ビザンツ・エジプト戦争

ビザンツ・エジプト戦争


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System=ダイス


ビザンツ・エジプト戦争(びざんつ・えじぷとせんそう、英:Byzantino-Egyptian War、統一歴137年-137年)は、トラキア・ローマ帝国が尾鷲第一帝国に侵攻したことで、両国が率いる機構のあいだで起こった戦争である。
ビザンツ・エジプト戦争
        



        目次[非表示]
 1. 概要
 2. 背景
  2-1. トラキアによるシチリア租借
  2-2. シチリアの晩祷事件
 3. 開戦
 3-1. シチリアの戦い
  4-2. ナポリ軍団の反乱
  4-3. 神聖ローマ=ビュザンティウム戦争
  4-4. サレルノ・ベネヴェントの戦い
  4-5. 第一次ローマ攻防戦
  4-6. holynation独立戦争
  4-7. イストリア戦線
  4-8. 第一次ティレニア海海戦
  4-9. ペスカーラ上陸作戦
  4-10. 両都攻勢
  4-11. ガリポリ上陸作戦
  4-12. コンスタンティノープル陥落とモレラの離脱
  4-13. モンカリオリの両王決闘
  4-14. 第三次ローマ攻防戦
  4-15. ナポリ撤退戦と第二次ティレニア海海戦
 5. 終戦と講和
 6. 影響
 7. 関連項目
 8. 参考文献
シチリアの晩祷事件
パレルモ講和会議
戦争:ビザンツ・エジプト戦争
年月日:2020年05月 - 2020年07月
場所:エジプト
結果:トラキア・ローマ帝国率いるビュザンティウム連合の勝利
交戦勢力
シェラルド王国
トラキア・ローマ帝国
アナトリア諸侯
尾鷲帝国
モレラ共和国
HolyNation
指導者・指揮官
エリックⅠ世
ユリウスⅥ世
エルンスト・ロシェシュタール
グナエウス・コルウス・カエサル
オイスタン・コルーメディ
ラエティリウス・ユニウス・キンナ
イーゼット大公
モレラ大統領
シーナン・オニール
モレラ将軍
ヴィットリオ=アメデーオⅩ世
HN将軍

 概要

ビュザンティウム連合の盟主であるトラキア・ローマ帝国は旧領奪還を掲げ尾鷲第一帝国へ侵攻。これに対し尾鷲帝国は抵抗、さらに尾鷲帝国が属するOFC加盟国も参戦し機構間戦争に発展した。
トラキア軍は夜明け前にアレクサンドリア港を空襲、その勢いで地中海で尾鷲艦隊を撃破し制海権を確保した。
その後もアリーシュへ着上陸を果たしエジプト北部と東部の2方面からの侵攻を行った。スエズ運河での戦闘ではBU軍は一時撤退したものの、首都を陥落させ、尾鷲帝国軍の残党をピラミッド近郊での会戦で撃破し講話に持ち込んだ。
緑がシェラルド=アナトリア同君連合、黄色がトラキア・ローマ=尾鷲同君連合、橙がモレラ共和国、水色がサヴォイア王国、灰色は教皇領。中央の赤色が争点となったトラキア領シチリア

 背景

トラキアによるシチリア島租借

イタリア半島はかつてのローマ帝国の中心地であり、ローマの後継を自称するトラキア・ローマ帝国、holynation、そして神聖ローマ帝国を率いるシェラルド王国の間で係争地となっていた。
135年、シェラルド王国はスイス継承戦争に端を発するholynationとの戦争(半島戦争)に勝利し、イタリアの大半を手中に収めた。しかし137年、神聖ローマ帝国とレグルス帝国の間に戦争が起こると(第十次十字軍)、その隙にシェラルドの属国となっていたholynationの後継国家であるサヴォイア王国が、イタリアの島嶼や都市を各国に売却してしまった。シェラルド軍や皇帝エリックはアナトリアにおりこの動きを阻止できなかった。
エリックは中華連邦のナポリ、トンガ帝国のカラブリアなどを外交努力によって回収したものの、トラキア・ローマ帝国のシチリア島については交渉がまとまらなかった。両国は106年のトラキア・ローマ皇帝ユリウスⅥ世とシルビア・イェリングの婚姻以来33年間にわたり同盟を維持していたが、シチリア島及びイタリアを巡り関係が悪化。第三次欧州大戦の勃発時にトラキア・ローマ帝国が参戦要請を拒否すると、遂に同盟は破棄された。
神聖ローマ皇帝エリック1世およびトラキア・ローマ皇帝ユリウス6世と皇后ソフィア・イェリング
 

シチリアの晩祷事件

トラキア・ローマ帝国がビザンツ帝国の旧領回復を目指し、エジプトの尾鷲第一帝国に侵攻したビザンツ・エジプト戦争は、139年にアレクサンドリアが陥落し終結した。ヒュペリオン条約によってトラキア・ローマ皇帝ユリウスⅥ世が尾鷲皇帝を兼ねると、尾鷲帝国はトラキア・ローマ帝国の同君下位国となった。
この戦争中に莫大な戦費、物資を必要としたトラキアは、シチリア総督に任命していたバッシウス・パウリヌスに命じ、シチリア島全土からの徴発を行った。この指示自体は戦争税としては決して他国と比べ多過ぎるようなものではなかったが、パウリヌスは違法に徴発額のを嵩増しし、上前をハネていた。
戦後にこのことが明るみに出るとトラキア議会は紛糾した。しかし時既に遅く、シチリア島住人の間では反トラキア感情が爆発した。各地で抗議デモが起こり、頻繁に暴動へ発展した。トラキアは国家憲兵隊を派遣し沈静化を図ったものの、多数の死傷者を出した。
中でも最大の暴動は3月30日にパレルモで発生した。この日はシチリア島の住人が信仰するC教の復活祭の日であり、多数の市民が教会前で抗議集会を行っていた。そこに現れた国家憲兵隊の一人が集会を解散するよう命じたところ、教会の晩祷の音を合図に暴動が発生した。トラキアの国教はローマ神教であり、憲兵隊がC教の風習に無遠慮な振る舞いがあったことが原因とされている。
シチリア島民を弾圧するトラキア国家憲兵隊

 開戦

アレクサンドリア港空襲

最初の戦闘は尾鷲帝国領のアレクサンドリア港空襲から始まった。宣戦布告なく、5月4日の午後6時ごろ、日没間際にトラキア・ローマ帝国空軍機がアレクサンドリア港へ奇襲攻撃を行った。夜明け後にはBU加盟国による空襲も行われ、次第に被害の全容が明らかとなる。この戦闘でBU軍の被害は軽微であったものの、尾鷲海軍の地中海艦隊の大多数が行動不能になり事実上の地中海艦隊壊滅となった。
空襲の画像

アリーシュ上陸

艦隊を壊滅させ、制海権を確保したBU軍は間髪を入れず尾鷲帝国東部のアリーシュへの上陸作戦を実行した。尾鷲帝国軍は激しい抵抗を行ったものの、質量ともに上回るBU軍を食い止めることは出来ず、防衛部隊は大多数が壊滅しこの一戦のみで樽尾戦争の戦死者を上回る死者数が出た。
しかし、一部の部隊は撤退に成功しスエズ運河付近に陣地を構築、ここで侵攻軍を迎え撃つ構えを見せた。
シチリアでの戦闘はシェラルド軍が優位に進めた。
 

スエズの戦い

テスト
HRE皇帝エリック
 

アレクサンドリア陥落

ナポリ軍団は皇帝軍を撃破すべくシチリアへ向かったが、これを猛追したのがローマにいたロシェシュタール元帥麾下のシェラルド軍イタリア方面軍だった。ロシェシュタールはローマを発つと不眠不休の強行軍でナポリ市に到達。半数を包囲に残しさらに南下してナポリ軍団にコゼンツァで追いついた。両軍の戦闘は、歴戦の元帥が巧みな指揮でナポリ軍団を撃破し皇帝を救ったものの、長距離行軍の疲労で追撃が叶わず、ナポリ軍団の大部分は半島東部へ撤退した。パレルモの神聖ローマ皇帝エリックは、情勢の変化を受けて、指揮を執るべくフランス本土へ帰還した。少数の守備隊がシチリアに残ったが、トラキア兵の死体から武器を奪ったシチリア島民の襲撃により、まもなく陥落した。島民はパレルモのマッシモ劇場に戦争遂行のための臨時評議会を立ち上げ、反乱の組織化を目指した。しかし、頼みの綱のナポリ軍団が目前で敗北したことを知ると、協議の末、これを伝えに来たガルボの密使に評議会としての結論を伝え、ガルボの下へ送り返した。
シチリア評議会とナポリ軍団は、共にHRE、BU双方を敵に回すのは困難との結論で合意し、独裁的なHRE皇帝でなく、議会民主制を尊重し尾鷲の統治で実績を示したトラキア軍との交渉を選んだ。ガルボは全権大使としてバーリ市でトラキア使節と会談すると、トラキアのもとでナポリ、シチリアが自治権を有することで合意。ナポリ軍団もトラキア軍へと下り、トラキア軍は尾鷲から集めた義勇兵と共にナポリへ出兵し、モレラ共和国がBU加盟国として参戦した。これを受けてHRE皇帝エリックはモレラと国境を接する、自身が王位をもつアナトリア王国に参戦要請を出し、これにより様相はトラキア率いるBUとシェラルド率いるHREとの、2勢力による全面戦争へと移行した。
トラキアの植林事業は尾鷲人に歓迎され、快く義勇兵派遣に同意した。
 

ピラミッドの戦い

ナポリ軍団を取り逃がしたロシェシュタール元帥は、トラキア軍のイタリア本土上陸を察知すると内線作戦による機動戦による各個撃破を目指しナポリを直ちに出立し、サレルノの山間でビュザンティウム連合軍に強襲攻撃を仕掛けた。突然の攻撃に連合軍は混乱状態に陥り、戦列の右翼が一時崩壊寸前の状態にまで陥った。すかさず、シェラルド軍は軽騎兵による騎兵突撃を敢行し、片翼包囲を図ったものの、後詰めの尾鷲義勇兵によるファランクスに阻まれ撤退、戦いの趨勢をは振り出しへと戻った。
一方、ナポリ南方に上陸した第4軍団「マルス・インウィクトゥス」は上陸地点近くにに大量のダミー戦車と物資を残し、大軍が集結しているかのように偽装し、シェラルド軍の注意が南へ集中している所を大きく迂回し北方からナポリを強襲した。途中、ベネヴェントでジュノー将軍指揮下の師団級部隊と接敵したものの、物量のものを言わせ撃破、ナポリ目前へと迫った。後背を脅かされる形となったロシェシュタールは不利を悟り戦場を撤退。その後、疲弊した方面軍ではナポリの防衛も困難と判断し、教皇領のローマ市まで後退した。
サレルノの戦い。
 

 終戦と講和

戦力を失い、政府首脳も機能不全となった尾鷲帝国は講話を受託、トラキア海軍の戦艦『ヒュペリーオーン』艦上で調印式が行われた。
条約では尾鷲政府はタルト租借地を除くエジプト領の所有権を放棄、トラキア皇帝が新たに尾鷲国の帝位に就き同君連合の下位国となることが定められた。カイロの戦いで生き残った尾鷲皇族は租借地への追放となった。
パレルモ条約調印式

 影響

戦後、トラキア領尾鷲はアエギュプトゥス属州と改められ、悲願の旧領奪還を果たした。また、エジプトの豊かな土地からの収益は好景気をもたらし、トラキアの経済は急成長を遂げた。
だが、この戦争に費やした戦費は膨大であり、本土の国民からの支持が失われるのを恐れ、トラキア政府は租借地のシチリア島全土からの徴発を行った。この徴発は戦争税としては決して他国と比べ多過ぎるようなものではなかったが、シチリア島総督は違法に徴発額のを嵩増しし、上前をハネていた。
戦後にこのことが明るみに出るとトラキア議会は紛糾した。しかし時既に遅く、シチリア島住人の間では反トラキア感情が爆発しシチリア晩祷戦争を引き起こすこととなる。
戦後イタリア統治はミラノ勅令で定められた。

 関連項目

● 東欧戦争
● アフリカ大戦
● クリミア戦争
 

 参考文献

● ページ名
● ページ名
 
最終更新:2024年09月01日 22:33