自身を頂点とするレグルス軍事評議会が国家を運営すると宣言した。この動きに対してフランスはパレスチナへ残存戦力を後退させクーデターを違法と宣言したものの、直接介入は行わなかった。

アラビアの砂嵐作戦
フランスの大規模な介入なしに国家掌握を成功した軍事政権だったが、依然として戦争は継続していた。政権内では開戦の責任を帰属に押し付けて和平を結ぶべきという意見も上がったが、ルークリア側は決して応じないだろうし、和平をする必要もない(=勝利の算段がある)という意見が大勢であった。また万一ここでルークリア側と妥協してしまえば新政権の弱みを見せることになり、ナショナリズムに熱狂する市民の支持や外交的地位が損なわれるのではないかという懸念もあった。そのため新政権はクーデターから3日後の8月18日に国民に対して継戦の意志を表明した。
継戦を決定した新政権は反攻作戦の準備を開始した。ルークリア軍は既に多大な損害を被り、夏季消耗と補給不足で3か月は動けないと予想されたため、酷暑が和らぐ2カ月後の10月を目途として反転攻勢を準備することが決定された。攻勢作戦までの間両軍は反撃・防御に備え物資の備蓄・陣地構築に動き大きな戦闘は起こらなかった。作戦開始は10月3日に予定されていたが、依然として残る酷暑から12日に延期され、当日大規模な砂嵐に見舞われたため翌日にさらに延期された。
ランズベルクによって「アラブの砂嵐」と名付けられた攻勢は昼の暑さが和らぐ13日夜8時に発動された。攻勢はアラビア半島東部地域の奪還を目的とした大規模なもので、レグルス軍は機械化戦力と航空戦力を集結し前線50kmに及ぶ突破攻勢を発起した。攻勢が始まった時点でルークリア軍の兵士は世界有数の酷暑地帯にやられており、レグルス軍は容易に戦線を突破した。
この攻勢に合わせてレグルス軍はアラビア半島南端のムラド砲台に対する爆撃を実施した。同砲台はマンデブ海峡のアラビア半島側の沿岸砲台で、同砲台に配備された長距離砲が健在である限りレグルス海軍は紅海からインド洋へ進出することができなかった。爆撃作戦は成功し砲台が沈黙したことでレグルス艦隊はインド洋に進出できるようになりルークリアの制海権が脅かされるようになった。ルークリア海軍はレグルス艦隊の進出を阻止するためマンデブ海峡での決戦を挑んだが、海戦で壊滅的打撃を被り逆にインド洋の制海権を喪失することになった。
砂漠の軟弱な土壌に築かれた塹壕は砲撃に脆弱だった

第二次ルブアルハリ会戦
戦線崩壊の危機に晒されたルークリア軍は東部戦域を再編し攻勢撃退を図った。この再編のため攻囲軍が後退したことでハサブ要塞は4か月ぶりに解囲された。
レグルス軍攻勢主力とルークリア軍は11月1日にルブアルハリ砂漠で衝突した。この戦闘では他の戦場と同様にルークリア軍が数的優位を保っていたが、士気、練度、装備のいずれもレグルス軍が圧倒していた。特に士気と機動力は両軍に明確な差があり、この有無が勝敗を分けた。
10日間の戦闘でルークリア軍36万に対しわずか1/3に満たない11万のレグルス軍攻勢部隊はこれを完全に打ち破った。レグルス軍はルークリア軍に対し機甲第2軍と第4軍による両翼包囲を仕掛けた。ルークリア軍にこれを阻止すべき機動戦力は殆どなく、僅かな機械化部隊はレグルス軍の攻撃によって有効な戦闘を行う前に撃破された。8日に第2軍と4軍はルークリア軍後方で合流し包囲を完成させた。包囲下の部隊には弾薬はおろか35万弱の兵士を養う十分な水すらもなかった。投降したルークリア軍の数は28万人以上に及び、この後送はレグルス軍にとって無視できない負担になり、この過程でレグルス軍による過酷な扱いや虐殺が起きた。(ルブアルハリ虐殺)
この戦いによってレグルス軍の攻勢を阻止する手段はなくなった。レグルス軍は戦線とも呼べなくなったルークリア占領地を次々と奪還し11月19日にルークリア軍のアラビア戦線最大の策源地たるマスカットをほぼ無血で解放した。
この一連の戦闘と制海権の奪取によってレグルス軍はアラビア戦線における最終的な勝利を確実なものとし、ルークリア軍は常備軍の7割を失うことになった。
捕虜の移送を厭ったレグルス軍は降伏したルークリア陣地をも破壊した。

セイロン島の陥落とルークリアの混乱
アラビア戦線で空前の勝利を収めたレグルス帝国は勢いのままルークリア本土への進軍を画策した。レグルス軍はマスカットで接収したルークリア軍の輸送船にアラビア戦線の兵士たちを搭載しセイロン島へ侵攻した。アラビア戦線で陸軍戦力の大半と制海権を失ったルークリア軍にこれを阻止する能力はなく、12月19日にセイロン島はレグルス軍の手に落ちた。
これに前後してルークリア人民共和国政府の崩壊が始まった。人民共和国政府は体裁上中央集権国家であったが、実際にはその広大な版図と肥大した人口から知事や勢力を保っていた旧領主など地方勢力の力が強かった。彼らは州軍や民間軍事会社といった看板で事実上の私兵を組織し軍閥を形成しており、国家は集権化の途上であった。そのような状況下で中央政府が外征に失敗しその戦力の大部分を失ったという事実は彼らを激しく揺さぶり、中央政府に対する公然とした反抗を招いた。セイロン島の陥落によって体制派に残った軍閥ももはや政府は自分たちを守ってくれないという危機感を抱き中央政府から距離を置き始めた。中央政府はレグルスと同様にナショナリズムに訴えかけたが、まだ当時はルークリアナショナリズムは未成熟で、かつそれらを支持すべきブルジョワ階級は農業国家であるルークリアではごく少なかった。
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結末
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終戦
年が明けた131年の1月2日にレグルス軍がムンバイ、マドラス、カルカッタ、バイザック、コックスバザールの五都市に上陸しルークリア本土の制圧を開始するとルークリア人民共和国は遂に空中分解を始めた。上陸地点周辺の軍閥から共和国からの分離とレグルス軍へ離反・降伏していった。軍閥のうち旧領主を掲げていた者の中には領邦の復活とレグルス皇帝への忠誠を誓った者もいた(レグルスは反仏クーデターでフランス皇帝を廃位した後も帝政自体の廃止は行っていなかった)。各地から報告されるレグルス軍の侵攻と軍閥の離反に対しルークリア中央政府に対処する方法はなく、残る軍の中からも離反や逃亡が相次いだ。大統領タンセディア・レチアは1月12日に行われた会議でルークリアの崩壊を認め、スィヴェールヌィ諸島共和国 への政府疎開を決断した。ルークリア政府の亡命から2日後の15日にはレグルス軍が人民共和国首都アジュメールに進駐した。
アジュメールの陥落によってルークリアにおける人民共和国支配は完全に崩壊した。レグルスは最後まで抵抗を続けたヴィンソン・D・ハルトマン陸軍大将を交渉相手として人民共和国の無条件降伏に調印させた。

レグルス領ルクレフ大公国の設立
インド亜大陸を掌握したレグルスだったが、戦後処理は困難なものだった。レグルスはまず何を差し置いても本国の政府再編と民政移管を果たさなければならず、ルークリアの処理は棚上げとなった。ルークリアの戦後処理が始まったのはレグルスで行われた総選挙でライヒ党レグルス国家社会主義党が政権を握り、帝政廃止と国家社会主義化が定められた第二憲章の発効後である。
政権を掌握したライヒ党はインドをレグルスに忠実な国家へ再編するという点については一致していたが、その実装については議論があった。当初はレグルス本国に組み込み国家社会主義体制を敷く計画が有力であったが、政府再編の間に行われた現地調査や国内情勢を鑑みた結果君主制諸邦連合の設置が望ましいという結論に達した。この選択肢が選ばれた背景には廃位されたレグルス内の貴族をルークリアに左遷して処分できる、体制を刷新する場合と異なり現地人や官僚を利用できコストが低いなどの計算があった。
レグルス帝国は4月9日にルークリア大公国の建国を宣言し、レグルスの元貴族ニコラーエフ・ロイテルツキー・ルクレフを大公に即位させた。この宣言によって主権国家としてのルークリアは消滅し、主権の回復はレグルス戦争後の149年まで待つことになる。またこの宣言ではルークリア領であった各諸島とバングラディシュのレグルス領への編入が同時に行われ、前者はレグルス戦争後にルークリア領に復帰したものの、後者は依然として レグルス国民国 の支配下にある。
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影響
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レグルスの国家戦略への影響
戦争の結果、レグルスはインド洋の制海権のみならずインドそのものを手にするに至った。この勝利によってレグルス帝国と OFC のインド洋覇権が確立され、この覇権はレグルス帝国の海上戦力が失われるレグルス戦争末期まで続いた。
またインドにおける勝利はレグルスの国家戦略そのものにも影響を与えた。インド亜大陸の莫大な人的資源・鉱産資源・農業資源はレグルスの潜在的国力を数倍に跳ね上げ、レグルス帝国が行った数々の戦争を支えた。

ナショナリズムへの影響
この戦争は両国のナショナリズムが直接推移に関与した戦争だった。開戦当時、レグルスではナショナリズムが芽生え始めており、ルークリアではナショナリズムはまだ政治指導層の中でも一部にとどまっていた。戦時中のルークリアのレグルス侵攻の試みはレグルスナショナリズムを芽吹かせ、反仏クーデターによる国民国家化を成し遂げ、現在まで続く反貴族主義の土壌も作った。一方で攻め込んだ側となったルークリアでは戦争末期の国家的危機においても国民意識の目覚めは起こらず、むしろ反体制感情からレグルスへの裏切りが多発した。後にレグルスの支配下でルークリアナショナリズムが興りはしたものの、それら反植民地主義者は当局の弾圧によって消滅し、その後も 分断 国家化 するなどルークリア国家は現在に至るまでナショナリズムの形成に苦慮し続けている。
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最終更新:2025年01月13日 17:50